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啄木歌 秋の風二首

          石川 啄木

  鈴懸にポプラ並木に秋の風
  吹くが悲しと
  日記(にき)に残れり

  我が抱く思想は常に
  金無きに因する如し
  秋の風吹く

 …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 石川啄木の代表的歌集『一握の砂』には、「秋の風」を詠んだ短歌が幾つもあります。今回はそのうち私の印象に特に強く残っている歌二首を取り上げてみました。ただしこの二つの短歌は傾向が大きく異なります。

  鈴懸にポプラ並木に秋の風/吹くが悲しと/日記に残れり

 「鈴懸」そして「ポプラ」並木とくれば、札幌の大通りが思い浮かびます。事実啄木は、北海道放浪時代札幌にも短期間(明治40年9月)住んでいましたから、おそらく「吹くが悲し」と日記に残した、鈴懸とポプラ並木に吹き渡る秋風とはそこでのこととみて間違いないと思われます。

 鈴懸もポプラも、当時の我が国の他の都市ではあまり見られなかったであろう、西洋のどこかの街並みを彷彿とさせる街路樹です。
 そのことがこの短歌にモダンな叙情性をもたらしています。

 そんな西洋風の通りを歩いている啄木はというと、街並みに目をやりながら、詩人らしい秋思にとらわれて歩いています。結果、無色透明な秋の風を「吹くが悲し」と感じているのです。
 
 そのことを書き残していた日記を読み返しながら、その時の回想、追体験をしながら詠んだのがこの歌です。
 短歌の中では時刻が何時だったかまではふれていません。昼過ぎいな午前中だったこと考えられます。が私はずっと以前から何となく、夕闇迫る頃合の街並みをイメージしながら読んできました。

   我が抱く思想は常に/金無きに因する如し/秋の風吹く

 一首目の叙情性は陰をひそめ、代わって思想性が全面に出てきている短歌です。この歌を詠んだところは明らかです。東京です。啄木は失意のうちに北海道生活にピリオドを打ち、二度目の東京生活を決意し、妻の節子、老母、幼い子供を連れて東京にやってきたのです。
 募る創作活動への憧れからまたぞろ首都にやってきたものの、歌人として広く名が売れ飯が食えるほど甘くはなく、家族を抱えてすぐに厳しい生活苦に陥ります。

 この頃の啄木には有名な逸話が残されています。啄木は「借金の天才」だったというものです。とにかく家族を養っていくためにやむなく、友人・知人から金を借りまくったようです。
 最大の被害者(援助者)は、盛岡中学校の先輩で国語学者、アイヌ語学者の金田一京助でした。子息で同じく国語学者の金田一春彦は、子供の頃家財を売ってまで啄木に金の工面をしている父の姿を見て、「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と本気で思っていたといいます。

 そういう過酷な生活苦の中で啄木は、幸徳秋水が起こした大逆事件(明治43年)に並々ならぬ関心を寄せたり、社会主義思想に共鳴していくことになります。
 この短歌はそのような時期に作られたものです。啄木が常日頃抱いている思想というのは、「短歌や詩や文学とは何ぞや」というような高踏的なものなどではない。「金欠」という極めて現実的なことに起因するのだというのです。その切迫した事情の前には、最早叙情性の入り込む余地などないわけです。

 この歌における首都の秋の風は、啄木にとって事のほか骨身に沁みる風だったといえます。明治45年4月13日27歳という若さでの死は、「金無き」心痛が大きな要因だったのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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