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どくとるマンボウ昇天記

 【注記】いささか不謹慎なタイトルかもしれませんが、これは故人の「どくとるマンボウ」シリーズに敬意を表したもので、他意はございません。

  「さよなら」とか細く鳴けり残る虫   (拙句)

 「どくとるマンボウ」として親しまれてきた、作家の北杜夫さんが24日午前6時過ぎ、東京都内の病院で亡くなりました。享年84歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 北杜夫さん(以下敬称略)の足跡を簡単に振り返ってみます。

 北杜夫(きた・もりお)は、1927年5月1日東京赤坂生まれの小説家、エッセイスト、精神科医、医学博士です。父は近代日本の代表的歌人の斎藤茂吉(その次男)、兄はエッセイストとしても知られる精神科医の斎藤茂太です。またエッセイストの斎藤由香は氏の一人娘です。

 少年時代はもっぱら昆虫採集に深く没頭する日々で、文学には興味がなかったといいます。戦時中の東京空襲により長野県松本市に疎開、旧制松本高校に入学。年上の学友だった辻邦生(小説家)らの刺激により文学に目覚めます。
 特に松高のドイツ語教授でトーマス・マンの翻訳で名高かった望月市恵から深い感化を受け、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や『魔の山』からの強い影響により作家を志すようになりました。

 大学進学にあたっては、カミナリ親父だった父の茂吉から志望外の「医学部」を厳命され、しぶしぶ東北大学医学部に進みます。東北大を選んだのは、せめて松高の環境に似た風情を持った大学へという願いによるものでした。
 大学卒業後はインターンとして慶應義塾大学病院に赴任します。無給だったため、兄・茂太の自宅への居候でした。医師としての務めのかたわら、同人雑誌『文藝首都』に参加し、川上宗薫、佐藤愛子、なだいなだらと知り合います。1959年には、『文藝首都』に連載した処女小説『幽霊』を自費出版しています。

 1960年『夜と霧の隅で』で第43回芥川賞を授賞し、作家としての本格的スタートを切りました。また1958年から59年にかけて、水産庁調査船に船医として乗船しインド洋から欧州にかけての航海を経験しています。この時の体験を元に『どくとるマンボウ航海記』を刊行しベストセラーとなりました。
 この2つの成功により、以後小説、エッセイとも若い読者から熱狂的に支持される人気作家となりました。

 作品は、『夜と霧の隅で』、『楡家の人びと』(斎藤家3代の歴史を描いた大河小説-毎日出版文化賞受賞)などの純文学から、『奇病連盟』『高みの見物』などのユーモア中間小説、『怪盗ジバコ』『さびしい王様』などのファンタジー、『船乗りクプクプの冒険』のような児童文学や童話など多彩な分野にわたっています。
 また父茂吉の評伝4部作や、エッセイ『どくとるマンボウ』シリーズは、小説以上の読者を獲得しています。

 1965年にはカラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加し、この体験を元に『白きたおやかな峰』が書かれました。初期のSFの愛好者、擁護者でもあり自身もSF的作品を執筆しています。
 また漫画愛好家だったことから、各出版社漫画賞の選考委員を務めたこともありました。
 さらには壮年期から躁うつ病にかかり、自身の病状をエッセイなどでユーモラスに綴り、世間の躁うつ病・うつ病に対するマイナスイメージを和らげるのに一役買いました。なお「躁期」に株へ投資し過ぎて破産も経験しています。

 昭和末期から、自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マゼブ共和国」主席を名乗ったりもしました。そのためムツゴロウこと畑正憲と対談した際、ムツゴロウ動物共和国とマンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶという奇想天外な提案をしたこともありました。(この時の北は、極端な躁状態。)
 その他。熱狂的な阪神タイガースファンだったこと。北の交友関係は広く、主な人だけでも、遠藤周作、阿川弘之、星新一、辻邦生、三島由紀夫、吉行淳之介、佐藤愛子、谷内六郎などなど。1996年日本芸術院会員となりました。

 「北杜夫」はペンネームで、本名は斉藤宗吉(さいとう・そうきち)です。このペンネームは文学活動開始にあたり、「親の七光り」と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めたもの。
 名の「杜夫」は、“杜の都”仙台に住んでいたことと、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』のトニオ(杜二夫)に因んだもの。苗字部分の「北」については、その後順次「東」「南」「西」へと変更するつもりだったといいます。しかし「北杜夫」で売れたため、変更すると出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになったという経緯があったようです。

 単独の著書、共著などを含めれば、ゆうに百冊以上の著書を刊行しています。
 その中で私が読んだのはたった一冊、『どくとるマンボウ青春記』だけです。それも今から40年以上前の昭和44年、私が20歳前後の頃のことです。初版発売間もない単行本を買って、一気に読み終えたのです。同著は北の麻布中学入学から、旧制松本高校時代のこと、東北大学入学そして父・茂吉の死までが描かれているそうです。

 「…そうです」というのは、ほとんど内容を覚えていないからです。あの頃は当地にやって来たばかりの「洟垂れ小僧」の時代、私の半生の中で最も思い出したくない恥の時代でした。私に限っては、「青春」などという輝かしい季節はなかったに等しいのです。
 だから当時の記憶が甦ってくる本などは、とうの昔にまとめて処分してしまいました。この本で記憶にあるのは、表紙の青い空を背景にした南アルプスだかの白い連山、そして作者がやはり最も力を込めて書いたのか松本高校時代の断片だけです。
 今となっては、『何で捨ててしまったんだろう』と惜しまれる一冊です。

※ 本記事の大部分は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「北杜夫」の項を引用してまとめました。

 (大場光太郎・記)

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