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キュリー夫人のこと

 -大原発事故に見舞われ、「ラジウム発見」には複雑な思いもあるにはあるが…-

 11月7日はご存知キュリー夫人の生誕日だそうです。そこでこの日のGoogleロゴは、キュリー夫人に因んだものとなっていました。研究室らしき所でキュリー夫人と思しき人がフラスコをかざしている、というような図案でした。

 例によって半端ながら、今年はキュリー夫人生誕(1867年)144周年にあたるそうです。
 以前Googleの“変わりロゴ”をヒントに『メンデル生誕189周年』記事を出しました。その後も何人かの世界的著名人の周年記念ロゴが出され、その中には南米を代表する作家のガルシア・マルケスもおり、記事にしようかとも思いました。
 しかしガルシア・マルケスをよく知っているわけでもなく、『さて、どうやってまとめるか?』と思案しているうちにタイミングを逸してしまいました。

 その点キュリー夫人の場合は、私たちが小学生だった昭和30年代前半頃は、数多(あまた)いる偉人たちの中で最も人気が高く、私も小学5年生の頃図書館で借りて「少年版偉人全集」の中の『キュリー夫人』を読みました。

 高校時代は私の生涯で唯一の「乱読の時代」でした。西洋文学が主でしたが、それ以外でもその時々に関心のあったものは片っ端から“乱れ読み”していました。その中に少年版よりはかなりレベルの高い『キュリー夫人伝』があったのです。
 とにかく手元の一冊を早く読み終えて、次の本に移ることが主眼といったメチャクチャな読み方です。味読も熟読もあったものではありません。そこで当時読んだどの本も、ストーリーや内容のポイントなどほとんど覚えていないありさまです。
 その時読んだ『キュリー夫人伝』、今思い返せば次女エーヴ・キュリーが母の死後3年にして第三者的立場でまとめた伝記だったようです(白水社刊)。多感のピークだったあの頃、読む本、聴く音楽に恍惚(サマーディ)的感動を覚えましたが、この本もそうだったことは記憶しています。

 今でもキュリー夫人は子どもたちに人気があるのでしょうか。と言うより、今の子どもたちは「偉人伝」そのものを夢中で読んでいるものなのでしょうか。

 今回改めてキュリー夫人(Madame Curie)のことが知りたくなって、『ウィキペディア』の「マリ・キュリー」の項を繰ってみました。偉大な業績を残した人だけあって18ページにもわたってびっしり記述されています。それを印字し、ざっと一読してみました。
 貧困と戦いながらのラジウムの発見、夫・ピエールの事故死、女性初にして史上初の二度のノーベル賞授賞。そのくらいしか覚えていませんでしたが、ウィキペディアの簡単な略伝でもそれ以外に多くのことを知りました。

 「神が死んだ」今の時代は、すべてのものが相対化されている時代です。宗教でも哲学でも科学でも芸術でも、もう絶対的価値の置けるものなど何一つないのです。
 偉人とてそのとおりです。かつて私たちが少年の頃は、各偉人たちの輝かしい業績にもっぱら光が当てられていました。「この人を見よ」。ゆえに子どもたちにとっての偉大な道しるべ、目標、お手本たり得たのです。
 しかし今の時代は、ネットの2ちゃんねる掲示板が端的なように、ありとあらゆるのが批判の対象となります。光の裏側の影、虚像の奥の実像が容赦なく暴かれる「怖い時代」なのです。

 大キュリーにもスキャンダルはありました。夫ピエールの死後、ピエールの弟子だった若い既婚の男と一時期不倫関係にあったのです。口さがないフランスマスコミがかぎつけ、当時世論の猛烈なバッシングも受けました。しかしキュリー夫人の場合、そんなのは取るに足らないことに思えてきます。
 ずば抜けた才能は言うまでもないとして、特に感銘を受けるのは、彼女が終生持ち続けた「高い志操」です。『ウィキペディア』を読んでは初めてですが、所々で熱いものがこみ上げてきました。

 キュリー夫人には「女性初」という言葉がついて回るように、当時のアカデミーは女性蔑視的傾向があり、一度目のピエールらと共に授賞したノーベル物理学賞(1903年)ではキュリー夫人は授賞者リストから外されかかっています。
 またポーランド出身の彼女は終生母国愛を持ち続けた人ですが、学問の必要上20代後半でパリにやってきて、以後念願の帰国が適わずフランスに骨を埋めました。彼女にとってフランスは第二の故郷のようなものでしたが、頑迷なフランスアカデミーはなかなか外国出身の彼女の優れた業績を認めようとはしなかったようです。

 不倫騒動による非難中傷のさなか、キュリー夫人はノーベル賞二度目の受賞(化学賞-1911年)となりました。その際キュリー夫人は「科学者とは、その業績によって評価されるべきであり、性別や出身および私生活などではない」という強い意志を持ち、毅然たる態度で授賞記念講演を行ったそうです。

 ノーベル賞で初の二回受賞という偉業達成からほどなく、第一次世界大戦の勃発によりヨーロッパ中が戦火に巻き込まれます。直前に設立したラジウム研究所の所員の多くが戦地へと赴き、研究どころではなくなります。
 パリに残ったキュリーは、レントゲンが発見したX線の医療貢献に着目します。そこで彼女は赤十字放射能局長の役職で、軍に働きかけて「プチ・キュリー」と名づけられた移動式レントゲン車を何十台も走らせたり、病院や大学など200箇所にレントゲン施設を設置するなど奔走しています。

 その後も多忙を極め自身の研究はもうままならず、1920年にキュリー財団を設立したことなどにより、キュリー夫人の活動の力点は後進の育成に注がれることになります。その成果の一端は、娘のイレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ・キュリーの人工放射能の研究による1935年のノーベル科学賞授賞となって結実しました。
 キュリー夫人自身はその前年の1934年7月4日亡くなりました。死因は放射能被曝によるものと長い間言われてきましたが、とうやら第一次大戦中「プチ・キュリー」の中で浴びたX線被曝が原因だったようです。
 死後60年後夫妻の業績を讃え、二人の墓はパリのパンテオンに移され、ようやく正式にフランス史の偉人の一人に列せられることとなったのです。

 ラジウムを発見したての頃、キュリー夫人はその青く輝く光に「妖精のような光」と驚嘆したといいます。いかな聡明なマリ・キュリーと言えども、それが人類に寄与する側面しか念頭になかったわけです。当初は誰も、これが放射能被曝の元となり、人類にとって諸刃の剣となることなど予想もしていなかったのです。
 その後我が国は原爆による唯一の被爆国となり、今回またしても大原発事故に見舞われました。そんな中での「キュリー夫人伝」、う~んと唸るところはありますが、その業績・足跡の偉大さは率直に認めたいと思いますね。

 (大場光太郎・記)

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