白菜がうっふんうっふん
俵 万智
白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる
…… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
『サラダ記念日』で述べましたように、短歌界に新風を吹き込んだ俵万智の、これもその好例と言えそうな作品です。
白菜は大根などとともに「冬菜」です。初冬の今頃、スーパーなどで丸々と太った白菜がうず高く積まれているのを目にします。
そういえば思い出しました。一昔前まではこの季節、街の八百屋さんの一番前に、この短歌のように、真ん中に幅広の赤帯をしめた白菜たちがどんと立ち並んで売られていました。
もっとも最近では少子化、核家族化の当今、保存に余るせいか、半分、四分の一、さらにはもっと小さく切って、ラップにくるまれ、赤帯に代わって幅狭の紺色のテープを巻かれてバラ売りされることが多いようです。
それに今では大型店舗の進出によって、街の八百屋さんはどんどん姿を消してしまいました。だからこの短歌は、それ以前の街の寸景としてある種の懐かしさすら覚えます。
この作品は俵万智の、日常に密着した「生活目線」がしっかり貫かれています。女性ならではの視点で捉えた、生活感溢れる作品といってよさそうです。
それまでの短歌でも生活を詠むことは当然ありました。がそれは、生活の中で突如起った特異な出来事を切り取って歌にする、ということが主眼だったように思われます。確かにそういう日常が垣間見せる非日常的で非凡な断面を詠むことも、短歌の大きな役割の一つではあります。
対して俵万智は、「生活」「日常」を詠み切ることに徹しているのです。短歌をぐいと身近な生活レベルに引きつけたといってよさそうです。
一般的に現実の生活上の事柄をそのまま短歌に詠み、なおかつそれが作品として高い評価を得るというのは至難の技のように思われます。
なぜならこの例のように「白菜」というありふれた素材を使って、一篇の上質な短歌に仕上げるのは意外と難しいだろうからです。
短歌の本質は「詩」です。詩であるからには、日常の単なる生活報告文であってはいけないわけです。
「白菜」という素材を前にして、それをいかにまともな短歌に昇華させるか。俵万智はその困難な課題を、後半部でいとも簡単にやってのけています。
うっふんうっふん肩を並べる
白菜をそう擬人化してみせたのです。いや店先に立ち並ぶ白菜たちを間近に見て、俵は実際そう連想し、自分でもおかしくなってつい『ウフフフフッ』と含み笑いをしたかもしれません。
それほどこの擬人化はリアルてす。真ん中に赤帯しめた、まん丸く太った白菜たちの上部に腕白坊主な顔があって、互いに押し合いへし合いして「うっふんうっふん」肩をそびやかしているようすが目に浮かんできます。
生活感覚をしっかり踏まえながら、日常生活というもののありふれた位相を少しずらしてみる。しかしあまりずらしすぎると、現実から遊離してしまってかえってつまらなくなる。だから、生活感と非現実との微妙なさじ加減こそが必要ということなのでしょう。
それに成功すると、かくもユーモラスな生き生きとした作品が生まれるわけです。
(大場光太郎・記)
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『サラダ記念日』
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コメント
今回トップ面に再掲載したのは俵万智さんの短歌です。俵万智さんと言えば、例の流行語大賞中の「保育園落ちた日本死ね」の一件でちょっとした“時の人”になりました。ご存知かと思いますが、「日本死ね」選定に非難が多く集まる中、同賞審査員の一人として反論ツイートしたところ、これが見事に大炎上したのです。私の立場は、「いいじゃん、日本死ね。弱者切捨てのアベ政治が浮き彫りになって」ですが、この場では何ですので、発表時期から少し日にちが経ってしまいましたが、いずれ別記事としてこの問題を取り上げられればと思います。
投稿: 時遊人 | 2016年12月15日 (木) 19時52分