「下山の時代」について考える
大峠には上りもあれば下りもあるぞ (『日月神示』より)
『日刊ゲンダイ』中ほどの13面左上段に、月曜日から金曜日連載の『流されゆく日々』というコラムがあります。このコラムの作者は作家の五木寛之(敬称略)です。既に連載回数は8870回以上にも上っています。おそらく同紙で最も息の長い名物コラムといっていいのでしょう。
話は少し脱線しますが。私が日刊ゲンダイという夕刊紙を知ったのは、今から30年以上前の昭和54年(1979年)のことでした。30歳を過ぎてから初めて都内某所で勤務したことにより、帰宅時駅の売店で買ってそれを読みながら電車に乗って帰るのが日課のようになったのです。
当時からもう一方の“夕刊紙の雄”が『夕刊フジ』でしたが、私には『日刊ゲンダイ』1、2面の「反権力的論調」が好きでこちらをもっぱら読んでいました。
その後私は3、4年で都内勤めを辞め、同時に日刊ゲンダイ購読もしばらく休んでいました。購読を再開したのは2003年のことです。この年イラク戦争が起こりましたが、私は米国べったりのイラク戦争報道に嫌気がさし、20歳の頃から購読していた朝日新聞をスパッと止めました。
とは言っても「日々のニュース」には飢えていました。そこで日刊ゲンダイをまた読み出したのです。その頃では近くのコンビニで同紙が気軽に買えるシステムになっていましたし。
昭和54年当時から五木寛之の『流されゆく日々』コラムはありました。五木寛之といえば若い頃は『青春の門』『青年は荒野をめざす』『蒼ざめた馬を見よ』(直木賞受賞)なとの小説によって、私の同世代から支持の高い作家の一人でした。
それ以前に五木が男性雑誌だかに寄稿した一文を読んでみたことがあります。結構過激なことが書いてあったと思いますが、私にとってさほど関心を引く作家でもなく、彼の小説は一冊も読んだことがありませんでした。
そのくらいですから、当時から五木寛之の『流されゆく日々』を熱心に読んだことはありません。たまに気になるタイトルがあった時に、ざっと流し読みするくらいなものでした。しかしさすがは五木寛之です。さりげない日常的なエッセイにも、時にキラッと光る一文があり、そのつどハッとさせられてきました。
そんな五木寛之は50代の頃大病をし、それを契機に「命」や「人生」についてより深く考察するようになっていったようです。その一つの表れとして「親鸞思想」に深く傾倒し出したのもこの頃からです。(同氏の『親鸞上・下』は、何百万部という大ベストセラーです。)
過激だった五木寛之を多少知っている私には、何か変に悟り澄ましちゃった印象が否めません。が、これは同氏の闘病による思想的深化というべきもので、余人があれこれいうことでもありません。
しかし時折り『流されゆく日々』に目を通すに、同氏の観方の底流にはどうも仏教式の「諦観(ていかん)」が色濃く流れているようで、『どうもいただけないなあ』という感を抱かせられることもあるのです。
そんな五木寛之。昨年秋頃から同コラムで「下山の時代」という同氏独特の用語を時折り用いておられます。長期低迷化する我が国経済。追い討ちをかけるような東日本大震災と福島第一原発事故。加えて我が国がいつ呑み込まれてもおかしくないユーロ危機。さらにささやかれる欧米資本主義の終焉…。
世界なかんずく日本はこの先もはや上がり目など望むべくもない。そこから着想した言葉だったのだろうと推察されます。
我が国を取り巻く深刻な状況から、五木寛之はこの時代を「下山の時代」と命名したのです。確かに言いえて妙なところがあります。(同氏の近著に『下山の思想』あり。)
かつてバブル絶頂期を頂点に、国民全体がひたすら上(経済的繁栄)を目指して進んで行けばいい時代は完全に終わりました。
下山の今の時代は、経済一辺倒ではない新しくて深いビジョンが求められるとする同氏の考えには同感です。
また闇雲に上を目指していた時代よりも、下山の時代は下界に広がる景色をじっくり眺めて降りていける、より精神的な豊かさも発見できるという考え方にも共感できます。
ところで話はいきなり飛躍しますが、冒頭に掲げた神言です。
「大峠には上りもあれば下りもあるぞ」
「大峠(おおとうげ)」とは、大本(教)以来唱えられてきたことで、人類は「この世始まってかつてない“世の大変”」を迎えるという事態を指しています。あらゆる指標から、今がまさにそのプロセスの真っ只中とみることができそうです。
その観点から、五木寛之の「下山の思想」は一面ではその通りと思うのです。しかし『日月神示』では「上りもあるぞ」とのお示しです。もの皆下りゆく一方のようなこの時代、何が「上り」だというのでしょうか。
それは五木寛之が下山に一緒に含めてしまっている「精神的豊かさ」を向上させていかなければならないということだと思われます。今の局面は、物質的豊かさ(体)から見れは「下り」であり、精神的豊かさ(霊)からみれば「上り」だということです。言い換えれば、今ほど精神的豊かさの追求にとって好条件の時はないということです。
そのことから私流の浅読みでは、「大峠」とは「霊と体」との絶妙なバランス地点のことなのではないだろうか、と思われます。この世は今後ますます精妙世界に進化していくことが予測されます。しかし当面「霊のみの世界」にはなりません。半分は体的側面が残るのです。
「霊に偏してもならず、体に偏してもならず」。「霊五体五」の絶妙なバランスこそ必要だということです。
「すり鉢に入れてこね回しているのざから、誰一人逃れようとて逃れられんのざぞ」という厳しいお示しもあります。「世の大変」に巻き込まれないためにも、今地上にいるすべての人に、「霊五体五」の生き方が求められているのではないでしょうか。
(大場光太郎・記)
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