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『トム・ソーヤーの冒険』を読んで

 グーグルロゴでの「マーク・トウェイン生誕176周年」に触発されて、昨年12月『マーク・トウェイン』記事を公開しました。その作成過程で私は『よしっ、トム・ソーヤーを読んでみよう』と密かに決めたのでした。

 そこで後日本厚木駅近くの厚木市中央図書館に立ち寄り、『トム・ソーヤーの冒険』(新潮文庫・大久保康雄訳)を借りて、その日から読み始めたのでした。ただ最近は活字を読むととにかく目が疲れることもあり、一気にという訳にはいきません。だから毎日気が向いた時に少しずつとなります。
 その結果年は越してしまいましたが、この元旦遂に332ページのこの本を読了することが出来たのです ! (と、誇らしげに語るほどの事でもありませんが。)

 マーク・トウェインが41歳で出版した『トム・ソーヤーの冒険』は、トウェイン自身の少年時代の自画像であったり、何人かの学校友だちの合成だったりしているようです。だから物語中の出来事にも作者自身や他の少年たちの体験が投影されているといいます。
 1835年クレメンズ家の五男としてフロリダで生まれたトウェインは、家族とともにミシシッピ河の流れに沿ったハンニバルという美しくて小さな村に移り住み、少年時代を過ごしました。だから『トム・ソーヤー』の舞台となる、谷間の小さな村や夢見るようなカーディフの丘や一大迷宮のマグドゥガルの洞窟などはこの村近辺そのままなのです。

 読み始めてすぐに「第二章 栄光のペンキ塗り」があり、規格外に大きかったグーグルロゴはここから採ったものだったのか、と直ちに了解されました。
 物語は両親を亡くしたトム少年を育て養ってくれているポリー伯母さんの家での出来事、機略に富むトムの村の少年たちとの遊びやいたずら、村の教会の日曜学校や学校で型破りなトムが巻き起こす大騒動などがユーモラスな筆致で描かれていきます。

 読み進めながら私は、『あれっ、これと同じようなストーリー、何かで読んだぞ』というデジャヴュにとらわれました。そしてその既視感をたどってみるに、それは08年の「生誕100周年」に読んだ『赤毛のアン』なのでした。
 同書でも村の日常生活、日曜学校、学校生活などの出来事が、並外れて活発で利発な赤毛の少女アン・シャーリーを通して生き生きと描かれていたのでした。

 L・M・モンゴメリが『赤毛のアン』を出版したのは1908年です。マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』出版の1876年から既に30年以上経っています。その間『トム・ソーヤー』は大ベストセラーとなり、欧米の英語圏を中心に広く読まれていたことでしょう。
 勝手な推察ながら、カナダの女流作家モンゴメリはこの冒険譚に強い刺激を受けて、「女の子版トム・ソーヤー」を着想したのではないでしょうか。
 もちろんアンは女の子ですから、トム・ソーヤーのように後半になるほど破天荒さを増していく行動半径の広がりはありません。それでも少女アンの活躍ぶりは『アン・シャーリーの冒険』としてもいいほどの痛快さがありました。
 なお、息を呑むほどに美しい自然描写は両作品に共通した欠かすことの出来ない要素です。

 ところで60歳を過ぎた者がこんなことを言うのも何ですが。私は以前『インナーチャイルド』という詩を作ったように、私自身の“内なる子ども”である「インナーチャイルド」を大切に育てていきたいと考えています。
 大人たちの実人生でインナーチャイルド性が発揮されるほど、より独創的で若々しく生きることが出来ると考えるからです。その面でも普段は心の奥深くに押し込めて外に出ないようにしている、私の中のインナーチャイルドを呼び覚ますのに、好奇心、茶目っ気、冒険心に満ちたトム・ソーヤーの物語は大変有効であるはずです。

 この一文をお読みになって、実際『トム・ソーヤーの冒険』を読んでみたいと思われた方もおいでかもしれません。ですからストーリーのあらましを述べることはしない方がいいでしょう。
 ただ一つだけ指摘しておきたいのは。この冒険譚の四分の一くらいのところで、“婚約”した少女ベッキーと仲違いして傷心のトムが学校を抜け出し、カーディフの丘の頂上にやってくる場面があります。トムはそこの槲(かしわ)の木陰の草むらに腰をおろし、再びベッキーの歓心を買うための少年らしい夢想に耽ります。

 道化役者、軍人、インディアンの大酋長。しかし最後に取って置きの事を思いつきます。
 「いや、待てよ、もっといいことがある。海賊になるのだ ! それにかぎる ! そう思いつくと、目の前にはっきりと展望が開け、想像できないほどのすばらしさで輝いた。」
 こうして「海賊のトム・ソーヤー」「カリブ海の恐怖の復讐者」をまざまざと想い描いてから、トムの実際の冒険譚はにわかに精彩を帯び出したように思われます。
 以来村人たちも滅多に寄りつかないような場所へと冒険は進み、トム少年はそれまでの日常生活の延長線での腕白坊主から、いっぱしの小悪漢(リトルピカレスク)へと成長を遂げていったようなのです。

 日常性を超えた異界的な場所への冒険には、何かしら異界性をまとった仲間が必要です。そこで登場するのが、ハックルベリー・フィンという村外れの大樽などをねぐらにしいつもボロ服を着ている浮浪児です。
 読みながらトムとハックと冒険を共有しているつもりの私は、二人の足元にも及ばないものの、私の少年時代の思い出の断片が懐かしく甦ってきたのでした。これはこの冒険譚を読んでの思いがけない功徳というべきです。

 主人公のトム・ソーヤーに勝るとも劣らず魅力的なのが「宿なしハック」です。ところがこの物語の結末で、
 「どちらを向いても文明の手かせ足かせで身動きとれず、手も足も出なかった。」
という状況に押し込められることになります。「天性の自由児」ハックの運命やいかに。
 私は間髪を入れずに、次はハックを主人公とした『ハックルベリ・フィンの冒険』を読み出しています。こちらは文庫本で650ページくらいと、いささか骨が折れそうですが。

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『マーク・トウェインのこと』
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 (大場光太郎・記)

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