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2012年2月

「フェルミ推定」とは何ぞや(3)

 「日本全国に電柱は何本あるか?」

 この格好の「フェルミ推定」問題の、細谷功氏の模範解答は以下のとおりです。

 まずフェルミ推定は、与えられた問題をただ闇雲(やみくも)に解いていけばいいというものではないようです。ちきんとした手順があるのです。それは「アプローチ設定」「モデル設定」「計算実行」の三つのプロセスです。

 この問題でまず(1)アプローチ設定とは。
 「この切り口で計算すれば、全国の電柱の数がわかるのではないか」という仮説を立てます。この段階で細谷氏は、「単位面積当たりの電柱の本数を、面積に掛けて総本数を算出する」というアプローチをしています。
 その際、電柱の本数は「市街地」と「郊外(山間部を含む)」ではまるで違いますから、二つを分けて計算し、それを足して総本数を導き出す(という芸の細かい)手法を取っています。(独り言 なるほど、確かに)

 それを計算式にすると以下のようになります。

 ●市街地の本数(A) = 市街地の面積×単位面積当たりの本数
 ●郊外・山間部の本数(B) = 郊外・山間部の面積×単位面積当たりの本数
 ●A+B = 日本全国の電柱の数

 こういう計算式めいたものを並べられただけで、「ウンザリだ」という人もおられるかもしれません。ならば好都合です。めんどくさがらずに、上の計算式を何度も反芻してみてください。普段敬遠しているからめんどくさく感じるのであって、なんとか解ろうと取り組むことによって、これまで余り使ってこなかった頭の回路-ニューロン+シナプス-が開かれていくはずです。(ついでに申せば。当ブログを訪問され、かつ各長文記事を丹念にお読みの方は、「考える素養」十分と推察します。)

 ずば抜けた理数回路をお持ちの細谷氏は、上の計算式ではまだ「因数分解」が不十分だと言います。
 なぜならこれだけでは、各エリアの「面積」や「単位面積当たりの本数」を推測することは非常に困難だからです。前回の私の解答のような「当て推量」ではなく、できるだけシビアな推測が求められるようです。
 そうでなければ、本当の意味での問題解決には役立たないわけです。

 そこで計算式の各要素がある程度推測可能なものになるまで、さらに因数分解しなければなりません。その因数分解の方法を加味した(2のモデル分解に相当するプロセス)は、同記事の囲みの中で示してあります。
 しかし煩雑になるため割愛します。(関心がおありの方は、本シリーズで示した本を実際お読みください。)
 結果的に計算式に数値を代入して計算していく(3の計算実行)と、「3千万本」と概算できます。

 たった3分という制限時間内でこれだけの計算手順が閃くとは、ただただ「凄い !」の一語です。しかし「ローマは一日にして成らず」。細谷功氏の場合、東大工学部に入り卒業したくらいですから、小学校時代から算数、理科などが得意でまた興味もあり、人より何倍も熱心に勉強してきた積み重ねの成果であるわけです。
 その上さらに社会的に重要なポジションにある今でも、フェルミ推定などによる「地頭力 = 考える力」の鍛錬を、おさおさ怠りなく継続している賜物でもあるのでしょう。

 他の記事でも何度か触れたことがありますが、私の中学入学時の担任の先生はТ先生という当時30代半ばの女性教師でした。私の半生で一番の恩師ですが、その時の教室の黒板の右隣に、Т先生の達筆な毛筆で縦書されていた言葉を今でも思い出します。
 「有能な人とは常に考える人である」
 ゲーテの言葉だそうです。
 また、米IBM社の標語は「THINK THINK THINK」です。
 いずれも「考えること」の重要性を強調しています。

 しかしこの私がまさにそうであるように、「下手の考え休むに似たり」という我が国のことわざもあります。さらには、「世界中でいちばん難しいことは“考えること”である」という誰かの言葉もあります。
 人間は1日に、約6万もの思考、想念が頭の中を駆け巡っているといいます。だから「考える葦」である人間は、誰しも「思考」し「考え」てはいるわけです。しかし問われるべきは「考えの質」であり「中身」です。

 「思考は現実化する」が真理ではあっても、うたかたの取りとめもない思考が現実化することはありません。いな通常人は普段は、下らない、ネガティヴな、邪悪な想念の方が多いはずなので、何でもかでも「思考が現実化」されたら大変困ることになってしまいます。
 現段階のレベルにある人間は、むしろ「思考の現実化」が遅いことに感謝すべきです。

 「思考を鮮明に結晶化せよ」(米国の誰かの言葉)
 そこで純度の高い、前向きで建設的な(破壊的ではない)「考え」「思考」の結晶化が重要になってきます。それを持続させてはじめて「思考は現実化する」のです。

 集中した純度の高い「思考力 = 考える力」を涵養するための格好の教材が「フェルミ推定」であるようです。例えば例題にならって「日本全国に八百屋さんは何軒あるか?」「日本全国にラーメン屋さんは何軒あるか?」「日本全国に信号の数はいくつあるか?」からはじまって、「夏に鳴く蝉の数は全国でどれくらいか?」「砂浜の砂の数はどれだけあるか?」などなど。
 自分でどんどん質問を作って、短時間で答えに至る手順を考え、自らがちきんと答えを出す。この繰り返しはかなり効果的だと思います。

 現実の問題解決のためにも、よりよき未来を開くためにも「考える力」の鍛錬は不可欠ですから。  -  完  -

 【補注】どんなネガティヴ思考でも、悪想念でも、短時間思っただけで現実化(物質化)することがないことは本文で述べたとおりです。ただそれが習慣になってしまうと確実に悪現実化してしまいます。常に自分の思考をチェックし、そういう思いや考えが起こった時は、すかさず明るい方向に「観(かん)の転換」をする習慣を心がけましょう。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『「継続できる人」の習慣-「続ける」技術』(「THE21」BOOKS PHP研究所刊)

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「フェルミ推定」とは何ぞや(2)

 前回の「フェルミ推定」宿題の、

 「日本全国に電柱は何本あるか?」

 どうだったでしょうか。答えが出ましたでしょうか。
 ちなみに私がしぼり出した解答の次第は以下のとおりです。

 まず最初に、「日本全国に電柱が立っていそうな道路の総延長はどれくらいか?」を考えました。総延長さえ分かれば、後は何十メートル間隔で電柱が立っているか見当をつけ、
   総延長×2÷電柱設置間隔(m)
で答えが出るはずです。(「2」はたいがい道路両側に電柱が設置されているため、道路長の倍数)

 ところが肝心の(電柱が設置されていそうな)道路総延長、これがさっぱり分からないのです。第一日本列島、北は北海道から南は鹿児島、沖縄までの距離が何千キロメートルだったか、それすらあやふやです。
 そこでその解答ルートは早々と断念し別の手を考えました。(なお後で調べたところ、北海道東北端から西表島まで約3千キロメートル)

 最初から日本全国などと漠然としたことを考えずに、ぐっと身近に「当市内に、電柱が設置してありそうな道路延長はどれくらいか?」を考えることにしたのです。

 それでも駅周辺の繁華街の道路から、国道、県道、市道、住宅街の道路、住宅街から外れた田んぼ道など、該当する道路はいくらでもありそうです。しかし何せ制限時間がありますから、当市の縦距離の約10倍の「300キロメートル」とおおよそのあたりをつけました。
 これには確たる根拠など何もありません。当市全体の地図を思い浮かべ、我が脳内で、縦横無尽に走っている当市道路のさまをイメージした結果、だいたいそのくらいだろうと結論づけたのです。

 次に「当市を全国に拡大したらどのくらいの数になるか?」と考えました。
 当厚木市は首都圏ぎりぎりの中堅地方都市ですが、全国の市町村に均した場合どのくらいの数にすればいいか?ということです。
 これを私はざっと「3000」としました。各都道府県を約50として、それに掛けることの60ということです。少し過大なような気もしましたが、中には東京都、横浜市、名古屋市、大阪市のような区がいっぱいある大都市もけっこうあるわけなので、そういう数を導き出したのです。
 また電柱設置間隔は、50メートルとしました。

 こうしてようやく電柱総本数を算出する段階にたどり着きました。
 300(km)×3000(都市)×2÷50(m) = 3千600万本
 しかしこれを導き出してからふと、『これじゃあ、少なすぎないか?』と思ったのです。そういえば、オラが町の電柱はもっと立て混んでるぞ、確か10メートル間隔のところもあったはずだぞ。
 そこで、3千600万本を10倍した「3億6000万本」を最終的な答えとしました。
 残念ながら解答制限時間の3分はオーバーしてしまいました。しっかり確認しませんでしたが、確か5、6分くらいだったかと思います。

 さて正解はどうなのでしょう。
 「約3千300万本」が正解だそうです。何のことはない、最初に出した答えの方がより正解に近かったわけです。

 「プロメテウス」ではあり得ない身として、「エピメテウス」的後知恵で考えてみれば。
 日本の総人口は1億2千万人くらいです。いくら電柱がめったやたらと立っているとしても、まさか総人口を3倍も上回るほどではないわけです。

 そこでなおもエピメテウス的後知恵で考えました。最初に日本総人口を思い浮かべていれば、その事に気づき、制限時間よりずっと早く、より正解に近い答えが導き出せたはずだ…。
 前回の出題に挑戦し、いきなりそこにたどり着けた方がもしおられたなら、その非凡な着想に深く敬意を表させていただきます。

 ただ細谷功氏いわく、「一桁ぐらいの誤差があっても問題ありません。重要なのは、正解に近い答えを出せたかどうかではなく、答えを出すまでの「思考プロセス」のほうですから」
 ああ、よかった。でも私の場合、その思考プロセスも問われかねません。
 次回は私の頓珍漢な思考プロセスではない、細谷氏の模範的思考プロセスをご紹介致します。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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「フェルミ推定」とは何ぞや(1)

 先日業務で遠出しました。とある町の某社社長との約束の時間にはまだ20分ほど間があり、近くのコンビニに入って時間をつぶすことにしました。

 時間つぶしには雑誌の立ち読みが一番です。ということで雑誌コーナーに行きますと、最前列の棚にA4サイズと大判のビジネス本が数冊並んで置いてあります。ページ数は100ページ弱で、いずれもビジネスに携わっている者なら誰でも、興味を示しそうなタイトルです。
 私は片っ端から取り出し、それらをパラパラとめくってみました。そろそろ面談時刻が迫って、いずれも拾い読みするだけではもったいないような気になってきました。と言っても全部を衝動買いするのも何だし、特にじっくり読んでみたい一冊だけを買って出ました。

 それは『「継続できる人」の習慣-「続ける」技術』(本体価格800円)というタイトルです。PHP研究所刊で、この本を含め陳列してある『「THE21」BOOKS』と銘うったシリーズを企画・編集したのは「THE21}編集部です。
 表紙最上部には「シリーズ累計40万部突破!」とありますから、本が売れないこの時代、かなりの大ヒット企画といっていいのでしょう。

 深く反省するまでもなく、私は何事も「継続できない人」です。それで、今をときめく超一流ビジネス人たちの「継続できる極意」に少しはあやかろうという魂胆です。
 編集員が各界の第一線で活躍中の26人に取材し、それをもとに構成されています。例えば誰でも知っている人として、ワタミの渡邉美樹社長、脳科学者の茂木健一郎氏、精神科医の和田秀樹氏などが登場しています。

 いずれも現代の「成功モデル」の見本のような人たちですから、それそれに秘伝の「継続する習慣」ノウハウを開陳しておられます。今回はその中で、第1章「続けるだけで人生が変わる!「1日30分」の成功習慣」の中の、細谷功という人を取り上げてみたいと思います。

 細谷功氏、私は存知上げませんでしたが、1964年神奈川県生まれ。東大工学部卒業後東芝に入社。エンジニアとして8年間勤務の後、大手コンサルティング会社を経て現在はザカティコンサルティング(株)ディレクターとして活躍中という人です。この人の『地頭力を鍛える』(東洋経済新報社刊)という本が今売れているというのです。

 「地頭力」とは、あらゆる問題解決をするうえでの基本となる「考える力」のことだそうです。「泣く子と地頭には勝てぬ」の例の日本史の地頭(じとう)をもじった、同氏の造語なのでしょうか。
 ともかく変化のスピードが激しく、過去の経験や知識では解決できない問題が増えている昨今、その重要性はより高まっていると氏はいうのです。
 そして1日30分もあれば、「地頭力」を鍛えるには十分。それも1回3分くらいの細切れの時間を利用して、5~10セットの訓練でもOKだそうです。

 それには「フェルミ推定」がお勧めだそうです。はあっ、ふぇるみすいてい??
 「フェルミ推定」(「フェルミ問題」とも)とは、世界的物理学者のエンリコ・フェルミに因んで名づけられたものだそうです。例えば「世界中で一日に食べられるピザは何枚か?」「世界中にサッカーボールはいくつあるか?」といった、「知るか、そんなの」と言いたくなるような算出が困難な数量を、何らかの推定ロジックによって短時間で概算する方法のことをいいます。

 コンサルティング会社の面接試験で出題されることで有名なのだそうです。それのみか、最近マイクロソフトやグーグルの面接試験でもフェルミ推定が出され、俄然注目を浴びているといいます。
 細谷氏は、「これには問題解決の方法論が凝縮されて詰まっている」と述べています。つまり「考える力 = 地頭力」を養うのに絶好だというわけです。

 同氏は「試しにちょっと挑戦してみませんか」と言って、取材者に(上記の本にも載っているという)以下の問題を出しています。

 「日本全国に電柱は何本あるか?」(制限時間は3分)

 そして次に、「読者の皆さんも是非挑戦を。ネット検索は厳禁で、自力で答えを出すまでは、これから後の文章は読むべからず !」と、編集者は厳しく釘をさしています。
 そこで私も必死こいてあれこれ考えて、ともかく答えを出してみました。これをお読みの方も是非解答してみてください。それまでは以下の本シリーズの文章は読むべからず !
 ということで、(以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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近代童謡の創始者、本居長世

 少し前の『フォレスタの「汽車・三部作」』で本居長世(もとおり・ながよ)の名前が出ました。フォレスタが最後に歌っていた『汽車ポッポ』(昭和2年)を作詞・作曲したのが本居長世なのでした。
 この『汽車ポッポ』は歌詞が面白く、それに合わせたメロディも軽快でテンポよく、フォレスタ混声コーラスがラストに持ってくるにはうってつけの歌でした。

 それ以来私も本居長世という作曲家に興味を抱き、少し調べてみました。その中で本居を紹介している冊子がありました。「日本音楽教育センター」発売の『美しき歌 こころの歌-新・叙情歌ベスト選集』というCD集の別冊付録です。『鑑賞アルバム-私の好きな歌』と銘打っています。
 全編「叙情歌とは何か」を追及した構成になっていて、鮫島有美子(ソプラノ歌手)と喜早哲(ダークダックスの一員)の対談、ダークダックス4人による「僕たちの叙情歌」と題した座談会などが収録してあります。

 その中に、音楽文化研究家の長田暁二による「叙情歌作家物語」があったのです。瀧廉太郎や山田耕筰など何人かの著名な作曲家が取り上げられ、その冒頭が本居長世なのです。
 少々回りくどくなりましたが、経歴には興味深い部分もあります。以下にこれを基に紹介してみたいと思います。

 本居長世は明治18年4月、東京下谷に生まれました(昭和20年10月逝去)。「本居」という姓が示すとおり、江戸時代の偉大な国学者・本居宣長の子孫で、実家は代々「本居学」を継いで来たといいます。

 だから当然長世も、国語、文学の道に進むと思われていました。しかし若き日の長世は思うところあって音楽家を志し、旧制中学卒業とともに敢然と東京音楽学校(「東京藝術大学」の前身)に進みます。
 同期の学生には山田耕筰がいましたが、本居はドイツ人教師ケーベルに師事し明治42年、同学校をトップの成績で卒業しました。

 本居は卒業後、ただちに母校の教壇に立ちます。ここで弘田龍太郎、中山晋平、成田為三、草川信など、叙情歌ファンなら誰でも知っている、俊才作曲家たちにピアノや作曲の指導をしました。
 また、文部省邦楽調査官主査を兼任して、長唄や近世三味線音楽の研究にも没頭しました。彼の作風が古典的で日本的色彩が濃いのは、家学である国語学、国文学の造詣に加えて、このような背景があったためといわれています。

 作曲にあたって本居長世は、原作の言葉を重んじ、アクセントに忠実なメロディ作りをしています。初期にはオペラの作曲に精力を傾注しましたが、やがて童謡に転じて野口雨情とコンビを組むことになります。
 ことに『十五夜お月さん』(大正9年)は、初めて日本の子供の心を芸術的に作曲した作品として、のちの童謡のお手本となりました。『七つの子』も、野口と相談しながら作ったといわれています。
 二人のコンビはその他に、『赤い靴』『青い目の人形』俵はごろごろ』など、今でも歌い継がれている不朽の名作をたくさん残しています。

 それに『汽車ポッポ』『通りゃんせ』『めえめえ子山羊』などなど。国学、邦楽の素養に、東京音楽学校で学んだ西洋音楽の造詣も加わり、本居の音楽世界はハイカラなものから日本調のものまで、和洋折衷、自由自在に広がっていったさまが見てとれます。
 それを受け継いだ、後続の弘田、中山、成田、草川らが後に身を投じた「赤い鳥運動」によって、この国に官製ではない、本当の意味での童謡がしっかり根付いていくことになるのです。 

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタの「汽車・三部作」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e894.html

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北の子は遊び疲れて・・・

  北の子は遊び疲れて雪を食ふ   (三重県『遊の一句』採用の拙句)

 遥か南太平洋上のラニーニャ現象による影響とかで、今年は例年にも増して厳冬となりました。
 これまで何度も述べてきましたが、私は山形県の置賜地方(現南陽市宮内)出身です。内陸部なだけにかなりの豪雪地帯です。郷里での子供時代を思い起こすに、積雪のさまといい、その寒さといい、真冬は実に厳しいものがありました。
 どこかでも述べたことですが、一段と冷え込んだ夕方、家に入らずになおも未練がましく外で遊んでいたりすると、むき出しの耳たぶが痛くなるほどの寒さなのです。

 10代の終わり頃神奈川県県央地区の当地にやってきて以来40年以上、ほぼこの地で過ごしてきました。いくら寒いとはいっても滅多なことでは雪も降りませんし、ましてや耳が千切れんばかりの寒さなど体験したこともありません。
 しかし体はもうすっかりこちらの気候に順応してしまっています。こちらで寒い時は、その寒さを十分すぎるほど「寒い」と感じる体になってしまっているのです。

 人一倍寒暖を敏感に感じすぎるところのある我が体です。そのため今冬はよく風邪を引きました。まずある時突然ブルッと悪寒が走り、「ハクション !」とくしゃみするのが引き始めの兆候です。定期的なくしゃみがしばらく続いて、次は(キレイな話でなくて申し訳ありませんが)鼻水が出放題となります。それが何日も続きます。
 幸い他に頭痛がひどいとか、吐き気がするとか、全身がだるくて起きていられないとかの深刻な症状には至りません。しかしその間は、所嫌わぬくしゃみ、鼻水に悩まされるのです。

 例年急に冷え込む12月初旬頃に決まって同症状の風邪を引きます。私にとってはもう慣れっこの年中行事のようなものです。そしてそれが免疫となるのか、後はまったく引かずに春を迎えたり、途中引いてもせいぜい1回くらいなものです。

 ところが今年に限っては都合3回も引いてしまいました。今冬がいかに寒かったか、私の体が一つの証明になるようです。
 「そりゃあ、オタク。歳のせいで体の免疫力が低下してるせいじゃないのか?」ですって。いいえとんでもない。私は、『不死の探求』カテゴリーを設けてあるとおり、「歳」「年を取る」という概念は考えないようにしているのですから、そりゃあ違いますよ。断じて今年の寒さのせいです !

 「寒寒寒寒寒寒寒」。見るからに寒そうな「カン、カン、カン、カン、カン…」と、大寒冷警報が鳴り響いていたような日々がしばらく続きました。なにせお天気は快晴なのに、外にでも出ようものなら、空気がピーンと張りつめているような終日厳しい寒さだったのです。
 それが先週末あたりから、さしもの寒さもようやく緩んできたようです。日中は暖かさを取り戻し、そこはかとなく「早春の気配」が感じられるのです。これからは「寒寒寒暖暖暖暖」と三寒四温を繰り返し、日増しに春めいてくることでしょう。

 早春といえば。10年3月の『早春賦』、この季節アクセスがボチボチ増えてきます。その中に、「早春賦 季節はいつ」というような検索フレーズが時折り見受けられます。

  早春賦    作詞:吉丸一昌、作曲:中田章

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か

 冒頭「春は名のみの 風の寒さや」とあります。「名のみの春」とは2月初旬の暦の上の立春を指しているのでしょう。ということは、この叙情的名曲の季節は、立春過ぎからちょうど今頃の季節感を歌ったものとみていいと思います。
 また「春」を三春と区切った場合、早春、盛春、晩春となります。そこで早春は、2月初旬から3月初旬ということになりそうです。

 ただ日本列島は縦に長く伸びていますから、緯度によって各地の季節感はまちまちです。私の郷里のように2月はまだ根雪どっさりの地方もあれば、ぽかぽかで梅や水仙などが花盛り、ふきのとうやつくしの子もいっぱいにという地方もありますから、一概には言えません。

 そこでどうでしょう。春先ふと「春は名のみの…」と口をついて出てくることがあります。『早春賦』がふと思い出された時、またこの歌の一節を思わず口ずさんでいた時。その時こそ、その人にとっての「早春賦の季節なのだ」ということにしては。

 (大場光太郎・記)

『フォレスタの早春賦』(歌:男声フォレスタ合唱-Youtube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=b-ssJ5LCw2E
『小鳩くるみ 早春賦』(歌:小鳩くるみ-Youtube動画) (注 小鳩くるみさん、もちろん今もお元気でご活躍ですが、私としては懐かしい人です。子供時代の少年雑誌によく出ていて、当時の少年たちのアイドルでしたから。この人の歌唱力は抜群です。)
http://www.youtube.com/watch?v=kLnBGzIH4bw
関連記事
『早春賦』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c727.html

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検察のデッチ上げだった「裏金1億円」

 -当時の検察幹部による、世田谷土地購入における「1億円裏金充当」の的外れな妄想。今日の小沢裁判に至る、すべての誤謬はそこから始まった。この国の政治を大混乱に陥れた検察と大マスコミは、どう落とし前をつけるつもりだ ! 以下『日刊ゲンダイ』(2月21日2面)転載-                         
                        *

一体、何だったのか 水谷建設からの裏金1億円

全部デッチ上げだった検察捜査


 検察調書の全面却下で「無罪」が確実となった小沢裁判。審議を重ねるごとに検察の違法デタラメ捜査が、これでもかと噴出しているが、こうなると、いよいよ不可解なのが水谷建設からの「裏金1億円」疑惑だ。

 検察は「小沢サイドがゼネコン業界に“天の声”を発し、水谷建設から計1億円の裏金をもらつた」「この金が土地購入資金4億円の原資となった」と勝手にストーリーを描き、大マスコミはその筋書きに乗っかって「小沢=悪」のバッシング報道を繰り返した。
 ところが、その後の小沢裁判でハッキリしたのは、小沢サイドに“裏金”はビタ一文渡っていなかったということだ。

「小沢裁判に証人として出廷した前田恒彦・元検事は、『ゼネコン献金は検察の夢物語、妄想』と断言し、検察がゼネコン関係者を取り調べた捜査メモが検察審査会に渡されていない事実を暴露した。そこで、小沢弁護団が検察官役の指定弁護士に捜査メモを開示請求したが、指定弁護士側がこれを拒否。裁判所も東京地検に照会したが、こちら拒否している。検察は何が何でも、ゼネコン捜査メモをヒタ隠しにしたいようです」(司法ジャーナリスト)

 70通あるとされる「捜査メモ」には何が書かれていたのか。元参院議員の平野貞夫氏が、メルマガ(2月20日発行)で、特捜部関係者の話として驚くべき事実をぶちまけている。

<約50社、100人を超えるゼネコン社員を絞り上げたようだ。水谷建設を除く全社が小沢氏への裏金を否定した><ゼネコン約50社の捜査資料には、他の政治家への裏金提供が結構記されていた><この捜査資料を小沢氏の公判に提出することについて、検察側では最高検を巻き込んで大議論となっていた。結局、指定弁護士に渡してあるからその判断に任せればよいと、検察は判断しないことになった>

ゼネコン聴取メモには「別の政治家」の名前・・・

 要するに、ゼネコンからの裏金疑惑は、最初から全部デッチ上げだったわけだ。問題の水谷建設からの1億円についても、特捜の現場では真に受ける人はいなかったという。1億円は小沢ではなくオンナに渡った、という話もあるそうだ。
 
 そもそも、日本中のゼネコンが渡していないのに、水谷建設だけが1億円も渡したなんて、どう考えてもおかしい。それなのに、東京地裁の“ミスター推認”こと登石郁郎裁判長は、検察の妄想ストーリーを丸のみ。「天の声はあった」「裏金は渡っていた」と推論し、「明るみに出る可能性があるために隠蔽した」と元秘書3人に“推定有罪”を言い渡したのだからメチャクチャだ。

 実際、メモには何が書かれていたのか。平野氏のメルマガに出てくる「他の政治家」とは、なんと、自民党議員のことだという。こっちの方こそ追及が必要じゃないのか。無罪の人間に罪をかぶせた検察とメディアは、疑惑を明らかにする責任がある。  (転載終わり)

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検察審査会にさらなる重大疑惑

 -「はじめに強制起訴ありき」の小沢検察審は、何から何までデタラメだ !-

 小沢一郎民主党元代表はただ今裁判中の身です。何でこうなってしまったかというと、2010年4月と同年9月に、東京第五検察審査会で素人審査員による2度の「起訴相当」議決が下ったためです。
 2度の起訴相当を受けると「強制起訴」されるのが、検察審査会における決まりです。

 そこに目をつけたのが、同年2月小沢元代表を証拠不十分で「不起訴処分」とせざるを得なかった東京地検幹部たちです。“霞ヶ関ゴロツキ砦”の用心棒的役割を担う検察は、彼ら霞ヶ関官僚の抜本的改革を意図している小沢一郎を何としても「有罪」に持ち込み、政治的抹殺を目論まなければならなかったのです。
 それとは別に、大鶴基成、佐久間達哉といった当時の東京地検幹部らは、小沢という実力政治家を有罪にすることで、その先にある個人的栄達を夢見てもいました。

 個人的野心と、検察、法務省、オール霞ヶ関…幾重にも絡んだうす汚い“霞ヶ関砦”防衛のために悪用されたのが、検察審査会制度です。
 小沢元代表に関する検察審査会が開かれる前から、検察審査会での2度の起訴相当議決→強制起訴→有罪のシナリオが明確に描かれていたのです。この目的に沿って、検察審査会に告発する市民団体の選定、審査員の選定、審査補助員となる弁護士の選定などが周到に行われました。

 この謀略には、(今その暗黒性が問題になりつつある)司法全体を牛耳っている最高裁事務総局、宇都宮健児ら日弁連幹部、(宇都宮と盟友の)仙谷由人ら時の菅政権幹部も深く関与していたことでしょう。2度目の起訴相当議決が出されたのは、小沢一郎と菅直人が争った民主党代表選当日のことでした。

 審査員情報、審査会の議事録など、いくら請求しても情報公開しようとしない検察審査会事務局。こんな前近代的な「密室審査会」にかけられたら、小沢一郎ならずとも、「官」にとって不都合などんな国民でも簡単に「強制起訴→有罪」にされてしまいます。
 以下に『日刊ゲンダイ』(2月20日2面)記事を転載します。  (大場光太郎・記)
                       *

検察審査会にさらなる重大疑惑

田代検事にコロリやられた

「石川議員の供述を録取したと評価できるかすら疑問」ー。17日の小沢裁判で、大善文男裁判長から「能なし」の烙印を押された元東京地検の田代政弘検事(45)。勝手に調書を作成し、捜査報告書を捏造したのだから当然なのだが、その作文調書にコロッと騙されて無理やり「起訴相当」議決を出した東京第五検察審査会(検察審)もマトモなものじゃない。

 一昨年の4月と10月、検察審の「起訴相当」議決が公表された時、大新聞テレビは「これが市民感覚」などと散々ヨイショしていた。それがフタを開けたらこのザマなのだが、そもそも小沢をめぐる検察審は当初から“疑惑”まみれだった。

「最大の謎は、1回目と2回目の議決を出した審査員11人が全員入れ替わっているのに、公表された平均年齢が2回とも「34.55歳」だったことでしょう。検察審事務局は「偶然」と説明しているが、実は審査員を選ぶソフトは“作為的”に抽出できることが分かっています。しかも、そのソフトは09年3月に西松事件で元秘書の大久保隆則被告が逮捕された2ヵ月後に導入されている。11人の審査員は言いなりになる人だけが事務局側の思惑で選ばれたのではないのか、『幽霊審査員』ではないのか、との疑問は今も残ったままです」(司法ジャーナリスト)

 元最高検アドバイザーで、検察審制度に詳しい山下幸夫弁護士(東京弁護士会)はこう言う。
「この制度を通して感じるのは、検察審が政治的に利用された恐ろしさです。それは全ての捜査資料が検察審に送られていなかったことからもいえます。ウソの捜査報告書は送り、裏献金を否定した建設業者のメモ70通は送られなかった。検察審に送る捜査資料を当局が選択するなど過去に聞いたことがありません。小沢事件では、検察が検察審を恣意的にコントロールしようとした様子がうかがえるのです」

補助弁護士の選び方もマトモじゃなかった

 小沢事件の検察審では、審査員に助言した審査補助弁護士の“資質”も問題視されている。1回目の議決書で、小沢を「絶対権力者である被疑者」と感情ムキ出しで批判したのは、元検事・裁判官の米澤敏雄弁護士だが、審査補助員に就いた経過がこれまた不明なのである。

「私は日弁連の検察審に関するワーキンググループで、指定弁護士や審査補助員になる人を研修する立場でした。弁護士会では、検察審の申し立てに備えて(審査補助員の)登録名簿の一番上にいたのですが、小沢事件で選ばれたのは、私ではなく、米澤弁護士でした。驚いて弁護士会に説明を求めたのですが、今も理由が分からないままです」(山下幸夫弁護士=前出)

 審査員だけじゃなく、審査補助員の選任経過も疑惑に満ちている。これじゃあ“古巣”の意向を汲んだ元検事の弁護士が、田代検事と同様に、シロウト審査員に対して強制起訴議決を「誘導」したと疑われても仕方ないだろう。
 小沢「無罪」の判決が出たら、検察審の22人と審査補助員の弁護士2人は、真相を洗いざらい話す義務がある。  (転載終わり)

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「小沢裁判」検察・裁判所最後の謀略

-小沢裁判の行方がこの国の将来を決する。多くの人に真実を知っていただきたく、唯一の正義の言論紙『日刊ゲンダイ』の(2月20日)1、2面を全掲載する-

この裁判の目的は小沢抹殺

東京地裁の17日の決定でも有罪なのか無罪なのか 小沢一郎裁判重要な局面

 
前代未聞の奇天烈な裁判である。犯罪の核となる証拠は失われた。起訴の根拠はゼロに等しい。それでも裁判は続いている。21世紀の法治国家にあるまじき、前時代的な茶番劇。いったい、この国に正義はあるのだろうか。
 民主党の小沢一郎元代表(69)の裁判で、裁判所は17日、石川知裕衆院議員(38)の供述書の証拠採用を見送った。土地購入費の4億円を報告書に記載しないことについて、石川が小沢に報告して了承を得たという調書も不採用である。

 検察審査会は、今回却下された調書などを基に、政治資金収支報告書の虚偽記載に「小沢の共謀があったのではないか」と強制起訴している。とすれば、この裁判は、証拠ゼロで開かれたも同然だ。無実の罪を着せられたデッチ上げ裁判となる。捌きを下す理由はないし、下すべきかどうか判断する機会を設ける必要性もゼロ。まともな国であれば、世論は猛烈に反発するだろうし、裁判そのものが終わるところだ。

 なにしろ大善文男裁判長(52)が「違法不当で許容できない」「強力な圧力を掛けた」と特捜部の取り調べを批判しているのだ。むしろ罪に問われるべきは、調べを担当した田代政弘検事(45)の方である。
 共謀を示す材料もない小沢のことで「有罪か、無罪か」とワーワー騒ぐのがおかしい。一刻も早く田代検事を取り調べるべきである。それが正義ではないのか。

証拠がいらない小沢裁判

 元東京地検検事で名城大教授の郷原信郎氏も、「調書の不採用は当然の決定。これで、常識的には、小沢氏有罪はあり得ない。万が一、有罪判決が出されるようなことがあれば、それは、もはや“裁判”ではない」と言っている。ゼネコンの裏金からして認められていないのだから、虚偽記載する動機もない。小沢と石川らが共謀しなければならない理由は、これっぽちもないのだ。どう考えてもつじつまが合わない。

 だが、これは小沢裁判だ。ターゲットは、旧体制をぶち壊そうとした実力政治家である。オール霞ヶ関の敵だ。役人にオンブにダッコの野田政権にとっても厄介者である。常識が通用するとも思えない。

 元東京地検検事の落合洋司弁護士は「指定弁護士が立証の上で重要な物を失ったのは間違いないが、状況証拠や小沢事務所の実態に踏み込み、小沢元代表の共謀を認定する可能性はある」と言った。直接証拠がなくても、「小沢が知らないのはあり得ない」「小沢が了解しないと何事も決まらないはず」などと決め付けられ、動機はウヤムヤのまま有罪判決が下る可能性は高いのだ。

 実際、元秘書ら3人の裁判でも、供述調書の採用を見送ったが、「隠蔽工作を行ったことが推認される」と、想像や妄想、独善、偏見、思い込みで有罪判決を下している。ことに小沢に関しては、証拠などなくても有罪。それがこの国の裁判だ。国民は他人事だと思わない方がいい。

起訴される前から決まっている有罪判決

 もともと裁判官は無罪の判決文を書きたがらない。有罪判決を書きたいのだ。
 これまで3400件の事件裁判を傍聴しているジャーナリストの今井亮一氏が言う。
「裁判所は無罪の証拠については徹底的に疑う。石橋を叩いて叩いて、叩き壊すまで疑い抜きます。しかし、有罪の証拠については、その理由まで残らず拾い集めようとする。だから、起訴された時点で、ほぼ有罪になるのです。無罪の判決は書きにくく、有罪の判決は書きやすい。彼らには、そんな習性があるのです。小沢裁判は、検事が起訴したものではありません。そのため、警察や検察の筋書きを追認するほかの裁判と、少し趣が違う。それでも、よほどのことがない限り、無罪となる可能性は少ないと思います」

 オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、日本の異様な小沢バッシングを「人格破壊キャンペーン」と指摘した。
 権力の側にいる連中は、小沢を抹殺したいのだ。公正な裁判など期待できない。検察審査会に回された時点で、「有罪」は決まったも同然である。

「国民の生活が第一」の政治は遠のくばかり

 政治評論家の山口朝雄氏が言う。
「検事と判事は同じ釜の飯を食ってきた仲間です。検察が狙った人物をやすやすと無罪放免にすることはない。しかも、相手は小沢です。検察が目の敵にしてきた政治家で、マスコミと二人三脚で追い落としを謀ってきた。ろくな証拠もないのに有罪となれば、司法への不信は高まるでしょう。それでも有罪になる公算は大きい。仮に無罪になって復権すれば、永田町は大騒ぎになる。党員資格停止で座敷牢に入れておくことは出来ません。政治活動の縛りはなくなり、自由に発言し動ける。悪役のレッテルがようやくはがされるのです。財務省の宣伝マンとして消費税増税一辺倒の野田首相にも対抗できる。国民の生活が第一の政治も、ようやく実現に向かう。それだけに、小沢の復権を望まない勢力は多い。無罪判決が出る見込みも薄いのです」

 この裁判は、小沢の政治生命を左右するだけではない。国民の暮らしや将来にも、重大な影響を与える。
 役人たちがよってたかって自分たちの利権を守るために実力者を抹殺ーそんなデタラメはあってはならない。  (転載終わり)

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寒や母


                 秋元 不死男

  寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 秋元不死男(あきもと・ふじお) 本名 秋元不二雄
 明治34年横浜市生まれ。東 京三とも名乗った。横浜海上火災に入社、俳句を知り、「渋柿」「土上」「天香」に加わる。新興俳句運動の先頭に立ち、リアリズム俳句を唱えたが検挙され、獄に入る。戦後「天狼」創刊に参加。昭和24年「氷海」創刊主宰。俳句もの説を唱えた。蛇笏賞受賞。句集に『街』『瘤』『万座』『甘露集』、評論集に『現代俳句の出発』『俳句入門』などがある。昭和52年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》

 秋元不死男の句を取り上げるのは初めてです。しかし秋元が戦後著した『俳句入門』については、『鶏頭の句-名句?凡句?』『冬の水』などでその一部を参考にしました。同著は秋元自身の「入門とは言っても、安易に妥協したものは書きたくない」という表明どおり、高度な俳論であり、プロ俳人が読み返しても多くの示唆が得られるのではないかと思われる名著です。
 
  寒や母地のアセチレン風に欷き

 この句は、秋元不死男の少年時の体験を回想して詠んだ句です。秋元の代表句となっています。背景となった体験とはー。
 秋元不死男が幼少の頃、父親は横浜市で輸出業を手広く営んでいました。しかし後に事業に失敗し、大正14年姉、弟二人、妹を残して父は死去してしまいます。
 輸出業失敗の後秋元家は零落し、最後は洋品店を営みましたが、その商品の残りを荷車に積んで夜店を出したというのです。

 夜店行商に父親とともに、長男である不死男も行くことになったのです。不死男14歳の時のことです。今で言えば中学2年生に相当します。まあまあ裕福だった幼少期から急転直下の境遇ですから、不死男少年にしてみれば過酷な体験だったことでしょう。
 そのため忘れがたい強烈な記憶として刻まれ、後年それを回顧した名句として結実したわけです。

 言うまでもなくこの句の季語は「寒(さむ)」で、冬の季語です。
 零落した家の子供であってみれば、防寒着など十分に着込めず路地に立たなければならなかったのかもしれません。大正時代の横浜のとある街の一隅での夜店。浜の方から強く吹きつける夜風が、ことのほか冷たく感じられたのではないでしょうか。

 「寒や母」。その時不死男少年が全身で体感したものが、この発句で極めて簡潔に表現されています。詩的な表現に昇華されていますが、その時の実感では「寒いよぅ、お母さ~ん」「寒いよぅ、かあちゃ~ん」というようなことだったのでしょう。
 ちなみに母親という人は、実家が横浜で名字帯刀を許された名主の出だそうです。それに“明治女”の気骨も加わり、しつけには厳格な人だったのかもしれません。

 この発句には、『何でこんな寒い夜にオレをこんな処に立たせんだよ』という、父親へなのか、母親へなのか、世の中へなのか、誰に向けていいのか分からない漠たる“怨み節”が込められていそうな気配も感じられます。

 「地のアセチレン風に欷き」
 何とも見事な表現です。この描写こそが「寒や母」の具体的実景となるものです。
 照明としてなのかどうか仔細には分かりませんが、地面にアセチレンガスの容器(ボンベ)が置いてあるのです。(おそらく傘状の金属板で保護された)上部のノズルから迸るガスの炎が折からの風に煽られて、ヒュー、ヒュー音を立てていて、そのさまはまるで欷いているようだというのです。
 この場合の「欷き」は、「すすり泣き」というニュアンスです。それがその場の凄愴な感じをより一層際立たせているようです。

 容赦ない寒風にさらされながら不死男少年は、家が零落することの悲哀を骨身に沁みて痛感したのではないでしょうか。

 秋元不死男は略歴にあるとおり、後に俳句を志し、時に官憲に睨まれ監獄にも入れられ、戦後も骨太の俳句を作り続けました。そんな秋元にとって、この時の体験は、厳しくも尊い、その後のバックボーンとなる原体験だったといえるのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『鶏頭の句-名句?凡句?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-55d4.html
『冬の水』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-10cf.html

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何で今頃「森祐喜氏」と思っていたら・・・

 『かなえの殺人レシピ』ブームの再来は一段落しました。ところが今度は一転「森祐喜ブーム」が再来したのです。以下に掲げるのは、当ブログトップ面左サイトの16日の「検索アクセスランキング」です。

1位:森喜朗 息子
2位:森祐喜
3位:森首相 息子
4位:森元首相 息子
5位:押尾事件
6位:森総理 息子
7位:押尾 森
8位:森 祐喜
9位:森ゆうき
10位:森喜朗 息子 押尾

 お気づきでしょうが、1位から10位まで、すべて「森祐喜」関連フレーズで占められています。当ブログでは2年ほど前から(@niftyココログが提供している)このランキングを表示していますが、こんなことは初めてです。

 16日に表示されるこのランキングは、前15日のアクセス結果が反映されたものです。この日昨年7月の『押尾事件の陰の主役-森祐喜氏死去』記事にアクセスが殺到したのです。これは森喜朗元総理の長男で石川県議の森祐喜氏が同年7月25日多臓器不全のため死去したことを受けて記事にしたものです。
 同記事は公開とともに、ツィッターによる拡散効果もあり、当ブログ開設以来の驚異的なアクセス数を記録しました。
 
 今回の同記事へのアクセス集中は午前10時過ぎから始まっています。今回はツィッター拡散によるものではありません。だとしたら要因は一つしかありません。テレビなどで、森祐喜氏、押尾事件関連が報道されたかしたのです。
 10ヵ月以上無テレビ生活の私はネットニュースなどを調べましたが、どんな報道があったのかさっぱり把握できませんでした。押尾学自身が事の真相をテレビでぶちまけたのか?まさか森祐喜氏が前非を悔いて、あちらの世界からテレビのワイドショーなどに“生出演”して真相を語ったわけでもあるまいし…。

 翌16日の『日刊ゲンダイ』(9面)によって、やっと事の次第が飲み込めました。直近に押尾学(33)の実刑が確定したことによるものだったらしいのです。それにしても押尾実刑確定で、何でこれほどまで(故人となった)森祐喜氏が関心を集めるのか、今ひとつ理解に苦しむところはあります。
 
 結局押尾事件は、(田中さんの遺族が真相究明を求めて民事訴訟で徹底的に争わない限り)押尾個人に実刑が下ったことをもって、永久に幕引きとなるのでしょう。遂に同事件の巨大なブラックボックスが開けられることはないとみられるのです。
 事件の表層だけのうやむや決着に納得できないネット読者が、「真相はどうだったんだ?」という思いで、にわかにネット情報を探り出した、分けても事件発覚当初から深い関与が囁かれていた森祐喜氏関連にアクセスを集中させた、ということなのかもしれません。      
 押尾の近況を伝えている『日刊ゲンダイ』記事を以下に転載します。  (大場光太郎・記)

                        *

約3年半の“塀の中”確定 「キャバクラ豪遊」シャバ暮らしを謳歌していた
押尾学の近況ともくろみ

 
押尾学(33)の実刑が確定した。ホステス田中香織さん(当時30)が死亡した事件で、10月9日に保護責任者遺棄罪で懲役2年6月の実刑判決を受けたが、押尾はこれを不服として控訴。上告まで粘ったが、今月13日付けで最高裁が棄却した。

 押尾は09年11月に麻薬取締法違反(使用)で懲役1年6月、執行猶予5年の判決を受けている。刑が合算されて収監期間は約3年半。弁護士を通じて「非常に残念で納得できない」とコメントした押尾だが、実はこの日を見越していたのか、悔いが残らないようシャバ生活を謳歌してきた。

 ひとつは夜遊び。昨年暮れ、歌舞伎町のキャバクラでの豪遊を“フライデー”された。ブランデーをグイグイ空け、キャバ嬢と電話番号やメルアドを交換して「飲みにいこうよ」と口説いていたそうだ。
「押尾は現在、横浜に住んでいますが、ちょくちょく東京に出てきて飲み歩いています。歌舞伎町の他に六本木のバーでご機嫌な様子が目撃されています」(関係者)
 プライベートも充実している。09年に矢田亜希子と離婚したが、近づく女はいるらしい。今は横浜市内のマンションでファッションモデルNと同棲しているといわれていて、Nと収監中に“獄中結婚”するのではないかとみる向きもあるほどだ。

 出所後のプランも周到に練っている。芸能活動はひとまず休止。実業家として再スタートを切る予定で、刑務所にいるホリエモンにアプローチするとみられ、ビジネスのアドバイスを仰ごうとしているという。
「口八丁の押尾が複数のスポンサーをつかまえ、出資の約束をとりつけたそうです。細かい事業計画や手続きは刑務所の中から仲間に伝えるとみられています。周囲には『孫正義さんみたいな大物経営者になりたい』と吹聴しているとか」(事情通)

「まずは反省を」という声は押尾の耳には届かないのだろうか。  (転載終わり)

転載元記事
『日刊ゲンダイ』(2月17日9面)
関連記事
『押尾事件の陰の主役-森祐喜氏死去』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-26e0.html

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最高裁事務総局によって仕組まれた「小沢有罪」疑惑

 -小沢一郎という個人の命運は、つまりは我々国民全体の命運でもある-

 最高裁事務総局の「犯罪行為」がまた一つ問題になっています。小沢一郎民主党元代表の検察審査会から新たに導入された「検察審査員選定ソフト」はイカサマ自在で、都合のいい審査員をどうにでも選べるというのが分かったというのです。
 
 総額6千万円もかけて導入したこの「検察審査会候補者名簿管理ソフト」を使えば、各地の選挙管理委員会が抽出した100人の候補者名簿をもとに、10ないし12人の審査員が「無作為に」選ばれるという触れ込みでした。
 しかし実際このソフトは、いくらでも「作為的に」選ぶことが可能であるというのです。あらかじめ小沢に反感を抱いている人物を選定して送り込むこともできれば、政治に興味がなさそうな若者だけを選ぶことだって可能です。
 さらに、抽選結果をプリントアウトした瞬間にデータが破棄される仕様になっていて、仮にインチキをしても証拠が残らない“優れもの”なのです。

 これは初めから「小沢強制起訴」目的のために、わざわざ高い金をかけて導入したソフトと断定できそうです。このソフト導入を決めたのが問題の“奥の院”最高裁事務総局なのです。そしてこのソフトを納入した会社には、マスコミやヤメ検らが関与していた疑惑もあるといいます。

 これ以外にも、「小沢強制起訴」を議決した検察審査会は不可解なことだらけです。1回目と2回目の審査員は全員入れ替わっているはずなのに、公表された平均年齢は2回とも「34.55歳」なのです。日本人の平均年齢からして「若すぎる」上、確率上あり得ない一致です。
 それ以外にも、小沢一郎を起訴立件できなかった大鶴基成ら当時の検察幹部は検察審での強制起訴を思い描いており、検察審が開かれる前から「小沢はどっちみち検察審査会によって強制起訴されるんだ」、と石川知裕衆院議員を取り調べた担当検事が漏らしています。

 東京地検の不起訴処分を不服として、「桜井誠」なる人物が代表を務める怪しげな市民団体が間髪入れずに検察審査会に申し立て、即刻受理され、極めて異例なスピードで小沢元代表は1回目検察審にかけられることになったのです。
 このような推移からして、検察幹部や最高裁事務局と、この偽装市民団体は裏で通じていたのではないか、という疑惑すら生じてきます。これについて、いや検察審査会にまつわる多くの疑惑に対して、記者クラブという悪習どっぷりの新聞・テレビは一切報道しようとしません。
 ただこれらは、心あるネット市民ならとうの昔に知っていた事実です。

 今回これを取り上げたマスコミは注目に値します。毎日新聞社系列の『サンデー毎日』(2月14日発売号)なのです。同誌の大きな見出しは、
   『検察審査会にクジ引きソフト初導入「仕組まれた小沢有罪疑惑』
 サンデーの鳴海記者は、熱い情熱と記者魂を持っている記者で、取材した「一市民が斬る」さんに次のように言ったといいます。
「市民がメディアを動かす。メディアが国会議員を突き動かす。国会議員が世の中を変える。玉突きのようにね」
 
 ただ同誌記事の中には、イカサマソフト問題以外に気になる内容もあります。「小沢氏有罪」の可能性について触れているのです。
 進行中の小沢裁判(東京地裁の第一審)は4月下旬に判決が出される予定です。田代政弘検事らの捏造捜査報告書の発覚問題、3秘書裁判で「有罪」を下した“ミスター推認”登石裁判長に対する裁判官弾劾問題そして今回のイカサマソフト問題等、もはや裁判の体を為しておらず無罪確定とすべきが世の常識です。

 しかし国内すべての裁判所に目を光らせている最高裁事務総局は、世の常識とは真逆な謀略暗黒組織です。それに菅、野田という「官僚保護」政権によって、法務官僚も完全に息を吹き返し両政権下でやりたい放題です。
 どれほど検察の非道な行為が明らかになろうと、小沢裁判の大前提だった検察審で自分たちがイカサマを仕掛けているのがバレても、自分たち官僚権益にとって最大の邪魔者である小沢一郎を何としても「有罪」にし、今後とも徹底的にその政治行動を制限しようとすることは十分あり得ます。

 「小沢有罪」の可能性については、最高裁事務総局にパイプのある民主党幹部によって、野田首相にも既に情報として伝えられているといいます。
 そこで野田は、小沢有罪となれば小沢側近たちとまとめて大型連休明けに除名するシナリオを描いているというのです。そうなるとただ今急増中の「反野田勢力」の造反ムードはしぼみ、6月に見込まれている消費税関連法案の採決に安心して臨めるという筋書きです。
 なお最高裁事務局にパイプのある民主党幹部とは、悪徳弁護士上がりの仙谷由人だとみられています。

 今この国の歪みがどれほど酷いものか、それを知るための格好の指標となるのが一連の小沢裁判です。
 今この国の最強権力がどこにあるかははっきりしています。それは言うまでもなく「霞ヶ関中央官僚」です。国家の財産を一手に握り、一国の首相も閣僚も自分たちの意のままに操り、自分たちの権益を脅かす人物は「司法」という強力な武器によって徹底的に排除、抹殺しようとします。

 この国が民主主義国家だというのは、タチの悪い冗談です。かつての旧ソ連のような厳しい官僚統制国家、さらに言えば霞ヶ関官僚機構を頂点とし全国の関連組織に裾野を広げる、巨大なヒエラルキーからなる、官僚・お役人に「生殺与奪の権」を握られた、ガチガチの超管理国家なのです。
 多くの国民が立ち上がって「官僚支配打破」を叫ばない限り、ますます生き苦しい「階級社会」が硬直化していくばかりです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『日刊ゲンダイ』(2月16日3面)など
関連記事
『黒幕“最高裁事務総局”の恐るべき正体 !』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-570b.html

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フォレスタの「汽車・三部作」

 -混声コーラスの醍醐味ここにあり ! この歌を聴いていると元気が湧いてくる !-
 
     (この歌の動画は削除されました。)
 
 今回ご紹介する「フォレスタコーラス」は、レベルの高い混声合唱だとこんな凄いコーラスが可能になるのだ、という格好の見本のような歌です。
 『汽車・三部作』と銘打っているように、昔懐かしい聞き覚えのある「汽車の歌」を3曲続けて歌っています。
 1曲目 『汽車』 (明治45年-作詞不詳、作曲:大和田愛羅)
 2曲目 『汽車ポッポ』 (昭和12年-作詞:宮原薫、作曲:草川信)
 3曲目 『汽車ポッポ』 (昭和2年-作詞作曲:本居長世)

 男声、女声フォレスタ混声フルコーラスといっていい豪華なメンバーです。男性陣6人はこれがフルメンバーです。名前と担当パートをご紹介します。右から大野隆さん(バス)、川村章仁さん(バリトン)、今井俊輔さん(バリトン)、榛葉樹人さん(テノール)、横山慎吾さん(テノール)、澤田薫さん(テノール)です。
 対して女性陣は『別れのブルース』(『美しすぎるフォレスタ』)と同じメンバーです。右から中安千晶さん(ソプラノ)、吉田静さん(メゾソプラノ)、矢野聡子さん(ソプラノ)、白石佐和子さん(ソプラノ)。
 これに小笠原優子さん(ソプラノ)が入っていれば完璧でしたが、ともかく10人も並んでのコーラスは壮観の一言です。

 各歌とも女声の高い声と男声の重厚な声がうまくミックスしていて、実によく「汽車の歌」の雰囲気を醸し出しています。「混声コーラスの醍醐味ここにあり !」と言った趣きです。

女性陣よく間違えないなぁ凄い!
とくに3曲目Σヽ(゚Д゚; )ノ
 (ある人のコメント→この人の記号、判読不能ながら凄い !)

 男性陣もさることながら、特に女性陣の歯切れの良さが印象的です。よく聞き分けてみますと、女性コーラスいなこのコーラス全体を引っ張っている“機関車”は吉田静さんであるようです。ご本人には「自分だけ目立とう」というようなつもりはまったくないのでしょう。がとにかく、この歌全体にわたって吉田さんの歌声だけははっきり聞き分けられます。
 吉田さんの存在こそ、この歌の小気味よく歯切れよい女性コーラスの要といってよさそうです。

 ある人は他の歌のコメントで「メゾソプラノの力」と述べていますが、私はズバリ「吉田静の力」と言いたいと思います。声質、声量とも、吉田さんは女性陣の中で頭一つ抜きん出ているように感じられます。
 それにこの歌での吉田さん、終始にこやかで心から楽しんで歌っているようすです。そんなところからも、彼女にはまだまだ「遊び(余裕)」がありそうに感じられるのです。
 「フォレスタの快挙」と形容したくなるこの『汽車・三部作』は、吉田静さんが加わったことによって可能となったといっていいのではないでしょうか。

 と言っても、白石佐和子さん、矢野聡子さん、中安千晶さんという他の女性陣を相対的に貶めるつもりは毛頭ありません。白石さんも矢野さんも中安さんも、(またおいおい取り上げていくつもりですが)それまでのしっとりした叙情的な歌謡曲、唱歌、童謡で、それぞれの持ち味を十分出し切っておられます。
 ただ吉田静さんが加わったことによって、今回の『汽車・三部作』のような弾んでテンポ良いコーラスも可能になったのです。「フォレスタ女性コーラス」として新領域を切り開いたわけですから大変喜ばしいことだと思われるのです。

 またこのコーラスで忘れてならないのは、軽快に刻まれていくピアノの旋律と和音です。これを演奏しているのが南雲彩さんと吉野翠さんの二人です。二人のめったに見られない連弾がこの歌にさらに弾みをつけています。お二人とも心から楽しんで演奏しているように見受けられます。(手前が南雲さん、奥が吉野さん。)

 1、2曲は、子供が汽車に乗っての感動を歌にしたものだと思われます。子供の視点からとらえた事物が素直に歌詞になりメロディになっています。それぞれ違った味わいがあり甲乙つけられません。
 何と言っても愉快なのが、ラストに持ってきた本居長世の『汽車ポッポ』です。これは当時東海道本線の丹那トンネル着工にあたり、御殿場駅経由のルートで運転されていた、その御殿場ルートの急勾配を蒸気機関車が駆け上がっていくようすを歌にしたものだそうです。

「何だ坂 こんな坂 何だ坂 こんな坂」「トンネル 鉄橋 トンネル 鉄橋 トンネル 鉄橋」「トンネル トンネル トントントンと のぼりゆく」
 女声コーラスが、まるで男声コーラスとの“掛け合い”を楽しむかのように歌っていて、巧まずして生まれるユーモアに思わず「お見事 !」と言いたくなります。
「ポッポッポッポッ 黒いけむはいて」「シュシュシュシュ 白いゆげ吹いて」、山坂道を息せき切って上っていく大きな黒い姿が目に浮かぶようです。

 三部作で歌われている汽車(蒸気機関車)は、それまでさんざん働いてくたびれ果てた老機関車ではありません。「さあ、これからも馬力を上げて走り回り、全国の鉄道を走破するぞ !」と言わんばかりの青年機関車です。
 フォレスタ10人による生きのいいコーラスからそう感じられるのです。

 (大場光太郎・記)

『フォレスタ-汽車・汽車ポッポ』(youtube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=-5YY5xJSyVg&feature=relmfu
関連記事
『美しすぎる「フォレスタ」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1920.html

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痴漢冤罪「無罪」勝ち取る

 だいぶ前ある痴漢事件が世間の関心を集めました。女性、警察、検察によって男性が痴漢にされてしまったこの事件、13年経った今、最高裁で「無罪」結審し、痴漢冤罪の濡れ衣を晴らすことができたというのです。
 このニュースを扱っている『日刊ゲンダイ』(2月10日7面)記事を以下に転載します。
                       *

最高裁まで争った痴漢冤罪

一部上場会社員の「名誉を勝ち取るまで」の13年間

 
13年前、痴漢の濡れ衣を着せられ、逮捕・拘置された後、不起訴となった沖田光男さん(69)。その後、警察や検察、事件をデッチ上げた女性に損害賠償を求める訴えを起こし、先月、最高裁で決着した。
 どんなサラリーマンも通勤電車でいつ同じ目に遭うか分からない。本紙の直撃に、沖田さんが「痴漢冤罪」の恐怖と対処法を語ってくれた。

通勤の電車内で携帯電話注意したのが発端

「電車内で女性が携帯電話で話していたので、『やめなさい』と注意しました。女性は『わかったわよ』と怒鳴りながら切った。事実はそれだけのことです」
 大手機械メーカーの課長だった沖田さんは1999年9月2日夜、JR中央線の車内で20代の女性を注意。国立駅で降り、自宅に向かって歩き始めたところ、突然、2人の警察官に呼び止められた。
「電車内で痴漢しませんでしたか」「逮捕する」-携帯電話を注意された女性が腹いせに交番に駆け込んだのだ。

 沖田さんはそのまま立川署に連行。ネクタイとベルトを外され、留置所に入れられた。一睡もできないまま、翌朝、取調べが始まった。
「警察はわりと紳士的でしたが、怖かったのが検事です。30代後半ぐらいでしたが、『おまえはやっている』『証拠はあるんだぞ』『覚悟しろ』と何度も怒鳴られました。女性の写真を見ながら『なかなかの美人じゃないか。痴漢のひとつもしたくなるよな』と水を向けられたこともありました」
 アノ手コノ手で“自白”を迫る検事。何とか拘留期限の21日間、否認し続けた。

「やってないことを認めたら、人生に大きな悔いを残す。21日間だし、とにかく頑張ろうと言い聞かせた。納得いかない調書には署名しなかった。面会に来た上司や妻の激励も支えになったが、大きかったのは留置所の同房者です。少し年下の迫力ある元ヤクザでしたが、『やっていないなら、言い続けろ』『検察のワナに引っかかるなよ』と、いろいろアドバイスしてくれた。不安になる時もあったので、非常に助かりました」

 痴漢を訴えた女性が、検察の出頭要請に応じなかったこともあり、沖田さんは不起訴処分に。釈放された翌朝から出勤した。
「まず部長に挨拶し、人事部に顛末書を提出しました。会社は同情的で、欠勤分は有休扱いにしてくれた。ただ職場の雰囲気は、少しよそよそしかったですね。若い女性も多かったし、疑われているような気もした。1年後、異動になりました」

 警察、検察、女性に損害賠償を求めた訴訟では、裁判所は支払いを命じなかったものの、「沖田さんの痴漢はなかった」と認定した。

「無実が証明されたという点ではホッとしています。ただ3者とも、いまだに謝罪すらありません。痴漢はいったん逮捕されてしまうと、被害者側の供述だけで、一方的に犯人と決めつられる。ただ検察官の取り調べは、21日間のうち、大体6~7日です。やっていないのなら、とにかく否認し続けることが重要です」  (転載終わり)

【私のコメント】
 沖田光男さん、13年間もの長い戦いお疲れ様でした。
 私は当時この事件を知りそれとなく成り行きを見ていましたが、ずい分長くかかってしまったものです。この間、沖田さんは失ったものも多かったことでしょう。しかし今回の最高裁無罪判決によって、(大いにか少しかは分かりませんが)報われた思いでしょう。
 それのみか、断固無罪を主張し続けたことにより注目を浴び、世の中にこういうタイプの「痴漢冤罪」が起こり得ることを広く知らしめました。それだけで沖田さんの社会貢献は大きなものがあると思います。

 警察、検察が大問題なのは、何もこの事件に限ったことではありません。何といっても一番の問題は事件の発端となった若い女性です。
 電車内での携帯使用といい、注意されたのを逆恨みして交番に痴漢通報したことといい、当時確か女子大生だったこの者の、終始一貫した身勝手さがすべての原因なのです。

 ここまではいかずとも、バブル全盛の頃からとみに、若い女性たちの「世界はわたしを中心に回ってるのよ」と言わんばかりのジコチューな思い上がった言動に、私もごく日常で目の当たりにしてきました。
 だからこの事件の何年か前、船井幸雄氏の「これからの新時代をリードしていくのは若い女性たちだ」との見解には、素直に共感できなかったのです。(もちろん一くくりにはできず、いつの時代にも「立派な若い女性」もいることでしょう。)

 船井氏の上の見解と同じ頃、ある人が「日本人のおごり高ぶりは筆舌に尽くしがたい。これは“世の終わり”に決まって起こることである。自分たちの時が残り少ないことを知っている邪霊、悪霊群による総憑依状態によってそうなっているのである」と述べていました。
 こうなると若い女性だけの問題ではなくなりますが、この人の方が真相を突いていると思います。(注 「相応の理」でこちら側に原因がなければ、そういう存在に憑依されることはない。)

 まさかくだんの女性は当初、「騒ぎ」がこれほど大きくなるとは予想もしていなかったことでしょう。事が大きくなって改めて、自分が犯した「犯罪行為」の重大さを思い知ったのではないでしょうか。
 この女性とて「良心」はあるのでしょうから、この13年間ずっと罪の意識にさいなまれ、まるで生きた心地がしなかったのではないでしょうか。沖田さんに会い前非を悔いて心の底からお詫びでもしない限り、今後共心の中に罪を背負ったまま生きていかなければならないのです。
 結局、あたら惜しい人生を棒に振るほど大損をしたのは、この女性なのです。

 (大場光太郎・記)

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小沢一郎「倒閣」で腹くくった !?

 -小沢「増税反対」表明で野田は詰み。今後政界は小沢中心に動いていく?-

  久しぶりの政治記事です。
 昨年はTPPそして今年は消費税増税と、国民が望んでいることとは真逆な事に前のめりな野田首相にはとことん嫌気がさしています。対して自民党など主な野党も消費税増税は基本賛成ですから、活発な国会論戦など起こりようがありません。
 今や心ある国民には「狂ったマスコミ」としっかり認識されている新聞・テレビも、権力へのチェック機能など放擲し「増税大いに必要」論調一色ですから、まるで話しになりません。
 かと言って石原新党というロートル新党構想に期待するわけにもいくまいし、橋下新党ではファッショ的で危ないし。

 頼みの綱はやはり小沢一郎民主党元代表ただ一人です。が外野からすれば、度し難い現民主党などさっさと離党して、新党結成なり政界再編なりを仕掛けてくれればいいものを。小沢御大は「動かざること山の如し」然とデンと構えて、そのそぶりすらありませんでした。
 かくて何もかも閉塞状況。この国はこのまま「恍惚として死に行くのか」と、密かに危ぶんでおりました。

 が、ここに来て政治状況、もっと言えば財務省等官僚主導型政治状況の潮目が変わりつつあるようです。
 過日の共同通信社インタビューで、小沢元代表が「増税反対」を明言したのです。「道筋が違う。経済政策としてもおかしい」と語り、マニフェスト(政権公約)を無視して増税するのは「国民を愚弄する背信行為だ」と野田政権を厳しく批判し、消費税増税関連法案の採決に「反対する」と断言したのです。
 この発言によって党内は蜂の巣を突ついたような混乱だそうです。がいずれにしても、小沢元代表は野田政権に対して事実上の宣戦布告を出したのです。

 何度でも言います。09年総選挙で政権交代を成し遂げたのは、小沢一郎と鳩山由紀夫です。検察、マスコミ「官報複合体」による「小沢抹殺」に悪乗りし、一昨年6月2日のクーデターによって権力奪取したのが、菅直人、仙谷由人、岡田克也、前原誠司、野田佳彦らなのです。
 この反党分子たちこそ「党を出て行け」という思いが小沢にはあるのかもしれません。それが道理というものです。
 小沢一郎の腹の中にあるのは党再生なのか、あるいはそんなレベルを一気に飛び越えてガラガラポンの政界再編なのか。今後の政局、少し期待が持てそうな展開になってきました。

 以下『日刊ゲンダイ』(2月11日3面)記事の転載です。 (大場光太郎・記)

                        *

小沢勉強会125人参加で野田は終わった

 消費税引き上げ法案に「反対」を明言した民主党の小沢一郎元代表(69)。その勉強会にきのう(9日)は100人を超える国会議員が集まった。この動きは決定的だ。いくら政権がしめつけても、増税反対の動きは止まらない。「なぜか」といえば、小沢の方に「理」があるからだ。野田政権は、もはや“詰んだ”。オシマイが見えてきた。

 「政権を任されたときの訴えを忘れた人たちと一緒にされたくない。歌を忘れたカナリアはあの人たちで、忘れた人が離党すればいい」
 小沢はきのう、出演したインターネット番組でも、消費税アップを推進する野田執行部をメッタ切りにした。歌を忘れたカナリアの野田は「必要なら(小沢を)説得したい」と言っていたが、このセリフに野田のアホさが集約されている。小沢は政治的打算や駆け引きで動いているわけではないのである。
 小沢周辺は「野田首相は、つくづく小沢さんという人間を理解していない」と声を揃えている。

 「小沢さんは国民の立場で、『最初から反対。筋道が違う』と主張している。あくまでも『国民の生活が第一』。その考えにブレはありません。小沢さんにすれば、この時期の増税は『国民のためにやってはいけないこと』です。それでも野田政権が無理やり増税法案を通そうとするのであれば、国民のために政権を潰すしかない。最初に理念があって、その後の政治的行動は理念を実現するための手段なのです。政権運営の延命を図るために『小沢懐柔』を持ち出した野田さんとは発想が違う。小沢一郎という男は、情や権力維持のために節を曲げるようなことはしない。それこそ国民への裏切り行為です。そこが野田さんは分かっていない。なぜ、政治家をやっているのか。権力欲しさか、国民のためか。そこからして根本的に違うのです」(小沢氏周辺の関係者)
 だからこそ、小沢の勉強会にはこれほどの人が集まるのだ。

次の焦点は政界再編

 現在、衆院の与党議員は296人。民主党から56人が造反すれば、消費税法案は否決される。きのうの勉強会に参加した増税反対派は議員本人101、代理出席24だ。こうなると、野田はなす術なし。消費税引き上げ法案の採決を断念するか、採決で否決されるか。どっちにしたって政治生命はオシマイだ。いくら野田が盤面を見つめようが、とうに勝負は詰んでいる、ということだ。

 だから小沢の視線は、すでに次期衆院選を見据えている。きのうのネット番組でもこう語っていた。
 「民主党政権がつぶれたっていいが、『自民党も民主党もダメ』といっても、みんなの党や大阪維新の会も過半数を取れない」「どこも過半数を取れない状況は日本にとって不幸で、何としてもそれは防ぎたい」
 つまり、政界再編を仕掛けるということだ。

 この先、小沢は表舞台に出て、積極的に持論を展開する。きょうから4日間の日程で「小沢一郎政治塾」を開催。きょう夜には「BS11」の番組にも出演。「政権交代の原点」について語る予定だ。
 野田の終焉が見えたことで、今後の政界は小沢を中心に動いていく。それがハッキリしてきた。  (転載終わり)

                             

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「奇想の絵師」伊藤若冲

Google 伊藤若冲生誕296周年


 これは8日のグーグル「変わりロゴ」です。「伊藤若冲 生誕296周年」ということだそうです。
 グーグルのこのユニークな変わりロゴ企画、たしか昨年7月の「メンデル生誕189周年」が初めてだったかと記憶していますが、それからずい分各分野の歴史的偉人たちの「生誕○○○周年」が取り上げられてきました。しかしほとんどは外国人で、日本人が取り上げられたのは確か野口英世に次いで伊藤若冲が二人目ではないでしょうか。

 上のロゴは、何かの屏風絵のようです。これが伊藤若冲の代表作を図案化したものであることは容易に推察できます。
 それにしては中央右の白い巨象、その両脇には獅子や駱駝や孔雀やその他の判別不能な怪っ体な動物たちが描かれています。上の木には桃なのか蜜柑なのか赤い実がなり、枝には猿がぶら下がったりして遊んでいます。背景の海には白黒のアザラシの姿も見えます。

 これの元になったのは『樹花鳥獣図屏風』だそうです。白象といいアザラシといい、それまでの日本画には現れた試しのない画題です。
 狩野派の『何とか屏風絵』など、言ってみれば正統な日本的美意識によって描かれたのとは明らかに異質な画法です。見るからにエキゾックな雰囲気があり、勝手に名づければ『南蛮流樹花鳥獣図屏風』とでも言える革新的な画法のように思われます。
 伊藤若冲という絵師、ますます興味が湧いてきました。

 伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)は江戸時代中期の人です。存命中から絵師として人気が高かったといいます。しかし明治以降はすっかり忘れ去られた存在でした。
 本格的な若冲研究に着手したのは秋山光夫という人で、大正15年(昭和元年)のことでした。さらに時代がずっと下った昭和45年(1970年)、辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以降注目を浴びることになりました。
 特に1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、飛躍的に知名度と人気を高めています。それに一役買ったのがNHKで、2001年『神の手をもつ若冲』として特集しています。

 伊藤若冲は正徳6年2月8日(1716年3月1日)、京都のかなり裕福な青物問屋「枡屋」の長男として生まれました。若冲23歳の時父親が死去し、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。
 若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったといいます。大商家の跡取りでありながら商売熱心ではなく、若冲は家業を放棄し2年間丹波の山奥に隠棲し、その間山師が枡屋の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残っています。

 資金はたっぷりあるはずなのに、酒も呑まなければ芸事も女遊びもせず、生涯妻を娶りませんでした。生まれついて神仙的イメージ世界に心を遊ばせるような超俗的な人だったようです。

 若冲40歳の時家督を3歳下の弟に譲り、早々と隠居しています。宝暦8年(1758年)頃から『動植綵絵』を描きはじめています。翌年には鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を描くなど、持ち前の画才を一気に開花させていきます。

 『動植綵絵』は若冲の代表作と言われるもので、全30帖あり、多種多様な動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品です。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる、幻想的な雰囲気が漂うと評されています。

『動植綵絵』の内「群鶏図」
 当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上経った今日でも保存状態がよく、褪色も少ないといいます。
 これは若冲が相国寺に寄進したものですが、後に皇室御物となり現在では宮内庁が管理しています。(ご多分に漏れず他の若冲作品も海外に流出し、ボストン美術館などが所蔵している。)

 伊藤若冲は江戸時代の天才画家の一人といってよさそうです。しかし一人の若冲が生まれるには、その土壌となった文化的背景も見逃すわけにはいきません。
 一つは、後にセザンヌやゴッホなど名だたる西洋画家たちが模倣するほどの、我が国絵画芸術のレベルの高さです。もう一つは長い歴史と伝統で培われてきた京文化です。
 その結果、江戸に北斎や歌麿や広重あれぱ、京都に若冲ありとなったのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「伊藤若冲」の項
『樹花鳥獣図屏風』(静岡美術館所蔵)
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jakuchu/20060511/20060511101214.jpg

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グーグル連続で“変わりロゴ”

 2月6日からグーグルロゴが3日連続で「変わりロゴ」となりました。

Google フランソワ・トリュフォー生誕80周年

 初日の6日は「フランソワ トリュフォー 生誕80周年」ロゴです。これにつきましては、当ブログでも早速『仏映画界の鬼才トリュフォーのこと』記事にしました。
 このロゴはやはりトリュフォー映画のワンシーンのようです。あらためて見てみると、男の足元に寄せ来る波は、「ヌーヴェルヴァーグ」(新しい波)という気がしないでもありません。



 続いて上は7日のロゴです。何やら17世紀から18世紀初頭頃の、ヴィクトリア王朝期あたりの図案化のように思われます。
 さてテーマは「チャールズ ディケンズ 生誕200周年」ということです。

 チャールズ・ディケンズ(1812年2月7日~1870年6月9日)は、ご存知イギリスの代表的作家の一人です。
 ポーツマス郊外の生まれですが、この大作家とて“銀のスプーンをくわえて”生まれてきたわけではありません。生家こそ中流階級だったものの、父親、母親とも金銭感覚に乏しく、ために家は貧しく、ディケンズが学校教育を受けたのは2度の転校による4年間のみだったといいます。

 1822年暮れ一家はロンドンに移住するも、1824年両親の浪費によって生家は破産。父親は債務不履行によって監獄にぶちこまれます。
 12歳だったディケンズは独居し、親戚が経営していた靴墨工場へ働きに出されました。この工場での待遇や仕打ちは酷く、“女工哀史”ならぬ少年工哀史的生活で、彼の精神に深い傷を残すことになりました。
 1827年から法律事務所に事務員として勤務しますが、後にジャーナリストになることを決意し、1834年ある新聞社の報道記者としての活動を始めます。

 定職の片手間に雑誌へエッセイの投稿をはじめ、1836年第一作『ボズのスケッチ集』を発表し、優れた批評眼が注目を浴びました。続いて発表した『ピクウィック・ペーパーズ』が大人気となり、一流の小説家として一躍文才を認められました。
 その後は『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『ディビッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』など、世界文学史に残る作品を次々に生み出していきました。

 私は高校2年の時、そのうちの『クリスマス・キャロル』と『二都物語』を読みました。いずれも今となっては信じられないほどの超速読でです(それとて実際の「速読法」の足元にも及ばないと思いますが)。特に『二都物語』は大長編でしたが、とにかく最初から最後まで一行も飛ばさずに読んだのです。

 二都とはロンドンとパリを指します。フランス革命が背景とのことで、大の「フランス革命好き」だったことから読んだのでしたが、読み進めていくうち「恋愛がテーマ」と分かり途端に興味をなくしたことを覚えています。
 『赤と黒』や『嵐が丘』など最初から恋愛小説と分かっているのならともかく、どちらかというと「恋愛小説苦手」の私はペテンにかけられた気がしたのです。
 そのため、同じ頃血沸き肉躍らせて読んだ『モンテクリスト伯』なら今でもだいたいのストーリーを覚えていますが、こちらはさっぱりです。

 しかしそれは私の“独断と偏見”というもの。『二都物語』は発表(1859年刊)後英国のみならず世界中で読み継がれ、累計何と2億冊だそうです。
 他の古典文学がどれくらいなのか分かりませんからうかつなことは言えませんが、ひょっとして『聖書』に次ぐ超ロングセラーなのかもしれません。
 以来一度も読んだことはありません。しかし今再読する機会があれば、『二都物語』も『クリスマス・キャロル』も、当時とは違った深みや面白さが発見できるのかもしれません。

 8日の「伊藤若冲 生誕296周年」についても、本記事で概略述べるつもりでした。しかしディケンズについ熱が入り長くなってしまいましたので、これについては次回改めてということに致します。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』「チャールズ・ディケンズ」など
関連記事
『仏映画界の鬼才トリュフォーのこと』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-d0a4.html

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仏映画界の鬼才トリュフォーのこと

 6日はまたグーグルの“変わりロゴ”でした。今回は同ロゴをコピーできないのが残念ですが、2カットあります。
 1カット目は、波がかかるかかからないかくらいの浜辺に、黒づくめの長髪の男が灰色がかった海の方を向いて立っている図柄です。その後ろ向きの姿は格好よく、映画のワンシーンのようでさまになっています。これで俄然興味が湧き同ロゴ内でカーソルを当てると、「フランソワ トリュフォー生誕80周年」との表示です。
 2カット目は一転、どこかの街のストリートを、3人の少年たちが左から右へと走り抜けようかという図柄です。

 「フランソワ トリュフォー?」、初めて目にする名前です。80といえば今も存命していてもおかしくはないはずですが、グーグルの記念ロゴになるということは既に世を去ってしまった「ある分野の世界的著名人」だったということなのでしょう。
 早速同ロゴを“ググって”みました。そうしたら『ウィキペディア』冒頭に、この人は「フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する一人」とありました。なるほどフランソワという名前からしてフランス人、映画監督、そしてヌーヴェルヴァーグ(「新しい波」の意)か。
 1932年に生まれて1984年死去とありますから、52歳という若さで世を去ったことになります。

 ハリウッド映画の毒気に当てられっ放しの身(?)には、芸術の薫り高いフランス映画を観たいとは思いつつも、かつて『巴里の空の下セーヌは流れる』『リラの門』『太陽がいっぱい』『シェルブールの雨傘』を観たくらいなもの。この機会にトリュフォーがどういう人物で、どういう作品を残しのか概略でも知りたくなって、ウィキペディアの同人の項をプリントアウトしました。

 フランソワ・トリュフォーは、1932年(わが国で言えば昭和7年)パリで生まれました。幼くして両親が離婚し孤独な少年時代を過ごしたようです。彼を引き取った母親によって何度も感化院に放り込まれるという、親との関係に問題の多い少年時代だったといいます。
 父親との縁が薄かったせいか、トリュフォーは長じてから結婚、離婚を繰り返し、安寧な家庭とは終生無縁でした。
 こういう幼少時の原体験が、彼の映画作品のベースに流れていると見るべきなのかもしれません。

 トリュフォーは14歳だった1946年早くも学業を放棄しています。今日の我が国で言えば“悪ガキ”そのものと言えそうですが、絵に描いたような転落人生から這い上がるだけのものが彼にはありました。それは「才能」です。いなその後の人生の軌跡を見ていくと才能などという生易しいものではなく、ずばり「天才」と言っていいようです。天才なら「学業なんてクソ食らえ」でいいわけです。
 トリュフォー少年はどこに自らの天才のはけ口を見出せばいいか、素早く嗅ぎ分けました。それは「映画」。学業放棄後映画館に入り浸ったのです。

 直後に映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長で批評家のアンドレ・バザンと出会い、バザンの死の1958年まで親子同然の生活を送ります。トリュフォーはバザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ」誌をメーンとして先鋭的で攻撃的な映画批評を書きまくります。
 特に「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調に、当時「フランス映画の墓堀り人」と揶揄されたほどでした。

 1956年には批評から転じて、自ら映画制作に関わることになります。同年ロベルト・ロッセリーニの助監督になったのです。25歳の翌57年、配給会社の社長令嬢と結婚し、また製作会社を設立しています。
 1959年自社と義父の関連子会社の共同制作による処女長編映画『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒットとなります。これはトリュフォー自身のいわく言いがたい体験談を下敷きにしたもので、これによってトリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高めることになったのでした。

 1968年のカンヌ国際映画祭において、「コンテストの必要性の有無」を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーは同映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張りました。ただこの出来事をきっかけに、若い頃から実の兄弟のようにして映画を作り合ってきたジャン・リュック・ゴダールと決別し、ヌーヴェルヴァーグの面々とも疎遠となり、以後の映画の作風は古典的かつ正統的な落ち着きを見せ始めます。

 「因果は巡る」で大家となった今度は、トリュフォー自身が若い批評家たちの辛らつな批判を浴びる番です。恋愛しか題材にしないこと、トリュフォーは自分がその地位につくために以前の大家たちを批判し貶めたこと…。
 対してトリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも関心がないから自分には恋愛映画しか作れない」とまったく意に介することはなかったといいます。

 1984年死去すると、フランスのみならず世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われました。しかし仲違いしたかつての盟友のゴダールは葬儀に参列せず、追悼文を出すこともしませんでした。
 しかしその4年後に出版された『トリュフォー書簡集』に、ゴダールは彼からの激しくゴダールを罵倒した手紙を提供し、その時書き下ろした序文を以下の文章で締めくくったそうです。
 「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」

 代表作は『大人は判ってくれない』の他に、『アメリカの夜』『終電車』『夜霧の恋人たち』『アデルの恋の物語』など。

 上に漏れましたが『華氏451』もトリュフォーの作品だそうです。『10月はたそがれの国』で述べたとおり、原作はアメリカの「SFの抒情詩人」レイ・ブラッドベリです。本の所持や読書が禁じられた架空社会における人間模様を描いた文明批評的作品ですが、私はだいぶ前この映画をテレビで観た記憶があります。
 トリュフォーは「SF嫌い」らしいですが、読書好きでもあり、本への愛からSF色を薄めて特に作った作品だったようです。1966年イギリス作品で、出演者もイギリス人、撮影地もイギリスで、英語が話せないトリュフォーは意思の疎通に苦労したそうです。
 そんな事とは露知らず。薄らボンヤリ観てしまい、ストーリーも何もほとんど残っていません。こんなことだったら、真剣に観ておくべきでした。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「フランソワ・トリュフォー」『華氏451」などの項
関連記事
『10月はたそがれの国』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-5454.html

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風蕭々として易水寒し(4)

 こうして秦王政(始皇帝)暗殺計画にとって不可欠な二つの物-督亢の地図と樊於期の首級が用意されました。樊将軍が自らの意志で自刎したことを知り、太子丹も観念せざるを得なかったのです。

 そこで太子は密かに武器を求めました。献上する督亢の地図は巻物になっています。それを秦王の前で広げてみせます。広げきったところに匕首(あいくち)を隠しておき、それを掴んで秦王を刺殺する計画なのです。
 秦の宮廷では、外国の使節はもとより、居並ぶ群臣といえども身に刀剣を帯びることは許されていないため、この方法しかなかったのです。

 「徐夫人の匕首」という短剣を百金で入手しました。この名短剣の名の由来については諸説あります。まず徐夫人というのは短剣の持ち主だった女性の名前だという説。また姓は徐、名は夫人という男の刀匠の名前だとする説。さらには夫人は“工人”の誤写だとする説…。
 いずれにしても歴史的大事件によって、二千数百年後の今日まで「徐夫人」の名は広く知られることになったのです。

 徐夫人は鋭利な匕首で、巻物の中にうまく巻き込めるサイズでした。
 太子は工人に命じて、その刃に毒薬を塗らせました。糸筋ほどの細い傷でも与えれば猛毒は全身に回り、死刑囚でテストしてみたところ死なない者は一人もいないほどなのでした。

 すべての準備は完了しました。しかし荊軻は出発しません。人を待っていたのです。
 人とは、かつて趙の国を放浪していた頃出会った辛朔という武芸者です。
 その時辛朔が披露してくれた武術は、左の手の平に小さな枡状の物を乗せ、胸の辺りに掲げ右手を目にも止まらぬ早さで動かすと、一枚一枚の手裏剣となって飛んで行き、離れた目標物に狙いたがわずビシッ、ピシッと突き刺さるという神技です。
 荊軻はまず徐夫人の匕首で一の矢を、万一それが失敗に終わった時の備えとして、辛朔のこの手裏剣によって秦王を確実に仕留めようと計画していたのです。
 かなり遠くの地にいる辛朔を人を遣わして探させ、その結果待ちだったのです。

 しかし気が急いている太子丹は、そんな事情に構わず秦舞陽という者を従者にしようと荊軻に申し出てきました。“勇者”という触れ込みですが荊軻は断っています。
 「そういう青二才が、えてして失敗の原因になるものです」
 何でも秦舞陽は、13歳の時に人を殺した経歴の持ち主だというのです。しかし荊軻が面通ししてみたところ、剛の者とは言われていても、やはり単なる青二才にしか見えません。どこか胆(きも)が座っていない感じなのです。

 そうしているうちに辛朔がやってきました。しかし目の前に現れた辛朔は驚くほどの変わりようでした。かつての俊敏な武芸者ぶりはどこへやら、その間の事情により精神面で打ちのめされ、廃人同様になっていたのです。手裏剣の技も今ではまったく使えないのでした。
 もう代わりの者を探す猶予はなく、仕方なく秦舞陽を共の者として連れて行くしかなくなったのです。

 荊軻はすぐに太子の宮殿に赴き、秦舞陽を連れて秦都へ出発する旨を告げました。
 時に秦王政10年(紀元前227年)。季節は何時だったのか仔細に分かりませんが、「易水寒し」とあるからには、初冬から早春の間だったのでしょうか。
 
 その日人々は白い装束を身にまとって、易水のほとりまで見送りにきました。古代中国にあって白装束とは喪服を意味します。これから死地に赴くのです。荊軻ももとより生還を期してはいません。

 易水のほとりは古来「別れの場所」なのでした。
 そこに土を盛り、菩(ふう)という薬草を突き立てそれを神体として祭壇を設け、供え物を捧げます。こうして旅人の無事を道祖神に祈るのがしきたりになっていたのです。

 続いて送別の宴に移りました。
 田光の知遇を得てからの大の親友である高漸離という筑(琴に似た楽器)の名手が、筑を撃ち、荊軻がそれに和して高らかに歌います。

   風蕭蕭兮易水寒
   壮士一去兮不復還
      (司馬遷『史記』原文)

 はじめは悲哀調を強調する「変徴(へんち)」という調べで歌い、後に高ぶった感情を表現するという「羽声(うせい)」に転じて歌いました。
 これを聴いた人々はみな目を怒らせ、頭髪はことごとく逆立って冠をさし上げんばかりだった、とは『史記』の叙述です。

 送別の宴が終わると、荊軻は車に乗りまっすぐに秦地に向かい、二度と振り返ることはしませんでした。

  風、蕭々として易水寒し
  壮士ひとたび去って復た還らず    

                      -  完  -

【追記】 本シリーズはタイトルどおり、「易水の別れ」をもってひとまず終ります。秦都へ行ってからの次第はどなたもご存知かと思いますが、また折りを見て続編としたいと思います。

 (大場光太郎・記)

主な参考・引用
『中国任侠伝』-「荊軻、一片の心」(陳舜臣著、文春文庫)

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風蕭々として易水寒し(3)

 宮殿に赴いた荊軻から田光の死を知らされた太子丹は、「そこまでしなくても…」と涙を流して絶句します。が思い直して、かねてからの秦王政(始皇帝)暗殺計画を荊軻に話しました。
 「荊卿こそは最後の頼みです」との太子の懇願を、荊軻は「私は駑馬(駄馬)のように無能な人間ですから」と一応断っています。しかしこれは謙譲の一つの型で儀礼的なものにすぎません。田光の首まで飛んでしまった今、とても断れる状況ではなくなっていますし、荊軻とてはじめから「そのつもり」で宮殿にやってきたわけです。

 結局荊軻は承諾しましたので、丹は上卿の官位と上舎(高級住宅)を与えました。その上太子は毎日のようにその舎を訪ね、ご馳走や財宝を差し入れ、乗用の車や美女を提供しました。死地に赴くべき人間だから、生きているうちは思い通りにさせようとの心づくしです。荊軻も別に遠慮はしませんでした。
 その間にも、秦軍は趙(ちょう)を蹂躙し趙王を虜にしました。易水を隔てて、燕は秦と対峙する局面になったのです。

 焦った太子丹は、「秦が易水を渡ってわが国に攻め入ってくれば、もうあなたのお世話もできなくなります」と、荊軻に決行を急ぐよう暗に催促します。
 荊軻とて、ご馳走や美女に骨抜きになっていたわけではありません。一つは遠方のある人物の訪問を待っていたのと、一大事を成功させるための計略を練っていたのです。
 荊軻にとって一番の気がかりは、燕の使節に任じられても、秦王が果して謁見してくれるかということです。いや最悪の両国関係からして、容易なことでは秦都・咸陽(かんよう)入りすら許されないかもしれません。その大関門を突破しないことには、始皇帝暗殺など夢のまた夢にすぎないわけです。

 それを巡って二人は話し込みました。
 「何か良い方策がありませんか」
 「はい、ございます。二つの物を献上すると言えば、必ず謁見が許されます」
 「して、その二つの物とは?」
 「樊於期(はんおき)将軍の首級と督亢(とくこう)の地図でございます」

 これを聞いた太子は「えっ、それは…」と狼狽します。督亢の地図は構わないとしても、樊将軍の首を差し出すことだけは駄目だと言うのです。
 樊於期というのは秦の将軍で、ある時秦王の怒りに触れて燕に亡命してきた人物です。太子はこれを自分の宮殿に匿(かくま)っていたのです。秦王政に対するせめてもの腹いせのつもりもあったのでしょう。

 実は群臣の間からさえ、燕にとって災いとなる樊将軍を匈奴(きょうど)の地に追放すべきだ、という強硬論が高まっていたのでした。
 しかし太子丹にしてみれば、樊将軍は窮鳥であり大切な客人であるわけです。そんな将軍の首を取るなどという大義に背くことは自分には出来ない、だから「荊卿よ、どうか再考願いたい」という次第なのです。

 「分かりました。別に方策があるかどうか、もう一度考えてみましょう」
とは言ったものの、秦王に謁見するには、この二つのどちらが欠けても適わない、これに再考の余地などないことを荊軻自身確信しているのでした。
 督亢というのは、河北省涿県(たくけん-後の三国志の英雄劉備玄徳の出身地)東南の肥沃な地です。この土地の地図を献ずるとは、督亢を譲る意思を表示するということです。「こちらは構わない」と太子は言うのです。

 問題は「樊於期の首」の方です。樊将軍はよほど秦王から憎まれているとみえて、彼の父母や一族は皆殺しにされ、その首には黄金千斤と一万戸の領地という大懸賞が懸けられていたのです。太子丹にしてみれば、それだからこそ余計意地でも樊将軍を保護する気になったわけなのです。

 荊軻は密かに樊将軍を訪ねます。
 「今後あなたはどうなさるおつりか?」
 「それが分からぬから日夜懊悩しているのでござる」
と、樊将軍は天を仰いで、ため息をつきながら涙ながらにそう言うのです。
 「ここに、燕の患いを除き、同時にあなたの仇を討つ策がござる」
荊軻がやおら切り出すと、「それをうかがおう」と樊将軍は身を乗り出します。
 「あなたの首級でござる。それを手土産にして行けば、秦王は必ず喜んで拙者を引見してくれるはず。すかさず拙者、左手で王の袖をとらえ、右手で王の胸を刺してくれよう。将軍のご存念は?」

 「おお !」と、樊将軍は吼えるような声を挙げます。
 「それよ、それ。まさにそれではないか。日夜切歯扼腕しておったが、今やっと何をすればよいか分かり申した」
 そう言うが早いか樊将軍は片肌を脱ぎ、剣を抜いて自らの首を刎ねたのでした。
 田光に続いて樊於期は、秦始皇帝暗殺にまつわる二人目の「隠れた壮士」「隠れた侠者」と言っていいようです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

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風蕭々として易水寒し(2)

 秦の人質となった燕の太子丹は、秦王政に冷遇された事によって憎悪をたぎらせていきます。丹は遂に秦を脱走し、故国に逃げ帰ったのです。
 以来丹の念頭にあるのは、秦王政に復讐したいという悲願だけでした。
 これは太子丹の私怨というべきものですが、強大化しつつある秦に対して何らかの手を打たなければ燕が遠からず滅ぼされるという、切実な国内事情もまたあったのです。

 しかし当時の秦は旭日昇天の勢いで、天下併呑も間近とみられるほどでした。逆に燕は次第に衰退しつつありました。両国の国力の差はいかんともし難く、尋常な事では太子の悲願は遂げられそうにありません。
 現実問題として、秦は斉(せい)楚(そ)三晋(さんしん)を伐ち、諸侯の領土を次々に蚕食しながら燕の領土にまで迫ろうとしているのです。

 この国難を前にして燕の国論の多くは和平論に傾きつつありました。そんな中恨み骨髄の太子丹は主戦派の最右翼です。「せめて一矢だけでも報いたい」との丹の想いは想いとして、強大な秦を相手に真っ向勝負を挑んだのではとても勝負にはなりません。
 とは言っても、斉、楚、三晋など諸国との“合従連衡”を探っていてはまどろっこしくて話になりません。

 「さてどうしたものか」
 そこで考え出したのは「奇策」。つまり「テロ」だったのです。起死回生の策としてこれしかないという結論に至ったのでした。
 
 太子丹のこの策を聞いた侍従長は、「奇策は並みの人間には荷が重過ぎます。我が国の文武百官を見渡しても適任者はございません」。そして侍従長は「田光先生なら…」と、田光(でんこう)という処士の名を挙げたのでした。
 そこで太子丹は田光を宮殿に招き、“却行”という賓客に後ろを見せずに後ずさる作法を終始取り続けるなど、異例ずくめの待遇でもてなし密命を頼みました。

 「秦始皇帝暗殺」は、その後の歴史の流れを大きく変えることにもなるわけです。深い知恵と沈着な勇気、胆力が要求される男子一代の大業です。若い頃は英才として名を馳せた田光も既に老境、今では精気消耗し、そのような大業を為すパワーは最早ありません。
 「わたくしめのような老いぼれでは、かような大国事を謀ることはできません。そこで代わりの者を推薦したいと存じます」
 田光はそう言って荊軻の名を挙げたのです。

 荊軻は衛(えい)の人です(生年不詳)。
 衛は周の武王の弟・康叔を始祖とする由緒正しい国でした。いわゆる“中原(ちゅうげん)の中の中原”に位置し、文化は発達し住民たちも自分たちの国に誇りを持っていました。
 しかしこの衛も戦国時代には弱小国に転落し、荊軻の時代(戦国末期、紀元前3世紀)には魏(ぎ)という国の属国となっていました。

 荊軻は読書と剣術を好み、若くして諸国を放浪し遊説術を学んでいました。諸国遍歴の末に生国衛に帰国した荊軻は官僚を志し、君主である元君に謁見し大いに国家論を説いたのでした。しかし元君はまったく聞く耳を持たず仕官の道は絶たれてしまいました。
 志が挫折した荊軻はそれ以降遊侠に身を投じることになったのです。

 ちょうどこの頃荊軻は燕に滞在していました。この国の市井に分け入って酒を飲み、時に悲憤慷慨し涙することもありました。それでも荊軻は、各地の賢人や豪傑・有徳者たちとの交流を忘れることはありませんでした。
 そして燕にある今は、当地の実力者である田光の下で賓客として遇されていたのです。

 そのような経緯から、田光は太子に「自分に代って国事を謀れる者」として荊軻を推挙したのでした。宮殿から帰った田光は憔悴しきったようすで、剣を杖の代わりにしながらよろよろと荊軻の部屋を訪れます。
 事の次第を語った田光は荊軻の眼を見つめながら、「そのようなわけで太子の宮殿に出向いては下さるまいか」と訊ねました。
 「言うまでもないことです」
すべてを了解した荊軻はそう即答します。その瞬間に「始皇帝暗殺」を引き受けたのです。

 「ところで」と、田光は口辺に微笑をたたえながら後ずさりしつつ言いました。
 「私が辞去する時、太子は門まで送ってくださった。そして、今までの話はすべて国事の大事、願わくば他言なさらぬように言われたのじゃ。この田光ともあろう者が秘密を口外せぬよう言われようとは、いやはや節侠の士の名がすたるわ」
 「荊卿(けいけい)よ、これから太子の宮殿に赴き、はっきり申し上げていただきたい。田光との間のことは、他に漏れる恐れは最早絶対にないと」

 田光はそう言いながら、太子丹の却行を真似るふりをして荊軻から離れ、戸に手が届く所まで来た時、突然杖にしていた剣を抜いたかと思うと、我の喉にあてがい自らの首をはねたのです。
 これぞ節侠の士の見事な最期と言うべきです。太子との秘密を完璧に守りつつ、やがて死地に赴く荊軻へ、己の命を投げ出して無言の励ましとしたのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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風蕭々として易水寒し(1)

   風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し
   壮士(そうし)一たび去って復(ま)た還(かえ)らず

 これは司馬遷『史記』の中の一詩です。史記は中国を代表する歴史書ですが、その傍流に属する「刺客列伝」中のこの詩句は、古来広く人口に膾炙されてきたものです。そしてこの詩句を含む「易水の別れ」の場面もまた、史記で最も有名な場面であるのです。

 この悲愴調の詩句を朗々と歌い上げたのは「荊軻」(けいか)という人物です。荊軻こそは中国史上代表的な「刺客」にして「侠者」であるといえます。侠者とは、我が国任侠映画のやくざとは少し意味が違います。「他人のために自分の身(命)を顧みない者」というのがその定義です。
 「世界を揺り動かすものは、儒者と侠者なり」
と、(古代中国きっての天才思想家と言われた)韓非はその著『韓非子』の中で述べています。もっともこの中の「儒者」とは、漢の時代以降“国家のお抱え儒学者”になる以前の儒者を指しています。

 荊軻という名前は知らずとも「秦の始皇帝の暗殺を企てた者」と言えば、すぐに了解される人も多いことでしょう。そうなのです。古代初めて中国統一を成し遂げた強大な権力者に対して、独り敢然と戦いを挑んだ人物こそ荊軻なのです。
 「成否を誰かあげつらふ 一死尽しし身の誠」 (土井晩翠『星落秋風五丈原』より)
 その事が後世の人々の心を揺さぶり、二千何百年後の今日でも荊軻はその名を青史に刻んでいるわけです。

 「易水」こそは今まさに秦に赴かんとして、ささやかな別れの宴が催された場所なのです。しかしここに至るまでの、大国秦を取り巻く各国政情や荊軻の人となりなどを簡単にみておかなければなりません。

 話は秦王政(始皇帝)の出生の頃まで遡ります。
 中国の戦国時代、二千年後の我が国戦国時代がそうだったように、弱小国は強大国に造反しないという保証として王子を人質に差し出していました。政(せい)の父親の秦の荘襄王(そうじょうおう)がまだ王子だった時、やはり趙(ちょう)の都・邯鄲(かんたん)で人質となっていました。
 この王子を「将来の見込みがある」と目をつけたのが、邯鄲一の豪商だった呂不葦(りょふい)です。何くれとなく王子の世話を買って出ます。商人らしく先行投資をしたのです。

 ある日荘襄王は、呂不葦の美しい愛妾を見て「ぜひ譲ってほしい」と所望します。一説では、呂不葦が女を献上したとも言われていますが、ほどなくこの女は子を産み「政」と名づけられ、後の秦の始皇帝となったわけです。
 これには裏話があり、この愛妾が荘襄王に譲られた時既に懐妊していたというのです。ですから始皇帝は呂不葦の子であって、秦の王統を受け継いでいない可能性が高いとされているのです。しかし荘襄王は、女への愛からなのか、いわくつきの政を実の子として遇します。

 こうして政は趙の国で生まれました。まだ趙の属国状態だった秦ですから、政もまた王子時代を邯鄲で人質として過ごすことを余儀なくされます。
 この頃「人質仲間」として、燕(えん)の国の丹(たん)という王子がいました。年も境遇も似ているので、この二人の王子は大の仲良しになりました。

 そのうち秦の荘襄王が亡くなり、政は13歳で秦王となります。
 その頃では秦は強国となり、戦国の掟として、燕に人質を要求します。燕では、秦王政と幼馴染ということで、太子の丹を送ります。ところが冷酷非情な側面があった秦王は、この竹馬の友を冷たく扱ったのです。
 このことが、後に燕が秦に敵愾心を抱き、遂には荊軻という稀代の刺客を秦都に送り込むことにつながっていくのです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『星落秋風五丈原』
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