風蕭々として易水寒し(3)
宮殿に赴いた荊軻から田光の死を知らされた太子丹は、「そこまでしなくても…」と涙を流して絶句します。が思い直して、かねてからの秦王政(始皇帝)暗殺計画を荊軻に話しました。
「荊卿こそは最後の頼みです」との太子の懇願を、荊軻は「私は駑馬(駄馬)のように無能な人間ですから」と一応断っています。しかしこれは謙譲の一つの型で儀礼的なものにすぎません。田光の首まで飛んでしまった今、とても断れる状況ではなくなっていますし、荊軻とてはじめから「そのつもり」で宮殿にやってきたわけです。
結局荊軻は承諾しましたので、丹は上卿の官位と上舎(高級住宅)を与えました。その上太子は毎日のようにその舎を訪ね、ご馳走や財宝を差し入れ、乗用の車や美女を提供しました。死地に赴くべき人間だから、生きているうちは思い通りにさせようとの心づくしです。荊軻も別に遠慮はしませんでした。
その間にも、秦軍は趙(ちょう)を蹂躙し趙王を虜にしました。易水を隔てて、燕は秦と対峙する局面になったのです。
焦った太子丹は、「秦が易水を渡ってわが国に攻め入ってくれば、もうあなたのお世話もできなくなります」と、荊軻に決行を急ぐよう暗に催促します。
荊軻とて、ご馳走や美女に骨抜きになっていたわけではありません。一つは遠方のある人物の訪問を待っていたのと、一大事を成功させるための計略を練っていたのです。
荊軻にとって一番の気がかりは、燕の使節に任じられても、秦王が果して謁見してくれるかということです。いや最悪の両国関係からして、容易なことでは秦都・咸陽(かんよう)入りすら許されないかもしれません。その大関門を突破しないことには、始皇帝暗殺など夢のまた夢にすぎないわけです。
それを巡って二人は話し込みました。
「何か良い方策がありませんか」
「はい、ございます。二つの物を献上すると言えば、必ず謁見が許されます」
「して、その二つの物とは?」
「樊於期(はんおき)将軍の首級と督亢(とくこう)の地図でございます」
これを聞いた太子は「えっ、それは…」と狼狽します。督亢の地図は構わないとしても、樊将軍の首を差し出すことだけは駄目だと言うのです。
樊於期というのは秦の将軍で、ある時秦王の怒りに触れて燕に亡命してきた人物です。太子はこれを自分の宮殿に匿(かくま)っていたのです。秦王政に対するせめてもの腹いせのつもりもあったのでしょう。
実は群臣の間からさえ、燕にとって災いとなる樊将軍を匈奴(きょうど)の地に追放すべきだ、という強硬論が高まっていたのでした。
しかし太子丹にしてみれば、樊将軍は窮鳥であり大切な客人であるわけです。そんな将軍の首を取るなどという大義に背くことは自分には出来ない、だから「荊卿よ、どうか再考願いたい」という次第なのです。
「分かりました。別に方策があるかどうか、もう一度考えてみましょう」
とは言ったものの、秦王に謁見するには、この二つのどちらが欠けても適わない、これに再考の余地などないことを荊軻自身確信しているのでした。
督亢というのは、河北省涿県(たくけん-後の三国志の英雄劉備玄徳の出身地)東南の肥沃な地です。この土地の地図を献ずるとは、督亢を譲る意思を表示するということです。「こちらは構わない」と太子は言うのです。
問題は「樊於期の首」の方です。樊将軍はよほど秦王から憎まれているとみえて、彼の父母や一族は皆殺しにされ、その首には黄金千斤と一万戸の領地という大懸賞が懸けられていたのです。太子丹にしてみれば、それだからこそ余計意地でも樊将軍を保護する気になったわけなのです。
荊軻は密かに樊将軍を訪ねます。
「今後あなたはどうなさるおつりか?」
「それが分からぬから日夜懊悩しているのでござる」
と、樊将軍は天を仰いで、ため息をつきながら涙ながらにそう言うのです。
「ここに、燕の患いを除き、同時にあなたの仇を討つ策がござる」
荊軻がやおら切り出すと、「それをうかがおう」と樊将軍は身を乗り出します。
「あなたの首級でござる。それを手土産にして行けば、秦王は必ず喜んで拙者を引見してくれるはず。すかさず拙者、左手で王の袖をとらえ、右手で王の胸を刺してくれよう。将軍のご存念は?」
「おお !」と、樊将軍は吼えるような声を挙げます。
「それよ、それ。まさにそれではないか。日夜切歯扼腕しておったが、今やっと何をすればよいか分かり申した」
そう言うが早いか樊将軍は片肌を脱ぎ、剣を抜いて自らの首を刎ねたのでした。
田光に続いて樊於期は、秦始皇帝暗殺にまつわる二人目の「隠れた壮士」「隠れた侠者」と言っていいようです。 (以下次回につづく)
(大場光太郎・記)
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