風蕭々として易水寒し(4)
こうして秦王政(始皇帝)暗殺計画にとって不可欠な二つの物-督亢の地図と樊於期の首級が用意されました。樊将軍が自らの意志で自刎したことを知り、太子丹も観念せざるを得なかったのです。
そこで太子は密かに武器を求めました。献上する督亢の地図は巻物になっています。それを秦王の前で広げてみせます。広げきったところに匕首(あいくち)を隠しておき、それを掴んで秦王を刺殺する計画なのです。
秦の宮廷では、外国の使節はもとより、居並ぶ群臣といえども身に刀剣を帯びることは許されていないため、この方法しかなかったのです。
「徐夫人の匕首」という短剣を百金で入手しました。この名短剣の名の由来については諸説あります。まず徐夫人というのは短剣の持ち主だった女性の名前だという説。また姓は徐、名は夫人という男の刀匠の名前だとする説。さらには夫人は“工人”の誤写だとする説…。
いずれにしても歴史的大事件によって、二千数百年後の今日まで「徐夫人」の名は広く知られることになったのです。
徐夫人は鋭利な匕首で、巻物の中にうまく巻き込めるサイズでした。
太子は工人に命じて、その刃に毒薬を塗らせました。糸筋ほどの細い傷でも与えれば猛毒は全身に回り、死刑囚でテストしてみたところ死なない者は一人もいないほどなのでした。
すべての準備は完了しました。しかし荊軻は出発しません。人を待っていたのです。
人とは、かつて趙の国を放浪していた頃出会った辛朔という武芸者です。
その時辛朔が披露してくれた武術は、左の手の平に小さな枡状の物を乗せ、胸の辺りに掲げ右手を目にも止まらぬ早さで動かすと、一枚一枚の手裏剣となって飛んで行き、離れた目標物に狙いたがわずビシッ、ピシッと突き刺さるという神技です。
荊軻はまず徐夫人の匕首で一の矢を、万一それが失敗に終わった時の備えとして、辛朔のこの手裏剣によって秦王を確実に仕留めようと計画していたのです。
かなり遠くの地にいる辛朔を人を遣わして探させ、その結果待ちだったのです。
しかし気が急いている太子丹は、そんな事情に構わず秦舞陽という者を従者にしようと荊軻に申し出てきました。“勇者”という触れ込みですが荊軻は断っています。
「そういう青二才が、えてして失敗の原因になるものです」
何でも秦舞陽は、13歳の時に人を殺した経歴の持ち主だというのです。しかし荊軻が面通ししてみたところ、剛の者とは言われていても、やはり単なる青二才にしか見えません。どこか胆(きも)が座っていない感じなのです。
そうしているうちに辛朔がやってきました。しかし目の前に現れた辛朔は驚くほどの変わりようでした。かつての俊敏な武芸者ぶりはどこへやら、その間の事情により精神面で打ちのめされ、廃人同様になっていたのです。手裏剣の技も今ではまったく使えないのでした。
もう代わりの者を探す猶予はなく、仕方なく秦舞陽を共の者として連れて行くしかなくなったのです。
荊軻はすぐに太子の宮殿に赴き、秦舞陽を連れて秦都へ出発する旨を告げました。
時に秦王政10年(紀元前227年)。季節は何時だったのか仔細に分かりませんが、「易水寒し」とあるからには、初冬から早春の間だったのでしょうか。
その日人々は白い装束を身にまとって、易水のほとりまで見送りにきました。古代中国にあって白装束とは喪服を意味します。これから死地に赴くのです。荊軻ももとより生還を期してはいません。
易水のほとりは古来「別れの場所」なのでした。
そこに土を盛り、菩(ふう)という薬草を突き立てそれを神体として祭壇を設け、供え物を捧げます。こうして旅人の無事を道祖神に祈るのがしきたりになっていたのです。
続いて送別の宴に移りました。
田光の知遇を得てからの大の親友である高漸離という筑(琴に似た楽器)の名手が、筑を撃ち、荊軻がそれに和して高らかに歌います。
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
(司馬遷『史記』原文)
はじめは悲哀調を強調する「変徴(へんち)」という調べで歌い、後に高ぶった感情を表現するという「羽声(うせい)」に転じて歌いました。
これを聴いた人々はみな目を怒らせ、頭髪はことごとく逆立って冠をさし上げんばかりだった、とは『史記』の叙述です。
送別の宴が終わると、荊軻は車に乗りまっすぐに秦地に向かい、二度と振り返ることはしませんでした。
風、蕭々として易水寒し
壮士ひとたび去って復た還らず
- 完 -
【追記】 本シリーズはタイトルどおり、「易水の別れ」をもってひとまず終ります。秦都へ行ってからの次第はどなたもご存知かと思いますが、また折りを見て続編としたいと思います。
(大場光太郎・記)
主な参考・引用
『中国任侠伝』-「荊軻、一片の心」(陳舜臣著、文春文庫)
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