「奇想の絵師」伊藤若冲
これは8日のグーグル「変わりロゴ」です。「伊藤若冲 生誕296周年」ということだそうです。
グーグルのこのユニークな変わりロゴ企画、たしか昨年7月の「メンデル生誕189周年」が初めてだったかと記憶していますが、それからずい分各分野の歴史的偉人たちの「生誕○○○周年」が取り上げられてきました。しかしほとんどは外国人で、日本人が取り上げられたのは確か野口英世に次いで伊藤若冲が二人目ではないでしょうか。
上のロゴは、何かの屏風絵のようです。これが伊藤若冲の代表作を図案化したものであることは容易に推察できます。
それにしては中央右の白い巨象、その両脇には獅子や駱駝や孔雀やその他の判別不能な怪っ体な動物たちが描かれています。上の木には桃なのか蜜柑なのか赤い実がなり、枝には猿がぶら下がったりして遊んでいます。背景の海には白黒のアザラシの姿も見えます。
これの元になったのは『樹花鳥獣図屏風』だそうです。白象といいアザラシといい、それまでの日本画には現れた試しのない画題です。
狩野派の『何とか屏風絵』など、言ってみれば正統な日本的美意識によって描かれたのとは明らかに異質な画法です。見るからにエキゾックな雰囲気があり、勝手に名づければ『南蛮流樹花鳥獣図屏風』とでも言える革新的な画法のように思われます。
伊藤若冲という絵師、ますます興味が湧いてきました。
伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)は江戸時代中期の人です。存命中から絵師として人気が高かったといいます。しかし明治以降はすっかり忘れ去られた存在でした。
本格的な若冲研究に着手したのは秋山光夫という人で、大正15年(昭和元年)のことでした。さらに時代がずっと下った昭和45年(1970年)、辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以降注目を浴びることになりました。
特に1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、飛躍的に知名度と人気を高めています。それに一役買ったのがNHKで、2001年『神の手をもつ若冲』として特集しています。
伊藤若冲は正徳6年2月8日(1716年3月1日)、京都のかなり裕福な青物問屋「枡屋」の長男として生まれました。若冲23歳の時父親が死去し、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。
若冲は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったといいます。大商家の跡取りでありながら商売熱心ではなく、若冲は家業を放棄し2年間丹波の山奥に隠棲し、その間山師が枡屋の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残っています。
資金はたっぷりあるはずなのに、酒も呑まなければ芸事も女遊びもせず、生涯妻を娶りませんでした。生まれついて神仙的イメージ世界に心を遊ばせるような超俗的な人だったようです。
若冲40歳の時家督を3歳下の弟に譲り、早々と隠居しています。宝暦8年(1758年)頃から『動植綵絵』を描きはじめています。翌年には鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を描くなど、持ち前の画才を一気に開花させていきます。
『動植綵絵』は若冲の代表作と言われるもので、全30帖あり、多種多様な動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品です。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる、幻想的な雰囲気が漂うと評されています。
これは若冲が相国寺に寄進したものですが、後に皇室御物となり現在では宮内庁が管理しています。(ご多分に漏れず他の若冲作品も海外に流出し、ボストン美術館などが所蔵している。)
伊藤若冲は江戸時代の天才画家の一人といってよさそうです。しかし一人の若冲が生まれるには、その土壌となった文化的背景も見逃すわけにはいきません。
一つは、後にセザンヌやゴッホなど名だたる西洋画家たちが模倣するほどの、我が国絵画芸術のレベルの高さです。もう一つは長い歴史と伝統で培われてきた京文化です。
その結果、江戸に北斎や歌麿や広重あれぱ、京都に若冲ありとなったのではないでしょうか。
(大場光太郎・記)
参考・引用
『ウィキペディア』-「伊藤若冲」の項
『樹花鳥獣図屏風』(静岡美術館所蔵)
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jakuchu/20060511/20060511101214.jpg
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