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風蕭々として易水寒し(1)

   風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し
   壮士(そうし)一たび去って復(ま)た還(かえ)らず

 これは司馬遷『史記』の中の一詩です。史記は中国を代表する歴史書ですが、その傍流に属する「刺客列伝」中のこの詩句は、古来広く人口に膾炙されてきたものです。そしてこの詩句を含む「易水の別れ」の場面もまた、史記で最も有名な場面であるのです。

 この悲愴調の詩句を朗々と歌い上げたのは「荊軻」(けいか)という人物です。荊軻こそは中国史上代表的な「刺客」にして「侠者」であるといえます。侠者とは、我が国任侠映画のやくざとは少し意味が違います。「他人のために自分の身(命)を顧みない者」というのがその定義です。
 「世界を揺り動かすものは、儒者と侠者なり」
と、(古代中国きっての天才思想家と言われた)韓非はその著『韓非子』の中で述べています。もっともこの中の「儒者」とは、漢の時代以降“国家のお抱え儒学者”になる以前の儒者を指しています。

 荊軻という名前は知らずとも「秦の始皇帝の暗殺を企てた者」と言えば、すぐに了解される人も多いことでしょう。そうなのです。古代初めて中国統一を成し遂げた強大な権力者に対して、独り敢然と戦いを挑んだ人物こそ荊軻なのです。
 「成否を誰かあげつらふ 一死尽しし身の誠」 (土井晩翠『星落秋風五丈原』より)
 その事が後世の人々の心を揺さぶり、二千何百年後の今日でも荊軻はその名を青史に刻んでいるわけです。

 「易水」こそは今まさに秦に赴かんとして、ささやかな別れの宴が催された場所なのです。しかしここに至るまでの、大国秦を取り巻く各国政情や荊軻の人となりなどを簡単にみておかなければなりません。

 話は秦王政(始皇帝)の出生の頃まで遡ります。
 中国の戦国時代、二千年後の我が国戦国時代がそうだったように、弱小国は強大国に造反しないという保証として王子を人質に差し出していました。政(せい)の父親の秦の荘襄王(そうじょうおう)がまだ王子だった時、やはり趙(ちょう)の都・邯鄲(かんたん)で人質となっていました。
 この王子を「将来の見込みがある」と目をつけたのが、邯鄲一の豪商だった呂不葦(りょふい)です。何くれとなく王子の世話を買って出ます。商人らしく先行投資をしたのです。

 ある日荘襄王は、呂不葦の美しい愛妾を見て「ぜひ譲ってほしい」と所望します。一説では、呂不葦が女を献上したとも言われていますが、ほどなくこの女は子を産み「政」と名づけられ、後の秦の始皇帝となったわけです。
 これには裏話があり、この愛妾が荘襄王に譲られた時既に懐妊していたというのです。ですから始皇帝は呂不葦の子であって、秦の王統を受け継いでいない可能性が高いとされているのです。しかし荘襄王は、女への愛からなのか、いわくつきの政を実の子として遇します。

 こうして政は趙の国で生まれました。まだ趙の属国状態だった秦ですから、政もまた王子時代を邯鄲で人質として過ごすことを余儀なくされます。
 この頃「人質仲間」として、燕(えん)の国の丹(たん)という王子がいました。年も境遇も似ているので、この二人の王子は大の仲良しになりました。

 そのうち秦の荘襄王が亡くなり、政は13歳で秦王となります。
 その頃では秦は強国となり、戦国の掟として、燕に人質を要求します。燕では、秦王政と幼馴染ということで、太子の丹を送ります。ところが冷酷非情な側面があった秦王は、この竹馬の友を冷たく扱ったのです。
 このことが、後に燕が秦に敵愾心を抱き、遂には荊軻という稀代の刺客を秦都に送り込むことにつながっていくのです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『星落秋風五丈原』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-efda.html

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