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仏映画界の鬼才トリュフォーのこと

 6日はまたグーグルの“変わりロゴ”でした。今回は同ロゴをコピーできないのが残念ですが、2カットあります。
 1カット目は、波がかかるかかからないかくらいの浜辺に、黒づくめの長髪の男が灰色がかった海の方を向いて立っている図柄です。その後ろ向きの姿は格好よく、映画のワンシーンのようでさまになっています。これで俄然興味が湧き同ロゴ内でカーソルを当てると、「フランソワ トリュフォー生誕80周年」との表示です。
 2カット目は一転、どこかの街のストリートを、3人の少年たちが左から右へと走り抜けようかという図柄です。

 「フランソワ トリュフォー?」、初めて目にする名前です。80といえば今も存命していてもおかしくはないはずですが、グーグルの記念ロゴになるということは既に世を去ってしまった「ある分野の世界的著名人」だったということなのでしょう。
 早速同ロゴを“ググって”みました。そうしたら『ウィキペディア』冒頭に、この人は「フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する一人」とありました。なるほどフランソワという名前からしてフランス人、映画監督、そしてヌーヴェルヴァーグ(「新しい波」の意)か。
 1932年に生まれて1984年死去とありますから、52歳という若さで世を去ったことになります。

 ハリウッド映画の毒気に当てられっ放しの身(?)には、芸術の薫り高いフランス映画を観たいとは思いつつも、かつて『巴里の空の下セーヌは流れる』『リラの門』『太陽がいっぱい』『シェルブールの雨傘』を観たくらいなもの。この機会にトリュフォーがどういう人物で、どういう作品を残しのか概略でも知りたくなって、ウィキペディアの同人の項をプリントアウトしました。

 フランソワ・トリュフォーは、1932年(わが国で言えば昭和7年)パリで生まれました。幼くして両親が離婚し孤独な少年時代を過ごしたようです。彼を引き取った母親によって何度も感化院に放り込まれるという、親との関係に問題の多い少年時代だったといいます。
 父親との縁が薄かったせいか、トリュフォーは長じてから結婚、離婚を繰り返し、安寧な家庭とは終生無縁でした。
 こういう幼少時の原体験が、彼の映画作品のベースに流れていると見るべきなのかもしれません。

 トリュフォーは14歳だった1946年早くも学業を放棄しています。今日の我が国で言えば“悪ガキ”そのものと言えそうですが、絵に描いたような転落人生から這い上がるだけのものが彼にはありました。それは「才能」です。いなその後の人生の軌跡を見ていくと才能などという生易しいものではなく、ずばり「天才」と言っていいようです。天才なら「学業なんてクソ食らえ」でいいわけです。
 トリュフォー少年はどこに自らの天才のはけ口を見出せばいいか、素早く嗅ぎ分けました。それは「映画」。学業放棄後映画館に入り浸ったのです。

 直後に映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長で批評家のアンドレ・バザンと出会い、バザンの死の1958年まで親子同然の生活を送ります。トリュフォーはバザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ」誌をメーンとして先鋭的で攻撃的な映画批評を書きまくります。
 特に「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調に、当時「フランス映画の墓堀り人」と揶揄されたほどでした。

 1956年には批評から転じて、自ら映画制作に関わることになります。同年ロベルト・ロッセリーニの助監督になったのです。25歳の翌57年、配給会社の社長令嬢と結婚し、また製作会社を設立しています。
 1959年自社と義父の関連子会社の共同制作による処女長編映画『大人は判ってくれない』を監督し、大ヒットとなります。これはトリュフォー自身のいわく言いがたい体験談を下敷きにしたもので、これによってトリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高めることになったのでした。

 1968年のカンヌ国際映画祭において、「コンテストの必要性の有無」を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーは同映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張りました。ただこの出来事をきっかけに、若い頃から実の兄弟のようにして映画を作り合ってきたジャン・リュック・ゴダールと決別し、ヌーヴェルヴァーグの面々とも疎遠となり、以後の映画の作風は古典的かつ正統的な落ち着きを見せ始めます。

 「因果は巡る」で大家となった今度は、トリュフォー自身が若い批評家たちの辛らつな批判を浴びる番です。恋愛しか題材にしないこと、トリュフォーは自分がその地位につくために以前の大家たちを批判し貶めたこと…。
 対してトリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも関心がないから自分には恋愛映画しか作れない」とまったく意に介することはなかったといいます。

 1984年死去すると、フランスのみならず世界各国の映画関係者が集う盛大な葬儀が執り行われました。しかし仲違いしたかつての盟友のゴダールは葬儀に参列せず、追悼文を出すこともしませんでした。
 しかしその4年後に出版された『トリュフォー書簡集』に、ゴダールは彼からの激しくゴダールを罵倒した手紙を提供し、その時書き下ろした序文を以下の文章で締めくくったそうです。
 「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」

 代表作は『大人は判ってくれない』の他に、『アメリカの夜』『終電車』『夜霧の恋人たち』『アデルの恋の物語』など。

 上に漏れましたが『華氏451』もトリュフォーの作品だそうです。『10月はたそがれの国』で述べたとおり、原作はアメリカの「SFの抒情詩人」レイ・ブラッドベリです。本の所持や読書が禁じられた架空社会における人間模様を描いた文明批評的作品ですが、私はだいぶ前この映画をテレビで観た記憶があります。
 トリュフォーは「SF嫌い」らしいですが、読書好きでもあり、本への愛からSF色を薄めて特に作った作品だったようです。1966年イギリス作品で、出演者もイギリス人、撮影地もイギリスで、英語が話せないトリュフォーは意思の疎通に苦労したそうです。
 そんな事とは露知らず。薄らボンヤリ観てしまい、ストーリーも何もほとんど残っていません。こんなことだったら、真剣に観ておくべきでした。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「フランソワ・トリュフォー」『華氏451」などの項
関連記事
『10月はたそがれの国』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-5454.html

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