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寒や母


                 秋元 不死男

  寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 秋元不死男(あきもと・ふじお) 本名 秋元不二雄
 明治34年横浜市生まれ。東 京三とも名乗った。横浜海上火災に入社、俳句を知り、「渋柿」「土上」「天香」に加わる。新興俳句運動の先頭に立ち、リアリズム俳句を唱えたが検挙され、獄に入る。戦後「天狼」創刊に参加。昭和24年「氷海」創刊主宰。俳句もの説を唱えた。蛇笏賞受賞。句集に『街』『瘤』『万座』『甘露集』、評論集に『現代俳句の出発』『俳句入門』などがある。昭和52年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》

 秋元不死男の句を取り上げるのは初めてです。しかし秋元が戦後著した『俳句入門』については、『鶏頭の句-名句?凡句?』『冬の水』などでその一部を参考にしました。同著は秋元自身の「入門とは言っても、安易に妥協したものは書きたくない」という表明どおり、高度な俳論であり、プロ俳人が読み返しても多くの示唆が得られるのではないかと思われる名著です。
 
  寒や母地のアセチレン風に欷き

 この句は、秋元不死男の少年時の体験を回想して詠んだ句です。秋元の代表句となっています。背景となった体験とはー。
 秋元不死男が幼少の頃、父親は横浜市で輸出業を手広く営んでいました。しかし後に事業に失敗し、大正14年姉、弟二人、妹を残して父は死去してしまいます。
 輸出業失敗の後秋元家は零落し、最後は洋品店を営みましたが、その商品の残りを荷車に積んで夜店を出したというのです。

 夜店行商に父親とともに、長男である不死男も行くことになったのです。不死男14歳の時のことです。今で言えば中学2年生に相当します。まあまあ裕福だった幼少期から急転直下の境遇ですから、不死男少年にしてみれば過酷な体験だったことでしょう。
 そのため忘れがたい強烈な記憶として刻まれ、後年それを回顧した名句として結実したわけです。

 言うまでもなくこの句の季語は「寒(さむ)」で、冬の季語です。
 零落した家の子供であってみれば、防寒着など十分に着込めず路地に立たなければならなかったのかもしれません。大正時代の横浜のとある街の一隅での夜店。浜の方から強く吹きつける夜風が、ことのほか冷たく感じられたのではないでしょうか。

 「寒や母」。その時不死男少年が全身で体感したものが、この発句で極めて簡潔に表現されています。詩的な表現に昇華されていますが、その時の実感では「寒いよぅ、お母さ~ん」「寒いよぅ、かあちゃ~ん」というようなことだったのでしょう。
 ちなみに母親という人は、実家が横浜で名字帯刀を許された名主の出だそうです。それに“明治女”の気骨も加わり、しつけには厳格な人だったのかもしれません。

 この発句には、『何でこんな寒い夜にオレをこんな処に立たせんだよ』という、父親へなのか、母親へなのか、世の中へなのか、誰に向けていいのか分からない漠たる“怨み節”が込められていそうな気配も感じられます。

 「地のアセチレン風に欷き」
 何とも見事な表現です。この描写こそが「寒や母」の具体的実景となるものです。
 照明としてなのかどうか仔細には分かりませんが、地面にアセチレンガスの容器(ボンベ)が置いてあるのです。(おそらく傘状の金属板で保護された)上部のノズルから迸るガスの炎が折からの風に煽られて、ヒュー、ヒュー音を立てていて、そのさまはまるで欷いているようだというのです。
 この場合の「欷き」は、「すすり泣き」というニュアンスです。それがその場の凄愴な感じをより一層際立たせているようです。

 容赦ない寒風にさらされながら不死男少年は、家が零落することの悲哀を骨身に沁みて痛感したのではないでしょうか。

 秋元不死男は略歴にあるとおり、後に俳句を志し、時に官憲に睨まれ監獄にも入れられ、戦後も骨太の俳句を作り続けました。そんな秋元にとって、この時の体験は、厳しくも尊い、その後のバックボーンとなる原体験だったといえるのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『鶏頭の句-名句?凡句?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-55d4.html
『冬の水』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-10cf.html

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コメント

 うーん、味のある一句ですね。生活感があるというよりも、人生の履歴の一コマを見るような句です。父の事業の失敗、没落する家運、夜店行商、アセチレンガスのなき声。
 大場先生の名解説を得て、はじめてこの難解な俳句の理解ができます。夜店の アセチレンガスも 子どもの頃の記憶におぼろげに残っているものです。若い人にはわかりにくいでしょうね。一度聞いたら忘れ難い句というのは、このような句のことをいうのでしょう。

 ところで、彼が、検挙されて、獄に入ったのはなぜでしょう?俳句の新興運動が当局を脅かしたとも思えません、共産党員だったのでしょうか。

 本文の「夜店行商に父親とともに、長男である不死男も行くことになったのです」は「母親とともに」ではないでしょうか。父親はすでに死んでいますから

投稿: 浮舟 | 2012年12月 5日 (水) 22時04分

 まさに秋元不死男の代表句といっていいでしょうね。この句、この冬、更新しなかった日にトップ面に再掲載しようかと考えていたところです。実際のところ、名詩、名短歌、名句、名曲記事にきちんとしたコメントの出来る人を待ち望んでいました。コメント「ニュースター」誕生、歓迎します。
 高浜虚子の唱えた「花鳥諷詠」、つまり自然諷詠はもちろん基本中の基本です。しかし秋元のこの句のように、実際体験に裏打ちされた句には、ほかに真似できない迫真のリアリティがありますね。
 いえ実は、戦前・戦時中「新興俳句」と「京大俳句」は弾圧されたのです。そのため秋元のほか、親友だった西東三鬼ら何人もの俳人が検挙・投獄されています。その自由な表現が官憲に睨まれたのです。彼らの歪んだ国家体制を批判し、脅かす存在とみなされたのでしょうね。
 私の説明が不十分だったかもしれませんが、秋元少年がこの句の状況を体験したのは大正4、5年の頃で、没落しながらも父が健在だった頃のことです。

投稿: 時遊人 | 2012年12月 6日 (木) 00時17分

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