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モーパッサン『脂肪の塊』

 先日『赤い鳥運動」について』を公開しました。その後にわかに「赤い鳥童話」が読みたくなりました。そこで、初めて読む有島武郎の『一房の葡萄』、小川未明の『赤いろうそくと人魚』、新美南吉の『ごん狐』の三篇を「青空文庫」からプリントアウトして読んでみました。
 三篇とも噂にたがわず、余韻がいつまでも残るさすが名童話です。

 もっと読みたいと思っていたら、新潮文庫から『赤い鳥傑作集』(壷田譲治編)というのが出ていることを知りました。何かのついでに本厚木駅すぐの有隣堂に行って聞いてみたところ、「もう絶版です」とのこと。このご時世、本でも何でも、中身は良くても「売れないもの」は、すぐに絶版となり製造中止になってしまうのです。

 そうなると余計読みたくなるのが人情です。幸い、同書店の近くに厚木市立中央図書館があります。『あそこにならあるだろう』という訳で、同図書館のカウンターに行って検索してもらいました。
 するとやっぱりありました。ただし借り手がなく、倉庫に眠っているとのこと。持ってきてもらう間、カウンター近くの岩波文庫陳列棚を眺めていました。久しぶりで何かコクのある西洋文学を読みたくなったのです。しかし、ただ今継続中の『ハックルベリ・フィンの冒険』のように6百何十ページもの長編では、読むのにえらい骨が折れます。

 『薄っぺらいので何か』と思っていたら、手ごろなのが見つかりました。モーパッサンの『脂肪の塊』。わずか90ページほどしかありません。それにこの本は高校の頃から知っていて、いつかそのうちに…と思いながら読まずにこの年まで来てしまったのでした。
 こうして『赤い鳥傑作集』と『脂肪の塊』を借り、両方同時に読み進めました。結果、『脂肪の塊』を先に読みきってしまいました。

 この短編小説の背景には、ブロシャ(プロイセン王国-ドイツ)とフランスが戦った「普仏戦争」(1870~1871年)があります。同戦争はブロシャの圧倒的勝利で終わり、フランスの主要都市は占領されてしまいます。
 ノルマンディー地方の一都市ルーアン市も同様です。この物語はまさに同市がプロシャ軍によって占領されるところから始まります。

 占領状態を嫌って、未占領の遠い港町ル・アーヴルに避難する計画を立てた者たちがいます。金持ち(ブルジョワ)連中です。ブロシャ軍司令官に働きかけ、出発の許可を得ます。
 4頭立ての大きな乗合馬車が用意され、馬車屋に10人の者たちが申し込みます。人目を避けるため、朝がまだ明けきらないうちに出発しました。

 10人の顔ぶれはー。時に汚い手も使って成り上がったぶどう酒卸商人のロワゾー夫妻。綿糸業界で押しも押されもせぬ勢力家で、県会議員を務めレジオン・ドヌール勲章受勲者でもあるカレ・ラドマン夫妻。ノルマンディーでも指折りの名貴族であるユベール・ド・プレビィル夫妻。顔一面あばた面の老婆と可愛らしくも病的な顔の若い女の2人の尼僧。よく人に顔の知られている民主主義者のコルニュデという男。
 そして最後に、この物語の主人公である娼婦エリザベット・ルーセ。

 この娼婦はまだそんなに年はいっていないはずなのに、でっぷり肥っているため評判が高く、ブール・ド・シュイフ(脂肪の塊)というあだ名で呼ばれているのでした。ただしこの娼婦、肥ってはいても木嶋佳苗のようなブ女ではなく、容姿的に魅力的な面をいっぱい持っていたのです。
 缶詰状態でしかも長旅が予想される馬車の中に、よりによって「淫売」「売女(ばいた)」(両方とも今では差別用語でしょうが、この訳では用いられている)が乗り込んできたのです。尼僧は無関心を装うとしても、特にブルジョワの3人の奥方には場が汚されたようでたまらないわけです。

 以後この物語は、雪中を走る車中でのようす、宿泊した宿で意外にも何日も足止めをくらい、旅行者たちが次第に焦燥といらだちを募らせていくようすなどを、脂肪の塊(娼婦)を中心として述べられていきます。
 そもそも足止めをくらわしたのは、この宿を拠点としているプロシャ軍の美男仕官なのでした。そしてそれは、脂肪の塊が“ある事”を拒否したことが原因なのです。この時の娼婦は、打ちひしがれた祖国を心底愛する、誇り高き淑女だったのです。

 雪に閉ざされた宿で何日続くか分からない足止めに、ブルジョワたちは次第にその表面上の上品な仮面を脱ぎ捨て、少しずつ本性を現していきます。脂肪の塊がいない留守に、彼女を「生贄の子羊」にする策謀を巡らすのです。謀議が白熱するにつれて、三婦人特に美貌のカレ・ラドマン夫人などはエロチックな妄想を膨らましていきます。
 この謀議に決定的な免罪符を与えたのは、尼僧のうちの老婆でした。

 シェークスピア(実際の作者はサンジェルマン伯爵)は、何かの作品で「綺麗は穢い。穢いは綺麗」と、意味深な警句を発しています。まさにこの状況にぴったりです。
 ブール・ド・シュイフは皆の窮状を救うため、自身を犠牲にする決断をします。この時ほど我が身の上が恨めしかったことはないはずです。しかしこの時淫売女は純真な聖女に変身したのです。
 ブルジョワ連中とその奥方たちは、その夜仕官の部屋から聞こえてくる音を聞き漏らすまいと聞き耳を立てます。尼僧たちは描かれていませんが、きっとロザリオを繰りながら空疎な祈りで誤魔化していたのでしょう。
 コルニュデは、終始この連中から離れ一人物思いに耽ります。

 こうして翌日足止めは解かれ出発の許可が出、一行は雪道を出発します。「恩人」である脂肪の塊が一番遅れて乗り込むとブルジョワ連中は…。
 コルニュデはニヤリと笑い、口笛でラ・マルセイエーズ(フランス国歌)を吹き始めます。そして彼は宵闇の、真っ暗闇の雪道を、馬車が到着地に着くまでずっとそれを吹き通したのです。

 「一方ブール・ド・シュイフは相変わらず泣いていた。そして時々、抑えようとしても抑えきれないすすり泣きが、歌のあいまあいまに、闇の中へ漏れるのであった。」(結びより)

 これだけでは不十分かしれませんが、ここに至る一連の物語に導かれてのこの結末です。私はブール・ド・シェイフに感情移入して、しばらくこの物語が頭から離れませんでした。

 「あとがき」によると、この作品を発表したのはモーパッサン30歳の時。まだ無名の青年でしたがこれが彼の出世作でもあり、代表作の一つになりました。
 厳格な師であったフローベール(代表作『ボヴァリー夫人』)は、この結末をたいそう喜んだといいます。「これは傑作だ。後世に残ることは俺が保証する。」と愛弟子に書き送り、フローベールはほどなく急逝してしまったのだそうです。

 なおこの作品の娼婦は実在の女だったといいます。実際「脂肪の塊」と呼ばれた女の身の上話を聞いて潤色し、類稀れな名作に仕立てたのです。女とは直接の面識はなかったものの、後年偶然にも、ルーアンの劇場で2人は不思議な巡り合いをしたそうです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『脂肪の塊』(モーパッサン作、水野亮訳、岩波文庫)
参考サイト『青空文庫』(ただし『脂肪の塊』はありません。)
http://www.aozora.gr.jp/

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