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「赤い鳥運動」について

 -今日に至るまで歌い継がれている名童謡の嚆矢となった「赤い鳥運動」-

 先日の『近代童謡の創始者・本居長世』の中で、本居の薫陶を受けた、弘田龍太郎(『浜千鳥』)、中山晋平(『雨降りお月さん』)、成田為三(『浜辺の歌』)、草川信(『夕焼け小焼け』)などの俊秀作曲家が、後に「赤い鳥運動」に参加していったことに触れました。(カッコ内はそれぞれの代表曲。)

 同運動の母体となったのが童話雑誌『赤い鳥』です。「赤い鳥」、どなたも一度は聞いたことがおありのことでしょう。
 しかしそれはいつ頃のことでどんな運動だったのか、近代日本文化の歩みの中でどんな役割を果したのかなど、あまりよく知られていません。
 
 今のこの閉塞状況を打破するためには、一人ひとりの「内なるルネッサンスの目覚め」が求められています。目覚めた人たちによる、静かながら大きな新潮流が巻き起こる必要があると思われるのです。
 「温故知新」。そのために、「大正ルネッサンス」的意味合いのあったこの運動は大いに参考になるかもしれません。そこで以下に簡単にご紹介していきたいと思います。

 「赤い鳥運動」が興ったのは大正7年(1918年)のことです。平成も24年を数え、「昭和は遠くなりにけり」のさらに前の年号の時代です。今から90年以上前のことですから、私たちのほとんどは生まれてもいません。
 1918年は世界的には、1914年に始まり主にヨーロッパ中を戦火に巻き込んだ、第一次世界大戦がようやく終結をみた年です。その頃では列強国の一角を占めることになった日本は、この年米国の要請によりシベリア出兵をしています。
 国内的には同年7月末、“越中女一揆”に端を発した「米騒動」が全国に拡大し、9月には寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれています。

 国内外ともに物情騒然としていたこの年の7月1日、鈴木三重吉(すずき・みえきち)によって『赤い鳥』が創刊されたのです。
 鈴木三重吉(1882年~1936年)は、東京帝国大学英文科在籍中夏目漱石門下の一人になり、当初は小説家を目指していました。長編小説『桑の実』などは世の評価を得たものの、三重吉自身は早々と小説を断念、児童文学作家への道を歩み出し、これが『赤い鳥』創刊につながっていくことになります。

 『赤い鳥』創刊にあたって鈴木三重吉は、「低級で愚かな」政府主導の唱歌や説話に対し、子供の純粋な情操を育むための童話・童謡を創作して世に広める一大運動を興すことを宣言しました。
 創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声ら、近代日本文学史に大きな足跡を残している作家たちが賛同の意を表明しました。
 芥川の『蜘蛛の糸』『杜子春』、有島の『一房の葡萄』は同誌に掲載された作品です。

 同誌にはその後、菊池寛、小山内薫、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風、久保田万太郎なども作品を寄稿しています。新美南吉の『ごん狐』や小川未明の『赤いろうそくと人魚』なども同誌から生まれた作品です。
 さらに意外なことに、太宰治の『走れメロス』や中島敦の『名人伝』も、昭和に入ってからの『赤い鳥』に発表された作品なのです。『赤い鳥』は、三重吉の死の1936年(昭和11年)まで196冊刊行されました。

 この間、坪田譲治、新美南吉ら童話作家、巽聖歌ら童謡作家、成田為三、草川信ら童謡作曲家、清水良雄らの童画家など、多士済々な人材がここから世に出て行きました。

 一流作家たちの寄稿、発表により、『赤い鳥』からレベルの高い児童文学の名作が次々に生まれていき、従前の児童読み物が、一気に芸術的に高められていく機運を作り出していったのです
 『赤い鳥』を母体としたこのような運動は、誌名からいつしか「赤い鳥運動」と呼ばれるようになっていきます。また同誌に刺激を受け、翌1919年に『金の船』、翌々年には『童話』といった類似の児童雑誌が創刊されていきました。

 『赤い鳥』にあって特に顕著な足跡を残したのが、北原白秋と西條八十という二人の詩人です。
 北原白秋は同誌に『雨』『からたちの花』など自作の童謡を発表するかたわら、寄せられた投稿作品の選者として重要な役割を果しました。

 創刊の年の11月号に西條八十の童謡詩として『かなりや』が掲載されました。これに成田為三の作曲した楽譜のついた童謡が初めて、翌年の5月号に掲載されました。
 元々「童謡」は文学的運動として始まったもので、当初は鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律をつけることは考えていなかったといいます。しかし『かなりや』の楽譜掲載は大反響を呼び、音楽運動としての様相さえみせるようになっていきます。
 当時の人々は、それまでの唱歌とは違う、芸術的香気の高い詩また音楽に、強い衝撃を受けたのです。

 以後毎号、歌としての童謡を掲載することになります。この後多くの童謡雑誌が出版されたことで、大人の作った子供のための芸術的な童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となっていったのです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「赤い鳥」「鈴木三重吉」の項
参考
『フォレスタのかなりやHD』(YouTube)
http://www.youtube.com/watch?v=aPOX4zBUqPI
関連記事
『近代童謡の創始者、本居長世』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-f269.html

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