« アリアドネの糸(2) | トップページ | フォレスタ動画情報 »

『ハックルぺリ・フィンの冒険』読みました

 -古き良きアメリカの開拓者精神物語に仕掛けた、M・トウェインの「陰謀」とは?-

 10日ほど前、『ハックルベリ・フィンの冒険』(以下『ハック・フィン』と略記。角川文庫)約650ページを読み通しました。姉妹作『トム・ソーヤーの冒険』を読了した今年の元旦から直ちにこちらを読み始めたわけですから、4カ月以上かかってしまいました。直後の読後感はただ一言「やれやれ、やっと読み終えたか」。

 この小説は「自由」を求めて1830年代、14歳の「宿なしハック」と黒人奴隷のジムが、『トム・ソーヤー』の舞台となったバイク郡の小さな谷あいの町から抜け出して、筏やカヌーを乗り継いでミシシッピ河を下っていく、その道中で遭遇したさまさまな人々、出来事、事件を描いた冒険物語です。
 物語の書き出しからお終いまで、ハック・フィンがその一大冒険譚を回想して話していく、という体裁を取っています。通常の香気溢れる世界文学は、格調高い文体で綴られていくものですが、『ハック・フィン』に限っては、当時の米南部各地のガラッパチな方言が自在に使われています。

 息も継がせぬストーリー展開とは、まさに『ハック・フィン』のような小説を言うのでしょう。現代の目まぐるしいテンポが売りの米国ハリウッド映画のアドベンチャー巨編は、遡ればこの小説をお手本に始まったのではないか?と思うほどです。次々に局面が変わり、ハックたちはハラハラドキドキの危ない場面に数多く出くわすのです。
 どこかの民放局のコピーをもじって言えば「面白くなければ小説じゃない」-これが小説の一つの定義であるとするなら、『ハック・フィン』はまさにそれを地でいく小説だと言ってよさそうです。

 事は単にミシシッピという大河を下っていくというのに過ぎないはずなのに、至るところに仕掛けられた地雷のような出来事、目まぐるしいストーリー展開。これぞマーク・トウェインという作家の本領発揮といっていいようです。
 この小説の中にこそ、トウェインが若い頃「水先案内人見習い」を経験した、汽船やミシシッピ河、流域一体の地形、周辺の町や村の事細かな情報が存分に生かされています。
 また忘れてならないのは、トウェインの聖書や古典文学などへの造詣の深さです。それが全編を通して、「学がない」はずのハックの口からさりげなく語られるのもこの小説の面白みの一つです。

 当時はご存知西部劇でおなじみのように大の「西部開拓時代」でした。金鉱脈などを求めて、我も我もと西部へ西部へ…。そこで生まれたのが後々まで米国人の大きな気質とされる「開拓者精神」(フロンティアスピリット)です。
 しかし『ハック・フィン』を読み進めていくと、西部への流れだけではなく、南部からより深南部への富を求めての活発な移動があったことがうかがわれます。

 宿なしハック少年や相棒の逃亡奴隷ジムでは行動的に限られてしまうところを、冒険譚に登場する大人たちの活動がそれを補完する役割をしています。
 最大の見せ場は、第19章から第31章までの、たまたま出会った老人と中年の二人の詐欺師との水上での共同生活、また彼らが陸に上がって巻き起こす大騒動の数々です。

 二人のうち老人はフランス革命の最中に行方不明になったルイ17世を騙り、中年詐欺師の方はイングランドから亡命してきた公爵家の末裔だというのです。そのため以後二人は、ハックたちに「王様」「公爵」と呼ばせ召使いのようにこき使います。
 圧巻はある町の資産家の主人が亡くなって、英国に渡っていて帰ってきた遺産相続人になりすまし、莫大な遺産を二人で丸ごと分捕ろうと算段するくだりです。二人の人非人な悪行三昧を、ハックの口を借りて次のように語らせています。
 「…これを見たら、誰だってオッ恥ずかくなるぜ。自分が人間っていう種族だってえことがな。」(第24章末尾)

 訳者の大久保博氏は「あとがき」の中で、この作品にまつわる2、3の重要な事を解題してくれています。一つだけ簡単に紹介してみます。それは『ハック・フィン』冒頭に掲げられた次の「警告文」についてです。

   警 告

 この物語に主題を見つけようとする者は、告訴されるであろう。教訓を見つけようとする者は、追放されるであろう。プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう。

                      発令者  著者
                        代筆者 G・G  兵器関係最高責任者

 「告訴」「追放」「銃殺」と物騒な言葉が連なっています。これは私もずっと気になっていたのです。しかし結局意味が分からず、M・トウェイン一流のジョークのたぐいかと思っていました。
 大久保氏によると、これには文字どおりの重大な内容が込められているというのです。

 この中の代筆者の「G・G」とは誰のことなのでしょうか。これは南北戦争(1861~65年)で有名な北軍総司令官のグラント将軍(1822~1885年)のことであるようです。同将軍は後の米合衆国第18代大統領(任期1868~77年)でもありました。トウェインとグラントは親交があり、だからこそ大統領経験者に自分の「警告」を代筆させているのです。

 大久保博氏によると、特に注目すべきは「プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう」という一文だそうです。この中の「プロット」とは通常なら「主題、教訓、筋書」などを意味します。しかしこの文のプロットとはそんな意味ではなく「陰謀」と解釈すべきだとしています(本文中にその使用例あり)。そう解釈すれば、「プロット = 陰謀→射殺」となり、相当の刑罰ということになるわけです。

 M・トウェイン自身が『ハック・フィン』の中で陰謀を企てており、革命思想を注入することが目的の書であるから「作者の陰謀を見つけようとする者は銃殺されるであろう」、読者は命がけでこの作品を読んで欲しい、とトウェインは暗に言っているというのです。
 ここで意味する革命思想とは、当時の何に対してなのでしょうか。大きく二つあり、教会と貴族制度の打破ということです。

 そうしてみると社会の最底辺に位置する浮浪児ハックや、(この作品の直前に開放されたばかりの)黒人奴隷ジムが中心の物語であることがうなずけるわけです。
 M・トウェインは「人間は誰しも奴隷的なものを有している」とも述べています。人間は少なからず「精神的奴隷」としての側面を残しているわけですから、「真の奴隷解放」もトウェインの陰謀の目的の一つだったことでしょう。

 言われてみれば文中にも、教会や貴族(上流階級)へのおちょくりや辛らつな描写、警句が散りばめられていました。キリスト教会の権威の失墜が誰の目にも明らかになったのは、約100年後の映画『卒業』(1968年公開)によってです。ラストで、教会での結婚式の最中の花嫁を、ダスティン・ホフマン演じる若者が強奪して一緒にスポーツカーで去っていく…。

 『マーク・トウェインのこと』で紹介した、
 「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」
という、A・ヘミングウェイの最大級の賛辞の意味はこの辺にあったのかな、と思われるのです。

 (大場光太郎・記)

『ハックルベリ・フィンの冒険』(角川文庫 マーク・トウェイン作、大久保博訳)
関連記事
『「トム・ソーヤーの冒険」を読んで』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-5a92.html
『マーク・トウェインのこと』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-bd5d.html

|

« アリアドネの糸(2) | トップページ | フォレスタ動画情報 »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« アリアドネの糸(2) | トップページ | フォレスタ動画情報 »