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2012年5月

またまた「きゃりーぱみゅぱみゅ」のこと

 -今世界的人気を博している、きゃりーぱみゅぱみゅの裏側に再度迫ってみる-

 昨年「きゃりーぱみゅぱみゅ」の『PON PON PON』動画が世界に配信され、日本はおろか欧米中心に世界中でバカ受けだったのでした。パステルカラー調をバックに、まあきゃりぱみゅちゃん(「きゃりーぱみゅぱみゅ」では舌を噛みそうなので、時にこう略称します)が意表をついた歌と踊りで大躍動。「これじゃあ、世界中で受けるはずだわ」と思っていたら。
 何とこの動画の「逆再生動画」が現われ、元の動画に隠されたサタニズム(悪魔崇拝主義)的意図が暴露されてしまいました。問題はこの(逆再生)動画で再生された内容です。きゃりーぱみゅぱみゅらしき声で、驚くべき言葉が次々に飛び出してくるのです。

 「死ね」「まじないするね」「もういない」「もーいないね」「もー出るね」「運命にしようよ」「世界も終るし」「死のうよ」「死ね」「まじないするね」「もーいないね」「もう何もないの」「もーいないね」「止めるぜ」「世界も終るし」

 これについては、以前の『きゃりぱみゅ「PonPonPon」は呪いの動画 !?』で紹介しました。
 ところでどうしてなのか原因は分かりませんが、1週間ほど前から同記事へのアクセスが急増中なのです。以来連日当ブログの「記事別ランキング」1位となっています。中には端的に「呪いの動画」という検索フレーズでのアクセスも多くみられます。呪いといえば定番の「丑の刻参りの五寸釘」動画もあるようですが、しかし黙示録的不気味さでは確かに「きゃりぱみゅ逆再生」は群を抜いています。

 同記事を簡単におさらいすれば。この「逆さ言葉」の元祖は、20世紀初頭の著名なサタニズム魔術師アレスター・クローリーです。クローリーの編み出した「バックワードマスキング」は、潜在意識に訴えかけるレッキとしたサブリミナル手法なのです。
 つい先日シンガポール政府から「悪魔性」を理由に入国拒否された、今日における世界的なサタニズム伝道師レディ・ガガなども用いています。

 そして、きゃりーぱみゅぱみゅのプロデューサーは中田ヤスタカなのでした。
 ここから中田ヤスタカは、日本におけるサタニズム伝道者であることは間違いなさそうです。日本にあって、「闇の勢力」イルミナティのお先棒を担がされている一人なのでしょう。中田はかつてパフュームを米国進出させましたが、あるいはその“コネ”によって可能だったのかもしれません。

 ここで問題となるのは、きゃりーぱみゅぱみゅ自身がどうかということです。多分彼女はあまりよく知らないのではないでしょうか。何も知らずに中田ヤスタカのプロデュースどおりのパフォーマンスをしているだけ、と思われるのです。
 しかし知らずとも、サタニズムのお先棒を担がされているという事実に変わりはないわけです。(それとも中田に洗脳されて、きゃりぱみゅ自身いっぱしのサタニストになってしまったのか?)

 当ブログでは紹介し損ねましたが、続いて『つけまつける』動画が配信されました。この動画では裏に隠すまでもなく、サタニズムが動画の前面に堂々と出てきています。
 2、3挙げればー。動画冒頭の赤い本の表紙には、フリーメーソン→イルミナティの幾何学模様が描かれ、中央にサタンのシンボルの「一つ目」があります。また動画途中では、両端にデ~ンとサタンのシンボルの一つ「ホルスの目」が高々と掲げられ、イヤと言うほど繰り返し出てきます。さらにきゃりぱみゅが座っている玉座の上に伸びている飾りは、サタンの「バフォメット(メンデスの山羊)の角」をあしらったものです。
 『つけまつける』とは「憑け魔付ける」の意か?中田ヤスタカがサタニズムの奥義に精通していることは明らかです。

 今回冒頭に掲げたのは、新曲の『CANDY CANDY』です。私はサタニズムシンボルの専門家ではないので断定はできませんが、この動画ではサタニズムはあまり見当たらないように思われます。
 「PONPONPON 逆再生」などがネットで大々的に取り上げられ、大騒ぎになったことから、きゃりぱみゅの「世界進出」計画上「こりゃヤバイぞ」となり、路線変更でもしたのでしょうか。ただきゃりぱみゅと一緒に踊っているほかの4人の女の子の顔に1~4までの番号が張られたりしているのは、やはり不気味です。

 この動画で面白いのは、“可愛い系”の自称「ファッション芸人」きゃりぱみゅが、のっけから食パンをくわえて住宅街を走るシーン、カラフルできらびやかなステージの舞台裏を一気にさらけ出していることなどです。
 これらは、やはりただ者ではない中田ヤスタカの「サタニスト的」才知を感じさせます。

 ところで記事作成のためいろいろ調べているうち、当ブログ記事へのアクセス急増の理由らしきものが分かりました。以下は、ある2ちゃくねるの5月23日付【速報】です。

モデルで歌手のきゃりーぱみゅぱみゅの1stアルバム『ぱみゅぱみゅレボリューション』が23日、発売され、米国のiTunes Store「Top Electronic Albums」部門で1位を獲得した(正午現在)。
これまで制作した「PON PON PON」「つけまつける」「CANDY CANDY」のミュージックビデオのYouTube総再生回数は5000万回を突破。
その多くが海外からの視聴だったが、今回の反応の速さからも米国での人気の高さが証明された。 (引用終わり)

 今や世界的人気のきゃりーぱみゅぱみゅですが、米国人のある動画へのコメントでは、きゃりぱみゅは「Japanese GAGA」なのだそうです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『PONPONPON逆再生』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=GyT4iHlJrHU
『つけまつける』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=NLy4cvRx7Vc
『【速報】きゃりーぱみゅぱみゅ、全米1位獲得』
http://logsoku.com/thread/hayabusa.2ch.net/livejupiter/1337771638/
関連記事
『きゃりぱみゅ「PONPONPON」は呪いの動画!?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-537c.html
『「きゃりーぱみゅぱみゅ」って何だ?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-448a.html

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エーゲ海の由来&イカロスの翼

エーゲ海という名の由来

 ディオニュソス神が領するナクソス島にアリアドネを残し、テセウス一行を乗せた船はひたすらアテネ目指して航海を続けました。

 ところでテセウスが人身御供としてアテネを発つ時、父王アイゲウスに、
 「もし無事で帰ってこられた時は白い帆を掲げましょう。黒い帆が発っていたなら私は死んだものと思ってください」
と言い残してクレタ島に向かったのでした。

 ナクソス島を出た時、船は黒い帆を張っていたのでした。途中で気がついて白に張り替えるべきでした。しかしテセウスも人の子、アリアドネをナクソス島に残してきたことが気がかりで心中穏やかではなく、父王との約束などすっかり忘れていたのです。
 それは船中の者たちとて同じこと。クレタ島から脱出させてくれ、船旅を共にしていた王女の非在を誰もが悲しんでおり、これまた帆を替えるのを忘れていたのでした。

 一方老いたるアイゲネス王は、息子の帰還を一日千秋の思いで待っていました。ある日岸壁に立って海上を見ていると、遠くにテセウスの船らしきものが確認されました。
 「さて帆の色は?」
 徐々に近づく船の帆を見るに黒ではないか。
 老王はよろめき、絶望のあまり断崖から身を投げ出して死んでしまったのです。以来ギリシャ本土からクレタ島までを包み込む内海を、アイゲネスを偲んで「エーゲ海」(「Aegean Sea」)と呼ぶようになったのです。

 なおテセウスは、アリアドネとの別れ、父王の不慮の死と相次ぐ不幸に見舞われながら、めげることなくすぐにアテネ王となり、後代の世界史に冠たる都市国家アテネの礎(いしずえ)を築いたのでした。

イカロスの翼

 話は転じて。
 テセウスがラビリントスから逃げ出したこと、その手引きをしたのが愛娘アリアドネであること、愛娘はどうもテセウスと“愛の逃避行”をしてしまったらしいこと…。事の一部始終を知ったミノス王の怒るまいことか。
 「誰か要らざる入れ知恵をした奴がいるに違いない」
 厳しい捜査を命じた結果、すぐにダイダロスであることが割れました。

 「妻の時といい、今度といい。あの老いぼれ大工め。もう許しておけん !」
 ミノス王の怒りはダイダロスに向けられました。
 「罰としてあやつを迷宮に閉じ込めよ。息子のイカロスも一緒にな !」
 王の命令は直ちに実行に移され、ダイダロス親子はラビリントスに幽閉されてしまいました。

 もちろん糸玉の持ち込みなど許されるわけもありません。迷宮の主のミノタウロスは退治されていなくなったとは言え、脱出はほぼ絶望的です。それでも生への執着心の強い若いイカロスは、ここから一刻も早く脱出したくてたまりません。
 「お父さん、どうする?何か抜け出すうまい方法はないの?」
 「まあ、そう焦るなって。きっと何か良い方法があるはずだ」
とは言ったものの、名工ダイダロスにもどうにもいい脱出法が思い浮かびません。

 しかしさすがは“古代発明王”です。必要に迫られて、またまた取って置きのアイディアが閃いたのです。
 「そうだ、空だ ! 地べたをたどって逃げられないのなら、空から鳥のように飛んで逃げればいいではないか !」
 2次元平面発想が3次元立体発想へと飛躍した瞬間です。

 ダイダロス親子が幽閉されたのは「塔」だったという説もありますが、「迷宮説」の方が広く流布されています。だとしたらラビリントスは地下迷宮ではなく、クノッソスの大地を深くくり抜いただけの仰げば空が見える式の迷宮だったことになります。

 ダイダロスは優れた科学者でもありました。かのレオナルド・ダビィンチが約3千年後に思い描いたことを、この時まさに思い立ち、かつ実現化を試みたのです。古代科学者は鳥の体をつぶさに観察し、それを模して二人分の翼を作りました。
 長い歳月の間に迷宮内に散らばり、堆積している鳥の翼をかき集め、人間用の大きな翼を作ったのです。

 「イカロス、お前はこれをつけろ。よいか、いい気になってあまり高く飛ぶでないぞ」
ダイダロスはそう注意を与えて、一方の翼を息子に与えました。
 こうして2台の「にわか飛行機」は迷宮から飛び立ち、空高く舞い上がりました。若いイカロスは父の忠告にも関わらず、天空に舞い上がって下界を見下ろしつい嬉しくなり、上へ上へと上昇し続けました。
 「ダメだ、イカロス。そんなに高く昇るんじゃない。危ないから降りるんだ !」
が、父の必死の叫び声もイカロスの耳には届きません。

 案の定あまりにも太陽に近づき過ぎて、接着剤として使用していた蝋(ろう)が溶け始めました。“有頂天”のイカロスはそれすら気がつきません。
 「ああっ」という甲高い叫び声が上がるとともに、イカロスの翼はふわふわ宙を漂い、イカロス自身は真っ逆さまに、ある島にほど近い海へと落下したのでした。
 イカロスが墜落死した海を、彼の名にちなんで「イカロス海」、そして近くの島を「イカロス島」と名づけられました。

 以上、長かった「エーゲ海、クレタ島物語」の終了です。  -  完  -

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「エーゲ海」「エーゲ文明」「ミノア文明」「ミーノース」「パーシパーエー」「アリアドネー」「イーカロス」などの項
『ギリシャ神話を知っていますか』(阿刀田高著、新潮文庫刊)

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フォレスタの「夏は来ぬ」

 -かつてはこんな良い歌、この歌のような美しい風景がこの国にはあったのだ-

     (「フォレスタ 夏は来ぬ」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=6joKC0XA6jI


 『夏は来ぬ』。風薫る初夏の諸々の風物を描いていて、すっきり爽快な気分にさせてくれる歌です。

 この歌は明治29年(1896年)発表の文部省唱歌です。「文部省唱歌」については、大正時代の「赤い鳥運動」の中心者・鈴木三重吉らによって、「陳腐だ」「低俗だ」「教訓的過ぎる」などと厳しい批判にさらされました。
 文部省唱歌の中にはそう批判されても仕方ない歌が多かったのも確かでしょう。しかし幾つもの唱歌が今でも歌われています。そういう唱歌は「時」という最も厳しいアンパイヤーの淘汰をくぐり抜けて今日まで残ってきたのです。

 中でも『夏は来ぬ』は、文部省唱歌中の名曲の一つと言ってよさそうです。この歌の一部には「蛍の光 窓の雪」式のやや教訓がかった歌詞がないでもありません。しかし作詞した佐佐木信綱の歌人としての力量が、そんな教訓的なものも叙情的な情景の中に見事に霞ませています。
 この歌は2007年(平成19年)、「日本の歌百選」の一曲に選曲されました。文部省唱歌という名が冠せられた名叙情歌です。

 『夏は来ぬ』は曲がまず出来て、後で歌詞がついた歌だそうです。作曲は「日本教育音楽の父」と言われた小山作之助(こやま・さくのすけ)、作詞は歌人で第1回文化勲章受賞者の佐佐木信綱(ささき・のぶつな)です。
 「この曲に、夏の到来にふさわしい5番までの歌詞を作っていただきたい」と小山から曲を渡された信綱は、「先曲後詞」の難しさに悪戦苦闘しながら作詞したと伝えられています。

 佐佐木信綱は、かつての中学の国語教科書に代表的な短歌が載っていたように「近代短歌の父」的な有名歌人です。当然古典文学にも精通していました。だから『夏は来ぬ』は文語体の格調高い歌詞となっています。
 タイトルの「夏は来ぬ」とは。「来(き)」はカ行変格活用助詞「来(く)」の連用形で、「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形で、全体では「夏は来た」という意味になります。

 1番から5番までの歌詞の内容をざっと簡単に見ていきたいと思います。
 「卯の花」「時鳥」「五月雨」「早乙女」「橘(の花)のかおる」「楝(の花)ちる」「水鶏」「五月闇」「早苗」。これらはすべて「夏の季語」で初夏を彩る風物です。これらの季語を歌全体に巧みに織り込んで一歌としたのは、見事な手腕と言うべきです。

 1番の「卯の花」と「時鳥」については、そもそも万葉集の昔から「夏は卯の花と時鳥とともに訪れる」という観念があったようです。直接的には、江戸時代の歌人、加納諸平(かのう・もろひら)の次の和歌の焼き直しと見られます。
   山里は卯の花垣のひまをあらみしのび音洩らす時鳥かな

 2番は、平安時代の『栄華物語』の中の次の歌をモチーフとして作られたようです。
   五月雨に裳裾濡らして植うる田を君が千歳のみまくさにせむ
 「五月雨」は本来は旧暦五月の雨つまり梅雨時の雨で、初夏の後の候になりますが、まあ固いこと言わないで、この歌では「(新暦)5月の雨」ということにしておきましょう。「早乙女」は早苗乙女が縮まったものと考えられ、「田植えをする女性」の美称です。

 3番は、先ほど見たように、中国故事の「蛍雪の功」を踏まえて作られたものです。
 4番は、拠典が何か不明です。あるいは信綱の独創だった可能性も考えられます。この中の「楝」は、センダン科の落葉高木で、5月、6月頃白または淡紫色の小花を円錐花序に開きます。「水鶏」は、クイナ科の鳥の総称で、沼や沢などの湿地に好んで生息する夏鳥です。

 5番は、1番から4番までの総集編といった趣きです。と言うより、つい思いあまって、それまでの代表的風物をこの中に詰め込んだ、半ばやけっぱちの感がしないでもありません。佐佐木信綱の悪戦苦闘ぶりが伝わってくるようです。

 この歌はハ長調で、C(4分の4拍子)の明るい感じのメロディです。しかし聴くほどに、ジーンとくる哀切な調べがこの歌の底流にあるように感じられてなりません。曲がそういう感じを抱かせるのか、それとも歌詞からそう感じるのか…。
 一つ思い当たるのは。この歌で歌われている田園風景は、昔なら全国どこでも見られました。しかし以前の『「朧月夜」-私たちが失ってしまった原風景』でも述べたことですが、それらの多くは失われ、今では「歌だけに存在している風景」となってしまった地域がずい分あります。
 この歌を聴いてジーンとくるのはそのせいなのかもしれません。

【追記】
 この名曲を、吉田静さん、白石佐和子さん、中安千晶さん、矢野聡子さんの4人の女声フォレスタが見事に歌い上げてくれています。
 1番、2番の前半部はそれぞれ、メゾソプラノの吉田さん、ソプラノの白石さんが独唱し、後半部を2人でコーラスしています。3番と4番も、ハイソプラノの中安さん、矢野さんが同様に歌い継いでいきます。そして5番を全員のコーラスで締めるという構成です。

 4人とも、それぞれ声の特徴を生かした個性的な良い独唱です。中でも1番(前半部)独唱の吉田さんの歌唱力はさすがです。伸びのある豊かな声量に魅せられながら、安心して聴いていられます。

【追記2】
 これまでの「フォレスタ記事」に、日々多くのフォレスタファンの方がアクセスしてくださっています。そこで今回から『フォレスタコーラス』カテゴリーを新たに設けることと致しました。今後ともご訪問いただき、時に各歌へのコメントや、取っておきの「フォレスタ情報」などをお寄せいただれば幸いです。

 (大場光太郎・記)

『夏は来ぬ』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=cF3RYoeWf-E
関連記事
『フォレスタコーラス』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat49069329/index.html
『「朧月夜」-私たちが失ってしまった原風景』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_925a.html

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「奇想天外の巨人」南方熊楠(5)

家の柿の木から粘菌新種発見、「南方植物研究所」設立

 1916年(大正5年)、田辺市内に弟(常楠)名義で住居を購入しました。翌1917年、この家の柿の木で粘菌新種を発見しています。これに、1921年(大正10年)、大英博物館所属の粘菌学者グリエルマ・リスターによって「ミナカテルラ・ロンギフィラ」(現在の標準和名は「ミナカタホコリ)と命名されました。

 1921年「南方植物研究所」を設立しました。発起人には「平民宰相」原敬ほか33人の知名人が名を連ねました(原首相は前年の11月4日暗殺される)。翌1922年には、設立資金募集のため上京しています。寄付を募るために書いた履歴書が、常人離れした密度の濃い人生を象徴するように7m70cmにも及ぶ巻紙だったのです。それに細字の5万五千字で書かれており、「世界最長の履歴書」と言われています。
 1926年(大正15年)、同研究所設立資金作りのため『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が刊行されました。これは熊楠59歳にして初の出版であり、これを読んだ人々はあらためて熊楠の博識に感嘆しました。

 なお熊楠の卓越した語学力について触れる機会がありませんでしたので、ここで述べておきます。熊楠は、英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語にまで至る19ヶ国語を操ったと言われています。
 そんな熊楠流の語学習得の極意は、「対訳本に目を通す。それから酒場に出向き、周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけだったといいます。たったこれだけで各国語を自在に操れたら、凡人とて何の苦労もいらないはずですが…。

紀南行幸時の昭和天皇への進講と型破りな献上法

 1929年(昭和4年)、紀南行幸の昭和天皇が田辺沖合いの神島(かしま)を訪問した際、62歳の熊楠は戦艦長門の艦上で粘菌や海中生物についての御前講義を行いました。進講終了時熊楠は粘菌標本を天皇に献上しました。
 何せ戦前の天皇は「現人神(あらひとがみ)」だったのです。だから献上物は桐の箱など最上級の容れ物に収めるのが常識でした。しかし「超常識の人」熊楠は、何とキャラメルの空き箱に入れて献上したのです。
 これには周りにいた者たち全員「アッ」と驚き、固まってしまいました。ともかくその場は何とか無事収まったのでした。

 この「キャラメル箱献上」には後日談があります。天皇の側近たちの回顧談では、「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので、覚悟はしていた」とのことです。
 何と言っても一番驚いたのは天皇ご自身だったようです。熊楠の他界直後、「あのキャラメル箱の衝撃は忘れられない」と語ったというのです。幾重もの格式やしきたりにがんじがらめの天皇(当時28歳)にしてみれば、落語の『目黒のさんま』のお殿様ではないけれど、それはかえって新鮮な驚きだったのではないでしょうか。

 戦後の1962年(昭和37年)、33年ぶりに和歌山を訪れた昭和天皇は、
  雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
と詠まれたそうです。

 1930年(昭和5年、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立しました。
 また神島の自然を保護するため、熊楠は島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物としての申請を提出しています。その結果熊楠68歳の1935年(昭和10年)12月、神島は国の天然記念物に指定されたのです。

最後の死力を尽くした『日本図譜』の完成、真珠湾攻撃直後の死

 1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発し戦局が拡大しつつあった中、熊楠は体調を崩し病床につくことになりました。それでも人生の集大成として『日本産菌類の彩色生態図譜』(『日本図譜』)の完成に向け尽力しました。
 生涯にわたって採集した標本と、連日弟子たちが持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る図譜とすべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘したのです。そして4500種、1万五千枚の彩色(カラー)図譜を完成させたのです。
 なお熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んでいます。

 1941年(昭和16年)、病状が悪化し死期を悟った熊楠は、家族への形見として『今昔物語集』に署名しています。この年12月8日の真珠湾攻撃の臨時ニュースに、米英に知人の多い熊楠は絶句します。
 そしてそれから間もなくの12月29日朝午前6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に波乱万丈の人生を終えたのです。

余談ながら

 死の直前の「天井に咲く紫の花」という言葉に関連することですが、南方熊楠は「幽体離脱」や「幻覚」などをたびたび体験したそうです。
 今でこそ幽体離脱(アストラルトリップ)などが大っぴらに語られます。しかし当時の我が国はしっかりした霊的情報に乏しく、このような霊的能力については異端視されがちでした。そこで熊楠自身も密かに気に病んでいたといいます。
 これ一つ取ってみても、南方熊楠は何から何まで桁外れのまさに「奇想天外の巨人」だったと言ってよさそうです。

 熊楠が幻視した「天井に咲く紫の花」とはどんな花だったのか、余人にはうかがい知れません。しかし古来「紫」は高貴な色とされていますし、日本霊学における最奥神界とされる「紫微(しび)天界」にも通じる色です。
 それからすれば熊楠の最期の言葉は、実は「天上に紫の花が咲いている」だったのかもしれません。
 南方熊楠として宿っていた「本体(ソウルまたはスピリット)」は、地上で為すべき事をすべてやり遂げ、死を迎えると同時に、頭頂部のサラスラーラチャクラ(クラウンチャクラ)からいとも簡単に抜け出し、「紫の花咲く」高い世界に直行したのではないでしょうか。  - 完 -

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペデイア』-「南方熊楠」の項
『文芸ジャンキー・パラダイス』-「南方熊楠の生涯」
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic32.html
 (こちらのサイトは、画像豊富で緻密に考証された文章です。本シリーズの多くは同サイトの文を基に記述しました。深く感謝申し上げます。)
 

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「奇想天外の巨人」南方熊楠(4)

14年ぶりの帰国、熊野での植物採集、田辺に永住の居を構えたことなど

 1900年(明治33年)10月15日、33歳の南方熊楠は神戸港に到着、14年ぶりの帰国となりました。出迎えた弟はボロ服を着ている兄の姿に仰天し、何の学位も取らずに書物と標本だけを持ち帰ったことを知り唖然とします。
 和歌山に帰郷後は那智勝浦で酒屋を営む弟宅に身を寄せ、「日本酒が呑みたくて仕方なかった」と、毎日浴びるように大酒しました。落ち着くと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類など)の目録を完成させるため付近を回って標本採集に精を出します。

 1901年(明治34年)、来日中の孫文がはるばる和歌山に来訪し、熊楠と再会し旧交を温めあいました。
 熊野での植物採集はこの年も続けられ、翌年採集中小畦四郎という青年と知り合い、熊楠の半生に仰天した小畦はすぐに門弟になりました。小畦は船会社に勤務しており、各国の寄港地で採集した標本を送ってくれました。
 熊野での採集は足かけ3年にも及び、植物や昆虫の菜食図鑑を作っています。

 1904年(明治37年)、37歳の熊楠は和歌山県田辺市に家を借り居を定めました。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごしました。
 翌1905年、整理した粘菌標本を(自身を追放した)大英博物館に寄贈し、これが英国の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知されました。
 またこの頃世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の『方丈記』をロンドン大学総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み完成させています。孫文との交流といい、身は紀州にありながらインターナショナルな熊楠だったのです。

 1906年(明治39年)、田辺の闘鶏神社宮司の田村宗造の四女松枝と結婚しました。(熊楠40歳、松枝28歳)。翌年7月には長男熊弥が生まれています。

国家の神社合祀令反対から始まった、日本最初のエコロジー運動

 1909年(明治42年)、42歳の熊楠は「神社合祀(ごうし)反対運動」を開始します。事の発端は、明治政府が国家神道の権威を高めるために各集落にある神社を一村一社にまとめ、日本書紀など官製歴史書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出したことです。
 この結果和歌山県では3700社あった神社が600社にまで減らされ、三重県では5572社が942社にまで激減しています。今も昔も構造は同じと言うべきで、裏には「利権」があったのです。統合された神社の森には樹齢千年の巨木もあり、これが高値で取引されたのです。

 南方熊楠は激怒します。神社合祀令によって多くの鎮守の森が失われ、熊楠自身の研究からしても、それらの森にはまだ未解明の苔類や粘菌類がどれほどあるか分からないのです。容赦ない伐採により、それらの絶命も危惧されたのです。
 「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は「生態学」という言葉を日本で初めて使い、生物は互に繋がっており、目に見えない部分で全ての生命が結ばれていると訴え、「生態系を守る」という立場から政府のやり方を糾弾したのです。

 もっとも当時は「生態系」や「生物連鎖」という概念すら誰一人もっていませんでした。ただ熊楠のみそれにはなはだ近似した概念をもって、自然保護の重要性を訴えたのです。このことから近年熊楠は、「日本最初のエコロジスト」としてその名が知られるようになったのでした。
 民俗学や宗教学にも造詣の深い熊楠は、鎮守の森の破壊はただ樹木の破壊にとどまらず「心の破壊」につながるとも訴えました。新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を筆鋒鋭く攻撃しています。

柳田國男との交流、米農務省からの入省要請、国会の「合祀令無益」採択など

 この反対運動を通して知り合うことになったのが、当時内閣法制局参事官だった柳田國男(やなぎた・くにお)です。まず柳田は熊楠の抗議書を印刷して識者に配り、活動を側面から支援し始めます。
 1911年(明治44年)には二人の間で文通が始まりました。そして1913年(大正2年)には柳田國男が田辺を訪ね、熊楠と面会しています。時に熊楠47歳、柳田39歳でした。熊楠は柳田に、ジョージ・ゴム編『the handbook of folklore』(『民俗学便覧』)を貸しています。これは、その後の日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることになりました。
 熊楠は柳田と文通し始めた頃から、自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関する論文も大量に書いています。

 熊楠45歳の1912年、熊楠の猛烈な反対運動が世論を動かし始め、和歌山出身議員が国会で合祀反対を訴えました。
 6年ほど前、アメリカ農務省から「省内に入って欲しい」という要望書が届いていましたが、合祀反対運動開始時で、熊楠は返事をしていませんでした。するとこの年わざわざアメリカ農務省の役人が田辺までやってきて、再度渡航要請をしたのです。この米国農務省の一件は、日本社会に南方熊楠の凄さ、いかに世界的な博物学者であるかを知らしめることとなりました。
 熊楠は海外では有名でも日本では無名に近く、近所の住民の間からさえ「変わり者の親父」と思われていたほどなのです。

 1920年(大正9年)、10年間の反対運動が身を結び、国会で「神社合祀無益」の採択がなされました。これ以降熊楠は、各地の貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになりました。
 特に2004年(平成16年)に世界遺産に登録された「熊野古道」は、もし熊楠がいなければ伐採され、今日見ることの出来なかったであろう巨木(樹齢800年の杉など)がたくさん保存されたのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)
 

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わすれなぐさ

        ヰルヘルム・アレント
        上田 敏 訳

  ながれのきしのひともとは、
  みそらのいろのみづあさぎ、
  なみ、ことごとく、くちづけし
  はた、ことごとく、わすれゆく。

       (『海潮音』明治38年10月刊所収)

…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 上田敏による訳詩集『海潮音』収録詩については、既に『山のあなた』(カール・ブッセ)『秋』(オイゲン・クロアサン)『落葉』(ヴェルレーヌ)の3篇を取り上げています。
 『海潮音』は高校時代愛読した「青春の詩集」であるだけに、愛着もひとしおです。

 我が国初の訳詩集となった『海潮音』の各詩を味わう場合、「新体詩を生み出さん」として四苦八苦していた当時の詩歌界の事情を考慮する必要があります。だから上田敏の西洋詩の訳業というのは単なる「訳詩」ではなく、身を削るような「新たな創作」に他ならなかったのです。

 『わすれなぐさ』はたった4行だけの詩です。すべて平仮名表記で、そのまま読めばだいたいの意味が分かってしまうくらい平明です。ただ、今の私たちには漢字混じりの方がより分かりやすいので、その表記で書き直してみます。

  流れの岸の一本は、
  御空の色の水浅葱、
  波、ことごとく、口づけし
  はた、ことごとく、忘れゆく。

 (大意)とある川の岸辺に一本(ひともと)の忘れな草が自生している。花の色はさながら晴れたきょうの空の水浅葱色のようだ。
 この花に口づけするように、流れの水が次々に寄せてくる。次の瞬間、この花のことなど忘れたかのように、あっと言う間に流れ去っていく。


                     ワスレナグサ(Foget-me-not)

 原詩者のヰルヘルム・アレント(ウィルヘルム・アレント)(1864年~没年不詳)はドイツの詩人です。ドイツには忘れな草(「勿忘草」とも)にまつわる、中世の有名な悲恋伝説があります。   

 - 昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、「Vergiss-mein-nicht !((僕を)忘れないで)」という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。 (『ウィキペディア』-「ワスレナグサ」の項より)

 花言葉の「真実の愛」「私を忘れないでください」は、この伝説に由来するとのことです。アレントの原詩も、この伝説を踏まえて作られたものだったことでしょう。

 川の岸辺の忘れな草。うち寄せては流れ下っていく川の水。
 「川」は川そのものの流れの他に、「人生」「時間の流れ」を意識させます。だからこの詩も、うたかたの「人の世」の出会いと別れが暗示されているのかもしれません。

 上田敏の訳詩はすべて平がな表記ですが、よくみると文語体の「七五調」の構成になっています。それがかえって、忘れな草に絶えずうち寄せてくる波のような、滑らかな心地良いリズムをこの詩全体に与えているようです。

 上田敏がドイツ語の原詩をこのような平明な訳詩に出来たのは、原詩をよく咀嚼し得たことに加えて我が国国文学への並々ならぬ素養があったゆえです。
 『わすれなぐさ』を読んだ誰もが、遥か遠い異国の岸辺に咲く花としてではなく、身近な川、あるいは故郷の思い出の岸辺に移し替えられた忘れな草として味わえるのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「ワスレナグサ」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%82%B5
参考
『青空文庫』-「海潮音」(全詩収録)http://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/51172_42028.html
関連記事
『山のあなた(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_fd60.html
『秋』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_fdf3.html
『落葉』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-2111.html
           

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「奇想天外の巨人」南方熊楠(3)

植物学会での研究発表の場を求めてイギリスへ渡る

 25歳の南方熊楠は1892年(明治25年)1月、中南米の旅を終えてフロリダに帰り、親切な中国人(江聖聡)と再び同居しました。米国滞在の6年間で植物などの標本データがかなりの充実を見せたため、その成果を発表しようと、9月植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意します。

 同年9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンに到着。しかし着いて間もなくの9月28日、優しかった父・弥右衛門がこの夏に病没していたことを知らせる弟の手紙に接し絶句します。やはり海外渡航が、親子の永の別れとなってしまったのです。

 翌年の1893年(明治26年)、ロンドンの下宿で標本整理を続ける一方、天文学会に応募した初の懸賞論文『極東の星座』がいきなり1位入選し、英国の権威ある科学雑誌『ネイチャー』にも掲載されました。これによって「ミナカタ」の名が一躍知られることになります。
 熊楠はその後も、ネイチャー誌で『ミツバチとジカバチに関する東洋の見解』『拇印考』など合計50余もの論文が紹介されました。これはその後も破られることのない、日本人最多の同誌掲載論文数となっています。

大英博物館の東洋調査部員に任ぜられる

 同年南方熊楠は、連日のように大英博物館に出入りするようになります。気にいった本は例によって片っ端から書写していきました。そして「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、考古学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続きました。
 この時の筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊にも及び、紙代を節約するため小さな文字でびっしりと埋め尽くされています。

 1895年(明治28年)、大英博物館図書部長デイキンズは熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同博物館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼します。こうして熊楠は大英博物館東洋調査部員として、展示品の仏像名を考証するなど、さまざまな形で東洋美術と関わっていきました。
 熊楠は同博物館内で、袈裟を着た僧侶姿で働くなど茶目っ気のあるところを見せています。

 1897年(明治30年)には、ロンドンに亡命中の(後に「近代中国建国の父」と讃えられた)孫文と知り合い、以後親交を深めていきました。(この時孫文32歳、熊楠31歳)。

 しかし順調なばかりではありません。ここでも熊楠はトラブルを繰り返すことになったのです。その根底には、当時の欧州全体にあったひどい「東洋人蔑視」がありました。日本人である熊楠もあからさまな蔑視にあいました。
 気性の激しいところのある熊楠は、そのような屈辱を受けると腕力で対抗したため、何度も騒動を起こしたのです。人類学に造詣が深く「人類皆平等」の理念を抱く熊楠は、馬鹿げた人種差別を許せなかったのです。
 勤務先の大英博物館内でも英国人を殴りつけるなどの暴力事件を起こし、1900年(明治33年)同博物館への出入り禁止処分を受けました。

英国留学の夏目漱石と入れ替わるように帰国の途に

 その後熊楠は翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いでいました。しかし次第に困窮が極まることとなり、8年間を過ごした英国を離れる決意をします。英国生活の主目的は、研究発表や大英博物館の蔵書読破、同博物館勤務であり、米国の時のように、ロンドンを離れて英国各地を旅行することはなかったようです。
 1900年9月1日午後4時、ロンドン市内を流れるテムズ川から船は出航していきました。この時の日記には「夜、しばらく甲板に出て歩く」と短く記したのみ。時に熊楠32歳でした。

 なお翌月10月、熊楠と入れ替わるように日本の国費留学生第一号として、東大時代の同級生だった夏目漱石がロンドンに到着しました。
 漱石はロンドン滞在中に、東洋と西洋の文化、文明の違いを目の当たりにして深く悩みます。熊楠ほどの豪胆さがなくインテリ気質の漱石は、そのためひどい神経衰弱に陥りました。後に明治の文豪となった漱石にとって、このロンドン“ノイローゼ”体験は、優れた文学を生み出す一つの土壌となった側面があるように思われます。
 熊楠と漱石にはほとんど交流はなく、二人ともあまり互いの消息を知ることはなかったようです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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「奇想天外の巨人」南方熊楠(2)

アメリカ各地を転々とし植物採集に没頭

 年が明けた1887年1月7日、南方熊楠は桑港(サンフフランシスコ)に到着しました。19歳の東洋の自由児が、「自由の国」に単身乗り込んできたのです。熊楠は当今のアメリカ事情を知るため、早速同市内にあったパシフィック・ビジネス・カレッジに入学しています。
 日常の英会話については、共立学校で、米国生活が長かった高橋是清から「生きた米語」を特訓されていただけに何とかなりました。それに後に触れることになると思いますが、熊楠は「語学の天才」でもあったのです。

 「頃合はよし」と同年8月にはミシガン州に移り住み、ミシガン州農業大学(同州ランシング市、現ミシガン州立大学)を受験し入学しました。 しかし天性の自由児の熊楠のこと、21歳になった翌年問題を起こします。学生5人で酒を飲み、泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され、放校処分を食らってしまうのです。

 これによって「どうもオレは学校生活向きじゃないな」と悟ったか、以後は独学を貫くことになります。同州アナーバー市に移り、山野に頻繁に出かけ、動植物の観察、採集などのフィールドワークに汗を流し、また読書に勤しみます。この過程で「粘菌」の魅力にとりつかれていくことになりました。
 この間、シカゴの地衣学者カルキンズに師事し、標本作製を学んでいます。


      1891年アメリカにて

 1891年(明治24年)春、24歳になった南方熊楠は、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫だ」と聞いて矢も盾もたまらず、顕微鏡など研究道具一式と護身用ピストルを携帯してフロリダへと向かい、同州ジャクソンヴィル市に移り、早速生物の調査に取り掛かります。
 この地で食品店を営む親切な中国人(江聖聡)と知り合い、そこの店の住み込み店員をしながら、ひと夏植物採集に没頭しました。その結果新発見した緑藻を英国の科学雑誌『ネイチャー』に発表し、ワンントン・DCの米国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入ります。

北米だけでは飽き足らず、キューバから中南米へ

 同年秋には、フロリダ州南端のキーウエストからキューバに採取旅行に出かけます。この地では石灰岩生地衣を発見し、「グァレクタ・クバーナ」と命名しています。
 熊楠は「キューバにはさすがに日本人はいないだろう」と思っていましたが、実はいたのです。首都ハバナでたまたま見たサーカス公演の団員の中に同胞を見つけてびっくりします。二人はすっかり息投合しました。

 それだけで済まないのが破天荒な行動家、南方熊楠です。何と彼はサーカスの一座に加わってしまったのです。
 熊楠は象使いの補助をしながら、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなど3カ月ほど中南米の巡業を共にしています。もちろんこの間も、各地での植物採集はしっかりしていました。いな実はそれこそが一座に加わった目的だったのです。  (以下次回につづく)

 (注記) 本シリーズには、読みやすいよう「見出し」をつけることにしました。(1)にも見出しを加えました。

 (大場光太郎・記)

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「奇想天外の巨人」南方熊楠(1)

 「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」  (柳田國男)

はじめに

 5月18日のグーグルトップ、「南方熊楠生誕145周年」ロゴでした。
 明治以降の近代日本において、各分野で「知の巨人」と讃えられた人物が多く現われました。一般的な知名度はないものの、南方熊楠(みなかた・くまぐす)はその中でもずば抜けた知の巨人、タイトルのように桁違いな「奇想天外の巨人」と形容してもいい人物です。

 私は20代後半の頃、ある人から「南方熊楠は凄いぞ」と初めて聞かされました。以来その名前はしっかり刻まれたものの、(熊楠と交流のあった)民俗学の柳田國男(やなぎた・くにお)ほどポピュラーな人物ではないだけに、これまで南方の人物像や業績に深く迫ったことはありませんでした。
 グーグル“変わりロゴ”の良さは、これによって日ごろさぼど関心のない優れた先人、偉人たちについて見直すきっかけを与えてくれることです。

 というわけで、今回は南方熊楠を取り上げてみたいと思います。ただ限られた記事内で、この型破り、破天荒かつ業績が多方面に及ぶ天才の全貌を明らかにすることはとてできません。ほんの“さわり”にすぎませんが、これを契機として私自身の「南方熊楠探求」のとっかかりになれば、と考えます。

 南方熊楠は今回のロゴ図案にあったように、キノコなどの粘菌の世界的研究者として知られていますが、南方の業績は単なる菌類学者にとどまるものではありません。ざっと列挙してみれば、博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者…。
 とにかく熊楠の場合、学問上の敷居などやすやすと飛び越えた驚くべき「学際人」だったのです。そんな熊楠についた呼称は「歩く百科辞典」です。

神童と呼ばれた幼少期。上京、大学予備門入学そして中退

 南方熊楠は明治維新前夜の1867年5月18日(慶応3年4月15日)、和歌山城下の金物・雑貨商の次男として生まれました。子どもの頃から驚異的な記憶力を持つ神童だったようです。またその頃から常軌を逸した読書家で、興味のあることには神がかり的な集中力を発揮したといいます。
 その一例として、小学生の時近所の蔵書家を訪ね、当時の百科辞典『和漢三才図絵』(全105冊)を見せてもらい、内容を記憶して、家に帰ってから書写し、5年がかりで全冊を図入りで写本してしまったというのです。
 その他12歳までに、『本草綱目』『諸国名所図絵』『大和本草』などを書写し終えています。

 和歌山中学(現和歌山県立桐蔭高校)時代、教師の鳥山啓(後に行進曲『軍艦』-『軍艦マーチ』を作詞)から博物学を勧められ、薫陶を受けています。
 1883年(明治16年)同中学校を卒業し上京、神田の共立学校(現開成高校)に入学しました。当時の同学校のようすは、NHKドラマスペシャル『坂の上の雲』で活写されていました。だから熊楠は、当時ここで英語の教師をしていた後の「ダルマ宰相」高橋是清の名物授業も受けたのです。
 この頃、世界的な植物学者バークレーが菌類6000点を集めたことを知り、それ以上の標本を採集し、図譜を作ることを思い立ちます。

 翌1884年(明治17年)大学予備門(現東京大学)に入学。何と夏目漱石、正岡子規、秋山真之らとは同期だったというのです。
 (おそらく漱石や子規以上の)天才児だった熊楠は、級友たちが血反吐を吐いて猛勉強しているのを尻目に「こんな事で、一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」とうそぶき、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れます。また上野の国立博物館、動物園、植物園に大感激し、大学そっちのけで通っています。
 結局それらがたたって成績は急降下、1886年(明治19年)中間試験に落第し「ちょうどいい機会だ」と予備門を中退し、和歌山へ帰郷し両親をびっくりさせました。

渡米を決意し、大反対の父親を説得

 実家に戻った熊楠は、「学問はアメリカの方が先を行っています」と父に渡米の意義を力説しました。しかし当時は海外渡航は永遠の別れも同然と思われていた時代です。「無茶を言うな」と大反対されます。
 それでも熊楠はあきらめず、8ヶ月にわたって熱弁を奮い説得し続け、遂に父親も根負けして「ならば行って来い !」と言うしかなくなりました。

 後に予備門の学友だった秋山真之は海軍士官として米国や英国などに、また夏目漱石は英国に官費留学していきました。しかし当時19歳だった南方熊楠は、国家の援助も、何の成算もなしの無手勝流で、1887年(明治20年)1月神戸港から単身出航していったのです。
 何とも恐れ入った行動力、旺盛な知的探究心、米国人顔負けの「明治の群像の一人」のフロンティア・スピリットではないでしょうか。  (以下次回につづく)

 (注記)本記事は1回だけでまとめようと思っていましたが、とてもまとめ切れません。そこで今後何回かのシリーズとします。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『「坂の上の雲・第2回」を観て』
 http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d002.html

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フォレスタの「かなりや」

 -「歌を忘れたかなりや」とは何か?ある事に思い至って涙がどっと溢れてきた-

     (「フォレスタ かなりや」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=Uf3fOYl-X6k

 この歌は大正7年10月童話雑誌『赤い鳥』に発表された作品です。作詞したのは詩人の西條八十(さいじょう・やそ)。この年の7月『赤い鳥』は鈴木三重吉によって創刊されたばかりでした。
 『かなりや』を作詞した時、西條八十は26歳の気鋭の詩人でした。西條がなぜ創刊間もない『赤い鳥』に童謡を発表することになったのか。その辺のいきさつを後に西條自身が述べています。

 「私は今更のようにあの(大正7年の)夏の日の午后、鈴木三重吉氏が突然未見の私を神田の裏街の仮寓に訪れられて、熱心な言葉を以って、『赤い鳥』のために童謡を書くことを慫慂(しょうよう)された時の印象をまざまざしく懐かしく想い起こす。」(大正10年1月刊童謡集『鸚鵡と時計』序より)

 「子どものために、子どもの言葉で、文学的な童謡を書く」という発想が、『赤い鳥』創刊者の鈴木三重吉自身にまずあったのです。その目的のために三重吉は、「新しい童謡の創作者」として、当時最も才能豊かな詩人だった北原白秋、西條八十の二人に白羽の矢を立て慫慂(協力要請)したのです。

 以上は『赤い鳥傑作集』(新潮文庫)巻末の、與田準一による『「赤い鳥」の童謡について』という一文に拠(よ)るものです。自身も童謡作家だった與田準一は続けて、
 「もっとも素質的な詩人、北原白秋と西條八十に、その制作を慫慂したことを、わたくしは、貴重な史的事件として、特記したい。」と述べています。

 鈴木三重吉の慫慂に同意して、『赤い鳥』三号に早速北原白秋の『雨』と西條八十の『忘れた薔薇』が載ることになりました。そして同誌五号に、記念碑的童謡『かなりや』が発表されたのです。

 以前の『「赤い鳥」運動について』でも触れましたが、当初は三重吉にも北原、西條にも、これらの童謡に旋律をつけるという考えはありませんでした。しかし翌年の五月号に成田為三が作曲した楽譜付きの『かなりや』を再掲載したところ大反響を呼び、同誌は音楽運動としての様相さえみせるようになっていったのです。

 ほどなく『雨』にも旋律が付けられ(大正8年10月、作曲:成田為三)、こちらも大変な反響を呼びました。思えば『かなりや』と『雨』の二つの童謡が、その後の童謡作家たちに与えた影響は測り知れないものがあります。
 極論すれば、仮にこの二大童謡無かりせば、今日私たちが親しんでいる数々の名童謡もまた生まれていなかったかもしれないのです。

 ここで、あるサイトで見つけた、『かなりや』が生まれるきっかけとなったエピソードをほぼそのままご紹介します。

 東京牛込生まれ(明治25年)の西條八十は幼い日、教会のクリスマスに連れて行かれた夜のことを思い出して『かなりや』の着想を得たというのです。
 会堂内に華やかに灯されていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももどり)がそろって楽しげに囀っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」と言います。(引用終わり)

 西條八十は、幼時から常人離れした連想力の持ち主だったことをうかがわせるエピソードです。幼時の思い出の「ポツンと消えた一個の電灯」が、「金糸雀(かなりや)」というメルヘンチックな小鳥に見事に姿を変えたのです。
 西條八十という才能豊かな詩人の「発想の秘密」を垣間見る思いです。

 『忘れた薔薇』『かなりや』という二つの童謡を創刊間もない『赤い鳥』に発表したことについて、西條は前掲書序でまた次のように述べています。

 「(二つの童謡は)偶然にも自分が真の詩の精神へ復帰する機縁を作ることになった。この意味に於(おい)て鈴木三重吉氏は私の恩人である。尠(すくな)くとも『歌を忘れた』この哀れなかなりやを優しい繊手に労(いたわ)って、象牙の舟と銀の櫂(かい)を添え、月夜の海に浮かべてくれた忘(ぼう)じ難き恩人である。」

 『赤い鳥傑作集』収録の『かなりや』は、一聯から四聯まではっきり分かれています。だから童謡『かなりや』も、短いながら一番から四番までの歌とみていいのでしょう。
 歌を歌うことが“本職”であるはずのかなりやが歌を忘れてしまったからには、もう役立たずな無用の長物にすぎません。だから一番から三番までは、世間一般が為すであろう仕打ちを詩的に誇張して表現しています。
 しかし優しい心の持ち主である詩人は、それぞれの後に「いえいえ、それはなりませぬ」「それはかわいそう」と付け加えることを忘れません。

 「それじゃあ、役立たずのかなりや、どうすればいいの?」
 「銀の櫂がついた象牙の舟に乗せて、月夜の海に浮かべよ」。そうすればきっと「忘れた歌を思い出す」と言うのです。
 この童謡の生命線は実にこの四番にあると思われます。これあるがゆえ、不朽の名童謡たり得てたのではないでしょうか。

 「歌を忘れたかなりや」とは一体何の象徴でしょうか。まずもって「真の詩精神」を忘れていた西條八十自身です。
 しかしそれは同時に、近年のヒット曲を借りて言えば「♪翼の折れたエンジェル みんな飛べないエンジェル」ではないけれど、これをお読みのお一人お一人そしてこれを書いている私、つまり人間全体を指すとみていいのではないでしょうか。

 「歌を忘れた」ように至らぬことの多いのが私たち人間です。なのにもったいなくも、象牙の舟に銀の櫂で月夜の海に浮かべて荘厳(しょうごん)してくださる、というのです。何と言う「救いの童謡」なのでしょうか。

【追記】
 肝心の「女声フォレスタ」について述べるスペースがなくなりました。小笠原優子さん、矢野聡子さん、中安千晶さん、白石佐和子さん。一言で言って素晴らしいハーモニーの『かなりや』です。特に美貌の小笠原さんの2番独唱がいいですね。
 彼女たちが今こうして歌ってくれたことによって、この歌、さらにこの先もずっと歌い継がれていくことを切に望みたいものです。

 (大場光太郎・記)

『フォレスタ-かなりや』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=aPOX4zBUqPI
参考・引用
『赤い鳥傑作集』(新潮文庫-現在は絶版)
サイト『心に響く聖書の言葉』-「歌を忘れたカナリア」
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/kokoro312.htm
関連記事
『「赤い鳥」運動について
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4908.html
『「雨」-哀愁ただよう童謡』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_d860.html
『「浜千鳥」-この歌の悲しさの源泉とは?』(『かなりや』の強い影響が感じられます。)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_e448.html

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アリアドネの糸(4)

 アテネ王子テセウスとクレタ王女アリアドネは、クレタ島を離れ船上の人となり、アテネに向かって北上していきました。何しろ怪物ミノタウロスを退治した上、ラビリントスという大迷宮を無事脱出できたのです。
 並みのハリウッド映画ならこれで「ハッピー、ハッピー」、市民の歓呼の声に迎えられて二人そろってアテネに凱旋してジ・エンドのはずです。

 しかし神話では、北上途中航路を少し東に寄せてナクソス島に立ち寄ったことが、アリアドネの運命を決定的に狂わせてしまうことになりました。そのまま真直ぐ北上し続けた方が近道だったはずですが、テセウスは「ナクソス島に立ち寄った方がいい」と考えたのでしょうか。

 ナクソス島は「ディオニュソス神」の住む島なのでした。ディオニュソスは別名を「バッカス」と言い、酒と収穫の神様として知られています。大神ゼウスの息子ですが、初めはオリンポス十二神の中に加えられず、その性格はさながら酒に酔った時のように凶暴で、衝動的で、理性よりも感情の赴くままに行動する神として描かれています。
 19世紀を代表する哲学者のニーチェは、人間に芸術的意欲を起こさせる原動力として、陶酔的、激情的、衝動的なディオニュソスタイプと、調和を重んじて理性的、知的なアポロンタイプに分類しました。これは神話的伝説を根拠としたものです。
 このようなディオニュソスの性格が遺憾なく発揮されたのが、以下の物語です。

 ディオニュソス自身が冒険的であり、多分に反逆児としての側面を有していましたから、逃走中のテセウス一行を快く宮殿に迎えました。何せ「酒の神」なのですから、早速豪勢な大酒宴が催されました。
 客人に勧めるとともに、ディオニュソス自身もグイグイ酒をあおります。宴が進むにつれて、酒癖と女癖の悪いディオニュソスの眼が隠靡に輝き始めます。その対象はもちろん美貌の王女アリアドネ。彼女の唇に、胸に、太ももに、なめるようにまとわりつくように好色な視線を注いだのです。
 「おかしいわ、この人」
 正確には「この神様」と言うべきか。いずれにせよ、アリアドネもいやらしいセクハラ目線に気がつきました。

 酒宴がお開きとなり、テセウスとアリアドネはようやく寝所で臥すことができました。旅の疲れと深酒で、さしもの勇者も早々と深い眠りに落ちました。アリアドネもうつらうつらまどろみかけました。
 酒の席でのディオニュソスの視線が何となく気にはなりましたが、このままぐっすり熟睡して目が覚めれば、あしたの朝早くにはこの島を離れアテネにぐっと近づけるのです。

 とその時、誰かがアリアドネの体をまさぐったのです。「えっ?」と思って傍らのテセウスを見ると熟睡中で身動き一つしていません。
 「じゃあ誰、誰なの?」
 アリアドネはハッとなって、途端に眼が覚めてしまいました。
 酒くさい息、脂ぎった体臭、そして荒々しい愛撫。あろうことか大事な客人カップルの寝所に入り込み、エロ大神のDNAをストレートに受け継いだディオニュソス神の陵辱が始まったのです。

 抵抗してもがいても衣装はみるみるうに剥ぎ取られ、アリアドネのもぎたてのようなみずみずしい体が露わになっていくばかりです。つまりは全裸にされ、野性的な神の体が覆いかぶさってきます。
 頼みのテセウスはどんな物音でも起きないほどの爆睡です。逃げようにもディオニュソスがしっかり手首を押さえているため、か弱い女の力ではどうすることもできません。
 アリアドネとは「とりわけ潔らかに聖い娘」を意味しますが、こうしてアリアドネは、夜が白むまで何度も犯され続けたのでした。

 さらに問題なのは出航時です。つれないことにテセウスは、アリアドネを乗船させることなく出航していったのです。
 これは夜が明けてから、ディオニュソスとテセウスとの間で「取り決め」があったことを意味しています。
 「実はなあ、お前が寝ている間に、お姫様をちょいと抱かせてもらっぞ」
 ディオニュソスは悪びれもせずこう言ってから、
 「まあまあ、そう怒るなって。ものは相談だが、あの女をここに置いていけ。そうすればこれからはお前の守護神になってやろうじゃないか」

 何せ相手は名にしおう凶暴神です。それに力強い神の加護を受けるのと、恨みを買うのとでは、その後の人生大違いです。つまりはテセウスはその話を承諾したのです。
 アリアドネがテセウスを愛していたほど、テセウスはアリアドネを愛していなかったのか。それとも色恋よりも功利面を取る現実家だったのか。ミノタウロスを打ち負かした勇者も、なぜかディオニュソスの前では弱気だったのです。

 ラビリントス脱出には絶大な効力のあった糸玉でしたが、予期せぬ運命に翻弄され、アリアドネとテセウスを繋ぐ見えざる「運命の糸」は突如プツリと断ち切られてしまいました。遠ざかっていく船の影を、アリアドネはどんな想いで見ていたのでしょうか。
 アリアドネの記録はここで途絶えています。その後ディオニュソスの寵愛を受け続けたのならまだ救いもあります。が、むしろこの島で、自分を置いて去っていった恋人のことを想いながら薄幸な命を閉じた可能性の方が高そうです。

 悲運の王女の物語は後世の芸術家に霊感を与えたらしく、「悲しみのアリアドネ」を題材とした近代西洋絵画、彫刻、オペラ音楽などが創作されています。  (クレタ島物語のうち「アリアドネの糸」完)

【注記】クレタ島脱出後のアリアドネについては諸説ありますが、ここでは阿刀田高著『ギリシャ神話を知っていますか』(新潮文庫)を下敷きにまとめました。

 (大場光太郎・記)

参考
Do As Infinity『アリアドネの糸』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=GKkC3OhnakY
関連記事
ギリシャ神話選
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat41440534/index.html

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「自動操縦装置」で生きるなかれ

 久しぶりの「スピリチュアル情報」です。この一文はまずもって、私自身への自戒を込めて記しています。

 「自動操縦装置で生きるな」。このメッセージは、アセンデットマスターのエル・モリヤ大師によって「シャスタ山の住まい」からもたらされたものです。正確な時期は不明ですが、今から10年前後前とみていいのではないでしょうか。
 エル・モリヤ大師とは「スピリチュアル・ハイラーキー(霊的聖師団)」の主要マスターの一人で、「聖なる意志と力」の第一光線のマスターです。

 産業革命によって唯物主義への拍車がかかりかけた19世紀後半、それに待ったをかけるように欧米でさまざまな心霊運動が興りました。その中心となったのが、ブラバッキー夫人(1831年~1891年)による「神智学」でした。これは今日のニューエイジムーブメントの源流といっていいものです。
 当時「ヒマラヤの住まい」にあって、(第二光線のマスター)クートフーミ大師とともにテレパシーによって、ロシア貴族出身のブラバッキー夫人に啓示を与えたのがエル・モリヤ大師だと言われているのです。

 両大師は東洋的な容貌ですが、20世紀末の1998年、従前の東洋の精神性と西洋の物質性の役割の逆転が起こったと言われています。そういうこともあってか、エル・モリヤ大師は現在では(米国西部の聖山)シャスタ山に居を構えているようなのです。(ただし日本の「霊的中府」としての役割は変わりません。)
 もっともエル・モリヤ大師をはじめとした光のマスターには、3次元的な物質的制約は何の意味も持ちません。既に本住は「光の領域」にあるわけですから、地球上のどこへも瞬時に物質的な体を現すことが可能なのです。

 今回のメッセージは(シャスタ山下の地中都市)テロスの神官アダマのメッセージを引き継ぐ形で、『レムリアの真実』の著者オルレア・ルイーズ・ジョーンズ女史に与えられたものです。この本のほかにも『超シャンバラ』にもほぼ同じ内容が掲載されています。
 本当はメッセージ全文を掲げたいところですが、著作権法の関係でそれはできません。それに、ある一定レベル以上のスピリチュアル知識がないと理解できない内容です。
 そこで今回は、このメッセージの大テーマである「自動操縦装置」に絞って以下で考えてみます。

 「自動操縦装置」状態。これはスピリチュアル(霊的)にまったく無知な状態で生きることを意味しています。言わば「霊的眠り」に陥った、我が国の言葉で言えば「酔生夢死」、さらに言えば禅家の言う「顚動夢想」の状態です。
 自分が「本当は」何者なのか、何の目的でこの世に生きているのか、どこに向かっているのか、皆目分かっていない状態です。また特にそれを「知りたい」とも思っていません。
 こういう状態では意識や思考はしっかりした方向性を持たず、マインドとハートは四方に撒き散らされ、定めなくただ何となくその日その日の日常を過ごしている「霊的その日暮らし」状態です。

 エル・モリヤ大師(それにテロスのアダマ)は、「時が迫っているからこういう生き方ではいけませんよ」と言うのです。そして厳しいことに、私たち人類の多くがいまだこういう自動操縦装置状態で生きているということです。
 そのためこのメッセージは、私たちへの「ウェークアップコール」の役割を込めたもののようです。

 「我々は日常生活に埋没することの恐ろしさを知らなければならない」

 スピリチュアルハイラーキーと関係のある人なのかどうか、これはかなり前の我が国のある霊的リーダーの言葉です。自動操縦装置の例えで言わんとしていることは、つまりはそういうことなのだろうと思われます。
 私たちは知らず知らずのうちに、日常生活にどっぷりはまり込んでいて、物質性にがんじがらめにされていながら「これが当たり前」とマンネリ状態で生きています。言わば「肉体の自分」から一歩も出ない、無意識的、惰性的なロボット状態の生と言えると思います。

 このメッセージでは「時が迫っている」と繰り返し強調されています。だから「あなた方にはもはや油を売っている時間はありません」。
 マヤ暦の終わりの日とされる「2012年12月22日」が大きな節目なのかは分かりません。がこれは、スピリチュアル・ハイラーキーが「ガイアアセンション」(地球全体の次元上昇)というタイムスケジュールを見据えているからに他ならないと思います。

 自動操縦装置の生き方から抜け出るための第一の関門は、「自分のエゴを喜んで神に投げ出すこと」だそうです。裏を返せば小っぽくさい「エゴ」を後生大事に抱えている限り自動操縦装置からは抜け出せない、したがって真の霊的進化の道には一歩も進めないということです。

 エル・モリヤ大師が示してくれた、エゴから脱却した「霊的眠りからの目覚め」とは次のような状態です。
 ○私たちという存在のあらゆる面において、「愛の概念」によって生活すること
 ○神に対する(既成宗教的な)先入観や恐れをすべて消し去ること
 ○生活のあらゆる面で霊的な法則を適用し始めること
 ○受け入れ拒否をしている「霊的真実」を快く受け入れること
 ○考え、発言、行動のすべてを「愛をもって」出来るようになること

 ここで言う「愛」とは、自己愛(先ずもって自己を真実愛せなければ他人を愛することは出来ない。エゴとはまったく違う)であり、神への愛であり、隣人愛であり、地球への愛であり、動植物など地球上のすべての王国への愛ということです。
 こういう完全な愛をもって行動できるようになると、今すぐにも「自分自身が神」になるそうです。そしてアセンションのプロセスにおいて、「愛」こそが唯一の近道で、最大のキーだといいます。

 非常に難しいですね。しかし時に愛にもとる行為があったとしても、反省しつつうまずたゆまず、この光の道に向かって歩んでいきたいものです。この地球こそが壮大な「クオレ(愛の学校)」なのですから。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『レムリアの真実』(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著、片岡佳子訳、太陽出版刊)
『超シャンバラ』(ダイアン・ロビンス著、ケイ・ミズモリ訳、徳間書店刊)
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『アセンション情報』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat42266063/index.html

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みづいろの風

   みづいろの風

             大手 拓次

 かぜよ、 
 松林をぬけてくる 五月の風よ、 
 うすみどりの風よ、 
 そよかぜよ、そよかぜよ、ねむりの風よ、 
 わたしの髪を なよなよとする風よ、 
 わたしの手を わたしの足を 
 そして夢におぼれるわたしの心を 
 みづいろの ひかりのなかに 覚まさせる風よ、 
 かなしみとさびしさを 
 ひとつひとつに消してゆく風よ、 
 やはらかい うまれたばかりの銀色の風よ、 
 かぜよ、かぜよ、 
 かろくうづまく さやさやとした海辺の風よ、 
 風はおまへの手のやうに しろく つめたく 
 薔薇の花びらのかげのやうに ふくよかに 
 ゆれてゐる ゆれてゐる、 
 わたしの あはいまどろみのうへに。

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 大手拓次(おおて・たくじ) 1887年(明治20年)群馬県碓氷郡上磯部村(現安中市)生まれの詩人。1907年早稲田大学文学部英文科に入学、この頃より詩作を始める。1912年同大学卒業。その後しばらくは詩作のほかこれといった仕事をせず、貧窮に甘んじる。1916年ライオン歯磨本舗に就職し、以後サラリーマンと詩人の二重生活を続けた。さまざまな病気で通院、入院を繰り返し、1933年(昭和8年)結核で亡くなった。享年46歳。
 詩集『藍色の蟇』、詩画集『蛇の花嫁』、訳詩集『異国の香』。1943年遺稿集『日記と手紙』が刊行され、戦後角川書店、岩波書店など多くの出版社から『大手拓次詩集』が刊行された。 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

《私の鑑賞ノート》
 風薫る五月、吹く風は一年中で一番爽やかで心地よい風です。私が知る限りでは、そんな「五月の風」の代表的な詩がこの詩だと思います。五月の風が、大手拓次という詩人によって見事に詩化され、この詩全体に吹きわたっているような印象です。

 この「みづいろの風」は海辺をわたる風です。さて詩人は海辺でどんな態勢でこの風を受け止めているのか。一箇所に佇んでいるのか、歩いているのか、座っているのか、仔細には分かりません。
 ただ「ねむりの風よ」「夢におぼれるわたしの心を…覚まさせる風よ」「わたしの あはいまどろみ」などの詩句から、海辺のどこかに座って心地よい風を受けているのではないかと思われます。

 この詩は処女詩集『藍色の蟇』に収録されています。同詩集は1912年刊ですから、大学卒業前後定職についていなかった時期に当たります。そういうモラトリアムな気分がこの詩にも反映されている、といっていいのかもしれません。

 この時の詩人は、まさに「まどろみ」の状態にあるようです。今風の用語では脳波が「ミッドアルファ波状態」ということになるのでしょうか。世間の煩わしさは一切シャットアウトされ、海辺の景観と一体化し、五月の「みづいろの風」と直(じか)に触れ合っている心的状態と形容してよさそうです。

 そよ吹く風の幽(かす)かな音、松林のざわめき、潮の音(しおのね)…。自然界のすべては「1/f ゆらぎ」となって、詩人をゆったりやわらかく包み込んでいます。このようなまったき受容状態にある時、優れた詩は生まれるのでしょう。
 全編に散りばめられている卓抜な修飾語や比喩が、そのことを物語っているようです。

 (大場光太郎・記)

参考
大手拓次『藍色の蟇』の各詩
http://2style.net/misa/fuguruma/ote/ote.html

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世紀の発見が「呪い」を呼んだ?

 
 先日5月9日、またグーグルトップが“変わりロゴ”になりました。小さな神殿に寄りかかるようにファラオの柩のような物があります。その近くにはトート神だかアヌピス神だかの神像も立っています。その手前でこちらに背を向けた外国人紳士がそれらを見ている、というような図柄です。
 一見して「エジプト探検」に関係があるらしいものの「誰の生誕記念」か全く分かりません。そこで同ロゴにカーソルを当ててみたところ、「ハワード・カーター生誕138年」と出ていました。

 『ウィキペディア』で、ハワード・カーター(1874年5月9日~1939年3月2日)はイギリス・ケンジントン出身のエジプト考古学者で、かの「ツタンカーメン王の墓」を発見した人物であることが分かりました。
 カーターは英国で高い教育を受けなかったものの、189年17歳で遺跡発掘現場のスケッチ担当としてエジプトに渡り、その詳細な模写や考古学への情熱が高い評価を受けたというのです。

 この辺の来歴は、トロイア遺跡発掘という歴史的偉業を成し遂げたかのシュリーマンと似たところがあるようです。カーターがシュリーマンの業績に迫るきっかけになったのは、1916年から、エジプト遺跡発掘の先人であるカーナヴォン卿(1866年6月26日~1923年4月6日)の援助でエジプトの「王家の谷」発掘を開始したことです。
 そして援助契約が切れる1922年、「世紀の発見」と言われるツタンカーメン王の墓を発見したのです。

ツタンカーメンの墓
ツタンカーメンの黄金のマスク

 

 ところでツタンカーメン王と言えば有名なのが「ツタンカーメンの呪い」です。これは、カーターのスポンサーであったカーナヴォン卿が同墓公開直後急死したことや、発見関係者数名が死亡したとされることによるものです。
 これを当時のマスメディアが「謎の不慮の死」として、「ファラオの墓の発見に関係した者には呪いがかかって死ぬ」とセンセーショナルに報道したため、「王家の呪い」「ツタンカーメンの呪い」伝説として世界中に広まったものです。
 格好のテレビネタとして我が国民放局でも過去に何度も取り上げていますから、これをお読みの多くの人もご存知のことでしょう。

 王家の呪いとの戦いを描いたハリウッド映画『ハムナプトラ』シリーズは、この伝説を下敷きに創られたものなのでしょう。歴史物好き、古代エジプト好きの私は、以前この映画のビデオを何度か観ましたが、「ツタンカーメンの呪い」はその前提として当然あり得ることと信じて疑いませんでした。
 しかし今回あるサイトを探訪して分かったことには、この伝説の大半はデッチ上げで単なる迷信に過ぎないということです。

 読み応えのある長文の論考ですが、ここでその詳細を検証する余裕はありません。興味をお持ちの方は末尾に記載した同サイトURLをご訪問いただくとして、ごく簡単にその概要だけご紹介してみます。

 ツタンカーメン王墓発見二大スターの一人のカーナヴォン卿は、確かに同墓の発見から半年後の1923年4月6日に死亡しました。同卿の死を愛犬が悼むように悲しげに吼え声を発し直後息絶えた、同卿の死の瞬間カイロ中の電気が消えたなどと、世界中の新聞がまことしかに喧伝し「呪いだ」と書きたてました。
 まず同卿の死そのものですが、以前からエジプト病にかかっておりカイロの病院で臥せっていて、満足な治療が受けられない劣悪な中でたまたまその時期に死亡したということのようです。またカイロ停電は、当時は電気が敷かれて間もない頃で、どの都市でも大規模停電は頻繁に起きていました。愛犬の死は本当なのか、またその因果関係などは確認すべくもありません。

 世界中の新聞によると「他に数名が不慮の死を遂げた」ことになっていますが、実はカーナヴォン卿以外で発見関係者が直後に死亡した事実はないようです。「死亡した」と報道された人たちはデッチ上げだったことが、既に当時の新聞で暴露されているというのです。
 デッチ上げの中にはハワード・カーター自身も含まれていました。同姓同名の別人の交通事故死をカーター自身の事故死のように書き立てられたのです。ちなみにカーターは「呪い」とは無縁に、1939年64歳まで恵まれた環境で健康な人生を送っています。

 今日にまで及ぶ「ツタンカーメンの呪い」について、なぜかくも広く流布してしまったのか。同サイトでは大まかに以下の3点を指摘しています。
 (1)情報が少なすぎたこと。(2)エジプトに対する興味と無知。(3)有名人の扇動
 その中でも、「大衆宣伝媒体」としてのマスメディアによる喧伝、扇動が最も大きなものでした。王墓発見関係は英国大手新聞『ロンドンタイムズ』が独占契約しており、真実情報が入手出来ない他の世界中の新聞は、また聞き、憶測、空想で王墓発見記事を書くしかなかったのです。今も昔も三度の飯より「デマ好き」のメディアは、格好の話の種として「ツタンカーメンの呪い」に飛びつき、あっと言う間に世界中に広まった、この辺が真相のようです。

 ちなみに古代エジプトでは、「死者が生きている者を呪う」という思想は無かったそうです。それに異端のファラオ・イクナトーン王系統のツタンカーメンは、後世の記録や王名表から名前を消され、王墓発見までは無名に近い存在でした。
 したがって、発見によって一躍歴史の表舞台に躍り出た感のある同王は、「喜びこそすれ呪いなどかけるはずがない」と、同サイトでは結んでいます。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』「ハワード・カーター」の項(画像も)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
『「ツタンカーメンの呪い」とは?』(サイト『無限∞空間』)
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/thutan.htm

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「理解に苦しむ」指定弁護士控訴

-繰り返すが「悪盛んにして天に勝つ」。この事態を深刻に受け止めねばならない-

 何ともあきれた話ではないか。小沢一郎民主党元代表への東京地裁無罪判決を不服として9日、3人の指定弁護士が東京高裁に控訴したのである。「一審判決には見過ごせない事実誤認がある」とし、上告して争えば「無罪判決を覆すことが可能」と判断したというのだ。
 何を今さらではないか。だったら何で一審公判で「事実誤認」なきよう手を打たなかったのか。そんなこと出来なかっただけだろう。

 いい加減にせよ指定弁護士。東京地裁の公判過程で、小沢元代表の犯罪を裏付ける証拠は悉く失われたのである。そもそも検察審査会の「強制起訴」の最大の根拠となった、検察の捜査報告書も特捜部検事の捏造だったことが判明しているではないか。
 この捏造報告書に基づいて小沢裁判が始まったわけだから、控訴して裁判を続ける道理も法理も存在していないのだ。
 やる前からまた「無罪」なのは明らかではないか。素人でもあるまいし「控訴しても公判維持すら難しい」というのが司法のプロの見立てであることを知らないのか。

 3人の指定弁護士は、9日の控訴会見を検察庁舎内で行っている。彼らは引き続き「検察官役」を務めるそうだから当然と言えば言えるが、ここに指定弁護士のバックが透けて見えてくるのだ。
 実際今回の不可解な控訴には、「検察の働きかけがあったのではないか?」という憶測を呼んでいるのである。何せ控訴断念→小沢無罪確定となれば、検察の汚名が永久に残ることになるのだ。
 だから事実はどうあれ、検察としては控訴してくれたことでわずかでも汚名返上のチャンスが残ることになったのだ。

 さらに未確認情報ながら「指定弁護士には、官邸から5億円の官房機密費が渡っている」というような怪情報も飛び交っている。それを裏で仕掛けたのは謀略政治屋の仙谷由人だというのだ。
 指定弁護士の報酬は低くとても割りに合う仕事ではない。だからこの説がにわかに現実味を帯びて感じられてくるのだ。

 検察審査会の段階から仙谷の暗躍は噂されていた。何せ仙谷と日弁連会長の宇都宮健児とは東大法学部からの旧友である。それに3人の指定弁護士は、仙谷と同じ東京第二弁護士会所属であることも臭いし。
 野田首相以下は無罪→控訴の流れを事前に掴んでいた可能性がある。だとしたら「小沢復権を何としても阻止したい」という、現民主党幹部の蛇のような執念が感じられる話ではないか。

 遡れば3年余前の2009年3月の大久保隆則元秘書逮捕から、今日に至る小沢事件は始まっている。そもそも大久保元秘書逮捕は、「かんぽの宿隠し」「政権交代阻止」を目的とした当時の自民党麻生政権下で起こった。これは、当時の森英介法相の指揮権発動によるものだった疑いが濃厚である。
 当時大騒ぎした新聞・テレビは報道しないが、大久保元秘書逮捕事件は早々と訴因消滅し、今では影も形もなくなってしまっている。つまりこれが検察の不当逮捕の始まりだったのだ。しかもそれによって小沢代表(当時)は代表辞任に追い込まれている。それがなければ、同年9月の政権交代時「小沢一郎首相」が誕生していたのだ。

 以後の大迷走政局を正すには、改めて「小沢首相」の登場が必要である。しかし指定弁護士の控訴によってまたしても阻まれようとしている。これは、今この国の病状がいかに深刻かを如実に示す指標に他ならない。
 小沢元代表の民主党内の党員資格停止処分は解除された。だがオール霞ヶ関を中心とする旧勢力によって、広義の「座敷牢」にまたも閉じ込められることになったのだ。

 ここに、植草一秀氏がかつて命名した「米官業政電」(米国、霞ヶ関官僚、財界、民主党B政権、マスコミ)という「悪徳ペンタゴン」勢力の力がどれほど凄まじいものであるかを見て取らないわけにいかなのである。

 東京高裁での公判開始は今年秋以降、同判決は早くて来春とみられている。ここで無罪判決が出たとしても、旧勢力代弁者の指定弁護士はさらに最高裁に上告するつもりだろう。暗黒司法一派+オール霞ヶ関+他の悪徳旧勢力によって、小沢元代表は、今後2年も3年も政治的に手足を縛られた状態が続くのである。
 その間「国民の生活が第一」の政治理念はどんどん打ち捨てられ、国民切捨ての「米官業の利益が第一」の亡国政治が容赦なく進行していくことになるのだ。

 (大場光太郎・記)

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小沢元代表の党員資格停止を解除

 -それはそうだろう。世紀の謀略冤罪で処分したこと自体、後の世の物笑いだ-

 民主党は8日の常任幹事会で、小沢一郎元代表の党員資格停止処分の解除を決定しました。小沢元代表の党員資格の復活は、約1年3カ月ぶりのこととなります。

 広く世間にも検察調書の捏造が知れ渡り、4月26日東京地裁で無罪判決が下りたのですから当然といえば当然の決定です。むしろ遅きに失したと言うべきです。
 「反小沢」である前原誠司政調会長などは「一審判決だけで判断すべきではない」「指定弁護士の控訴の有無を見てからにすべきだ」などとゴネたようですが、「言うだけ番長」、結局は小沢元代表に近い輿石東幹事長の強い意志には逆らえなかったようです。

 それに10日までの控訴期限を前にして、ここにきて検察官役の指定弁護士の「控訴断念」が強まったとも言われています。もしそうなら小沢元代表の党員身分をこれ以上拘束する理由は何もなくなるわけです。

 当時幹事長だった岡田克也(現副総理)の最終判断で、処分が決定したのが昨年の2月でした。その1ヶ月後東日本大震災、福島第一原発事故という未曾有の大災厄がこの国を襲いました。

 小沢元代表を「座敷牢」に閉じ込めた、時の菅直人政権の二大災厄への対応の不手際は目を覆うばかりでした。素人集団による民主党政権が担い、解決するにはあまりにも荷が重く、震災復興は遅れに遅れ、福島原発事故は菅前首相自身の初動の誤りによって、周辺住民被爆を拡大させてしまったと言われているのです。
 未曾有の大危機に際して、政界第一の実力者で、官僚組織の動かし方などを熟知している小沢元代表の処分をその時なぜ解かなかったのか。現民主党幹部らは党利党略・個利個略に走り、国家的損失を拡大させたのです。

 その後政権は現野田佳彦政権に移りましたが、一昨年6月以来の「小沢封じ」体制は一貫して続けられてきました。霞ヶ関官僚たちにとって、小沢抜きの民主党政権ほど扱いやすいものはありません。性悪な古狸集団である彼らの手にかかっては、現民主党幹部らは子供のようなものです。

 それが極まったのが現野田政権です。ТPP推進、消費税増税、原発再稼動…。官僚主導から政治主導へが、09年9月の新政権発足時の国民との約束でした。しかし財務省や経産省が主導するこれらの政策はそれとは真逆であり、決して国民のためにならない、やってはいけない政策なのです。

 「消費税増税に命をかける」という、そもそも命を根本的にかけ間違っている野田首相にとって、正念場となる国会審議が今週からスタートしています。そんな中「増税反対」を鮮明にしている小沢元代表が処分を解かれて復権してくるのです。
 輿石幹事長としては、小沢氏を選挙担当の「党代表代行」に据えたい意向のようです。今年中と見られている解散・総選挙を見据え、このままでは民主党の大惨敗は必至ですから、「選挙の神様」頼みは当然のことと言えます。

 と言っても小沢元代表は、国民のためにならない消費税反対を断固貫き通す決意です。党要職に戻ったからといって、財務省のパペットである野田首相にすり寄ることはないとみられています。
 稀有な政治家である小沢一郎の凄さは、3年余にも渡って検察から謀略冤罪を仕掛けられ起訴・裁判となっても、マスコミから徹底的な「人格破壊キャンペーン」を繰り返されても、現民主党幹部のほとんどが「反小沢」であっても、ひとたび約束した「国民の生活が第一の政治」というポリシーを決して曲げないことです。

 裁判にかけられるという最悪の事態だったにも関わらず、小沢元代表のもとには衆参議員合わせて100人以上が「反増税グループ」を形成しています。「消費税命」の野田首相はこの小沢グループとのスタンスを今後どう取っていくのか。悶絶する場面が出てくるのではないでしょうか。
 野田の指南役の仙谷由人、藤井裕久などが陰でこそこそ自民党との連立などを画策し、何とか今後とも「小沢抜き」政局に持っていくつもりのようです。陰険策士仙谷よ、一度くらい小沢元代表と正々堂々真っ向勝負してみたらどうなんだ。

 (大場光太郎・記)

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春の椿事で一時ネット接続不可に

  春雷(しゅんらい)と突風豪雨街襲う   (拙句)

 個人的な事で何ですが。連休最後となった6日夜から7日昼過ぎまで、インターネットに接続できない事態に直面しました。それによってインターネットが私の日常の中でいかに大きな比重を占めているかを再認識させられました。
 そこで今回は、無事復旧できるまでの顛末について述べてみたいと思います。

 6日深夜いつものとおりネットを開こうとしました。真っ先にマイブログのアクセス状況を確認し、それから記事の更新に取りかかるつもりでした。しかしこの時に限って、休止状態から呼び起こしたブログ管理画面からアクセス解析画面に移ろうとしても、うんともすんともいわないのです。

 『ははあ、また固まっちまったな』。マイパソコン、当ブログの膨大な記事量や何やかやで相当重くなっています。そういうことはまゝあるのです。しかし今回ばかりはかなりの重症です。やむなく一旦終了しようと思い、スタート→終了オプションを押そうとしても、それすらうまく開いてくれません。仕方なく非常手段として、上部左のメーンボタンを手でグリグリ押しつけて強制終了させました。
 「キュ~ン」と悲し気な音を立ててパソコンが切れました。すかさずメーンボタンを押して起動させました。デスクトップ画面から、いつものとおりインターネット最初のグーグル画面を呼び出すつもりです。

 ところが、あれれれっ !? インターネットエクスプローラーのマークとともに、「インターネットではこの接続はできません」という例のイヤな表示が出てきたではありませんか。
 『何かの間違いだろ』と思って、それを一旦閉じて再度ネット立ち上げを試みました。しかし何度やってみても、「接続できません」なのです。つまり何らかの原因によって、私のパソコン、インターネット接続が出来なくなったらしいのです。

 これは困った事態です。どなたもそうかもしれませんが、私にとってインターネットはパソコンとほぼ等しいほどのものです。それに私の場合マイブログを持っているのですから。
 それが『今この時&あの日あの時』の「いの字」すら出てこないのです。ましてやフォレスタ動画の聴きたい歌、阿修羅掲示板など他のサイト、ネットニュース…に行くことなど遠い話です。
 私の落胆は一通りのものではありませんでした。パソコンはネットが使えての物種。ネットが使えないパソコンなんて「お金の入っていない空っぽの財布」と同じ。こんなつまらないことはありません。

 とにかくこうなったのには何か大きな原因があるはずです。それは一体何なのか?一つ思い当たりました。それはマイパソコン、以前のソフトを止めてから、ここ2年ほどウィルス対策ソフトを入れてなかったのです。
 それで今まで大過なくやってこられたのです。しかし今度ばかりは『きっとウィルスソフトを入れてなかったせいだ。何で早く入れておかなかったのか』と悔やまれました。

 考えるほどそれ以外ないように思われました。だとすると復旧はかなり大変です。今までのデータなどはすべてパー、「初期化」から始めなればならないはずです。
 数年前スパイウィルスにやられて初期化したことがありました。東芝PCサポートセンターからの電話による指示で、購入時についてきたDVDを何枚も入れたり出したり、面倒くさい操作を繰り返したり…。とにかく大変な思いをした記憶があります。

 それに今回はパソコン内臓のDVD機能が故障で使えない状態です。パソコン自体を同PC修理センターに送って直してもらうしかありません。それにマイパソコン、もう10年くらい使い込んだ年季物です。それ以外にも幾つかのメンテナンスが必要です。とすると費用は軽く数万円以上、期間も一週間ほどかかりそうです。
 その間申し訳ないながら、肝心のブログ記事更新は出来なくなるし…。

 7日朝もやはり「とほほ」状態は変わりません。東芝PCセンターに善後策を聞くため、パソコン隣の電話機から電話しようとしました。ところがどうしたことか、電話がつながらないのです。
 さては憎っくきウィルスめ。パソコンだけでは飽き足らず、勢いあまって電話にまで侵入して悪さを仕出かしたのか?しかしいくら何でもそんなことがあるのだろうか。
 ともかく、ネット接続不可だけでも大ダメージなのに、その上電話まで不通とは。業務にモロに影響が出ます。弱り目に祟り目とはこのことです。

 電話機まで使えないとなると、これはもうNТТの出番です。私は1年ほど前から携帯電話を使用していません。仕方なく、家から数十メートル先の公衆電話でNТТ修理センターに電話しました。
 応対してくれたオペレーターの話で「ウィルス侵入説」は否定され、どうも“光フレッツ”の接続不具合に原因がありそうなことが分かりました。
 厄介なウィルスでなさそうなのは何よりです。家に戻り、この人の指示通り、パソコンと電話機がある机側床面に置いてある2台のルーターの電源を抜き、5分くらいたってから入れ直しました。しかし両方ともまったく復旧しません。

 そこで再度公衆電話に行き、「もしそれでダメだったら」と予め聞いていた光サポートセンターにその旨電話しました。ここで応対してくれたオペレーターが当家の電話機状況を調べてくれました。その結果「2台のうちメーンとなるルーターに電流が来ていないようです」というのです。

 『えっ、そりゃウィルスより大変だ』。何ヶ月か前やはり電話機の不具合で修理センターに電話し、修理担当者に来てもらったことがあります。その時配線状態を確認した担当者は、大本のコンセントを指さして言ったのです。
 「今回は問題ありません。今後何か異常が出た場合は、これより前の内部配線の問題かもしれません。壁に隠れているだけに修理は大ごとですよ」
 いやはや、どの道大変だ~ !

 今回も「夕方5時前頃、修理担当者がお伺いします」ということでした。私はその後所用で出かけ、戻ったのが3時過ぎでした。念のためダメもとで、先ほどの修理センターの人の指示をもう一度繰り返してみました。
 するとどうでしょう。さっきはうんともすんとも言わなかった電話機が「ピー、ピー」と鳴るではありませんか ! どうやら修復したようです。『もしや?』と思って、パソコンのネット接続も試みました。すると何事もなかったように、こちらもグーグル画面が現れたではありませんか !

 夕方修理担当者が来てくれることになっているので、光サポートセンターに「おかげ様で電話もインターネットも直りましたから…」と電話を入れました。前と違う人でしたが事情は分かっているらしく、「その件でしたら、3時前既にお伺いしています」と言うのです。
 その結果「原因は昨日のカミナリによって建物全体の電話関係のブレーカーが落ちてしまっていたようなのです。ブレーカーは元に戻しておきました」とのことでした。

 何だよ、原因はウィルスでも配線でもなく「カミナリ」かよ。
 そういえば、6日午後私がバスで外出したちょうどその時、にわかに雲行きが怪しくなり、突風が吹き出しました。景色はどんどん暗くなり、街路樹の枝も千切れるほどの大風、その上「ピカッ、ビカッ」と稲光りと雷鳴までし出したのです。
 『これは大雨になるぞ』と思う間もなく、風で煽られバスを叩きつけるような激しい雨が降り出しました。乗客の誰一人傘を持っていないようです。そのうち駅に着きました。皆駆け足で降りて、すぐ近くの某銀行AТMスペースに駆け込んだのでした。

 原因が自然現象とあっては文句の持って行き場もありません。何はともあれ、単なる「春の椿事」が原因で半日くらいで済んだのが何よりでした。漏れ聞くところ、突然の大竜巻に襲われて大被害に遭われた地域もあったよし。
 今回のようなトラブルは我が居住ビルだけだったのでしょうか?皆さんのところは何も異常なかったでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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雲雀の短歌三首

                      寺山 修司

  空は本それをめくらんためにのみ雲雀もにがき心を通る
                      (昭和33年『空には本』所収)

                      藤井 常世

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀
                      (昭和51年『紫苑幻野』所収)

                      高野 公彦

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器
                      (昭和57年『淡青』所収)

… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……* …
《私の鑑賞ノート》

 春の鳥としての「雲雀(ひばり)」の近代短歌を三首並べてみました。

 このうち寺山修司(てらやま・しゅうじ)の短歌については、昨年4月の『空は本』で既に取り上げました。なのに再びこれを掲げたのには訳があります。これに続く二人の短歌は、寺山の短歌を意識したものだと思われるからです。

 そもそも和歌の世界で「本歌取り」は、古今集の昔から当たり前の手法として用いられてきました。敬愛する先人によって詠まれた新しいモチーフの優れた歌を、後の歌人たちがそれにならって類似の歌を詠もうとするのは至極当然のことです。
 ただその場合、元の歌人の単なる二番煎じ、三番煎じではつまりません。元の歌を超えないまでも、何かしら新鮮味を加えることが要求されるわけです。
 寺山の後の二人はどうでしょうか。その辺を見ていきたいと思います。

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀

 藤井常世(ふじい・とこよ)のこの歌にも「心」が出てきますから、寺山短歌の影響は明らかです。
 しかし藤井短歌の新しい発見は、雲雀の「心のかたち」を捉えたことです。捕まえどころのない心に果たして「かたち」があるのかどうか、仔細には知らねども。藤井はこの短歌で「心にかたちがある」と表現しているのです。

 さてそれでは、それはどんなかたちか。空の高みを目指して「よぢれつつのぼる」雲雀の姿こそ、まさにその象徴なのだと言うのです。
 藤井の短歌では、寺山短歌の「にがき心」は露わにはなっていません。けれども、確かに空の高みを目指す雲雀はにがき心を抱いているに違いない、それは「よぢれつつ」のぼっていくことに暗示されていると思われるのです。
 そしてその心のかたちは、寺山の場合と同じく、実は作者自身の心のかたちに他ならないのです。

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまで光の器

 寺山修司の短歌が「起」であるとするなら、前の藤井常世の短歌はそれを受けた「承」ということになるのでしょう。
 対して高野公彦(たかの・きみひこ)のこの短歌は、寺山、藤井という先人どおりに「雲雀がのぼる姿」を踏襲していません。どう詠んだか。雲雀が既に空の高みにのぼりきったさまを詠んだのです。三首の中でこれは「転」にあたると思われます。
 この短歌にある「淡青」を歌集のタイトルにしているところを見ると、高野にとってこれは会心の作品だったことでしょう。

 この短歌の秀逸さは、後半の「淡青の空は暗きまで光の器」にあると思われます。
  淡青の空 = 暗きまで光の器
という図式です。しかし通常の数式では、こんな等式が成立することはありません。ただ単純に、
  淡青の空 = 光の器
なら、あるいは成立するかもしれませんが。そこに「暗きまで」というファクターが入り込んでいることによって、不等式とみなさざるを得ないのです。

 そもそも「淡青(ライトブルー)の空」が「暗きまで」ということがあるのだろうか。とてもあり得なさそうですが、高野公彦にとってはあり得るのです。
 作者の深い意図は分かりかねますが、「声はすれども姿は見えず」で、雲雀の姿を深々と隠し去った空を「暗きまで」と形容したのではないだろうか、と推察されます。さらには、淡青の奥に広がる宇宙の闇にまで想いが至っていたのかもしれません。

 だとすると、この短歌のこの部分は、物理世界の数式では不成立でも、詩的世界の数式としては見事に成立していることが了解されてくるのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『空は本』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-95df.html

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フォレスタの「若葉」

 -戦時中の昭和17年にこんな爽やかな歌が…。ここにこの時代の秘密があった-

     (「フォレスタ 若葉」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=C7v6RmSVi3g

 風薫る若葉の季節にうってつけの歌です。
 『若葉』。当ブログの現在の背景が「若葉」であることもあり、今回取り上げます。

 古い叙情歌好きの私は、人並み以上に昔の歌を知っているつもりです。しかしこの『若葉』や『四季の雨』は、フォレスタコーラスを聴くまでまったく知りませんでした。
 今年1月『フォレスタの「若葉」』を初めて聴いた感想は、何と気持ちの良い清々しい歌なんだろう、というものでした。以来この歌を折りに触れて聴いてきました。

 この歌は昭和17年発表とのことです。軍歌一色に紛れてこんな名叙情歌があったとは ! と言うことで、この歌でも以前の『フォレスタの「花言葉の唄」』と同じようなことを述べないといけないのかもしれません。すなわち、
 「時局は戦時色一色に染まりつつあった世相の中で、よくもこんな明るい清新な歌が生まれたものです」
 しかしこの感想は今回少し修正が必要であるようです。

 「暗い時局」というのは、当時の事情を知らずに、近代日本史の重要な出来事として、結果的に敗戦、米国占領という最悪の事態を迎えてしまったことを、学校の教科書で習い戦後通念化した者から見た視点なのです。

 そのことに気づかされたのが、作家の五木寛之氏の最近のエッセイです。五木氏は以前の記事で述べたように、『日刊ゲンダイ』紙で「流されゆく日々」という長寿コラムを連載しています。
 最近の同コラムで、五木氏が戦争中のことを回顧しているシリーズがありました。当時同氏は両親と共に満州に住んでいた少年でしたが、当時は今の私たちには信じられないことに「国民誰しもが、不思議な高揚感に包まれていた」というのです。
 国家主義、全体主義としての恐さがそこにはあるにせよ、自分という小さな個人が、国全体という大きな命にまで広がった確かな実感があったというのです。

 昭和17年はこの年6月のミッドウェー海戦や同年8月のガダルカナル島の戦いで日本軍の敗色が決定的になった年でした。がしかし不利な戦局は国民には知らされず、我が国の勝利を信じて疑わなかった時期です。まだ国民全体が奇妙な高揚感に包まれていたとしてもおかしくはないわけです。
 そういう時代背景を念頭にこの歌を味わってみますと、「あざやかな」「明るい」「さわやかな」ばかりの歌で、暗い影などどこにも見出せない秘密が分かるような気がするのです。(ただし当時の「神州不滅」の幻想は、やがて木っ端微塵に吹き飛ぶことになります。)

 もちろんこの歌を歌っている女声フォレスタメンバーは、そんな時代背景などあまり知らないことでしょう。むしろそれでいいのです。良い歌は掛け値なしに良い歌として歌ってくれていますから。
 画面左から中安千晶さん、矢野聡子さん、白石佐和子さん、吉田静さんの4人です。メンバーも緑のドレスも『別れのブルース』と同じですから、両曲は同日の収録と推察されます。そう言えばピアノ演奏の南雲彩さんも同じ黒いドレスです。

 澄んだソプラノの矢野聡子さんの一番独唱が、このコーラスの清々しさを決定づけてくれています。「新婚ニュース」効果もあいまって、矢野さんのお顔輝くばかりです。結婚生活の末永き幸せをお祈りし、早いフォレスタ復帰を望みたいものです。

 この歌を鑑賞する場合忘れてならないのは、当時と今の「若葉の豊かさの違い」です。当時の日本は農耕型社会、戦後の国土開発という名の国土破壊はまだなかった時代です。
 中安さん、矢野さん、白石さんのソプラノ、吉田さんのメゾソプラノ。4人の重層的なコーラスが、豊かに繁りあった若葉のさまを見事に歌い上げてくれています。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタの「花言葉の唄」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-5ca8.html
『美しすぎる「フォレスタ」』(冒頭に『別れのブルース』動画があります。)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1920.html                       

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アリアドネの糸(3)

 夜が明けると、予定通りアテネ王子テセウスと13人の犠牲者はラビリントスに追いやられました。
 テセウスは終始沈着冷静に行動します。まずはアリアドネから渡された糸玉の先端を扉にしっかりくくりつけ、13人の少年少女を従えて慎重に迷宮の中へと入っていきました。

 この大迷宮は真っ暗で曲がりくねっています。その上ねじれたような回廊があったり、後世の“迷路パズル”さながらに行き止まりや見せかけだけの通路があったりと、まさに複雑怪奇な地下迷路の集合宮殿です。
 なおこの迷宮の奥には特別な礼拝室があり、生贄を殺すための両刃の斧が祀られていたという説があります。そしてこの斧は黄金製で「ラブリス」と言われていたと伝えられています。このため世界史中でも類を見ないこの大迷宮は後世「ラビリントス」と呼ばれるようになったのです。英語で迷路を意味する「labyrinth」(ラビリンス)の語源はここから来ています。

 さて迷宮の中をさ迷い歩くうち、暗がりの前方から生臭いにおいが漂ってきました。遂にミノタウロスと遭遇したのです。暗黒迷宮の主のミノタウロスは牛頭なのですから、半ば獣(けもの)とみなすべき怪物です。それゆえ暗がりの中でもしっかり獲物を見分ける視力を持っています。
 「よし、よし。今年のご供物は特別にうまそうだぞ」
 久しぶりに極上の“若人肉”にありつけそうな怪物は、奇っ怪に裂けた唇からよだれを垂らし、舌なめずりしながらのっしのっしと近づいてきました。


        怪物ミノタウロス

 もちろんテセウスにぬかりはありません。ミノタウロスと出くわしたらどうするか。事前に周到なシミュレーションは出来ていたのです。

 例年の人身御供たちは恐怖にうち震え、何の抵抗もせずミノタウロスの餌食になってきたのでした。そこに怪物の油断があったのです。
 事実先頭にいるテセウスは、ミノタウロスがすぐ側に近づいて来るまで哀れな生贄の子羊を装っていました。

 いよいよ怪物が至近距離に近づき、丸太ん棒のように太い腕を伸ばし、グロープのような手でテセウスをむんずと掴みかけた、その瞬間、
 「えいっ!」
 空手の名手のような鋭い気合一声を放って跳び上がり、怪物の脳天めがけて鉄拳をくらわせました。予期せぬ不意討ちをくらったミノタウロスは、たまらずもんどり打って倒れます。勇者テセウスはたったの一撃で怪物を仕留め、絶命させてしまったのです。

 「さあ、みんなここから急いで出るんだ。オレの後について来い !」
 テセウスは13人の子どもたちを引き連れて、糸玉の糸をたぐりたぐりしながら入り口へと戻っていきます。そして迷宮の外へ出ることに成功したのでした。

 扉の向こうではアドリアネが待っていました。彼女はラビリントスの中から出てくるテセウスをどれだけ心待ちにし、実際無事なその姿を見てどれほどの喜びにうち震えたことか。
 しかしぐずぐずいつまでも愛の歓喜に浸っているわけにはいきません。アリアドネの父ミノス王に知られる前にクレタ島から脱出しなければならないのです。
 「さっ、早く。船が用意してありますから、急ぎましょう」
 王女アリアドネの事前の手配によって、入り江の陰に一艘の船がやってきました。

 一同が船に乗り込み島を離れた時には既に夜になっていました。エーゲ海の夜空に浮かぶ月の光を浴びながら、二人は頬を薔薇色にそめ初めて熱い抱擁を交わしました。

 クレタ島が黒く、小さく遠ざかっていきます。
 「王子と一緒に海の彼方の国アテネに行くんだわ」
 故国を離れなければならない哀しみは当然あります。が、愛しい人とともに旅立つ、未知なる世界への胸はずむ期待の方が大きかったのです。

 しかしアリアドネとテセウスの「運命の糸」は、海路でのとんだ邪魔が入ったによって断ち切られ、アリアドネの想いどおりにはならなかったのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『不思議館~古代の不思議~』「迷宮とミノタウロス伝説」
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_k.html
 (ミノタウロス画像をお借りした上、ラビリントスに関する箇所もこちらのサイトを参考にまとめました。感謝申し上げます。)
関連記事
『アリアドネの糸(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-a402.html
『アリアドネの糸(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-5f29.html

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UFOの夢

   夢が現実で現実が夢なのです。  (『バシャールⅠ』より)

 いろいろな事に紛れてしまいましたが、1週間ほど前の4月25日朝方「UFОの夢」を見ました。大変印象深かったので、その夢の概略を記しておきたいと思います。
                       *
 その前段階としてかなり長い夢を見ていたようですが、直後の驚愕の夢に圧倒されたか全く思い出せません。

 ・・・とある広い工場敷地のような所の一角に、夢主(むしゅ)である私が立っています。その辺にいるのは私一人のようです。
 夢の背景の色は、例によって白黒基調のモノトーンです。右手と前方に3階建ほどの工場建物が見えています。その間に広がる白色の空を仰ぎ見ています。暗い感じではなく、昼過ぎ頃のようです。

 と、斜め上空のただ中に、大きな銀色がかった円盤状の物体が現れたではありませんか。距離にして2、30メートルほどの近さです。
 それは何の力みもなく、ただふわりふわりと浮かんでいる感じです。下から見上げている格好の私は、その物体の底面を見ていることになります。
 夢の中の私はとっさに『UFОだ !』と直感しました。その形状はかつてジョージ・アダムスキー(1891年~1965年)の本などで知ったる「アダムスキー型円盤」そっくりです。私はさしてびっくりするでもなく、円盤が浮かんでいるさまを凝(じ)っと眺めていました。

 『すぐ近くに着陸するだろう』という私の予想に応えるように、UFОは本当に斜め前方の上空から私が立っている空き地にスーッと音もなく舞い降りてきました。空にある時はかなり大きな感じでしたが、いざ着陸してみると直径5メートルくらいの大きさです。
 UFОは『逃げたりしなくて大丈夫だ』という私の安心感を見計らったように、私が身じろぎもせずに立っているすれすれの所に降り立ったのです。

 UFОはそこに少しの間だけ留まって、やがてまたスーッと飛び立って行ったのでした。(そして目が覚めました。)
                       *
 私が以前から「夢」に関心を持っていたことは、以前の『夢の話(1)~(3)』でも述べました。40代初めの頃に夢日記をつけていたこと、当ブログ「詩」に収録してある『星の荒野にて』『オリオン落下譚』はその頃の夢のほぼ忠実な再現であることなど。

 最近はついつい現実的な事物に関心が向きがちで、夢はけっこう見ているものの、さほど注意を払っていないせいもあって、大半は目覚めとともに忘れてしまっています。
 今回のUFОの夢は、私としては一昨年9月に見て以来2度目です。前回はオードブル用の皿ほどの大きさしかなく、ほんの顔見せくらいにものでした。それに引き換え今回のは大きさといい、間近まで降り立ったことといい、前回の発展形といってよく、それだけに余計印象的な夢として残りました。

 ここで参考まで【UFO夢占い】の象意をみてみます。なおこれは『未弐の夢事典』サイトからの引用です。

【UFO】・【宇宙船】・【空飛ぶ絨毯】等…セルフ(無意識の世界も含めた心の全体性とその中心)の象徴。未知の能力。未確認の未来や戸惑い。自己の経験を部分的なものではなく全体的なものとして見通す力。自分を現状から連れ出してくれるもの。※間もなくオープンコンタクトの時代がやってくるので、予見夢の場合も。◆巨大な宇宙船に乗り込む・空飛ぶ絨毯が現れる…未知の良い展開が待っている。◆宇宙船に乗って飛んでいく…現実逃避願望。責任逃れをしたい気持ち。◆宇宙船に乗って地上に降りる…新たな価値観に目覚める。理想と現実を結びつけようとしている。課題を全うする。◆UFOや宇宙船を見る…今までに考えつかなかったことが起こる。突然のアイデアやひらめきがツキを呼ぶ。自分の可能性や新しい発見がある。現状が根底から覆される事への期待。(以下省略、引用終わり)

 どうも同一テーマの夢というのは、関心を持ち続けていると発展していくもののようです。私のUFОの夢もそうです。ただ確かに前回より何歩か前進はしたものの、着陸したUFОの中から“何者か”が出てきたわけでも、私自身がその中に入って内部を探索したわけでもありません。
 ましてや、鳩山由紀夫元首相の幸(みゆき)夫人のように(『夢の話(2)』)、UFОに同乗して金星まで飛んで行き、かの星の真の姿を見聞したなどというぶっ飛びの出来事があったわけではありません。

 夢の内容は夢主の精神的、スピリチュアルな成熟度と密接に関係しているようです。夢主が次の段階にステップアップしない限り、夢の発展もまたないのです。
 そこでいきなり金星やシリウス、プレアデスまで飛翔は無理としても。次はせめて夢の中だけでも、UFО内部の知的生命体と第一種遭遇(コンタクト)を果し、内部を見せてもらいたいものです。さらにグレードアップして、地球上空を一緒に飛び回ってみたいものです。
 これぞ「夢のまた夢」?

 (大場光太郎・記)

引用
夢占い【未弐の夢事典】夢診断(「UFО」の項)
http://www.geocities.jp/dreamusic7/mini/d-ufo.htm
 (なお未弐さんの前身サイトで、昨年4月の当ブログ記事『真実の近現代概略史(1)』をURLご紹介していただき、大勢の訪問者がありました。併せて感謝申し上げます。)
お奨め図書
『夢開運』(不二龍彦著、学習研究社-1988年刊) (優れた本ですが絶版かもしれません。私自身久しぶりで読み直しています。)
関連記事
『夢の話(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_bad5.html
『夢の話(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-ffe3.html
『夢の話(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9358.html

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