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「奇想天外の巨人」南方熊楠(4)

14年ぶりの帰国、熊野での植物採集、田辺に永住の居を構えたことなど

 1900年(明治33年)10月15日、33歳の南方熊楠は神戸港に到着、14年ぶりの帰国となりました。出迎えた弟はボロ服を着ている兄の姿に仰天し、何の学位も取らずに書物と標本だけを持ち帰ったことを知り唖然とします。
 和歌山に帰郷後は那智勝浦で酒屋を営む弟宅に身を寄せ、「日本酒が呑みたくて仕方なかった」と、毎日浴びるように大酒しました。落ち着くと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類など)の目録を完成させるため付近を回って標本採集に精を出します。

 1901年(明治34年)、来日中の孫文がはるばる和歌山に来訪し、熊楠と再会し旧交を温めあいました。
 熊野での植物採集はこの年も続けられ、翌年採集中小畦四郎という青年と知り合い、熊楠の半生に仰天した小畦はすぐに門弟になりました。小畦は船会社に勤務しており、各国の寄港地で採集した標本を送ってくれました。
 熊野での採集は足かけ3年にも及び、植物や昆虫の菜食図鑑を作っています。

 1904年(明治37年)、37歳の熊楠は和歌山県田辺市に家を借り居を定めました。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごしました。
 翌1905年、整理した粘菌標本を(自身を追放した)大英博物館に寄贈し、これが英国の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知されました。
 またこの頃世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の『方丈記』をロンドン大学総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み完成させています。孫文との交流といい、身は紀州にありながらインターナショナルな熊楠だったのです。

 1906年(明治39年)、田辺の闘鶏神社宮司の田村宗造の四女松枝と結婚しました。(熊楠40歳、松枝28歳)。翌年7月には長男熊弥が生まれています。

国家の神社合祀令反対から始まった、日本最初のエコロジー運動

 1909年(明治42年)、42歳の熊楠は「神社合祀(ごうし)反対運動」を開始します。事の発端は、明治政府が国家神道の権威を高めるために各集落にある神社を一村一社にまとめ、日本書紀など官製歴史書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出したことです。
 この結果和歌山県では3700社あった神社が600社にまで減らされ、三重県では5572社が942社にまで激減しています。今も昔も構造は同じと言うべきで、裏には「利権」があったのです。統合された神社の森には樹齢千年の巨木もあり、これが高値で取引されたのです。

 南方熊楠は激怒します。神社合祀令によって多くの鎮守の森が失われ、熊楠自身の研究からしても、それらの森にはまだ未解明の苔類や粘菌類がどれほどあるか分からないのです。容赦ない伐採により、それらの絶命も危惧されたのです。
 「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は「生態学」という言葉を日本で初めて使い、生物は互に繋がっており、目に見えない部分で全ての生命が結ばれていると訴え、「生態系を守る」という立場から政府のやり方を糾弾したのです。

 もっとも当時は「生態系」や「生物連鎖」という概念すら誰一人もっていませんでした。ただ熊楠のみそれにはなはだ近似した概念をもって、自然保護の重要性を訴えたのです。このことから近年熊楠は、「日本最初のエコロジスト」としてその名が知られるようになったのでした。
 民俗学や宗教学にも造詣の深い熊楠は、鎮守の森の破壊はただ樹木の破壊にとどまらず「心の破壊」につながるとも訴えました。新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を筆鋒鋭く攻撃しています。

柳田國男との交流、米農務省からの入省要請、国会の「合祀令無益」採択など

 この反対運動を通して知り合うことになったのが、当時内閣法制局参事官だった柳田國男(やなぎた・くにお)です。まず柳田は熊楠の抗議書を印刷して識者に配り、活動を側面から支援し始めます。
 1911年(明治44年)には二人の間で文通が始まりました。そして1913年(大正2年)には柳田國男が田辺を訪ね、熊楠と面会しています。時に熊楠47歳、柳田39歳でした。熊楠は柳田に、ジョージ・ゴム編『the handbook of folklore』(『民俗学便覧』)を貸しています。これは、その後の日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることになりました。
 熊楠は柳田と文通し始めた頃から、自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関する論文も大量に書いています。

 熊楠45歳の1912年、熊楠の猛烈な反対運動が世論を動かし始め、和歌山出身議員が国会で合祀反対を訴えました。
 6年ほど前、アメリカ農務省から「省内に入って欲しい」という要望書が届いていましたが、合祀反対運動開始時で、熊楠は返事をしていませんでした。するとこの年わざわざアメリカ農務省の役人が田辺までやってきて、再度渡航要請をしたのです。この米国農務省の一件は、日本社会に南方熊楠の凄さ、いかに世界的な博物学者であるかを知らしめることとなりました。
 熊楠は海外では有名でも日本では無名に近く、近所の住民の間からさえ「変わり者の親父」と思われていたほどなのです。

 1920年(大正9年)、10年間の反対運動が身を結び、国会で「神社合祀無益」の採択がなされました。これ以降熊楠は、各地の貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになりました。
 特に2004年(平成16年)に世界遺産に登録された「熊野古道」は、もし熊楠がいなければ伐採され、今日見ることの出来なかったであろう巨木(樹齢800年の杉など)がたくさん保存されたのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)
 

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