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「奇想天外の巨人」南方熊楠(3)

植物学会での研究発表の場を求めてイギリスへ渡る

 25歳の南方熊楠は1892年(明治25年)1月、中南米の旅を終えてフロリダに帰り、親切な中国人(江聖聡)と再び同居しました。米国滞在の6年間で植物などの標本データがかなりの充実を見せたため、その成果を発表しようと、9月植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意します。

 同年9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンに到着。しかし着いて間もなくの9月28日、優しかった父・弥右衛門がこの夏に病没していたことを知らせる弟の手紙に接し絶句します。やはり海外渡航が、親子の永の別れとなってしまったのです。

 翌年の1893年(明治26年)、ロンドンの下宿で標本整理を続ける一方、天文学会に応募した初の懸賞論文『極東の星座』がいきなり1位入選し、英国の権威ある科学雑誌『ネイチャー』にも掲載されました。これによって「ミナカタ」の名が一躍知られることになります。
 熊楠はその後も、ネイチャー誌で『ミツバチとジカバチに関する東洋の見解』『拇印考』など合計50余もの論文が紹介されました。これはその後も破られることのない、日本人最多の同誌掲載論文数となっています。

大英博物館の東洋調査部員に任ぜられる

 同年南方熊楠は、連日のように大英博物館に出入りするようになります。気にいった本は例によって片っ端から書写していきました。そして「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、考古学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続きました。
 この時の筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊にも及び、紙代を節約するため小さな文字でびっしりと埋め尽くされています。

 1895年(明治28年)、大英博物館図書部長デイキンズは熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同博物館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼します。こうして熊楠は大英博物館東洋調査部員として、展示品の仏像名を考証するなど、さまざまな形で東洋美術と関わっていきました。
 熊楠は同博物館内で、袈裟を着た僧侶姿で働くなど茶目っ気のあるところを見せています。

 1897年(明治30年)には、ロンドンに亡命中の(後に「近代中国建国の父」と讃えられた)孫文と知り合い、以後親交を深めていきました。(この時孫文32歳、熊楠31歳)。

 しかし順調なばかりではありません。ここでも熊楠はトラブルを繰り返すことになったのです。その根底には、当時の欧州全体にあったひどい「東洋人蔑視」がありました。日本人である熊楠もあからさまな蔑視にあいました。
 気性の激しいところのある熊楠は、そのような屈辱を受けると腕力で対抗したため、何度も騒動を起こしたのです。人類学に造詣が深く「人類皆平等」の理念を抱く熊楠は、馬鹿げた人種差別を許せなかったのです。
 勤務先の大英博物館内でも英国人を殴りつけるなどの暴力事件を起こし、1900年(明治33年)同博物館への出入り禁止処分を受けました。

英国留学の夏目漱石と入れ替わるように帰国の途に

 その後熊楠は翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いでいました。しかし次第に困窮が極まることとなり、8年間を過ごした英国を離れる決意をします。英国生活の主目的は、研究発表や大英博物館の蔵書読破、同博物館勤務であり、米国の時のように、ロンドンを離れて英国各地を旅行することはなかったようです。
 1900年9月1日午後4時、ロンドン市内を流れるテムズ川から船は出航していきました。この時の日記には「夜、しばらく甲板に出て歩く」と短く記したのみ。時に熊楠32歳でした。

 なお翌月10月、熊楠と入れ替わるように日本の国費留学生第一号として、東大時代の同級生だった夏目漱石がロンドンに到着しました。
 漱石はロンドン滞在中に、東洋と西洋の文化、文明の違いを目の当たりにして深く悩みます。熊楠ほどの豪胆さがなくインテリ気質の漱石は、そのためひどい神経衰弱に陥りました。後に明治の文豪となった漱石にとって、このロンドン“ノイローゼ”体験は、優れた文学を生み出す一つの土壌となった側面があるように思われます。
 熊楠と漱石にはほとんど交流はなく、二人ともあまり互いの消息を知ることはなかったようです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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