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「奇想天外の巨人」南方熊楠(5)

家の柿の木から粘菌新種発見、「南方植物研究所」設立

 1916年(大正5年)、田辺市内に弟(常楠)名義で住居を購入しました。翌1917年、この家の柿の木で粘菌新種を発見しています。これに、1921年(大正10年)、大英博物館所属の粘菌学者グリエルマ・リスターによって「ミナカテルラ・ロンギフィラ」(現在の標準和名は「ミナカタホコリ)と命名されました。

 1921年「南方植物研究所」を設立しました。発起人には「平民宰相」原敬ほか33人の知名人が名を連ねました(原首相は前年の11月4日暗殺される)。翌1922年には、設立資金募集のため上京しています。寄付を募るために書いた履歴書が、常人離れした密度の濃い人生を象徴するように7m70cmにも及ぶ巻紙だったのです。それに細字の5万五千字で書かれており、「世界最長の履歴書」と言われています。
 1926年(大正15年)、同研究所設立資金作りのため『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が刊行されました。これは熊楠59歳にして初の出版であり、これを読んだ人々はあらためて熊楠の博識に感嘆しました。

 なお熊楠の卓越した語学力について触れる機会がありませんでしたので、ここで述べておきます。熊楠は、英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語にまで至る19ヶ国語を操ったと言われています。
 そんな熊楠流の語学習得の極意は、「対訳本に目を通す。それから酒場に出向き、周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけだったといいます。たったこれだけで各国語を自在に操れたら、凡人とて何の苦労もいらないはずですが…。

紀南行幸時の昭和天皇への進講と型破りな献上法

 1929年(昭和4年)、紀南行幸の昭和天皇が田辺沖合いの神島(かしま)を訪問した際、62歳の熊楠は戦艦長門の艦上で粘菌や海中生物についての御前講義を行いました。進講終了時熊楠は粘菌標本を天皇に献上しました。
 何せ戦前の天皇は「現人神(あらひとがみ)」だったのです。だから献上物は桐の箱など最上級の容れ物に収めるのが常識でした。しかし「超常識の人」熊楠は、何とキャラメルの空き箱に入れて献上したのです。
 これには周りにいた者たち全員「アッ」と驚き、固まってしまいました。ともかくその場は何とか無事収まったのでした。

 この「キャラメル箱献上」には後日談があります。天皇の側近たちの回顧談では、「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので、覚悟はしていた」とのことです。
 何と言っても一番驚いたのは天皇ご自身だったようです。熊楠の他界直後、「あのキャラメル箱の衝撃は忘れられない」と語ったというのです。幾重もの格式やしきたりにがんじがらめの天皇(当時28歳)にしてみれば、落語の『目黒のさんま』のお殿様ではないけれど、それはかえって新鮮な驚きだったのではないでしょうか。

 戦後の1962年(昭和37年)、33年ぶりに和歌山を訪れた昭和天皇は、
  雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
と詠まれたそうです。

 1930年(昭和5年、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立しました。
 また神島の自然を保護するため、熊楠は島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物としての申請を提出しています。その結果熊楠68歳の1935年(昭和10年)12月、神島は国の天然記念物に指定されたのです。

最後の死力を尽くした『日本図譜』の完成、真珠湾攻撃直後の死

 1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発し戦局が拡大しつつあった中、熊楠は体調を崩し病床につくことになりました。それでも人生の集大成として『日本産菌類の彩色生態図譜』(『日本図譜』)の完成に向け尽力しました。
 生涯にわたって採集した標本と、連日弟子たちが持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る図譜とすべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘したのです。そして4500種、1万五千枚の彩色(カラー)図譜を完成させたのです。
 なお熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んでいます。

 1941年(昭和16年)、病状が悪化し死期を悟った熊楠は、家族への形見として『今昔物語集』に署名しています。この年12月8日の真珠湾攻撃の臨時ニュースに、米英に知人の多い熊楠は絶句します。
 そしてそれから間もなくの12月29日朝午前6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に波乱万丈の人生を終えたのです。

余談ながら

 死の直前の「天井に咲く紫の花」という言葉に関連することですが、南方熊楠は「幽体離脱」や「幻覚」などをたびたび体験したそうです。
 今でこそ幽体離脱(アストラルトリップ)などが大っぴらに語られます。しかし当時の我が国はしっかりした霊的情報に乏しく、このような霊的能力については異端視されがちでした。そこで熊楠自身も密かに気に病んでいたといいます。
 これ一つ取ってみても、南方熊楠は何から何まで桁外れのまさに「奇想天外の巨人」だったと言ってよさそうです。

 熊楠が幻視した「天井に咲く紫の花」とはどんな花だったのか、余人にはうかがい知れません。しかし古来「紫」は高貴な色とされていますし、日本霊学における最奥神界とされる「紫微(しび)天界」にも通じる色です。
 それからすれば熊楠の最期の言葉は、実は「天上に紫の花が咲いている」だったのかもしれません。
 南方熊楠として宿っていた「本体(ソウルまたはスピリット)」は、地上で為すべき事をすべてやり遂げ、死を迎えると同時に、頭頂部のサラスラーラチャクラ(クラウンチャクラ)からいとも簡単に抜け出し、「紫の花咲く」高い世界に直行したのではないでしょうか。  - 完 -

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペデイア』-「南方熊楠」の項
『文芸ジャンキー・パラダイス』-「南方熊楠の生涯」
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic32.html
 (こちらのサイトは、画像豊富で緻密に考証された文章です。本シリーズの多くは同サイトの文を基に記述しました。深く感謝申し上げます。)
 

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