« 「奇想天外の巨人」南方熊楠(3) | トップページ | 「奇想天外の巨人」南方熊楠(4) »

わすれなぐさ

        ヰルヘルム・アレント
        上田 敏 訳

  ながれのきしのひともとは、
  みそらのいろのみづあさぎ、
  なみ、ことごとく、くちづけし
  はた、ことごとく、わすれゆく。

       (『海潮音』明治38年10月刊所収)

…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 上田敏による訳詩集『海潮音』収録詩については、既に『山のあなた』(カール・ブッセ)『秋』(オイゲン・クロアサン)『落葉』(ヴェルレーヌ)の3篇を取り上げています。
 『海潮音』は高校時代愛読した「青春の詩集」であるだけに、愛着もひとしおです。

 我が国初の訳詩集となった『海潮音』の各詩を味わう場合、「新体詩を生み出さん」として四苦八苦していた当時の詩歌界の事情を考慮する必要があります。だから上田敏の西洋詩の訳業というのは単なる「訳詩」ではなく、身を削るような「新たな創作」に他ならなかったのです。

 『わすれなぐさ』はたった4行だけの詩です。すべて平仮名表記で、そのまま読めばだいたいの意味が分かってしまうくらい平明です。ただ、今の私たちには漢字混じりの方がより分かりやすいので、その表記で書き直してみます。

  流れの岸の一本は、
  御空の色の水浅葱、
  波、ことごとく、口づけし
  はた、ことごとく、忘れゆく。

 (大意)とある川の岸辺に一本(ひともと)の忘れな草が自生している。花の色はさながら晴れたきょうの空の水浅葱色のようだ。
 この花に口づけするように、流れの水が次々に寄せてくる。次の瞬間、この花のことなど忘れたかのように、あっと言う間に流れ去っていく。


                     ワスレナグサ(Foget-me-not)

 原詩者のヰルヘルム・アレント(ウィルヘルム・アレント)(1864年~没年不詳)はドイツの詩人です。ドイツには忘れな草(「勿忘草」とも)にまつわる、中世の有名な悲恋伝説があります。   

 - 昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川の流れに飲まれてしまう。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ、「Vergiss-mein-nicht !((僕を)忘れないで)」という言葉を残して死んだ。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名にした。 (『ウィキペディア』-「ワスレナグサ」の項より)

 花言葉の「真実の愛」「私を忘れないでください」は、この伝説に由来するとのことです。アレントの原詩も、この伝説を踏まえて作られたものだったことでしょう。

 川の岸辺の忘れな草。うち寄せては流れ下っていく川の水。
 「川」は川そのものの流れの他に、「人生」「時間の流れ」を意識させます。だからこの詩も、うたかたの「人の世」の出会いと別れが暗示されているのかもしれません。

 上田敏の訳詩はすべて平がな表記ですが、よくみると文語体の「七五調」の構成になっています。それがかえって、忘れな草に絶えずうち寄せてくる波のような、滑らかな心地良いリズムをこの詩全体に与えているようです。

 上田敏がドイツ語の原詩をこのような平明な訳詩に出来たのは、原詩をよく咀嚼し得たことに加えて我が国国文学への並々ならぬ素養があったゆえです。
 『わすれなぐさ』を読んだ誰もが、遥か遠い異国の岸辺に咲く花としてではなく、身近な川、あるいは故郷の思い出の岸辺に移し替えられた忘れな草として味わえるのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「ワスレナグサ」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%82%B5
参考
『青空文庫』-「海潮音」(全詩収録)http://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/51172_42028.html
関連記事
『山のあなた(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_fd60.html
『秋』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_fdf3.html
『落葉』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-2111.html
           

|

« 「奇想天外の巨人」南方熊楠(3) | トップページ | 「奇想天外の巨人」南方熊楠(4) »

名詩・名訳詩」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「奇想天外の巨人」南方熊楠(3) | トップページ | 「奇想天外の巨人」南方熊楠(4) »