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本屋さんに行く

 神奈川県内を中心とした、大手書店・有隣堂(ゆうりんどう)の広報紙『有鄰』の記事をこれまでも何回か取り上げてきました。中でも2面右上部のコラム『「海辺」の創造力』は、主に横浜市在住の著名人による一文で、過去に藤原帰一氏の名エッセイなどを紹介してきました。
 今回も、今年5月20日号の同コラムから、『本屋さんに行く』という伊東潤氏の余韻の残る一文を転載します。

 伊東潤(いとう・じゅん)氏は、1960年横浜生まれの歴史小説家です。早稲田大学卒業後長くIТ業界に身を置いた後、2003年北条氏照の生涯を描いた『戦国関東血風録』でマイナーデビュー。2007年甲斐武田家の滅亡を多視点の群衆小説として描いた『武田家滅亡』(角川書店)でメジャーデビューしました。2012年『城を噛ませた男』で第146回直木賞候補となりました。

 「ぼくは本が好きな子供だった」という書き出しで始まります。曲りなりに私もそうだったので、以下共感を覚えながらスンナリ読んでいけました。
 小学校五年で『坊ちゃん』(夏目漱石)『路傍の石』(山本有三)を読んだというのには驚かされます。都会と東北の田舎町では、同じ「本好き少年」でもレベルが違うのです。ちなみに私がその2冊を読んだのは、中学校3年の頃でした。

 続いて中一の頃に吉川英治の『三国志』を読んだとあります。私の場合は中二の時のことでした。その代わり中一の時は、吉川英治『宮本武蔵』を読了しました。
 吉川『三国志』を読み始めたのは、雨がそぼ降る梅雨時のことだったと記憶しています。伊東潤氏も「寝る間も惜しんで読んだ」とのことですが、とにかく私の乏しい読書人生の中で、吉川『三国志』ほど血湧き肉躍らせながら読んだ本はほかにありません。
 そうそう、同氏が述べておられるように、六興(ろっこう)出版の二十数冊のシリーズでしたね。それを町の図書館でせっせと借りて1ヶ月足らずで読み終えました。

 次に出てくる司馬遼太郎の『竜馬が行く』。私は世の人ほどには坂本龍馬に関心がなく、代わって30代半ば過ぎ『坂の上の雲』の方を読みました。  (大場光太郎・記)

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本屋さんに行く    伊東 潤

 ぼくは本の好きな子供だった。小学校五年の頃、有隣堂伊勢佐木町店で、父に『坊ちゃん』と『路傍の石』の文庫本を買ってもらった。それが初めての文芸本の購入経験だった。
 中一の頃に買ってもらった吉川英治の『三国志』だけは、なぜか六興版のソフトカバーだった。今でも全巻、家にある。とにかく面白くて、寝る間も惜しんで読んだ。

 中三になると、部活のない休日は一人で伊勢佐木町に出かけ、テアトル横浜という名画座で二本立てを見たり、できたばかりの吉野家で牛丼を食べたりしていた。それでも有隣堂には、必ず顔を出していた。
 高一の時、『竜馬がゆく』と出会い、司馬遼太郎の虜になった。それ以来、自らの志を新たにするため、『竜馬がゆく』を十年に一度、読むようにしている。

 その頃、初めて彼女ができた。岡田奈々似の美人だった。ところが中学から男子校で、女性とデートしたことのないぼくは、どうしていいか分からない。当時はマニュアル本などなく、友人にもそんなことを知る者はいない。
 初デートの日、とりあえず映画を観ることにした。テアトル横浜というわけにはいかないので横浜東宝に行った。たまたまやっていたのがジェームス・コバーンの『スカイライダース』という何ともな映画だった。

 緊張を引きずったまま喫茶店に入ろうということになったが、当時の純喫茶は暗くて不良の集まりのような雰囲気で、いかにも敷居が高い。そこで思い出したのが、有隣堂の地下にあったレストランである。ぼくは、そこで生まれて初めて砂糖とミルクなしのコーヒーを飲んだ。コーヒーは苦かったが、ようやくホームグランドに来たという安心感が広がった。

 先日、長男が古語辞典を買うというので有隣堂に行ってみた。辞書類は地下で売っていると聞き、あの時の甘酸っぱい気持ちを思い出しながら、三十五年ぶりに地下に行ってみた。言うまでもなく当時の残り香はなかったが、この辺りに座って、彼女とコーヒーを飲んだかと思うと、感慨深いものがあった。
 彼女が今、どうしているかなど知らないが、幸せな家庭を築いていると信じたい。

 人の一生などあっという間だ。時間だけがどんどん流れていく中で、人は人に出会い、本に出会う。何気なく出会った人が生涯の伴侶になったり、何気なく手に取った本が生涯を決したりする。
 すでに家庭を持ち、素敵な女性との出会いがなくなった今、ぼくは新たな刺激を求め、本屋さんに行く。  (転載終わり)

転載元
有隣堂広報紙『有鄰』(第520号-平成24年5月10日発行)
 2面コラム『「海辺」の創造力』
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『歴史を知れば横浜はもっとおもしろい』(文:山崎洋子氏)
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