« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

続・『銀の匙』と灘校名物国語教師

 -子供たちの学力低下が深刻な今こそ、橋本先生の教育手法に学ぶべし-

 今年6月10日の、灘校の橋本武先生による「銀の匙教室」紹介文の続編です。『確か3ページ目に良い事が書いてあったのになぁ』と残念に思っていましたが、その『週刊ポスト』(昨年3月某日号)関係記事の3ページ目のコピーが最近見つかったのです。
 そこで今回は、同ページの内容を中心に紹介していきたいと思います。

 戦後間もなくの荒廃した世情を憂えた橋本先生は、「こんな時代に生徒たちに夢と希望を与える授業とは何か?」と思い悩み、たどり着いたのが、中勘助の名作『銀の匙』を3年間かけて読み進めていく授業法なのでした。
 テキストとして『銀の匙』を採用した理由を、橋本先生は次のように語っています。
 「主人公の成長と重ねて読めるし、美しい日本語があった。新聞連載されていたので一章が短く、数字が振ってあるだけで章名も付いていない。各章に生徒に表題を付けさせれば、親しみある自分の作品に変わっていく。授業にぴったりだと。」

 『銀の匙』は(明治10年代頃の)東京下町が舞台です。関西にある灘校の生徒にはなじみのない言葉や方言がそこここに出てきます。そこで物語を読み解く手助けとして、ガリ版刷りの手書きのプリントを用意して生徒たちに配りながら、橋本先生は文庫本を手にしてその部分を朗読し、ポイントとなる箇所を丹念に説明していくという授業スタイルを取ったのです。

 橋本先生は生徒たちが退屈しないように、脱線できる仕掛けも用意していました。前編でも紹介した、教え子の一人の現日弁連事務総長の海渡雄一氏は回想しています。
 「『銀の匙』の中に寿司屋のシーンが出てくるんだけど、そこで先生が『魚偏の漢字は678あります。集めてみましょう』という課題を与えた。で、図書館に行って調べたり、寿司屋で包み紙をもらったりしてね、魚偏のノートを作って。」

 また文中に「ねずみ算」という言葉が出れば、橋本先生は黒板にねずみの絵を描きながら、次のように続けました。
 「正月に夫婦のねずみが子を12匹生む。2月にはその子どもが12匹ずつ子を生む。では合わせて?」と訊ねます。生徒が「98匹」と答えると、「では、このペースでいくと、12月には?」。
 考え込む生徒たちに先生はしたり顔で教えます。「276億8257万4402匹。正解の人は?」

 時には紙袋から取り出した、赤や青や色とりどりの駄菓子を全員に配って、主人公の心情を追体験させました。橋本先生は配り終わると、ざわつく教室を制するように、「もういっぺんこの部分を読みます。食べながらでいいので聞いてください。」といいます。
 読み上げたのは、主人公が駄菓子屋で飴を食べる場面でした。
 
 「飴のなかのおたさんは泣いたり笑ったりしていろいろな向きに顔をみせる。青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると鬆(す)のなかから甘い風が出る。」 (『銀の匙』前編 十三)

 私立である灘校は中高6年一貫校で、6年間の教育方針が教師の裁量に任されているといいます。自由である反面、「結果が出なければ責任を取らなければならない」(橋本先生)という厳しさがあります。

 しかし「銀の匙教室」を始めた昭和25年入学組の生徒たちは6年後、15名東京大学に合格し、見事な結果を示したのです。昭和24年は、東大合格ゼロだったことを考えると大躍進です。
 そして3代目の昭和37年入学組は、私立校として初めて東大合格者数日本一の132名合格の快挙を成し遂げたのです。
 だが橋本先生は、「私の力なんか何も関係ない。東大を意識した進路指導をしたこともない」と控え目です。

 では、橋本先生が生徒たちに植え付けた一番の財産とは何だったのでしょうか?
 「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力こそ国語力です。それは、“生きる力”と置き換えてもいい。」

 まさにこれですよね、国語力とは。そして教育の神髄とは。英語で教育を「education」(エデュケーション)といいますが、語源は「educate」という動詞にあり、この言葉には「引き出す」という意味があります。
 橋本先生の「銀の匙教室」を体験した生徒は千人余にも上るそうです。先生は、彼ら生徒たちが潜在的に有していた「学ぶ力」「生きる力」をうまく引き出し、有為の人材として世に送り出したのです。
 橋本武先生こそは、「日本一の教育者」と言っていいのではないでしょうか。

 その橋本先生は、今年百歳を迎えられました。先生の近況を最近のNHKが番組で取り上げたようです。
 橋本先生は現在でも、朝5時に起床し、午前中は家事をこなし午後には文化教室の教壇に立ち、夜7時に夕飯を食べた後は、深夜1時まで勉学に励んでいるというのです。先生は、「人間には寿命とか年齢による限界というものはないのだ」ということを、身をもって示しておられるようです。

 橋本武先生の益々のご健勝とさらなるご長寿、心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『週刊ポスト』(昨年3月某日号)<教育再考>伝説の灘校教師の「奇跡の教室」
関連記事
『「銀の匙」と灘校名物国語教師』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-762a.html
『年齢という恐るべき共同幻想』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9e9d.html

| | コメント (0)
|

『みずうみ』を読んだ若き日のこと

 最近、近代ドイツを代表する作家・詩人シュトルム(1817年~1888年)の代表作の一つである『みずうみ』を読みました。『みずうみ』を読んだのはこれで3回目です。

 1回目は高校2年生の時だったと記憶しています。当時『みずうみ』は、伊藤左千夫の「『野菊の墓』の西洋版」というような語られ方がされていました。『野菊の墓』の方は中学校2年生の秋に読んでいて、思春期の私にかなり深刻な影響を及ぼしたのでした。
 そういう経緯があって、『みずうみ』を読んでみたというのが正直なところです。

 以前の記事で何度か述べたことですが、私の高校時代とは一言で言うと「濫読の季節」でした。高1の秋に「進学しない」となった以上、学業にはあまり身が入らず(と言うより生来の「勉強嫌い」)本を読むくらいしかすることがなかったのです。
 放課後は学校の図書館に直行するような毎日でした。その途中グランドを見やれば、野球やテニスなどの部活に汗を流す学友たちの姿が目に止まります。私は高1の秋にある部活を止めましたので、彼らに幾分引け目を感じながら。

 いざ図書館に入ると、ずらり並んだテーブルは受験勉強に勤しむ学友たちで一杯です。ここでも大いにコンプレックスを感じながら、私のみは、読んだって将来何の役に立つか分かりはしない「本」を、書棚からせっせと漁っているのです。
 同じ在校生として私にも、「彼らに負けたくない」という対抗心は一応あるのです。しかし現実には部活ではものにならず、学業ではもっと遅れを取っています。勢い「よーし、それなら全校一の読書家になってやるぞ」と、本探しがにわかに熱を帯びてきます。

 その上当時の私には、「この時期を逃せば、本をじっくり読む機会はもうないかもしれない」という予感があり、強迫観念に急かされている側面もありました。(この予感は、その後本当に当たりました。)
 これと言ったテーマもなく、手あたり次第「読みたい」となった本を借り、後はその本を汽車通学の行き帰りや家で読み耽るのみです。中には『リンカーン演説集』『(エンゲルス)空想から科学へ』『(ファラデー)ロウソクの科学』『(ヘイエルダール)コンティキ号探検記』などという変り種もありましたが、一番多く読んだのは西洋文学です。 

 その中の一冊が『みずうみ』なのでした。今の遅読家の私からすれば、当時の私は立派な速読家です。この小説もアッと言う間に読み終えたと思います。
 さてその読後感は?つい『野菊の墓』と比較しながら読み進めた私には、正直言ってそれほどの感動はなかったように記憶しています。
 むしろ当時読んだ『春の嵐』(ヘルマン・ヘッセ)『狭き門』(アンドレ・ジイド)『桜の園』(チェーホフ)『父と子』(ツルケーネフ)『嵐が丘』(エミリ・ブロンテ)『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ)『月と六ペンス』(サマセット・モーム)などの感動の方が圧倒的でした。

 ちなみに今挙げた名作群の中で、それ以後再読したのは『嵐が丘』と『若きウェルテルの悩み』だけです。そんな中、さして感動しなかったはずの『みずうみ』を二十歳の時に再読したのです。
 その証(あかし)として、旺文社文庫の一冊『みずうみ・三色すみれ』が、今も手元に残っています。その大いに変色した裏表紙の左下に、小さな几帳面な字で「一九六九、一二、二十一 読了 大場光太郎」と、赤いボールペンで書き込まれています。  

 「旺文社文庫」自体に郷愁のようなものを感じます。私が高校在学中の昭和40年代初頭頃から相次いで刊行され、「我が青春の文庫」といった趣きがあるからです。
 ご記憶の方もおありかもしれませんが、当時英語の「豆単」でおなじみの受験参考書専門の旺文社が出版し、いずれもモスグリーン色の少し厚手の美麗な表紙で統一され、同じ色の箱ケースに収納されていました。
 かなり処分してしまいしたが、高校時に求めた同文庫版『武蔵野』『ハムレット』『ロビンソン・クルーソー』などは今でも大切に取ってあります。

 ただ『みずうみ・三色すみれ』(石丸静雄訳)は、「昭和44年5月1日 重版発行」とあり当地に来てから求めたものです(定価「120円」)。
 20歳で同書をなぜ再読する気になったのか?それは今思えば、その前に求めた詩集『世界青春詩集』(藤原定編、三笠書房刊)の影響によるものと思われます。同詩集自体と、その中に収められた『ハイランドのメリイ』(ロバート・バーンズ)『アネモネ』(ベン)『林檎の秋』(ヨルゲンセン)などは『名詩・名訳詩』カテゴリーとして既に公開しました。
 レールモントフの『雲』で述べましたように、この詩とシュトルムの『町』が、同詩集の中のお気に入りの二詩なのでした。(いずれ『町』も公開予定でしたが、昨今「著作権法の厳しさ」を実感し躊躇している状態です。翻訳著作権が存続中なのです。)

 詩『町』によってシュトルムを見直す契機となり、『みずうみ』を読み直すことになったものと思われるのです。
 ただその時の読後感はまったく覚えていません。なにせ、山形から当地に来たてのこの頃が私の人生で最もヒドイ時期で、基本的に「こっちは、文学どころじゃネエんだよ」というようなやけっぱちで、ヒッチャカメッチャカ、頭脳的にも混濁状態だったのです。
 むしろそんな間隙をぬって『みずうみ』を読み終えたことが、奇跡的なことだったように思われるのです。

(補足)
 今回40年以上経過して3度目を読むことになったのは、最近の『フォレスタの「湖畔の宿」』で『みずうみ』に触れたからです。「三度目の正直」でようやくまともにこの名作を読むことが出来、新たな感動を得ることができました。近いうちあらためて「読後感を」と考えています。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『叙情歌とは何か(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e5bb-1.html
『名詩・名訳詩』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat30295875/index.html
『フォレスタの「湖畔の宿」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-d05e.html

| | コメント (0)
|

ブログの事件記事はどこまで踏み込むべきか

 -「事件記事」は多くのアクセスが見込める。しかし隣り合わせでリスクもまたある-

 森喜朗元総理引退表明が契機となった、過去の当ブログ『押尾事件の陰の主役森祐喜氏死去』記事へのアクセス集中現象。これは次の日の24日も止まりませんでした。と言うより、この日ピークを迎え、何と開設以来最高のアクセス数を記録したのです。
   24日(火)    純訪問者数    7,470人
            総アクセス数  14,790件
 25日はさすがに下火となりましたが、それでも通常より倍以上の訪問者数、アクセス数でした。

 そもそも私が当ブログを開設した4年余前は、事件や政治や芸能関係記事を公開するつもりはまったくありませんでした。それよりは身辺雑記、自然観察文や純然たるエッセイ、名詩、名曲、名文学作品などの鑑賞文などを主体としたかったのです。
 事実しばらくはもっぱらそれらのみを主体とした記事をほぼ毎日更新していました。しかし私がいくら「一記事入魂」のつもりで書いても、思うように訪問者数が伸びてくれないのです。

 ブログを運営されている方ならどなたもそうでしょうが、やはり訪問者・アクセス数の伸びこそは何よりの励みになります。そこで思い悩んだ私はつい初心を忘れて、「どうすれば視聴率(アクセス数)が取れるか?」と考えるようになりました。
 そこで話題の映画や社会的な関心の高い出来事など、いろいろなジャンルの記事にトライしているうちに、「アクセス数を増やすには事件記事が一番だ !」という結論に達したのです。

 それで徐々に従来の記事に交えて事件記事を増やしていきました。その結果が2009年の、大相撲界、小向美奈子の薬物事件を端緒とする『薬物汚染の拡がりを憂う』シリーズです。その年8月の押尾学、酒井法子事件という超ど級の薬物事件が発覚したことにより、同シリーズは結局40回以上もの大シリーズとなりました。
 また同じ年には、希代の保険金詐欺師・木嶋佳苗による男性連続不審死事件が発覚しました。これにも「待ってました」とばかりに飛びつき、『かなえの殺人レシピ』として15回のシリーズとしました。

 その他朝青龍や市川海老蔵の暴行事件などなど。それぞれが事前の予想通りの“大当たり”でした。そのつど当ブログアクセスはぐんぐん上昇していったのです。
 作り手として「ありきたりの書き方ではつまらん」とばかりに、より深部、暗部に迫るべく、いつしか各事件とも私なりに“取材”に熱中しました。と言っても、プロのルポライターのように事件現場や関係者に直接当たることは出来ません。
 そこでもっぱら夕刊紙、スポーツ新聞、週刊誌、そして貴重な情報源であるネットの2ちゃんねるなどを丹念に読み込んで、私なりに組み立て直して記事にしていったのです。

 例えば朝青龍の場合は、大マスコミが口を閉ざして報じようとしない暴行相手の川奈毅の実名を早々と特定し、川奈の来歴や闇社会とのつながりなどを暴露しましたし、事件のきっかけとなった六本木クラブ内での朝青龍の外国人ホステスへのレイプの可能性にも触れました。
 押尾学事件の場合はもっと壮大で、政治家、政治家ジュニア、警察・検察などの高級官僚、他の有名芸能人、大物アスリートなどの薬物汚染の実態や事件との関わり、それらに加えてマスコミや財界の闇社会との癒着などにまで踏み込みました。

 当初は“怖いもの知らず”で突っ走りました。が、やはりブレーキがかかったのは、(直前の『森元総理の引退表明と当ブログとの妙な因果関係』で紹介した)野口美佳元社長による「訴訟も考えます」のツィッターでの一言でした。
 総資産百億円以上で天下のワコールの個人筆頭株主から名誉毀損で訴えられ、裁判で「一千万円の損害賠償の支払いを命ずる」などとなれば、しがない私はお手上げです。第一逆立ちしても払える額じゃありませんよ。

 こちらは無報酬でブログを運営し記事更新している立場です。なのにそんな決着になればおよそ割りに合いません。また私が記事の根拠としているのは、第二次、第三次資料のたぐいで反証としては弱いのだし…。そんなこんなを考慮し、同記事及び『薬物汚染』シリーズの野口美佳氏関連のおおよそは削除したのでした。
 その結果1年ほど経過した今も、私の下に野口氏サイドからの訴状は届いておりません。

 これで事件記事トラブルは一件落着か、と思いきや。『日々雑感(13)』で少し触れましたが、最近当ブログなどココログブログ全体を統括しているニフティ株式会社より私の下に書留郵便が届いたのです。
 開設以来同社からこのような郵便を受け取るのは初めてで「ギクッ」としました。直接的には同社法務部長からで、『送信防止措置請求に係る意見照会書』という文書でした。

 内容のあらましは、当ブログのある記事に対して「権利が侵害されたと主張」され、送信防止措置請求をしてきた方がおられるため、「プロバイダ責任法」第○条第○項第○号に基づき、侵害情報の送信防止措置を講ずることについて、貴方のご意見を照会いたします、ということです。添付の回答書に記入の上1週間以内にご回答願いたいというのです。

 「名誉権」「プライバシー権」を侵害されたと主張される請求者の請求に基づく同文書に接して、私は「これは下手すると当ブログ全削除になっちゃうのか?」と暗澹たる気持ちになりました。内容は違いますが、今年2月頃『二木紘三のうた物語』以来旧知のY氏が、同氏のブログに各歌の歌詞を無断転載したカドにより、JASRAC(日本音楽著作権協会)の通報を受けた管理会社のヤフーにより全削除された“事件”があったからです。

 しかし念入りに文書を当たってみれば、当該記事の当該箇所の削除だけで済みそうな気配です。ならばお安い御用。久しぶりで当該記事を読み返したところ、他にも「よくもこんなことを書いたものよ」と思うようなかなり際どい箇所が見つかりました。それでまた面倒が起らないよう同記事全部を削除し、その旨を回答書に書いて返送した次第です。
 余談ながら。今この時期に、大物政治家の関係者からこのような請求がくるのは「いよいよ総選挙近し」を思わせます。

 長々と述べてしまいました。つまり事件記事はかなりのアクセス数が見込まれるものの、内容次第では関係者から民事訴訟を起こされたり、記事削除請求がきたりするリスクと隣り合わせだと言うことです。
 今現在の当ブログの「森元総理引退表明特需(?)」も数日もすれば収まり、平常に戻ることでしょう。それでも、1日平均800人前後の純訪問者が来てくださっています。上を見れば切りがありませんが、何も危ない橋を渡る必要はありません。
 初心に戻って、アクセス集中は見込めずとも、今後はなるべく自分が本当に書きたいことを記事にしていきたいと思います。

 ただ『押尾事件の陰の主役-森祐喜氏死去』にyamato様が、次のようにコメントしてくださっています。

日本の政官界、検察、警察組織が如何に反社会的、反民主的であり、如何に国民の利益に反する行為をしているか・・・が分るような気がします。これはある意味では国家的犯罪組織とも思われるような部分が有ると思います。
これからもこのように分りやすく、事実を知ることが出来る記事をたくさんお書き下さい。

 そうですよね。押尾事件や一連の小沢事件のように、裏に巨大な国家的犯罪、謀略の可能性がありそうな場合は、多少のリスクを承知でまたとことん追及していく所存です。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『森元総理の引退表明と当ブログとの妙な因果関係』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-a94a.html

| | コメント (0)
|

森元総理の引退表明と当ブログとの妙な因果関係

-森元総理引退の政界への影響を語るのではなく、当ブログに引きつけたお話を-

 自民党の森喜朗元首相(75)が22日の地元石川県能美市での会合で「次の選挙に出ることを見合わせたいという思いだ」と述べ、次期衆院選に立候補しない意向を表明していたことが分かった。森氏の事務所関係者が23日明らかにした。 

[時事通信社]

 ここのところ無テレビ生活の私がこのビックニュースを知るきっかけとなったのは、意外と思われるかもしれませんが当ブログアクセス推移によってです。まず昼前この日のそれまでのアクセス推移をぱっと見て、午前10時台から尋常ではない伸びを示しているのに気がつきました。
 それでさらに詳しくたどってみたところ、昨年のちょうど今頃の『押尾事件の蔭の主役-森祐喜氏死去』記事にアクセスが集中していることが分かったのです。

 押尾事件は押尾学への実刑が確定し、もうすっかり風化気味の事件のはずなのに何で今頃?結局すべてを押尾一人に押し付けて、同事件の巨大な闇はほとんど暴かれることなく幕引きとなりました。それをもって私の同事件への関心もとんと薄れてしまっていたのです。
 直後ネットニュースを見て、トップの「森元総理政界引退」の文字を見てようやく納得したのでした。

 同記事が当ブログにとって1年に1回あるかないかの「お祭状態」を引き起こしてくれたのはこれで2度目です。1回目は同記事公開日の昨年7月28日のこと。その時はツィッターと、同記事が阿修羅掲示板に転載されたことによるものでした。
 分けてもツィッターによる拡散効果は凄まじいものがありました。ただしそれは、(田中香織さん死亡事件のあっだ)六本木ヒルズレジデンスB棟一室の借主野口美佳氏に触れた(実際はかなり辛らつなことを書いた)ためなのでした。

 直後の『大変だ。野口美佳元社長に訴えられる』で述べたように、同記事はただちにピーチ・ジョンの野口元社長の知るところとなり、ツィッターで一連の弁明をされ、とどめに「一段落したら訴訟も考えます」のつぶやきとなったのでした。
 ビビった私は、翌日その記事を出すとともに『押尾事件の蔭の主役-森祐喜氏死去』記事から野口氏関連の記述を削除したのでした。

 結局23日1日の純訪問者数は5343人、総アクセス数は9868件、特にアクセス数では過去最高を記録しました。(どうせだったら1万件突破してくれればよかったのに。)
 もうこのくらいの数字になると、面倒でアクセス推移のほんの一部しかめくれません。だから断定はできませんが、今回はツィッターによる拡散はなかったもようです。「森喜朗 息子」「森元総理 長男」などの検索によるアクセスがもっぱらです。

 それと夜になってから、『陽光堂主人の読書日記』さんが森元総理引退記事の中で同記事を紹介してくださり、そちらのサイトからの訪問、そして陽光堂主人さんの記事が阿修羅掲示板に掲載されたことにより阿修羅からの訪問が結構増えました。
 なお『陽光堂主人の読書日記』は、時々に生起する政治などの事象を独自の視点から論考しておられる優れたサイトです。私も「お気に入り」に入れて時たま訪問させていただいております。

 それにしても森元総理引退表明で、既に死去した長男の森祐喜氏記事が再びこんなに注目されるとは。世間一般の“善男善女”市民(実は「B層」)はいざ知らず、ネット市民の間では、森祐喜氏は「押尾事件の蔭の主役」として定説化していることの現れです。さらには同事件の真相のもみ消しに、森元総理が関与したとされる疑惑がくすぶっている証拠なのでしょう。

 真相(?)をもう少し詳しくお知りになりたい方は、当ブログ同記事をお読みください。
 また陽光堂主人さんによれば、陰で押尾事件の再捜査が続いているらしく、「早すぎる」森元総理の政界引退はそれとのバーターの可能性もありそうです。しかし森元総理が仕切ってきた清和会は、昨年のディビッド・ロックフェラーの失脚により力を失っており、間もないとみられる総選挙の結果次第では、押尾事件の巨大な闇が明るみに出る望みもなお残されているようです。

 (大場光太郎・記)

参考
『陽光堂主人の読書日記』-「清和会のオーナー・森元総理が謎の引退表明」
http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-entry-697.html
関連記事
『押尾事件の陰の主役-森祐喜氏死去』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-26e0.html
『大変だ。野口美佳元社長から訴えられる』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-e301.html

| | コメント (0)
|

叙情歌とは何か(3)

西洋における叙情歌伝播の一例

 この項はまったく予定していませんでした。が、たまたま読みかけの西洋文学の中に「叙情歌伝播」の格好の例を見つけました。
 それはシュトルムの名作『みずうみ』(1849年)の中の一シーンです。この物語全体の読後感は改めて別に述べるとして、当該部分を少し長いですが以下に引用します。

 それにしても、登場人物のあらましくらいは述べないといけませんね。
 ラインハルトはこの物語の主人公でこの時20代後半、ヨーロッパ各地の詩歌の蒐集を専門としています。ヒロインのエリーザベトは彼より数歳若く、二人は幼なじみで、長じて恋仲になり将来を誓い合っていたのです。
 しかしラインハルトが大学生として他郷にいる間、二人の運命は狂います。エリーザベトは、ラインハルトの郷里での学友だった資産家の息子エーリヒから熱心な求愛を受け、彼女は拒み続けたものの母親の説得に折れて何年か前結婚したのです。

 舞台は夫妻(とエリーザベトの母親)が居住する「インメン湖荘」の広間です。ラインハルトは、エーリヒの招待を受けて何日か前からここに滞在していたのです。(合わせて、名作の香気もお味わいください。)

                        *

 それから二、三日して、もう日暮れに近いころ、家族の者はこの時刻のならわしで、庭に面した広間に集まっていた。どのドアもあけ放してあった。太陽はもう、みずうみのかなたの森かげに沈んでしまっていた。
 その日の午後、田舎に住む友人からラインハルトあてに民謡が少しばかり送ってきていた。それを披露してもらいたいとせがまれた。ラインハルトは自分の部屋に行って、それからすぐ、まるめた草稿を手にもどってきた。何枚かの紙にきれいに書かれた草稿らしい。
 皆はテーブルをかこんで席についた。エリーザベトはラインハルトの横だった。
 「手あたり次第に読んでみましょう。ぼく自身まだ目を通していないんです」
 エリーザベトがその草稿をひろげた。
 「楽譜がついているわ。あなた歌ってくださいな、ラインハルト」
 言われてラインハルトは、まずチロールの即興歌を二つ三つ、ときどき低い声でおもしろい節をつけながら朗読した。一座には晴れやかな気分がみなぎった。
 「でも、こんないい歌を作ったのは、いったい誰なんでしょうね?」
 エリーザベトがたずねると、エーリヒが口をひらいて、
 「そりゃ、こういう歌だもの、聞いたらわかるじゃないか。仕立屋の職人とか理髪屋とか、いずれそういった陽気な連中さ」
 ラインハルトは言った。
 「こういう歌は作られるというものじゃないんだね。生まれてくるものだよ。天から降ってきて、国じゅうを蜘蛛(くも)の糸のようにあちこち浮かびまわって、いたるところで同時に歌われるのだ。こういう歌には、ほくらのほんとうの悩みや行動がうかがわれるのだ。まあ言ってみれば、ぼくらがみんなで協力して出来あがったようなものだね」
 ラインハルトは別の一枚を手にとった。
 「高き峰にわれ立ちて……」
 「その歌なら、あたし知っててよ ! ちょっとはじめから歌ってくださらない、ラインハルト ! あたしも合わせて歌ってみるわ」
 それからふたりは、人間が案じ出したとは信じられないほどに神秘的な、あのメロディを歌った。エリーザベトはやや含み声のアルトで、ラインハルトのテノールに合わせた。
 母親はそのあいだ熱心に針仕事をつづけた。エーリヒは手を組んで、神妙に耳を傾けていた。歌が終わると、ラインハルトは黙って草稿の紙をわきにおいた。――みずうみの岸べから、夕暮れの静けさをやぶって、家畜の群れの鈴の音がシャランシャランと響いてきた。皆は思わず知らず耳をそばだてた。すると、澄んだ少年の歌声がきこえてきた。

  高き峰にわれ立ちて
  ふかき谷をば見おろしぬ……

 ラインハルトはほほえんだ。
 「ね、聞こえるだろう?ああいうふうに口から口へ伝わってゆくんだ」  (以下省略)

                        *

 それから少しして、ラインハルトは新たな一枚の原稿に書かれた「母の願いは」で始まる歌を読み上げます。この歌の詩はシュトルム自身の創作のようですが、そこにはエリーザベトの身の上そのものが書かれていて…。この詩とそれに続くシーンが『みずうみ』のハイライトの一つかと思われます。
 60ページほどの短編ですから、未読で興味を覚えた方は是非全編をお読みください。

 (大場光太郎・記)

引用
旺文社文庫版『みずうみ・三色すみれ』(シュトルム著、石丸静雄訳)
関連記事
『叙情歌とは何か(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e5bb.html

| | コメント (0)
|

叙情歌とは何か(2)

叙情歌の定義

 喜早哲(きそう・てつ)氏は『叙情歌とは?』本論の冒頭で、「叙情歌とは叙情詩にメロディをつけたものを指す」ということが大前提、と述べています。前提となる「抒情詩」とは以下のとおりです。

 抒情詩とは英語の「リリック」(lyric)にあたり、
 「客観的な事件なり人物の描写よりも(これは「叙事詩」)、主観的な感情の詠出に重点を置いた詩をいい、広くはバラード、エレジー、賛歌、ソネット、パストラルなどのこと」(『大百科辞典』)
 「リリック」の語源は、古代ギリシャの竪琴(lyra)から来たといわれています。竪琴を手に、それと合わせて一人で優雅に歌うという意味の古代ギリシャ語のリュリコス(lyrikos)が直接の語源です。

 余談ながら。「古代ギリシャ」「竪琴」で想起されるのは、オルフェウスです。
 オルフェウスはご存知のとおり、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人です。オルフェウスはまた、竪琴の名手でもありました。その技は非常に高度で、彼が竪琴を弾くと森の動物たちが集まって耳を傾けたと言われています。自然界の生物たちが耳をそばだてたということは、オルフェウスの竪琴の音色が本物であったことの証明だと思います。
 またオルフェウスの事跡として、亡くなった妻を取り戻すべく冥府に入った「冥府くだり」は有名です。

 人間はおろか自然界の生き物でさえ感動したという竪琴(リラ)の調べ、その妙なる楽の音のように読む者の心の“琴線”に響く詩の言の葉。抒情詩の語源が竪琴だったというのは「なるほどなあ」と思わせられます。

 以上みたような美しい抒情詩にふさわしいメロディがついて、初めて叙情歌になるわけです。
 喜早氏いわく、「誰がみても叙情詩の神髄だ!と思うような美しく高貴な詩でも、つけられたメロディによって、見るも無残にその夢が打ち砕かれてしまうことが往々にしてあるのです」。これは、ご自身が長年プロ歌手として音楽界に身を置いてきた人の実感なのでしょう。

 そこで喜早氏は「私の持論をいわせていただければ」として次のように言うのです。
 「詩全体を読んだとき、また声を出して朗読したときよりも、メロディをつけて歌ったほうが、さらに自分自身も感動し、そして聴く人にも、感動を呼ぶ作品でなければなりません。歌として歌うよりも、詩だけ朗読したほうが効果的でしたら、あえてメロディをつけた意味がありませんし、かえってマイナスになってしまうのです。このへんを間違えている人が意外に多いのは、悲しいことです。ただやみくもにメロディをつければいい、というものではありません。」

西洋における叙情歌の歴史

 西洋における叙情歌の歴史は古く、中世の昔から数多く作られてきました。しかし当時はテレビもラジオもなかったわけですから、唯一の情報伝達手段は、竪琴を手に、ヨーロッパやロシアを歌って旅する吟遊詩人だけだったのです。
 竪琴の伴奏だけで、愛の歌、失恋の歌、宗教歌、収穫の歌、戦いの歌などが、時に美しく、時に悲しくまた激しく歌われていったのです。

 さすがに近世に入ってからは「読み人知らず」だけではなく、ロマン派の詩人たち(シェリー、キーツ、ゲーテ、ハイネなど)による抒情詩に、ベートーベンやシューベルトたちがメロディをつけ、美しい抒情詩がさらに高貴な叙情歌に変身していったのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

関連記事
『叙情歌とは何か(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-60ba.html

| | コメント (0)
|

年齢という恐るべき共同幻想

  年齢(加齢)は幻想で美しさが現実なのです。 (高次元存在からのメッセージ)

 直前のフォレスタメンバーの年齢談義を進めていきながら、世間様より少しは進んだ考えをしていると日頃自認している私自身、「年齢という幻想」に囚われていることに気づかされました。
 いい機会ですから、今回はこのテーマについて述べてみたいと思います。

 言うまでもなく「年齢」は人間社会の重要な概念の一つです。「人生80年」の今日、ある人の年齢を知れば人生途上のどの辺にいる人なのか、どのくらいの人生経験を積んできた人なのかが分かります。
 少年、若者、壮年、老年。各年代、年齢によって社会的に、学校、職場、老人クラブなどといった棲み分けが為されます。

 今は端的に「差別社会」「階級社会」化が進行中の社会と言えます。社会的地位、金銭の所有高という差別基準が最たるものですが、年齢もレッキとした差別基準になり得ます。もちろん年が若ければ若いほど優位に立てるわけです。 
 この土台にあるのは、「人間は生まれて、成長・発展して、衰えて、死ぬ」という栄枯盛衰の考え方であり、仏教で説く「生老病死」という四苦のサイクルです。

 これは「考え方」というより、人間世界を取り巻く「動かしがたい法則」と言ってもいいほどのものです。なぜなら身の回りの誰一人として生老病死を免れた人は見当たらず、遅かれ早かれ皆この世からいなくなってしまうのですから。
 しかし古来、この生老病死のサイクルから解脱し、常人では信じられない長命を生きた人はいたのです。もちろん人類総体に比して極めて少数ですし、そういう人はめったに俗界には姿を現しません。

 たとえば昨年ご紹介しました、笹目秀和師を導いた白頭山のリョ・リンライ神仙は当時(大正、昭和初期)二百歳、崑崙山のシュロ神仙に至っては五百歳なのでした。
 不可侵の神山だった20世紀前半頃までのヒマラヤ山中には、三百歳くらいのヨギ(真実のヨガの実践者)が何人も隠棲していました。

 ヨギを束ねるババジ大聖は、アガスティアの指導により千八百年前に完全解脱を果し、以後こちらの世界とあちらの世界の往還が自由自在です。歴史上の人物であるパタンジャリをはじめ近年のパナマハンサ・ヨガナンダなど、古来ババジに会って教示を受けた人は多くいるのです。ババジは、解脱した時の20代の美しい若者の姿を保持していると言います。

 「一人にとって可能なことは万人に可能である」。ごく少数とは言え、このような「奇跡の人」が存在している以上、私たちの「加齢とともに老化し死に至る」というのは間違った社会通念と把えるべきです。
 社会通念というより、強固な固定観念、人類全体の共同幻想と言っていいものです。社会の隅々にまで「死の観念」は潜んでいるからです。
 各個人で言えば、先祖代々遺伝的に受け継がれ、体のすべての細胞、いなDNAにまで刻まれているのです。生半可な理解ではこの呪縛は断ち切れず、老化を止めることは出来ません。

 私は年齢という概念を放棄します。「わたし」は年齢のない永遠の存在なのです。

 これはあるアファーメーション(自己宣言文)の一節です。ここで言う「私」とは肉体を絶えず意識している自己(小我)、「わたし」とは肉体を超えた真実の聖なる自己(大我、真我)と言うことです。
 「不死の達成」にせよ何にせよ、「聖なる自己」(わたし)とのパイプを太くし通りを良くすることがすべての幸福生活実現のキーとなりそうです。

 各種の行法ももちろん大切です。しかしすべての出発点は「思考」です。深い理解と感情を込めた「不死の深層自己説得」は、細胞にも届きDNAすら変えてしまいます。
 こういう不死の信念体系に切り替わった人が増えれば増えるほど、「肉体は死ぬ」という共同幻想、人類全体の悪しき集合意識に風穴を開けることが出来るのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『笹目秀和師に託された重要な大本神業』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c6a2.html
『不死の探求』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat44226317/index.html

| | コメント (0)
|

ある人の「フォレスタ個人情報」から

 フォレスタにさほど関心のない人には申し訳ありませんが、前回の『フォレスタ個人情報』関連記事です。同記事に早速「おせっかい」様が大変耳よりなコメントをお寄せになりました。既にお読みになった方も多いかと思いますが、折角ですからそのコメント文を以下に転載させていただきます。

                        *

フォレスタ女性陣の年齢ですが ピアノの南雲さんが白石さんとは同級とかと言うコメントを よくブログ等で言って見えますのでソレを参考にしますと 貴方の推定よりもう少し年齢が上がるかと思われます
南雲さんはご自身のブログに生年月日を記して見えます(1977年11月)
ついでに男声陣は20代は見えません上は40代です一番若い榛葉さんが2月だったと思いますが3?歳ですと言っています榛葉 横山(1979年)今井はほぼ同じ歳です (転載終わり)

☆大垣音楽祭 フォレスタコンサート in 大垣市民会館 2012.4.15.☆

  いずれ劣らぬ美女ぞろい(左から吉野翠さん、吉田静さん、白石佐和子さん、中安千晶さん、南雲彩さん)

【私のコメント】
 「おせっかい」というハンドルネームですが、私を含め多くのフォレスタファンも、こういうお節介は大いに歓迎ではないでしょうか。おせっかい様は、女声・男声含めて日頃からかなりのフォレスタウォッチャーでいらっしゃるようです。
 こういうフォレスタ通の方がご訪問されるわけですから、私自身「うかつなことは書けないぞ」と思わせられます(汗)。でも私の性格上、今後もつい書いてしまうと思います(苦笑)。

 おせっかい様の論旨は明快です。この一文で、南雲彩さんと白石佐和子さんの年齢が、ほぼ特定されました。私も時折り南雲さんのブログを訪問させていただいておりますが、「秘密のヴェール」のフォレスタにあって、自らご自身の生年月日を述べていることは画期的です。(なお、もう一人のピアノ演奏の吉野翠さんの人気もなかなかです。吉野さんは、中安千晶さんや吉田静さんと近い年齢だと思われます。)

 これを受けて、同記事私の一文は早速修正すべきなのかもしれません。しかし同記事を公開した私の本旨は、ご訪問のフォレスタファンの方がそれをお読みになり、「なるほど」とか「ちょっと違うんじゃないか?」とか、つかの間でもお楽しみいただければそれでよろしいのです。
 おせっかい様のコメント文を参照されれば、より正確な年齢も把握できるわけですし。ですから、私の一文はそのままの形で残すことに致します。

 「女声フォレスタメンバーはできるだけ若くあってほしい」というのが、ファン心理だと思います。そこで一ファンの私もできるだけ「若く、若く」と取ったことは否めません。
 それにしても。白石さんや南雲さんがその年齢というのは想定外で、少しショックです。『小笠原優子さん、矢野聡子さん、中安さん、吉田さんも、実際はもう少し上なのかな?』と、つい考えてしまうのです。

 そうなるとやはり「知らぬが花」。各フォレスタメンバーの年齢に限らず、「○○と●●の関係」などと余計なことはあまり詮索せず、ただフォレスタコーラスの歌声を純粋に楽しむ、というのが結局はよいのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考
南雲彩ブログ『今日のつぶやき』
http://aya-nagumo-piano.blog.so-net.ne.jp/
吉田静ブログ『メッツォ・ソプラノ吉田静のビタミンCちゃん日記』(途中の画像は吉田さんブログからお借りしました。)
http://aya-nagumo-piano.blog.so-net.ne.jp/
関連記事
『フォレスタ個人情報』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-da5e-1.html

| | コメント (0)
|

フォレスタ個人情報

 -大仰なものではなく、かつてお約束の女声フォレスタの推定年齢の根拠など-

 当今の芸能人は、人気商売のつらさで、何かあるとすぐに写真週刊誌の餌食になってしまい、私生活が丸裸にされてしまいかねません。政治家は政治家で人気取りにご執心、テレビ番組に出まくったり、挙句はバラエティ番組にもひょいひょい出たりしています。
 私生活が厚いヴェールに包まれ、それゆえ得も言われぬ神秘性をまとっていた往年の名スターなど遠い過去の話です。また政治家もパフォーマンス政治家ばかりで軽くなり、かつてのような威圧するような迫力ある政治家は皆無となりました。

 「♪知りすぎたのね」。かつてのロミ・山田の歌の文句ではないけれど。また世阿弥の『花伝書』の中の有名な一節「秘するが花」ではないけれど。あまり人様のプライバシーは詮索しない方がいいようです。
 その点BS日本テレビの方針なのか、「FORESTA」(フォレスタ)メンバーの場合「フォレスタ通信」でも必要最小限の情報しか開示していません。『ウィキペディア』もその通りで、フォレスタ全体の記述がたった1ページ足らずだけなのです。「あくまでメンバーの歌声を純粋に味わってもらいたい」ということなのでしょう。

 ちなみに「フォレスタ通信」における女声フォレスタ紹介は、氏名、歌の担当パート、出身地、最終学歴、血液型です。参考に順不同で以下にざっと列記してみます。

 白石佐和子  ソプラノ  東京都  武蔵野音楽大学大学院修了  A型
 小笠原優子  ソプラノ  青森県  東京音楽大学卒業        AB型
 矢野聡子    ソプラノ  千葉県  武蔵野音楽大学卒業       B型
 中安千晶    ソプラノ  八王子市 国立音楽大学卒業         A型
  吉田静   メゾ・ソプラノ 静岡県  武蔵野音楽大学大学院修了  О型

 これだけだと何か肝心のものが抜けていると思いませんか?そうなのです、「生年月日」がないのです。これは男声メンバーもそうですが、フォレスタメンバーは全員「年齢不詳」です。「そういうことは秘密のヴェールに」というのも分かりますが、ファンとしては大いにもの足りないところです。
 そこで当ブログでも、女声各メンバーの「年齢は?」という検索フレーズが時折り見受けられるわけなのです。ちなみに「白石佐和子 年齢」というのが、5人の中では一番多いです。

 それを受けて、今年3月の『フォレスタの「花言葉の唄」』の中で、小笠原優子さん、白石佐和子さん、中安千晶さんの推定年齢を紹介しました。その中で「各人の推定年齢の根拠は5人そろった歌を取り上げた時に」と述べました。
 先日の『フォレスタの「湖畔の宿」』は5人そろってのコーラス曲でしたから、好機到来だったわけですが、歌の雰囲気といいスペースといい、とても年齢談義を取り上げる余裕はありませんでした。
 それで今回一記事設けて、かねてからのお約束を果すことにしました。

 オーディションを経て、女声フォレスタが結成されたのは2006年のことです。当初の小笠原さん、白石さん、矢野さん、中安さんの中では、中安さんが一番の目安になります。実際のところは不明ながら、中安さんは一応国立音大卒業と同時のフォレスタ入りと考えたのです。すると当時22歳として、6年後の現在では中安千晶さんは推定年齢28歳となるわけです。

 続いて吉田静さんです。吉田さんは初代メンバーから遅れて2009年3月の加入ですが、彼女はご自身のブログで「(中安さんとは)疑惑の同い年」と述べています。ということで、吉田静さんも推定年齢28歳となります。ただ同じ年とはいっても、雰囲気的に吉田さんの方が少しお姉さんという感じがします。したがって中安さんが最年少ということにしておきます。

 次は白石佐和子さんです。彼女の場合も実際のところは不明であるものの、大学院修了とともにフォレスタ加入として、当時24歳くらい。すると白石佐和子さんの現在の推定年齢は30歳となります。

 小笠原優子さんの場合は、他のメンバーとはそれまでのキャリアが大きく違います。彼女は東京音大時代「ミス東京音大」に選ばれたことは、多くの方がご存知のことでしょう。それを聞きつけてと思われますが、同大学在学中からNHK教育テレビの音楽番組『ふえはうたう』で、4年間「うたのお姉さん」を務めています。
 1993年4月から1997年3月までです。1993年といえば今から19年前のこと。彼女が大学何年の時から出ていたのかは不明ですが、仮に2年生の19歳の時とすると、現在の推定年齢は38歳となります。

 さて5人の中で一番分からないのが矢野聡子さんです。武蔵野音大卒業からフォレスタ加入までの経歴が不明なのです。ただ今春削除されたフォレスタ動画のある歌で、ある人が「矢野さんは白石さんより年上」というコメントがありました。これは確かな根拠があってのものなのか不確かですが一応この説を採用し、しかも今春ご結婚されたことなどを考慮して、矢野聡子さんの推定年齢を32歳前後と考えました。

 以上今回は女声フォレスタメンバーの年齢談義となりました。もし正確な年齢をご存知の方は是非お教え願いたいと思います。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタコーラス』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat49069329/index.html

| | コメント (14)
|

日々雑感(13)

  少年の夢何だっけ入道雲   (拙句)

 関東南部、もう少し詳しく言えば神奈川県県央地区に位置する当地では、今年はどうも空梅雨(からつゆ)傾向のようです。そりゃあ雨も時々は降りますが、梅雨晴れ間に申し訳程度といった塩梅(あんばい)です。
 しかし全国的に見た場合、先週は九州地方に停滞していた梅雨前線の影響により、熊本・大分を中心に記録的な豪雨となり、死者・行方不明の方多数という激甚災害を引き起こしました。

 当ブログには、熊本や大分の方も何人か定期訪問してくださっています。それらの人たちは常に変わらずご訪問されておられるようで、『あゝこの人たちの地方は大丈夫だったんだな』と、遠い関東の片隅でほっと一安堵しています。
 実際深刻な災害に見舞われた地方の方々には、心よりお見舞い申し上げます。

 さて話題を変えましてー。
 マイパソコン最近「受難」気味です。14日またそんな出来事が起こりました。同日夜は記事更新を予定していました。『さて今回のテーマは何で、どんな記事にしようか?』とあれこれ思案していた矢先、それは起こったのです。
 私はNТТの「光フレッツマンションタイプ」を利用していますが、その大本の電源に差し込んである線が切断されてしまったのです。

 こう言えば、いかにも他動的な原因によってそれが引き起こされたようです。が、原因はほかならぬこの私だったのです。この線を廊下との境のリビングの床に少したるみ気味に這わせています。いつもはそんな事はないのに、この時ばかりはその線をどちらかの足が引っかかり、バチンと切断してしまったのです。
 『しまった !』と思った時にはもう後の祭りです。ネットは接続できないはわ、電話、ファックスは使えないわ、さんざんです。

 つい先月のネット完全硬直から何とか立ち直ったのに、この状態ではまたしばらく記事更新が出来ません。それにこの連休中一つ仕上げたい仕事があり、それには神奈川県のホームページから書式を引っ張り出して印字・作成する必要があります。また同業務に関して依頼社の社長さんに電話やファックスでのやり取りをする必要があります。
 私は、『どうせNТТは、連休中は修理に来てくれないだろう。すべては連休明けの来週火曜日か。あ~ァ、スケジュールメチャクチャだ』とがっかりしていたのです。

 しかし物は試し、と明くる15日(日)午前中、近くの公衆電話からNТТ「光修理センター」に電話してみました。するとこれが見事に通じ、「本日午後3時過ぎになるかと思いますが、修理の者がお宅に伺います」というのです。
 NТТは前身は日本電信電話公社、今から20余年前の中曽根政権下で民間化されました。日本郵政会社と同じで、『どうせ親方日の丸体質が抜けないんだろ』と思っていたら。そういう事もあるのかもしれませんが、こと「修理」に関しては休日、祝日関係なく即日対応してくれるようです。「良いものは良い」。日頃は皮肉屋の私も、この点は大いに評価したいと思います。

 それに修理担当の人は、「前のお客さんが終わり次第順番で」ということで、午後2時頃にはもう来てくれました。もちろん有償でしたが、約45分くらいで修理は完了しました。「次から足を引っ掛けることのないように」と、線を中に包んだチューブを床に固定してくれました。これには『最初からこうしてくれていればこんなトラブルにはならなかったのに』と思わないでもありません。

 と、その件は無事一件落着となりました。しかし実は、当ブログに関してさらに困った事態が持ち上がっているのです。
 先週12日(木)午前中、当ブログなどココログブログ全体の統括会社である「ニフティ株式会社」から書留郵便が届きました。ブログ開設以来4年余になりますが、ニフティさんからこんな書面が届くのは初めてです。
 『何事?』と恐る恐るA4版封筒を開いてみますと、ビニールケースに入って何枚かのA4用紙にタイプされた、同社法務部長からの文書がありました。

 文書の内容を少し詳しくご紹介したいところです。ことは、過去のある当ブログ記事に対する請求者の方の「名誉権」「プライバシー権」侵害による「送信防止措置請求」に係ることです。が、しかし「一週間以内」の私の回答もまだ出していない状態です。よってこの件は、一段落ついた段階で(当ブログ全削除という事態でなければ)ご紹介できればと思います。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

小沢新党基本政策「5本の柱」の革新性

 -小沢新党には、旧体制(アンシャンレジーム)の破壊と創造が期待されている-

 本記事は、小沢新党「国民の生活が第一」が結党した11日発売の『日刊ゲンダイ』(3面)記事を転載するものです。

 再三述べましたとおり、私はイラク戦争報道に嫌気がさして30余年取り続けていた朝日新聞購読を止めました。そして壊れたのをきっかけに、テレビも昨年4月半ば以来一切見ていません。だから大新聞・テレビが小沢新党についてどんな報道をしているのか、皆目知りようがありません。

 1993年の細川連立内閣発足当時から、その仕掛け人となった小沢一郎を、旧勢力の一翼として、マスコミ界は有志が「三宝会」なるものを組織したりして目の仇にしてきました。
 以来マスコミ界は一連の小沢“冤罪”事件報道に端的なように、「20年戦争」と言われる執拗な「小沢バッシング」「小沢潰し」に終始してきたのです。

 だから大マスコミは、今回の新党結成でもまっとうな評価などしていないであろうことは容易に推察できます。それでなくても最近の新聞・テレビは、消費税増税に対する大キャンペーン報道に見られるとおり、「米官業」べったりの偏向、歪曲報道が目に余ります。
 「たかが夕刊紙」と笑うなかれ。今や『日刊ゲンダイ』だけが我が国唯一のまっとうな言論紙と言って過言ではない状況です。もし大新聞のみをお読みの人は、小沢新党に対する彼我の評価の落差に愕然とするかもしれません。

 もうそろそろ、「大新聞離れ」「テレビ離れ」を真剣に考えてみてはいかがでしょうか。大新聞を読まずテレビも見なくても、困ることはほとんどありません。むしろウソの情報で頭脳と心がかく乱されない分、すっきり爽やか良い気分です。 (大場光太郎・記)

                         *

小沢基本政策「5本の柱」の革新性

 7・11は、この国の「革命記念日」になるかもしれない。
 きょう(11日)、ついに小沢新党が旗揚げする。夕方、国会近くの憲政記念館で開く設立総会で、党名や党規約、綱領などが発表される。

 「民主党には綱領がない。増税法案をめぐる党内論議では、意思決定プロセスの不透明性が露呈した。いつも民主党がグダグダになる原因はここにあると指摘されてきた。まず新党の規約と綱領を発表するのは、そういう民主党へのアンチテーゼです。この2つを見るだけで、われわれの基本理念は分かってもらえると思う」(小沢新党幹部)
 綱領の根幹は、小沢が20年前から政治理念として掲げる「自立と共生」そして「国民の生活が第一」だ。

 今回は発表を見送るが、すでに基本政策の柱も決まっている。復興、反増税、脱原発、地方主権、国民との約束を守り抜くこと。この5つがベースになりそうだ。
 「すべて小沢さんが言い続けてきたことで、裏テーマは『破壊と創造』です。中央集権体制をブッ壊し、国の統治機構を根本から変える。そして、真に国民のための政治を確立するのです。壊し屋と呼ばれる小沢さんらしいでしょう?」(小沢新党関係者)

 基本政策の策定について、小沢が強調しているのは、「ワンフレーズで、伝わりやすい表現にして欲しい」ということ。マニフェストの「ペーパーレス版」だ。国民に直接訴えかけるため、冊子にしなくても、覚えやすく忘れられない一言で基本政策を表現しようというのである。

官邸デモとツィッター意識?

 「これが官邸デモのような新しい国民運動と結びつけば面白い」と政界関係者がこう言う。
 「原発再稼動反対の官邸デモは、政治の新しい潮流が生まれつつあることを実感させます。“一般の市民”が、政権に対する不満や怒りをこういう形で表現するのは初めてだと思う。『野田はNОだ !』とか『国民をバカにするな』とか、それぞれの思いを簡潔な言葉で表したプラカードを掲げているのも特徴です。彼らの気持ちをすくい上げるような政策を打ち出し、ツィッターで拡散できるようなキャッチーな表現にまとめる。そうすれば、国民運動と結びついて大きなうねりになる。小沢新党が無血の市民革命の引き金になるかもしれません」

 フランス革命に遅れること約200年。今度こそ、日本でも民衆の手で旧体制を倒し、主権を取り戻すことができるのか。すべては小沢の双肩にかかっている。  (転載終わり)

| | コメント (0)
|

小沢新党「国民の生活が第一」旗揚げ

 -党名からも、小沢新党の方が国民との約束を果そうとしているのは明らかだ-

 小沢一郎民主党本代表らは11日夕、憲政記念館で新党の結党大会を開き事実上の旗揚げをしました。代表に小沢氏が就任し、新党名は「国民の生活が第一」と決まりました。
 党名に決まった「国民の生活が第一」は、そもそも政権交代をかけた2010年夏の総選挙時から民主党が掲げてきたスローガンでした。

 新党名とした以上、民主党は今後「国民の生活が第一」というスローガンは使えないことになります。もっとも野田佳彦現政権に至って「国民の生活が第一」の政治は完全に放棄され、現政権の実態は旧自民党政権以上の「米官業の利益が第一」の政治に成り下がっていますから、今さら使うつもりもないのでしょう。

 新党には衆院議員37人、参院議員12人の計49人が参加しました。衆院では民主、自民両党に次ぐ第3勢力に、参院では民主、自民、公明に次ぐ第4勢力となります。
 小沢新代表は挨拶で、「自民、公明両党と3党合意という野合を結び、国民との約束をほごにした消費税増税法案の採決を強行した」と野田佳彦を厳しく批判し、「地域主権を確立するための行財政改革や、スケジュール感を持ったデフレ経済対策を提示していく」と訴え、エネルギー政策では「脱原発」を目指す方針を強調しました。

 ちょうどこの日、参院で消費税増税法案が審議入りしました。法案審議の行方次第では、民主党に残った造反議員らのさらなる離党も予測されます。また解散・総選挙を見据えれば、今後泥船民主党を見限る議員が続出してもおかしくありません。
 党に残った鳩山元首相のグループは、小沢グループに変わる党内野党です。小沢新党と鳩山グループは、今後とも党内外で連携していく合意ができています。
 その他橋下徹大阪市長の「大阪維新の会」や河村たかし名古屋市長など地域政党との連携もあり得ます。

 今年9月頃が濃厚とされる次期衆院選を見越して、小沢新代表は選挙対策委員長も兼務し、各選挙区に大量の候補者を擁立する構えです。総選挙では、国民の反民主・反自民票が小沢新党に集まる可能性もあります。
 49人はあくまで当座の数であり、この数は増えこそすれ減ることはないとみるべきです。

 野田の言う「決められる政治」とは、今回の消費税増税や原発再稼動のような国民のためにならない法案や政策を、ろくな国会審議や国民に信を問うことなく、自公との密室談合によってどんどん勝手に決めていく、民主主義否定の独裁政治を意味します。
 大マスコミ協賛の、国民無視の重苦しい翼賛政治が進行中なのです。

 戦時中の大政翼賛体制を髣髴とさせる、こんな恐怖政治は何としてもストップさせなければなりません。
 今までは民自公談合政治に対抗できそうな、民意を反映した政治勢力は皆無でした。しかし遂に今回、民自公と対立軸明確な小沢新党が旗揚げしました。
 小沢「国民の生活が第一」新党には是非、「第三極」どころか政権交代可能な二大政党の一方の雄党に大成長していってもらいたいものです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

赤壁

        杜牧

 折戟沈沙鉄未錆  折戟(せつげき)沙(すな)に沈んで鉄未だ錆(しょう)せず
 自将磨洗認前朝  自(みずか)ら磨洗(ません)を将(も)って前朝を認む
 東風不与周郎便  東風(とうふう)周郎の与(た)めに便(よ)からずんば
 銅雀春深鎖二喬  銅雀(どうじゃく)春深くして二喬(にきょう)を鎖(とざ)さん

…* …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …

 杜牧(とぼく)、803年~853年は中国晩唐期の詩人。晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。杜甫の「老杜」に対し「小杜」と呼ばれ、また同時代の李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される。 (『ウィキペディア』-「杜牧」の項より)

《私の鑑賞ノート》
 作者の杜牧が長江沿いの赤壁を訪れ、三国時代の「赤壁の戦い」に想いを馳せて詠んだ七言絶句です。北宋の文人・蘇東坡(そとうば)の名詩文『前赤壁賦』『後赤壁賦』とともに、古来広く人口に膾炙されてきた詩です。

 杜牧がこの詩を詠んだ晩唐期と、赤壁の戦い(西暦208年旧十月)のあった三国時代とでは、約六百数十年もの隔たりがあります。我が国で言えば、鎌倉幕府滅亡、建武の中興のあった南北朝期の事跡を今日詠むようなものです。
 ただ「赤壁」は古来有名な史実でしたから、時代を超えて伝えられてきた事跡に、杜牧の詩人としての想像力を縦横に飛翔させて、この名詩となったわけです。

 赤壁という名だたる古戦場を訪れ歩いてみるに、折れた戟が砂に埋もれているのが認められた。それは錆びてはいても未だ完全に溶け切ってはいない(そこに何とも言えない哀切さが感じられる)。実際長江のほとりの水でそれを洗ってみるに、確かに魏か呉かいずれかの古(いにし)えの武人のものに違いないようだ。
 と、発句、二句ではたまたま眼前に認められた遺物を詠じています。

 三句で詩はガラっと転じて、遠い赤壁の戦い当時の事に想いを巡らせます。
 深い夜霧に紛れて、呉艦隊が魏の大艦隊を急襲し一斉に火を放ちました。折りからの東風に、予め「連環の計」で艦船同士が互いに鎖で繋がれていたため火は次々に燃え広がり、魏の大艦隊はあっと言う間に大炎上したのです。
 もし戦いの当夜、「(天が)東風を周郎に与えなかったとしたら、戦局はどうなっていたことだろうか?」。この夜たまたま吹き募った「東風」こそは、まこと呉にとって天与の神風のようなものだったのです。
 「周郎」とは、美丈夫で「美周郎」と言われた呉軍大都督(総指令官)の周瑜(しゅうゆ)のことです。

 もし東風吹かずば、周瑜が練りに練った作戦は失敗に終わり、逆に呉・荊州連合軍に数倍する魏軍が勝利していたことでしょう。そこで結句です。
 「銅雀」とは、魏の首都である許都に直前に造営された壮麗な銅雀台という高殿のことです。戦い済んだ翌年の晩春、二喬は囲いものとなって銅雀台に幽閉されたことだろう、というのです。

 「二喬」とは呉の名家・喬家の2人の姉妹を指します。姉の大喬は先王孫策(孫権の兄)の妻となり、妹の小喬は周瑜の妻となりました。いずれも絶世の美女の誉れ高く、それは遠く魏にまで聞こえ、曹操が二喬を欲して南征を試みた、というのが『三国志演義』の通説なのです。
 ついでに。『演義』では、はじめは降伏に傾いていた周瑜に、何としても魏と呉を開戦させたい諸葛孔明が「曹操は二喬を欲しがっておりますぞ」と言い、それを聞いて激怒した周瑜が一気に開戦に傾いたことになっています。
 『レッドクリフ』では、周瑜の妻の小喬を、アジアナンバーワン美姫(これは私個人の評価)のリン・チーリンが演じました。

 ただお断りしておかなければならないのは、杜牧が訪れた赤壁は有名な「偽の赤壁」らしいことです。
 直前の『赤壁は長江の右岸か、左岸か?』で見ましたように、現在実際の古戦場として有力視されているのは、湖北省赤壁市西南の「赤壁山」です。対して杜牧や後代の蘇東坡が訪れたのは、湖北省黄州市西北の長江北岸の「赤鼻山」だったというのです。

 この赤鼻山は実際の古戦場ではなかったものの、杜牧がこの地でこの詩を詠んだために赤壁の古戦場とみなされるようになった、という経緯があるようです。さらに後の蘇東坡の名詩文『赤壁賦』によって、この地は実際の古戦場より有名になり、「東坡赤壁(別名、文赤壁)」と呼ばれるようになりました。

 一説では、杜牧と蘇東坡の両詩人とも、ここが実際の戦場ではなかったことを承知の上でそれぞれの作品を作ったとも言われています。
 しかしいずれも真に迫った赤壁の名描写であり、それこそが優れた詩人の想像力の賜物と言うべきです。

 (大場光太郎・記)

参考
蘇東坡『前赤壁賦』『後赤壁賦』
http://www.geocities.jp/sybrma/115zensekihekinohu.html
関連記事
『「赤壁」は長江の右岸か、左岸か?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3ec0.html

| | コメント (0)
|

「赤壁」は長江の右岸か、左岸か?

-「赤壁がどっち岸でもどうでもいいじゃん」。でも壮大な歴史ロマンの一こまとして-

 9日、当ブログアクセス状況をチェックしていて、以前の記事への興味深い検索フレーズが目に止まりました。それは、
  「中国 赤壁は長江の右岸ですか 教えてください」
というものです。

 ご存知の方も多いかと思いますが、「赤壁(せきへき)」とは中国「三国志」の時代、百万を号する魏の曹操の大軍と呉の孫権と荊州の劉備の連合軍との間で、天下分け目の大戦が行われた長江沿いの地名として古来有名です。
 「大変良い質問です」。というのも、ブログの格好の記事ネタを提供していただいたのですから(笑)。

 先日の『本屋さんに行く』でも触れましたように、中学2年の夏吉川英治の『三国志』を一気通貫に読了して以来、私は大の「三国志ファン」です。
 ですから08年秋に本邦公開された『レッドクリフpartⅠ』については、『レッドクリフ&三国志』という7回シリーズその他、翌09年春のバートⅡ公開時には『レッドクリフpartⅡを観て』という正・続記事を出しました。
 それだけに、どなたかのこの質問に余計興味を惹きつけられたわけなのです。

 「赤壁が長江の右岸かって?そりゃ右岸じゃなくて左岸だよ」。私は瞬間的にそう判断を下しました。と言うより、今の今までそう信じて疑わなかったのです。
 なぜなら。曹操率いる魏の大軍は、諸葛亮(孔明)を軍師に迎えたばかりの劉備のいる荊州をあっという間に制圧し劉備軍を夏口に追いやり、長江左岸に大陣地を構えて、長江を挟んで、右岸から南に広がる広大な呉と対峙したはずだと考えていたからです。

 なお一般的に河川における「右岸」「左岸」とは、川上から川下を見て右側を右岸、左側を左岸と呼びます。念のため、神奈川県厚木土木事務所の担当部署に電話で確かめましたから間違いありません。当地の一級河川・相模川で言えば、「下流の相模湾の方向を見て立って右手の厚木市側が右岸、左手の海老名市側が左岸」となるわけです。
 この区分は、全国的というより万国共通だと思われます。

 その後、肝心の「赤壁は長江の右岸か左岸か」についても調べてみました。その結果、私の見当は「大外れ」だったことが判明したのです。ネットで赤壁付近の概略図を確かめたところ、何と「赤壁は右岸」だったのです !
 「赤壁は長江の右岸ですか」という質問は正鵠を得たものだったわけです。

124004236550416126126_akaheki

 いやあ、分からないものです。と言うことは、魏大軍の南征に当たり、「主戦か降伏か」で呉の国論が二分されていた隙に乗じて、魏軍は長江を渡り呉の領土に侵入し、長江右岸の一部(赤壁一帯)を占領していたことになるわけです。

 ただ「赤壁大戦」のあった西暦208年旧十月(新暦11月下旬)は、我が国て言えば卑弥呼の時代、弥生時代末期です。そんな大昔であるため、赤壁も一つに特定されておらず、長江・漢水沿いに数ヶ所存在しているようです。
 その中でも、現在の湖北省赤壁市西南の長江南岸に位置する「赤壁山」が実際の古戦場として最も有力視され、「三国赤壁(別名、武赤壁)」と呼ばれているといいます。この場合でも「長江南岸」とは、地勢的に「長江右岸」と同義となります。

 私はもう一つ勘違いをしていたことに気がつきました。川幅の広い長江を挟んで左岸の西北側に魏軍、目と鼻の先の斜め対岸となる右岸の東南側に呉軍が対峙しているとイメージしていたのです。
 しかしそうではなく、長江上流の赤壁に陣取った魏軍に対して、霧深い初冬のある晩「火計」を秘めて、呉の大都督・周瑜の号令により「数キロ下流」の呉の陣地から呉艦隊が攻め上った、というのが真相のようです。

 赤壁に陣取る上流の魏軍は西、対して下流に位置する呉軍は東。だから魏の大艦隊を火計によって一挙に焼き滅ぼすには、その季節には吹くはずのない川下から川上に吹きつける「東南(たつみ)の風」がどうしても必要だったのです。
 そこから『三国志演義』では、呉に派遣されていた天才軍師・諸葛孔明が、南屏山に築いた七星壇で「東南の風を祈る」という有名な物語となったわけです。

 「祈七星壇」そして「赤壁大戦」については『レッドクリフ&三国志(6)(7)』で活写再現(?)していますので、興味がおありの方は是非ご一読ください。
 それにしても、今回のご質問は私自身大変勉強になりました。それとともに、この件のみならず他の事でも固定観念的に誤って覚えていることが意外に多いのかもしれない、と反省させられました。

 (大場光太郎・記)

参考(引用地図も)
『ウィキペディア』-「赤壁の戦い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
関連記事
『本屋さんに行く』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-0f79.html
『レッドクリフ&三国志(6)-祈七星壇』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-39cb.html
『レッドクリフ&三国志(7)-赤壁大戦』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-a907.html

| | コメント (1)
|

叙情歌とは何か(1)

はじめに

 当ブログでは『名曲-所感・所見』『フォレスタコーラス』カテゴリーを設け、昔懐かしい歌謡曲、唱歌、童謡などの名曲を紹介しています。
 それらの名曲を私は一くくりで「叙情歌」と判断しています。それらを取り上げている私は、自分を「人後に落ちない“叙情歌好き”」と勝手にそう考えているのです。

 さてそれではと、人に「叙情歌って何?」と聞かれたとします。きっと答えに窮すると思います。しばらく考えて、「叙情歌とは・・・つまり、そのぅ・・・叙情的な歌ということですよ」。そう答えるのが精一杯でしょう。
 「あゝそうですか」と納得してくれればもうけもの。しかしさらに「私がお聞きしたいのは“叙情的な歌”とは何か?ということなんですけど」と突っ込まれれば、もうお手上げです。つまり日頃「叙情歌通」を自認(?)していながら、肝心の「叙情歌とは何か?」ということについてほとんど何も知らないということを白状せざるを得ないのです。

 「叙情歌の定義」について明快に定義するのは、私のような素人のみならず、歌手や作詞・作曲に長く携わってきた音楽のプロでもけっこう難題であるようです。
 この難問について、ダークダックスのメンバーの一人の喜早哲(きそう・てつ)氏が真正面から取り組んで明快な論を展開しておられます。
 ダークダックスは既にご存知かと思いますが、昭和20年代慶応ボーイによって結成された国民的コーラスグループです。2011年1月高見澤宏氏(パクさん)の急逝、佐々木行氏(マンガさん)の長期療養で、喜早哲氏(ゲタさん)と遠山一氏(ゾウさん)の2人だけになったため以後活動休止中です。

 喜早哲氏が叙情歌論を展開しているのは、今から十数年前に発売された『美しき歌 こころの歌-新叙情歌ベスト選集』(発売:音楽教育センター)というCD集のA4版別冊付録においてです。
 60ページ弱のこの小冊子は『鑑賞アルバム 私の好きなうた』と銘うたれており、「私の好きな歌 愛され続ける歌 叙情歌」として声楽家の鮫島有美子さんとの対談、「わが心のうた」として叙情歌アンケート・ランキング、「私の1曲」、(以前本居長世で取り上げた)「叙情歌作家物語」、「叙情歌に誘われて、45年の旅路~僕たちの叙情歌」というダークダックス4人揃っての座談会など、叙情歌情報満載です。

 そもそも喜早哲氏は、このCD集全体の監修者であるのです。その責任において「叙情歌とは何か」を明らかに定義する必要性があったのでしょう。そこでこの小冊子のメーンとして、「叙情歌とは?」という喜早哲氏の論文が掲載されているのです。
 喜早氏はまず包括的定義として、「(叙情歌とは)世の中の森羅万象を、叙情的に歌い上げたものを指すのです。」としています。これだと先ほどの私の説明より少し専門的定義となりますが、もしこれだけで終わってしまえば大いに物足りません。

 次に喜早氏は、大辞書からの叙情歌の定義を探る試みをしておられます。しかし「叙情」はあっても「叙情歌」は載っていないというのです。ちなみに「叙情」とは、
  「自分の感情を言い表すこと」(大辞林)
  「自分の感情を述べ表すこと」(広辞苑)
 『えっ、こんなのが叙情の定義か?』と落胆してしまうような、杓子定規で「叙情性のかけらもない」記述ではありませんか。

 喜早哲氏はさらに「大百科事典」を当たってみたところ、「抒情詩」は載っていても「叙情歌」は見当たらなかったといいます。同氏は、「結論 ! どの辞書の編集者も、音楽の心がなかったようです。」と結論づけています。
 これはかつて『花泥棒も罪なの?』(2008年7月)で紹介した、「六法全書のどこにも“愛”という言葉はない」というある人の嘆きと共通するものがありそうです。

 「そこで、こうなったら私自身の独断と偏見で、『叙情歌』の定義を作ろうと、使い古した脳細胞を奮いおこして挑戦することにしました。」と述べ、以下6ページにも及ぶ「叙情歌論」を展開しておられるのです。

 当ブログご訪問の方々の関心は千差万別です。フォレスタファンのように根っからの歌好きの方もおられれば、関心はもっぱら政治的な分野、芸能記事や事件記事、スピリチュアルな分野…という方もおられます。しかし私は「本質的に歌が嫌いという人はいない」と考えます。
 それにそもそも当ブログの開設(2008年4月下旬)そのものが、『二木紘三のうた物語』の二木先生のお勧めによるものです。事情により、国民的音楽サイトの感のある同サイトとは疎遠になったものの、今でも二木先生には深く感謝しているのです。

 歌(叙情歌)に関心のある人もそうでない人も。この際わが国の(明治期以降の)古き良き歌を見直し、次の世代につなげていくためにも、喜早哲氏の論を大いに参考に「叙情歌とは何か?」を掘り下げていきたいと考えます。
 途中間を空けての数回シリーズになろうかと思いますが、予めご了承ください。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

フォレスタの「湖畔の宿」

-この歌のヒロインは現代女性に通じる。女声フォレスタが歌って違和感がない-

   (「フォレスタの湖畔の宿」YouTube動画-ただし新バージョン)
    https://www.youtube.com/watch?v=L2Z69FpWk6M 
    
    

 本記事は、2008年8月18日に『名曲-所感・所見』として既に公開しました。元となったのは、毎度ながら「二木紘三のうた物語」中の『湖畔の宿』の私のコメント(2008年2月22日)です。改めて読み返してみますと、少し(かなり)気恥ずかしい一文ですが、まずはそのコメント文をそのまま今回も掲げます。
 その上今回はタイトルも『フォレスタの「湖畔の宿」』として、リニューアル公開することとしました。

 (以下、「二木うた物語」-『湖畔の宿』の私のコメント文)

 この歌は、ストーリーがくっきりとイメージできます。メロディに旅情をかきたてられます。ヒロインの姿が絵になってます。
余計なことながら、以下に私なりのトレースを試みます。
                        *
 たとえばシュトルムの『みずうみ』など。「湖」は、ロマンチックな叙情や旅愁といったものを連想させます。そんな「山の淋しい湖」に、傷心の若い女性が「ひとり来た」のです。「えっ?」。何かわけありな物語のプロローグです。

 ヒロインは多分、都会に住む女性なのでしょう。女性の「胸の痛み」は失恋に決まってます。それに「耐えかね」ながらも、そんな気持ちにふんぎりをつけるためにやってきました。
 都会で味わった悲痛な恋は、都会の中にい続けては救いがたい袋小路に迷い込むばかり。かといって、本当に帰りたいふるさとには、事情が事情だし…。そこで彼女は、この湖に。

 着いてすぐに、儀式を行います。携えてきた、恋人からの古い手紙を「焚き捨てる」ことです。湖から奥に入った、人目につかない木立の陰で執り行います。斎主自らの恋の未練の「お焚き上げ」です。恋人との、あれほど甘美だった、だが急に暗転してしまった痛ましい思い出が、うすい煙となって立ちのぼり、新緑の梢に消えていきます。

 たそがれ時、静謐を湛えた湖のほとりの林道を散策します。豊かな自然の中を歩くほどに、静かな諦観が訪れ、既に乾いたはずの瞼からまた涙がこぼれ落ちます。しかし、それは浄化の涙です。
   雲は流れてむらさきの  薄きすみれにほろほろと  いつか涙の陽が落ちる
心にくいばかりの、詩的な表現です。

 夜は湖畔の宿で、ふるさとへの便りをしたためます。「ランプ引き寄せ」に時代を感じます。帰れないふるさとに便りを出すことによって、心の中で擬似的にふるさとから都会への再出発の誓いとします。
 再出発の前途はいかに。今度こそ良い恋ができますように。彼女はトランプに託して一人占います。「青い女王(クィーン)」。その象意とは?
 「青」クール、知性。「女王」気高さ、気ぐらい。彼女はクールビューティ?それゆえの「淋しさよ」?

 戻っていった都会の雑踏にまぎれて、ヒロインはその後どのような運命をたどったのでしょう。興味深いところです。  (コメント文引用終わり)

                        *
 こうして『湖畔の宿』の歌詞をたどって見てきますと、昭和15年(作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一)に発表されたこの歌のヒロインは、現代の最先端女性にも通じるメンタリティがありそうです。
 『フォレスタの「湖畔の宿」』。私などから見れば最先端女性の代表例である女声フォレスタのこの歌は、何の違和感もなく聴くことができます。

 珍しく女声5人勢ぞろいのコーラスです。1番と3番は、全員が一つに融けあったように息の合ったコーラスで見事です。この歌の雰囲気が実に良く醸し出されています。
 2番は矢野聡子さんの独唱で、中安千晶さん、白石佐和子さん、小笠原優子さん、吉田静さんの4人がバックアップしています。なるほど、以前のどなたかのコメントにあった矢野さんの「頭のてっぺんから抜けるような澄んだ高い声」は、この歌の独唱に打ってつけのようです。

 既フォレスタ記事でも再三述べたとおり、矢野聡子さんは今年3月の「フォレスタ通信」で「結婚、フォレスタ活動休止」が発表されました。
 (既に削除された)昨年のお2人のフォレスタ各動画中のコメントで最も人気の高かったのが矢野さんです。どうやら結婚後も「さとちゃん人気」は一向に衰えないようです。当ブログのフォレスタ関係へのアクセスからもそれがうかがえます。何日か前3日連続くらいでトップ面左サイトの検索フレーズランキングに、「フォレスタ 矢野聡子」が躍り出ていました。

 実際5人の女声フォレスタの中でも、「フォレスタ 矢野聡子」「矢野聡子」「矢野聡子 結婚」などのフレーズでのアクセスがダントツです。「矢野さんの魅力って何なの?」。私には解明できませんが、矢野さんはつくづく不思議な人です。
 検索フレーズの中には「矢野聡子 結婚相手は誰?」というのも時折りあります。「さあ分かりません、私には。矢野さんご本人か他のフォレスタメンバーに直接お聞きください」。

 ステージ前面中央部を湖(みずうみ)に見立てたブルー、その湖畔に5人の女声フォレスタが佇んでいるという設定のようです。背景には木立のシルエット。心憎いステージです。黒いドレスもこの歌にフィットしていますね。
 ところで、矢野聡子さんの独唱は独唱として。皆さんにとって、『湖畔の宿』のヒロインに最もイメージが近いのは5人の中のどなたでしょうか。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタコーラス』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat49069329/index.html
『フォレスタの「高原の宿」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-712f.html

| | コメント (0)
|

【民主党分裂】小沢元代表ら50人離党 !

 -長期的政界停滞前線模様を引き裂く大光芒。小沢グループ離党、新党結成 !-

民主分裂:小沢元代表ら50人離党届 政権運営厳しく

毎日新聞 2012年07月03日 00時01分

 民主党の小沢一郎元代表は2日、自身を含む50人(衆院38人、参院12人)の離党届を輿石東幹事長に提出した。その後、記者団に近く新党を結成する考えを示した。消費増税法案の衆院採決で大量の造反者を出した民主党内の混乱は、96年の旧民主党結党以来初めての大規模な分裂に発展した。民主党は衆院の単独過半数を維持しているが、小沢グループの残留組や鳩山由紀夫元首相ら消費増税反対派をなお党内に抱え、野田佳彦首相の政権運営は厳しさを増した。

 元代表は用意した文書を国会内で読み上げ「新党の立ち上げも視野に入れ、政権交代の原点に立ち返るために離党した」と宣言した。消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案について「消費増税の先行を民主、自民、公明の3党合意で押し通すことは、国民から政策を選ぶ権利を奪い、民主主義を根底から否定する行為だ」と批判した。 (転載終わり)

                         *

【私の所感】
 2010年6月2日、鳩山由紀夫首相&小沢一郎幹事長(いずれも当時)のダブル辞任後を襲った(現野田政権につながる)菅直人ら「偽民主党」幹部連中による民主党壟断が現在まで続いています。
 この2年余は、例えてみれば今の梅雨時の空模様のようなもの。ドンヨリ澱んだ停滞前線がこの国の政局に張り付いたように閉塞的な、うっとうしい政界空模様でした。

 菅前政権下での尖閣諸島沖の中国漁船衝突問題、3・11大震災復興、福島原発事故収束など、野田現政権ではТPP参加問題そして今回の消費税増税問題などなど。政権与党としての鼎の軽重が問われかねない重大問題に対して、国民の期待を裏切り続けてきました。

 偽民主党幹部らが政権担当した2年余の結果は「無残」の一言です。そのつど右往左往、シドロモドロ、およそ政権の体(てい)を為していませんでした。
 現野田政権に至っては、2012年9月の政権交代時の国民との約束であるマニフェスト完全放棄となる、消費税増税法案通しのために3党密室談合により自公の修正案丸呑みという、民主主義否定の禁じ手まで使ってきました。

 この2年余の間の重大局面で、「偽民主党」現民主党幹部らとことごとく衝突、対立してきたのが「正統民主党」小沢一郎元代表率いるグループです。しかし何せ多勢に無勢、正統小沢グループは連戦連敗、そのつど苦汁、煮え湯を呑まされてきました。
 小沢元代表にはその上、自身にかぶせられた冤罪事件によって、検察、最高裁事務総局、マスコミ、現民主党幹部らによる政治謀略・弾圧で政治的“座敷牢”状態に置かされてもきました。

 松木謙公衆院議員のように我慢ならず既に離党したメンバーもいますが、小沢元代表及びグループ総体としてよくぞここまで隠忍自重してきた、と思わざるを得ません。
 政局全体を俯瞰してみれば、なるほど「消費税増税」「原発再稼動」が焦眉の急になっている今が、マニフェスト放棄の偽民主党と袂を分かつベストタイミングだったのかもしれません。

 俯瞰的視野を持たない視野狭窄の新聞論説委員などは、「小沢氏離党後の展望描けず」などと書き立てています。「ご心配くださらなくてけっこうです」。
 小沢元代表は皆さんよりずっとワイドな俯瞰的視野を持っていますから。消費税増税法案成立阻止、民自公野合政権誕生阻止、対立軸明確で真正な二大政党制を根付かせるための政界再編…の秘策を胸に秘めての離党、新党結成なのですから。

 卑近な問題として。今回の離党は衆参50人でも、毎日記事にあるとおり、小沢グループ残留組、鳩山グループなどの造反者がまだ多数党内に残っています。小沢元代表は今後の重大局面で党内外どこからでも野田「偽」民主党を揺さぶられます。いざとなれば、小沢新党単独での内閣不信任案提出もあり得ます。
 野田佳彦、仙谷由人、岡田克也、前原誠司ら、個利個略の権力亡者たちはいずれ悶絶する局面に追い込まれるのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考
【民主分裂】小沢氏離党表明全文 (msn産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120702/stt12070219170026-n1.htm

| | コメント (0)
|

財務官僚による「6・26クーデター」 !?

-「脱・官僚」を掲げて発足した民主党政権。野田に至って財務官僚に乗っ取られた-

 先週26日に衆院で可決された消費税増税法案をめぐって、今回は政治から少し離れて別の観点から見ていきたいと思います。
 同法案は衆院を通過し、参院に送られ今後は参院での審議を経て8月上旬同院で採決される運びです。参院でも民自公3党が談合・合意するわけですから、よほどの事がない限り消費税増税法案は成立する公算が大です。
 その結果、2014年4月1日から(第一段階として)現行の5%が8%に引き上げられます。

 この展開を喜んでいるのは、(海の向こうの米国は一応除外し)霞ヶ関官僚群、財界、大マスコミなど国内旧勢力です。消費税増税により、国民生活並びに圧倒的多数の中小零細企業が一段と不利益をこうむる中、これら旧勢力は増税により潤沢な恩恵に預かれるからです。
 中でも「官庁の中の官庁」と言われる財務省が一番大喜びしています。

 2009年9月、「脱・官僚」「政治主導」を掲げて発足したのが民主党政権でした。もし民主党政権が霞ヶ関なかんずく財務官僚と死ぬ気で対決し、国家予算の一般会計、特別会計に徹底的にメスを入れ、官僚の天下りを廃絶し、星の数ほどある独立行政法人など不必要な組織を統廃合していれば、当初目標の年間16、8兆円の財源は簡単に捻出出来ていたはずなのです。
 しかし、検察・マスコミによる政治謀略によって小沢一郎首相でなかったことが運の尽き。鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦と3代の首相をいいようにあしらい、結局官僚たちは自らの「聖域」には一歩も踏み込ませませんでした。

 その結果が、大マスコミという“旧勢力拡声装置”による「社会保障や福祉に充てる財源がない」「消費税を上げる以外方法はない」大キャンペーンだったのです。
 こうして財務官僚をはじめとした霞ヶ関官僚群は、自分たちの省益をいささかも損なうことなく、むしろ増税によって国民の窮乏を尻目に益々権益太りすることが確定したのです。
 この由々しき事態について、筑波大学名誉教授の小林弥六氏は「6・26クーデターは歴史に残る」として以下のように続けています。

 「財務省が国会を占拠し、自分たちの独裁政治を始めるべく、クーデターを起こしたようなものです。財務官僚が裏で暗躍し、民・自・公による談合が国会と民主主義の機能を停止させたのです。昔は陸軍が政党政治を殺した。いまは財務官僚が同じようなことをしている。これはとんでない話です。今後、選挙を経て、どんな政権が生まれても、権力亡者の政治家は数を求めて談合し、その政権を財務省が裏で操ることになるのでしょう。2012年の6・26は歴史の転換点になるのではないか。これを境に日本は転落するような気がしてなりません」

 思えば旧大蔵省の時代から、財務省の力の源泉は「国家予算を一手に握っている」ことです。中央集権的に全国津々浦々から「税」という形で国民のカネを集め、この国の財布の紐を握っているのが財務省です。次年度の国家予算も各官庁への予算付けや各都道府県への補助金配分も、すべては財務官僚の匙加減一つです。
 そんな彼らにとって、小沢元代表が唱えるような「地方主権」「地方への財源委譲」など到底認めることは出来ないのです。こうして厄介なことに、あらゆる改革に「予算の主」財務官僚が立ちふさがり続けるのです。

 財務官僚が生き生きとその手腕を発揮するのは、ふんだんにカネのある上げ潮経済の時に限られます。バルブ崩壊後の「失われた20年+α」のような縮小経済期にはお手上げで何の役にも立ちはしません。かえって、今回のように国民からさらなる血税をむしり取るような邪道に走るのが関の山です。
 彼らはしょせん「予算配分屋」なのであって、デフレを脱却して景気浮揚させる良策や日本が世界恐慌を回避するための知恵など持ち合わせてはいないのです。

 野田佳彦という勝栄二郎財務次官の傀儡によって、よりによって経済の舵取りが最も困難なこの時期に、財務官僚という最悪の亡国連中に政権が渡ってしまったと言うべきです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『日刊ゲンダイ』(6月29日3面)
関連記事
『霞ヶ関官庁街訪問記(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-fbb5.html

| | コメント (0)
|

「原発再稼動反対」官邸デモ15万人集結

 -次は、消費税増税の黒幕・財務省にも同規模デモで詰め寄せたらどうだろう-

 ワシントン・ポスト紙は今年4月、野田首相を「ここ数年でもっとも賢明な首相」とベタ褒めしました。同紙がその根拠として挙げたのが、①消費税引き上げ②原発再稼動③沖縄の米軍基地問題④ТPP参加の4つです。
 どれも国民の利益にならないものばかりです。しかしこのすべては米国の国益には適うのです。そこで米国〔奥の院〕御用紙のワシントン・ポストは、この4つに邁進するポチ野田は大歓迎なのです。

 先週はさながら「消費税増税政局週間」の様相でした。しかしいかんせん「米官業」旧勢力総がかり、なおかつ3党野合の強力な布陣の前に、同増税法案は事前の予想通り民自公の圧倒的多数によって衆院で可決し、参院に送られることになりました。
 衆院採決では、民主党内から小沢グループを核として70人の造反があり、小沢グループは衆参50人ほどで今週はじめにも離党・新党結成の運びです。残念ながら、衆院でも少数与党に転落する衆院議員54人には及びませんが、それでも野田政権がこうむるダメージは計り知れません。

 消費税増税法案にばかり気を取られていたら。月が変わった本7月1日は、大飯原発が再稼動される日なのでした。
 再稼動を直前に控えた6月29日、2度目となる大規模「官邸」デモが行われました。「米官業」が大喜びする再稼動ですが、国民は怒っています。そしてその怒りは本物です。官邸前に集結した人たちの数がそのことをはっきり示しています。

 以前の『日本国民はなぜおとなしくなったのか』でみましたが、私たち国民の正当な抗議手段であるデモでさえ、これまではほとんど活用してきませんでした。しかし遂に国民が怒り、「むしろ旗」を掲げる時がきたのです。
 これだけ大規模になったのには、ネットによる「草の根民主主義」の力が大きかったようです。昨年吹き荒れた中東革命が想起される展開です。1回目は無視した大マスコミも、2度目の今回は報道せざるを得なかったようです。

 以下に、『日刊ゲンダイ』(6月30日発売号3面)記事を転載します。

                       *

「原発再稼動反対」官邸デモ 15万人集結の迫力

 関西電力の大飯原発3号機が1日、再稼動される。3・11の福島原発事故後、全国50基の原発はすべて停止していたから、大飯原発が再稼動1号となる。
 これに国民の怒りが爆発だ。先週22日、官邸への抗議デモには4万5000人が集まったが、29日はその3倍以上となる15万人(主催者発表)が参加したという。

 デモ開始は午後6時。その2時間前には、プラカードなどを所持した人々が集まり始めた。会社帰りのサラリーマン、子連れの夫婦、学生、女性グループや外国人も。約2時間にわたり「再稼動反対」「福島を返せ」とシュプレヒコールを上げ続けた。
 その間も参加者は増え続け、車道にまで人があふれる事態に。現場は、警視庁の機動隊員が100人以上で警備にあたるものものしさだった。

 「夫も仕事後合流し、家族みんなで抗議します。子どもへの放射能被爆が心配です」(2児の子連れの母親)
 「放射能は、目に見えない、危険性を予測もできない。若い人に残してはダメ」(10回以上デモ活動に参加する73歳女性)
 20歳の会社員の女性は、
 「友人を誘って来ました。これだけの日本人が行動を起こすのも珍しいと思って」と話す。みんな本気だ。

 それでも野田はノンキなもの。官邸から公邸に徒歩で移動する途中、「大きな音だね」とSPに話したが、立ち止まろうとはしなかった。25日の国会では「デモの声は官邸にも届いている」と答弁。聞く耳を持っているというふりをしていたが、やはりポーズだったのか。消費税増税といい、原発再稼動といい、この男に国民の思いは届かない。 (転載終わり) 

| | コメント (2)
|

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »