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叙情歌とは何か(3)

西洋における叙情歌伝播の一例

 この項はまったく予定していませんでした。が、たまたま読みかけの西洋文学の中に「叙情歌伝播」の格好の例を見つけました。
 それはシュトルムの名作『みずうみ』(1849年)の中の一シーンです。この物語全体の読後感は改めて別に述べるとして、当該部分を少し長いですが以下に引用します。

 それにしても、登場人物のあらましくらいは述べないといけませんね。
 ラインハルトはこの物語の主人公でこの時20代後半、ヨーロッパ各地の詩歌の蒐集を専門としています。ヒロインのエリーザベトは彼より数歳若く、二人は幼なじみで、長じて恋仲になり将来を誓い合っていたのです。
 しかしラインハルトが大学生として他郷にいる間、二人の運命は狂います。エリーザベトは、ラインハルトの郷里での学友だった資産家の息子エーリヒから熱心な求愛を受け、彼女は拒み続けたものの母親の説得に折れて何年か前結婚したのです。

 舞台は夫妻(とエリーザベトの母親)が居住する「インメン湖荘」の広間です。ラインハルトは、エーリヒの招待を受けて何日か前からここに滞在していたのです。(合わせて、名作の香気もお味わいください。)

                        *

 それから二、三日して、もう日暮れに近いころ、家族の者はこの時刻のならわしで、庭に面した広間に集まっていた。どのドアもあけ放してあった。太陽はもう、みずうみのかなたの森かげに沈んでしまっていた。
 その日の午後、田舎に住む友人からラインハルトあてに民謡が少しばかり送ってきていた。それを披露してもらいたいとせがまれた。ラインハルトは自分の部屋に行って、それからすぐ、まるめた草稿を手にもどってきた。何枚かの紙にきれいに書かれた草稿らしい。
 皆はテーブルをかこんで席についた。エリーザベトはラインハルトの横だった。
 「手あたり次第に読んでみましょう。ぼく自身まだ目を通していないんです」
 エリーザベトがその草稿をひろげた。
 「楽譜がついているわ。あなた歌ってくださいな、ラインハルト」
 言われてラインハルトは、まずチロールの即興歌を二つ三つ、ときどき低い声でおもしろい節をつけながら朗読した。一座には晴れやかな気分がみなぎった。
 「でも、こんないい歌を作ったのは、いったい誰なんでしょうね?」
 エリーザベトがたずねると、エーリヒが口をひらいて、
 「そりゃ、こういう歌だもの、聞いたらわかるじゃないか。仕立屋の職人とか理髪屋とか、いずれそういった陽気な連中さ」
 ラインハルトは言った。
 「こういう歌は作られるというものじゃないんだね。生まれてくるものだよ。天から降ってきて、国じゅうを蜘蛛(くも)の糸のようにあちこち浮かびまわって、いたるところで同時に歌われるのだ。こういう歌には、ほくらのほんとうの悩みや行動がうかがわれるのだ。まあ言ってみれば、ぼくらがみんなで協力して出来あがったようなものだね」
 ラインハルトは別の一枚を手にとった。
 「高き峰にわれ立ちて……」
 「その歌なら、あたし知っててよ ! ちょっとはじめから歌ってくださらない、ラインハルト ! あたしも合わせて歌ってみるわ」
 それからふたりは、人間が案じ出したとは信じられないほどに神秘的な、あのメロディを歌った。エリーザベトはやや含み声のアルトで、ラインハルトのテノールに合わせた。
 母親はそのあいだ熱心に針仕事をつづけた。エーリヒは手を組んで、神妙に耳を傾けていた。歌が終わると、ラインハルトは黙って草稿の紙をわきにおいた。――みずうみの岸べから、夕暮れの静けさをやぶって、家畜の群れの鈴の音がシャランシャランと響いてきた。皆は思わず知らず耳をそばだてた。すると、澄んだ少年の歌声がきこえてきた。

  高き峰にわれ立ちて
  ふかき谷をば見おろしぬ……

 ラインハルトはほほえんだ。
 「ね、聞こえるだろう?ああいうふうに口から口へ伝わってゆくんだ」  (以下省略)

                        *

 それから少しして、ラインハルトは新たな一枚の原稿に書かれた「母の願いは」で始まる歌を読み上げます。この歌の詩はシュトルム自身の創作のようですが、そこにはエリーザベトの身の上そのものが書かれていて…。この詩とそれに続くシーンが『みずうみ』のハイライトの一つかと思われます。
 60ページほどの短編ですから、未読で興味を覚えた方は是非全編をお読みください。

 (大場光太郎・記)

引用
旺文社文庫版『みずうみ・三色すみれ』(シュトルム著、石丸静雄訳)
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『叙情歌とは何か(2)』
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