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フォレスタの「北帰行」

 -北の故郷へ「帰りたい、でも帰れない」。そんな私は心の中でだけ「北帰行」-

  (この歌のYouTube動画はURL表示のみ。)
   http://www.youtube.com/watch?v=hTm7kuhyMys

 まず『北帰行』にまつわる、私自身の子供時代の思い出を記した一文を以下に転載します。この一文は、当初『二木紘三のうた物語』のこの歌のコメントとして出し(2008年4月22日)、のちに二木紘三(ふたつぎ・こうぞう)先生にお願いして、『少年時代のトリックスター』(同年8月20日)というタイトルで当ブログ『名曲-所感、所見』カテゴリーに移し替えさせていただいたものです。

                        *

 昭和35年、私が小学5年の初秋頃。お世話になっていた母子寮に、一人の男が訪れました。(『北帰行』が一般に広まる前でしたから、確かその年だったと思いますが、あるいは翌年だったかもしれません。)

 東京から来た人ということでした。今思えば、流れの興行師といった人だったでしょうか。40代くらいの中肉中背、ダンディな感じの人だったと記憶しています。その人が、集会室でその夜手品をしてくれるというのです。私たちは、楽しみに待ちました。
 その人が、夕方寮の玄関近くで遊んでいた私たち小学生何人かに、「町内を一回りしてくるけど、一緒に行かないか」と誘ったのです。滅多に乗れない車ですから,一も二もなく乗せてもらいました。途中ある店で停まって、お菓子を買ってもらったりして、帰りました。
 
 その夜寮内のお母さん方、子供たちが集会室に勢ぞろいして、その人が繰り出す手品に熱狂しました。特に度肝を抜かれたのは、探していたトランプが、指名されて立った友人の、あるはずのない、ワイシャツの胸ポケットから出てきた時でした。一同びっくり拍手喝さいでした。

 その人は去っていきました。その後、拍手喝さいした手品のトリックが、ばれてしまいました。友人があっさりばらしたのです。車で町内を回って、途中で車を降りた時、その友人はいくらかの小遣い銭をもらって、ポケットにトランプを忍ばせるのを引き受けたというのです。それ以外にも、寮内のあるお母さんを口説いた…。
 その人が去った後の評判は、あまりいいものではありませんでした。

 しかし、良いものを一つだけ残していってくれました。『北帰行』の歌です。
 手品が終わって子供たちが引き上げてから、その興行師とお母さんたちによる懇親会が催されたそうです。その時、「こういういい歌があるんだが」といって黒板に歌詞を書いて、お母さんたちが覚えるまで、指導してくれた…。
 おかげで、この歌は寮内全部に広まりました。私も、母からか先輩からか教わって、すぐ覚えました。素直に良い歌だと思いました。子供のくせして、「♪さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か」などと口ずさんでおりました。

 だが、これにも裏話があります。その人は、「この歌は、私が作った歌だ」と言ったというのです。これにはまんまと騙されました。私も『違う』と分かったのは、ずっと後になってからのことです。
 その人にしてみれば、『どうせこんなとこ、二度と来ないんだ。その場さえうまく取りつくろえりゃあそれでいいんだ』てなもんだったのでしょう。
 
 しかし、二木先生の『星影のワルツ』での解説のように、この人も東北の片田舎町を転々とどさ回りしている我が身の境遇を、『北帰行』に重ねて、本当に歌と同化していたのかも知れず。表向きの口八丁、手八丁は世を渡るペルソナ(仮面)で、実は夜宿屋で寂しく独り酒を呑んでこの歌を口ずさんでは、「涙流れてやまず」だったのかも知れず…。

 今改めて聴いてみて、『本当に良い歌だなあ』と再認識致しました。
 私にとって、北は「望郷の方位」です。  (転載終わり)

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 次に『北帰行』にまつわるエピソードを、二木先生のこの歌の《蛇足》を中心にご紹介します。

 この歌を小林旭が歌って大ヒットしたのは昭和36年のことです。が、実際に歌が作られたのは意外と古く昭和16年5月のことでした。作者は宇田博(うだ・ひろし)。宇田は当時、旧制旅順高等学校の2年生でした。
 宇田は旧制一高を受験するも失敗し、満州は奉天(現瀋陽)の親元に帰り、結局新設されたばかりの旅順高校に入学したのです。

 宇田はあるとき、市内の文房具屋の娘と親しくなります。このヤッチャン(女の子)は背は低いもののとびきりの美人だったそうです(女声フォレスタで例えれば、さわちゃん<白石佐和子さん>かさとちゃん<矢野聡子さん>か)。宇田自身校則を破るのに喜びを感じるような「鬱勃たる反抗心」の持ち主で、この娘を連れ回して一緒に酒を飲んだり映画を観たりしました。
 深夜二人でいるところを高校の教官に目撃され、宇田は素行不良のトガで放校処分をくらってしまいます。

 宇田博は再び親元の奉天に戻ることになりました。が、その直前旅館で「敗北と流離の思い」を込めて一気に書き上げたのが、五聯からなる元々の『北帰行』の歌詞だったのです。宇田は旅館に友人たちを呼び、曲をつけて出来上がったばかりの歌を披露しました。
 友人たちは涙を流して聞き入り、口伝えに覚え、歌詞を書き写しました。なおこの歌は、正式ではないものの旅順高校の応援歌として(終戦によって同校が廃校となるまで)歌い継がれました。

 宇田は再度内地に行き一高に再挑戦し合格、戦後東京大学に入学しました。東大卒業後東京放送(ТBS)に入社、後に同社常務、監査役を歴任しました。(1995年8月9日没)

 この歌は昭和30年代半ば頃、東京都内の「歌声喫茶」で若者たちによって好んで歌われていました。宇田博の母校となった、一高、東大から徐々に広まっていったという説が有力です。
 ある時敏腕歌謡曲プロデューサーがこの歌を発見し、小林旭に歌わせたところ、昭和36年秋以降の大ヒットとなったのです。
 その折り作詞者捜しが行われ、宇田自身の名乗り出と、友人の一人が持っていた写しが決め手となって「作詞、作曲:宇田博」が確定したという経緯があったようです。

【追記】
 肝心のフォレスタコーラスについて述べるスペースがあまりなくなってしました。
 男声フォレスタ6人(右から、大野隆、川村章仁、今井俊輔、榛葉樹人、横山慎吾、澤田薫)による堂々のコーラスです。大変珍しいことに始めから終わりまでピアノ伴奏なしのアカペラです。
 男声陣は「声という最も基本的な楽器」だけを頼りに、この難しいコーラス法に果敢に取り組んでいます。
 結果、アカペラであることによってかえって、この歌の、北へと追放されて行かんとする落魄の悲愴調を重厚に表現し得たと思われます。

 二木先生は、「小林旭の歌はちょっと違うんじゃないか」と感想を述べておられます。日活映画「渡り鳥シリーズ」の印象が強すぎて、小林旭が歌うと「流れ者のさすらい歌」のようになってしまうというのです。(ただし、宇田博自身は小林旭の歌が大変気に入り、「オレが死んだら、お経も何もいらない、この歌を流してくれ」と、親族や友人たちに言っていたそうです。)
 その点男声フォレスタ6人によるコーラスでは、原曲のもつ「知的無頼を気取る青年の挫折のようなもの」(二木先生の表現)が、見事に再現されていると思われるのです。

 (大場光太郎・記)

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