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中勘助『銀の匙』

 -老若男女を問わず、一度は『銀の匙』をお読みになることをお奨めします-

 小説家の中勘助(なか・かんすけ)の『銀の匙(ぎんのさじ)』は10代の頃から知っていて、私の中では「いつか読んでみるべき必読の一冊」になっていました。しかしなかなか読む機会が得られず、同作品の岩波文庫版を求めたのはずっと後年、平成に入った40歳頃のことでした。
 そして私にとって『銀の匙』は読み通せない一冊でもあったのです。以来20余年の間に何度かトライしてみたものの、「前篇」の10ページほどを読んだところで、いつ投げ出してしまっていたのです。

 なぜなのでしょう?私たち“大人”の「精神体(メンタルボディ)」は、テレビドラマがもてはやされているのを見ても分かるとおり、とても「ドラマや事件が大好き」です。だから小説を読む場合でも、ついついスリルとサスペンスに富んだストーリー展開のものを求めがちです。
 しかし『銀の匙』の場合冒頭から、作者の中勘助自身と思われる主人公の、東京下町の神田界隈の幼年時代の細密な日常体験が延々と綴られていて、読んでいて飽きてしまうのです。

 今思えば、それはつくづく浅はかな読み方だったと言うべきです。今回とにかく最後まで読み終えることができました。これを後押ししてくれたのは、灘校の国語教師だった橋本武先生です。
 『「銀の匙」と灘校名物国語教師(正・続)』でご紹介しましたように、橋本先生は灘校在職中、国語の授業で3年間を通して『銀の匙』だけを唯一の教材として教えるという甚だユニークな教育手法を貫かれたのでした。

 同記事を公開したのに、私自身が冒頭の何ページかでほっぽり放しではお話になりません。
 それと橋本先生の「銀の匙教室」における指導法の一端を紹介しながら、『一冊の作品にこれだけ情熱を注げるということは、この本自体に何かあるんだろうな』と興味が湧き、最後まで読み通すパワーのようなものをもらったのです。

 この作品の「前篇」が発表されたのは明治44年の夏、中勘助27歳の時のことでした。前篇は、この世の記憶が始まった幼年期から10歳頃まで。大正2年に発表された「後篇」は、そこから17歳の夏まで。全篇が克明な自伝的物語で、時代的にはほぼ明治20年代ということになるのでしょう。

 発表当初文壇ではさほど注目されなかったようです。その価値をいち早く認めたのが夏目漱石だったのです。漱石が「未曾有の秀作」とまで絶賛したゆえんはどこにあるのか?私の下手な所見を述べるよりは、岩波文庫版の和辻哲郎の「解説(の結論部)」を引用する方が早そうです。
 なお和辻哲郎(わつじ・てつろう)は、『風土』などの名著で知られる戦前を代表する思想家です。少し長いですがズバリ核心に迫った名文です。

 「『銀の匙』には不思議なほどあざやかに子供の世界が描かれている。しかもそれは大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である。子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は、(漱石の語を借りて言えば)、実際他に「見たことがない」。大人は通例子供の時代のことを記憶しているつもりでいるが、実は子供として子供の立場で感じたことを忘れ去っているのである。大人が子供をしかる時などには、しばしば彼がいかに子供の心に対して無理解であるかを暴露している。そういう大人にとっては、人の背におぶさっているような幼い子供の細かい陰影の描写などは、実際驚嘆に価(あたい)する。ああいうことは、大人の複雑な心理を描くよりもよほど困難なのである。こうなると描かれているのはなるほど子供の世界には過ぎないが、しかしその表現しているのは深い人生の神秘だと言わざるを得ない。 昭和十年 和辻哲郎」 (引用終わり)

 これで、今まで何度か読もうとして、いつも10ページ以下くらいでそれ以上読み進められなかった大きな理由が分かりました。
 私は「子供の体験した子供の世界」を描いたこの作品を、「子供として子供の立場で感じたことを忘れ去った」大人の立場の意識で捉えすぎていたのです。『銀の匙』を読了できなかったこれまでの我が20余年は、(この国の「失われた20余年」同様)振り返ってみてロクなものではありません。
 和辻哲郎にあらためて指摘されてみると、「大人」とはつくづく「子供の哀れな成れの果て」のような気がしてきます。

 しかし、独り中勘助だけは違っていたのです。まさに「子供の体験を子供の体験として」真実描き得た稀有の作家と言うべきです。
 当ブログ開設当初『インナーチャイルド』という拙詩で、私は「内なる子供の開放の重要性」を暗に示したつもりでした。しかしこうしてみると、先ずもって「インナーチャイルドの解放」が必要なのは、他ならぬ私自身なのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
中勘助『銀の匙』(岩波文庫)
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