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横浜外国人墓地のこと

-「墓地に歴史あり」などとは変な話だが、同墓地には興味深い歴史があった-

 有隣堂書店の広報紙『有鄰』の9月10日号2面に、斎藤多喜夫という人の『「横浜外国人墓地に眠る人々」にみる居留地社会の主役たち』という一文が掲載されています。繰り返しますが有隣堂とは、主に神奈川県内を中心に多数の店舗を持つ大手書店です。同書店広報紙記事はこれまでも何度か取り上げてきました。
 斎藤多喜夫氏は横浜開港資料館等調査委員で、『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂書店刊)は斎藤氏が著わした本です。

 この一文では、横浜港を見下ろす高台(横浜市中区山手地区)にある横浜外国人墓地(単に「外人墓地」とも)の歴史やそこに眠っている著名だった人たちなどについて述べているのです。これを読んで同墓地の意外な事実を知り、目からウロコの感じがしました。
 同文はかなり長文ですが、それに『ウィキペティア』の記述も加えて、今回は同墓地について簡単に見ていきたいと思います。

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 横浜外国人墓地のそもそもは、ご存知のペリー来航に端を発します。
 1854年(嘉永7年)ペリー率いる米艦隊が横浜港に寄港していた際、ある若い水兵がフリゲート艦「ミシシッピ」のマスト上から誤って転落死したのです。「海の見えるところに墓地を設置してほしい」というペリー提督の意向を受けて、横浜村(当時)の真言宗増徳院の境内墓地の一部に墓地が設置され埋葬されたことに始まります。
 同墓地はキリスト教形式の墓石が多い外国人の墓地なのに、元々は仏教寺院墓地だったというのは面白い話です。

 その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められました。以来四十数ヵ国、約4,870人が眠っています。

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 それではかつて横浜に居留し(外国人墓地に葬られ)た外国人社会の主役とはどんな人たちだったのでしょうか。
 それは「ビジネスに励み、生活を楽しんだ人々」が中心であり、そして彼らは「居留地の貿易と産業を担った人々」でもあったのです。
 国籍別となると、当時の世界の超大国だったイギリスが一番でした。数が多いだけではなく、彼らの生活規範が外国人社会全体をリードもしていたのです。
 その規範を一言で言えば「英国紳士」となりますが、その「理念型」としてキルビーという人物が挙げられます。

 キルビーは1873年に来日し、1884年に独立してキルビー商会を興しました。ヴィクトリア・パブリック・スクールの設立に尽力し、外国人商業会議所、クライスト・チャーチ、山手病院、居留地消防隊の委員を務めました。
 スポーツマンでもあり、横浜クリケット&アスレチック・クラブの会長も務めています。日本アジア協会の創立時からの会員であり、フリーメーソンの重鎮でもありました。

 キルビーの人物像から浮かび上がってくる「英国紳士」とは、しっかりした経済的な基盤を持ち、公共事業に尽くし、スポーツマンであり、教養人であり、社交性に富んだ人のことというような理想的人物像です。
 キルビーのようにすべての要素を兼ね備えた人物を「ゼネラリスト」とすれば、ほかにも元英国領事館員で弁護士のラウダー、貿易商のキングドンやモリスン、医師のウィラーら多士済々の英国人が横浜居留地にはいました。

 ゼネラリストとは別に、スポーツや音楽など特定の分野に秀でた「スペシャリスト」たちもいました。

 スポーツ関係としては、競馬の日本レース・クラブや陸上競技の横浜クリケット&アスレチック・クラブ、水上スポーツの横浜ヨット・クラブなどがありました。
 また日本アジア協会という専門性の高い日本研究団体があり、外国人が研究の中心だったものの、横浜の貿易商も会員として運営を支えました。
 さらに音楽も盛んでした。パットン夫人はプロの音楽家でしたが、横浜児童トニック・ソルファ合唱団を組織しました。セミプロのカイルは横浜アマチュア管弦楽団を指揮し、アマチュアのグリフィンは横浜フィルハーモニック協会を指揮しました。

 社交団体としては、横浜ユナイテッド・クラブとフリーメーソンがありました。前者の会長は外国人社会の名士の指定席でした。前者が会員でなくても利用できる「開かれた団体」だったのに対して、後者は入会資格に制限があり、奇妙な儀式や教義を持ち、非公開を原則とする「閉ざされた団体」です。
 (ここで詳述はしませんがー。近代フリーメーソンは表向きの友愛団体とは裏腹に、イルミナティ結社とともに、現世界システムや世界的出来事を奥の奥からコントロールしている謎の秘密結社です。)

 ご存知かと思いますが、現在外国人墓地に葬られる外国人はいません。その意味で同墓地は、横浜開港史中の重要な遺構の一つなのです。
 そうなってしまった最大の出来事は、1923年(大正12年)の関東大震災でした。同震災は東京のみならず横浜市街地にも激甚な被害をもたらしました。これによって、それまで親密に結ばれていた居留地社会は、日本を離れて地球上の四方八方へと散っていってしまったのです。

 「破滅以前の横浜」は、異質な価値観や生活様式を持つ人々が共存し、民族と文化の多様性を許容する、日本の歴史においては稀有な国際都市でした。
 だがそれもノスタルジックな遠い「過去の思い出」であり、残されたのは外国人墓地だけになってしまったのです。
 (なおあまり知られていませんが、横浜にはここのほかにあと3ヶ所、外国人墓地があります。)

 (大場光太郎・記)

参考・引用
有隣堂広報紙『有鄰』(9月10日号2面)
『ウィキペディア』-「横浜外国人墓地」の項
有隣堂広報紙の関連記事
『神奈川県の米軍基地(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-cc89.html
『神奈川県の米軍基地(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post.html
『ほんとうの横浜』(文:藤原帰一氏)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-b57f.html
『歴史を知れば横浜はもっとおもしろい』(文:山崎洋子氏)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-9cbf.html
『本屋さんに行く』(文:伊東潤氏)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-0f79.html

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