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街灯は何のためにある?

              渡辺 白泉

  街灯は夜露にぬれるためにある

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 渡辺白泉(わたなべ・はくせん) 大正2年、東京赤坂生まれ。慶大経済学部卒。学生時代「馬酔木」「句と評論」に投句。鋭峰をあらわすが、「京大俳句」「天香」に加わり、新興俳句弾圧に巻き込まれ検挙された。当時三省堂に勤務、「俳句叢刊」編集中であった。以後執筆を禁じられたが、戦後も俳壇に関わりをもたず、中学、高校の教師として過ごした。諷刺と批評性をもつ俳詩人だった。『白泉句集』『全句集』がある。昭和44年没。 (講談社学芸文庫、平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 最初にお断りしておきますが、街灯は「夜露にぬれるためにある」ものではありません。今のセチ辛い世の中、そんな理由で高いお金を出して街灯を設置する酔狂人などおりません。
 では、街灯は何のためにあるのでしょう。ずばり、
 「街灯は夜道を照らすためにある」
のです。

 真っ暗闇の夜道を照らし出し、通行人が安全に歩けるよう、また痴漢防止など防犯上の面から、街灯は設置されるのです。それでは、
 「街灯は夜道を照らすためにある」
は、何の言葉でしょう。もっと街灯設置を呼びかけるための標語でしょうか。いや、あまりにも常識的で、陳腐すぎて標語にすらなりそうにありません。

 もちろん詩の言葉でもありません。
 土台、この世の常識に密着した言葉を並べただけでは、「詩」にはなり得ないのです。そういう一般常識、社会通念、固定観念の位相を、少しばかり(大いに)ずらしたところに「詩」は生まれるものです。

  街灯は夜露にぬれるためにある

 そうするとこういう句ができるわけです。一見するとまるでナンセンスなギャグのようです。しかし俳句は元々は「俳諧(はいかい)」。諧謔味(かいぎゃくみ)、面白み、つまり今で言う「ギャグっぽさ」を含むものなのです。

 なお「夜露」は、秋に出来やすいことをもって、秋の季語となっています。夜露が発生するメカニズムを調べてみるのも面白いかもしれませんが、ここでは「風のない晴れた夜に発生する」(角川文庫『俳句歳時記 秋の部』)とだけしておきます。

 「窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく …」 (『北帰行』より)
 諧謔味とともに、この句にはそんなストーリーにも発展しそうな叙情味もまたありそうです。

 一般常識、社会通念、固定観念…。がちがちの管理社会では、使う言葉の意味すら厳しく規制され、制限されてしまいがちです。「言葉の自由度」がなくなるのです。(典型的なのが官庁通達文や法律文書。)
 「自由」こそ私たちが求める根源的欲求ですから、がんじがらめの不自由な社会は「生き苦しい(息苦しい)社会」です。

 渡辺白泉のこの句の真意がなへんにあるのか、作者ならぬ身には分かりません。しかしこの句には、そんな社会へのアンチテーゼ、そんな社会を笑い飛ばす視点が潜んでいるようです。
 
 (大場光太郎・記)

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