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洞庭湖三詩(2)-李白

  陪族叔刑部侍郎皣及中書賈舎人遊洞庭
  (族叔の刑部侍郎皣及び中書賈舎人に陪して洞庭に遊ぶ)

         李白

  洞庭西望楚江分  洞庭 西に望めば楚江(そこう)分(わか)る
  水盡南天不見雲  水尽きて南天 雲を見ず
  日落長沙秋色遠  日は落ちて長沙(ちょうさ) 秋色(しゅうしょく)遠し
  不知何處弔湘君  知らず 何れの処にか湘君(しょうくん)を弔(とむら)わん

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

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《私の鑑賞ノート》

 本来なら『遊洞庭(「洞庭に遊ぶ」)』という短いタイトルの方がすっきりしてよかったはずですが、さしもの李白(りはく)も縦の人間関係に気をつかったものか、長い注釈つきのタイトルになっています。
 このタイトルを見ていくとこの詩を作ったときの背景が見えてきますので、以下に説明してみます。

 「族叔」とは李白と直系の親族ではないものの、同族であり、世代的に李白の父の弟に当たることを示す言葉です。「皣」とは李皣(りよう)という人物のことで、唐の皇族の子孫だといいます。
 言われてみればなるほど、後に李白自身が宮廷で仕えた玄宗皇帝の名は李隆基。唐は李氏が建てた国なのです。と言うことは、今回初めて知ったことですが、李白自身も唐の皇族に連なる詩人だったのでしょうか。

 李皣の職名である「刑部侍郎」とは、法律・刑罰を管掌する刑部庁次官といった官職です。
 また「中書舎人」とは詔勅などを起草する職名です。その職にあった「賈」とは詩人の賈至(かし)のことで、賈至の詩は『唐詩選』にも採られています。

 この詩は賈至と李皣が洞庭湖に舟を浮かべて遊んだ折り、李白が同行して作ったもので、五首の連作のうち第一首です。年齢も官位も、李白は二人より低かったので、「陪」といったのです。
 この詩の大意は以下のとおりです。

 「洞庭湖から西方を望めば、楚江の流れは幾筋にも分かれている。湖水の尽きるところ、南の空には、一点の雲もない。日は落ちかかり、長沙のかなたまでも、秋の気配ははるかに続く。悲劇の女神、湘君を、どこでとむらうことにしようか。」 (岩波文庫『唐詩選(下)』より)

 ここで「楚江」とは長江(ちょうこう)の洞庭湖付近における別名で、「長沙」とは同湖の南にある町の名です。

 「湘君」とは長沙を通って洞庭湖に流れ入る湘江(しょうこう)の女神で、洞庭湖の女神ともされています。元は、中国開闢の王朝の初代天子の尭(ぎょう)の娘で、次の天子となった舜(しゅん)の妃となりました。あるとき舜が南方を巡察中に死んだのを悲しみ、湘江に身を投げて神となったと伝えられているのです。
 自身も洞庭湖に流入する川である汨羅江(べきらこう)に入水自殺した、戦国時代の憂国の詩人・屈原(くつげん)の『九歌』の中にも、その故事が謳われています。

 七言絶句のこの詩の結句で、「不知何處弔湘君」と詠んだのが、何といっても出色です。現前する広大な洞庭湖に、太古の女神を描いたことでさらに時間的な広がりも与えているようです。

 この詩は、李白による湘君の「魂呼び歌(たまよびうた)」であるようにも思われます。湘君の御霊(みたま)よ、今何処(いずこ)におわすか。
 黄昏(たそがれ)迫る洞庭湖に、秋の気配がいよいよ増し加わるばかりです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『唐詩選(下)』(岩波文庫、前野直彬注解)
関連記事(李白の詩)
『静夜思』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-755c.html
『蛾眉山月歌』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-33a2.html

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コメント

 盛唐を代表する、というより中国史を代表する「詩仙」李白による「洞庭に遊ぶ」の詩です。元々李白は長江の源流である蜀(現在の四川省)の出身ですから長江とは縁が深く、他にも長江に関する詩を多く残しています。酒豪でもあった李白は、長江に浮かべた舟の中でしたたかに酒を飲みながら、水面に移った月を取ろうとして誤って水に落ちて死んだという「いかにも、らしい」伝説が残されています。

「湖」はロマンチックな情趣をかもし出す場所です。特に有数の名湖である洞庭湖を李白が詠んだからには。結句で古代からの同湖の女神・湘君に触れています。

 湖は神秘性とも深く結びつきます。最近読んだ原文訳『水滸伝』では、梁山泊軍最後の戦いとなる江南の叛徒・方臘(ほうろう)討伐では多くの義兄弟が戦死します。中でも水滸伝のスターの一人、浪裏白跳・張順(ろうりはくちょう・ちょうじゅん)の死はとりわけ悲劇的です。

 水の中に何日でも潜っていられる張順は、西湖(さいこ)のほとりの難攻不落の杭州城に侵入すべく決死行を企てます。夜中に西湖を泳いで対岸にある同城の湧金門から城内に入り、城の内と外から呼応して攻めるための尖兵になろうとしたのです。泳ぐ前、張順は自分がもまれて育った荒れがちな尋陽江(じんようこう)とは違う穏やかで美しい西湖を一望し、『あゝこんな湖で死ねたら本望だ』と思います。

 調べてみると、湧金門の水面下には敵の侵入防止のための水柵が設けられており、潜って侵入することは出来ません。そこで張順は湧金門によじ登っての侵入を試みるも企ては失敗し、城壁の上から敵軍の矢を無数に浴びせられ水の中で無残にも死んでしまいます。首は城壁の上に竹竿で吊るされたのです。

 直後張順は、血まみれの姿で総頭領の宋江(そうこう)の前に永の暇乞いに現われます。それだけではありません。死後も張順の魂魄は杭州城主の方天定(ほうてんてい-偽王方臘の太子)をマーク、ある時兄の張横(ちょうおう)に乗り移り逃亡中の方天定を討ち取り、その首を取って馬に跨りながら、入城していた宋江にその首を差し出すのです。乗り移られた兄の張横は直後われに返りますが、それが元で病死してしまいます。

 霊力の強い張順を深く敬い、宋江は生き残った兄弟たちを引き連れ、張順が戦死した湧金門で懇ろに弔いの儀式を執り行いました。

 その後張順は西湖湖底にある竜宮に水神の一員として迎えられ、徽宗皇帝からは金華将軍の名を追贈され、張順を祀るためほとりに廟が建てられたといいます。

投稿: 時遊人 | 2018年10月14日 (日) 02時13分

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