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2013年1月

小笠原優子さんの近況

 -ある方のコメントにより、小笠原さんに関する耳よりな情報をお伝えします-

 最近の『フォレスタの「浜千鳥」』に、東海林太郎さん(というハンドルネームの方)より、女声フォレスタメンバーのお一人である小笠原優子さんに関する貴重な情報が寄せられました。

 ご存知のとおり小笠原優子さんは、ご結婚により、矢野聡子さんとともに昨年からフォレスタ活動は休止中です。しかしその後の小笠原さん動向に関するフォレスタファンの関心は高く、それは当ブログ「検索フレーズランキング」でも、「小笠原優子フレーズ」が連日のように登場していることからも、その一端がうかがわれます。

 今回は予定では、あるフォレスタ曲を取り上げるつもりでいました。しかし東海林太郎さんのコメントに接し、まだご存知ない小笠原優子ファン並びにフォレスタファンのためにも、急遽この記事を設けて公開させていただくことにしました。
 そのコメントは以下のとおりです。

小笠原優子さんのホームページに元気なお子さんの姿が掲載されています。小笠原優子さんは、当分の間活動休止の様ですが復帰が待ち遠しいですね。  (転載終わり)

 東海林さんには『フォレスタの「揺籃のうた」』でも、小笠原さんに関する耳よりな情報をお寄せいただきました。その時も『そりゃ大変だ』とばかりに、『BS日本・こころの歌』サイトとともに小笠原さんのホームページにも飛んでいったのでした。
 しかしウカツにも何も知らずに、『こちらには特に変わったことは書いてないぞ』と引き上げてきてしまったのです。

 しかし今回また、ご指摘の同ホームページに取るものも取り合えず飛んでいきました。よく調べましたら「元気なお子さんの姿」は、同ホームページ経由の小笠原優子さんブログにあるのでした。(同ホームページ中ほどの次の文の右欄をクリック)

お知らせ

 小笠原優子からのメッセージ随時更新しております。
   
                                 詳しくはこちらへ。 (←ここから)

 小笠原さんがブログもお持ちとは、浅はかにも今の今まで知りませんでした。確かにそこにはしっかりと、元気なお子さんを抱いた優子ママの大きな画像があるではありませんか !
 それのみか、画像の隣には小笠原さんご自身の「新年あけましておめでとうございます」というタイトルの、ご挨拶メッセージが添えられています。

 日付は1月1日です。コアな小笠原優子ファンならとうの昔にお読みになったことでしょう。ですからこの情報は、ほぼ1ヵ月遅れということになります。

 昨年は、吉田静さんの『ビタミンCちゃん日記』の文章や画像をたびたびコピーし、無断で転載させていただき、吉田さんにはずい分ご迷惑をおかけ致しました。
 その反省から今後、人様のサイトの転載は慎重にしたいと考えます。そこで転載は見合わせますが、「小笠原さん&お子さん」のツーショットは春から大変縁起の良い画像です。すべてのフォレスタファン(広い意味での「フォレスタファミリー」)が喜びとするところでもあります。

 これをお読みで、小笠原さんの画像とメッセージをご存知ないフォレスタファンの方、是非下記サイト(経由のブログ)をご訪問になってみてください。

小笠原優子オフィシャルサイト『Yuko Ogasawara Official site』
http://yuko-ogasawara.com/


 この中で、小笠原さんご自身が「昨年9月に女の子を出産しました」と述べておられます。まあ本当に元気そうな、可愛らしい女のお子さんではありませんか !
 優子ママは世に広く知られた美人ですよ。そんなお母さんの美貌を超えたら、それこそ「大変な美女」ということになりますが、花子ちゃん、何とかお母さんを超えてくださいね。

 それと、ご夫婦はともに声楽家と推察致しますが、こちらの面でも優子ママの美声を超えるのは大変かもしれません。がしかしこちらは、幼少からの恵まれた音楽環境によって将来の活躍が大いに楽しみですね。

 お子さんを見守る小笠原優子さんのお顔、本当にお母さんとしての慈愛のこもったお顔です。
 メッセージには「体調があまりよくなかったこともあり」とありますが、画像を拝見する限りでは小笠原さん、お元気そうで何よりです。今後とも体調管理に十分ご留意の上お過ごしください。

 どうぞ花子ちゃんを愛情たっぷりにお育てください。そのためには、どうしても一定期間の育児は不可欠です。しかし矛盾するようですが、なるべくお早いフォレスタ復帰がファンの総意だと思います。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『小笠原優子さんの近況(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-036a.html
『フォレスタの「浜千鳥」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-e365.html
『フォレスタの「揺籃のうた」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-5cf9.html

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黒い森のマイスター

 -ドイツ某市の市政功労者という、母校の先輩による寄稿文をご紹介します-

 毎年12月になると、母校(山形県立長井高校)からの『鷹桜同窓会報』が送付されてきます。同会報の中の記事をこれまで何度か紹介してきました。
 今回ご紹介するのは、赤間寛という人の「特別寄稿」と銘うった一文です。この人はもちろん母校出身者で、「昭和23年卒」ということですから、私のちょうど20年先輩ということになります。
 ということは御年83歳くらいということになります。しかし冒頭の顔写真と途中の全身が写った写真を拝見するに、見るからにお元気で矍鑠たるご様子です。

 私は諸般の事情からあと20年以上、つまり85歳くらいまでは現役として働きませんと、我が生活(生存)が成り立たないと今からそう覚悟しています。
 しかし「仕事は人生であり、人生は仕事である」。これはアメリカの誰かの言葉ですが、人様が定年をとうに迎えている年になって、ようやく『確かにそのとおりかもしれない』と思い始めたウスノロな私めは、今後30年ほど仕事をして何とか人生の帳尻が合うくらいのものなのかもしれません。

 その線上で目標としているのが、聖路加国際病院で80歳を超えても院長としてバリバリ仕事をこなしていた日野原重明先生であり、灘校名物国語教師で御年百歳の橋本武先生でした。その上さらに今回、母校の赤間寛先輩も加えさせていただきたくなりました。
 それでは先輩の一文、以下に転載させていたたきます。 (大場光太郎・記) 

                        *

特別寄稿 黒い森のマイスター 

   ドイツ バート・ゼッキンゲン市 市政功労者 赤間 寛

 黒い森地方とは、ドイツ南西部に広がる広大な森林丘陵地帯で観光と温泉保養地の高原である。そこは樅(もみ)の木とドイツ唐松(からまつ)の深緑が見渡す限り山を覆い、黒く見えるところから黒い森と名づけられた。その中に固有的な文化と伝統を守ってきた町や村が点在する。長井市の姉妹都市バート・ゼッキンゲン市は前にライン河、後ろは黒い森に続く温泉療養の町で自然一杯の魅力を持っている。


              黒い森の一例 (画像挿入-大場)

一、山歩きとマイスター

 日本の大学でワンダーホーゲル部という山歩きのクラブ活動をよく聞くが、これはドイツ語で渡り鳥(ヴァンダーV.)の意味である。昔から黒い森にはマイスターの歴史がある。その当時、この資格を有得するには徒弟制度の中で、ゲゼルという専門職の資格を取ってから2年間、各地の親方を何人か廻って修業する。この間、全部歩いていくのが条件であったそうだ。だからゲゼルは渡り鳥のようなものだ。日本では山歩きにこの言葉が用いられたが、ドイツでは修業や生活の為に使われた言葉だ。今だにこの地方には家族連れで黙々と山野を歩く姿が見られる。何か職人根性のようなものが、脈々と息づいているようだ。私は黒い森郷土史研究家、バートさんからお話を聞き、マイスター制度を実感することが出来た。

二、黒い森人の特性と手工業

 ここの人々は工夫を続けることでも有名である。この手作り根性が地場産業を守り続けてきた。その中で印象的なのが時計と特許スキーである。黒い森の中部にトリーベルクという村があり、その通りには柱時計とハト時計を作っている店が並んでいる。そこには昔、時計を背負い歩いて近隣諸国まで行商を行った時の人形が立っている。南部のベルナウ村ではエルンスト・ケッパーという人が1892年に中部ヨーロッパ最初のスキーを、更に1906年にドイツ帝国特許スキーを1万台も製作している。そして1908年にはショラッハ村のヴィターハルダーが世界最初のスキーリフトを発明した。近代文明の開発ではディーゼル機関自動車、ジェット機、テレビ等、多くのものをこの州で発明している。ベンツ、ポルシェは、いうまでもない。

三、長井スキーケッパーズ

 前述のケッパー氏の孫さんであるシュトロマイアー氏から由緒あるケッパー氏の名を頂き、26年続けた長井ハイムスキースクールの名称を4年前に長井スキーケッパーズに改名した。その開講式にシュトロマイアー氏が娘さんと来市し、その式場、トランペットでファンファーレを吹いてくれた。2011年、私はゼッキンゲン市議会から市政功労者表彰を頂き感激したが、彼のファンファーレは、その功労メダルよりも重く私の胸にやきついている。同じ年に來市したシュタンツェルドイツ大使講演の中で「人間には落ちこぼれという言葉はない。必ず何かを持って生まれてくる」この一言を聴いただけで大使を長井市に招聘した甲斐があった。
 後輩諸君、努力と根性を踏まえ目標に向かって頑張ってください。 (昭和23年卒)

(最後に一言)赤間大先輩、中には「努力嫌い」で「根性なし」のどうしようもない後輩(私です)もおりますが、あしからず、後輩の末席に加えてやってください。

転載元
山形県立長井高等学校『鷹桜同窓会報』(第31号7面)

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あの素晴しいバブルをもう一度?

 -この検索フレーズに込められているのは、強い願望か?強烈な皮肉か?-

 当ブログをご訪問くださるパターンはさまざまです。トップページやある特定の記事を「お気に入り」に入れて定期的に訪問くださる方、それとは対象的にどこかのサイト経由で「通りすがり」で訪問された方・・・。
 そんな中で多いのが、「検索フレーズ」によってトップ面や特定記事を訪問されるケースです。(検索フレーズの多かったものは、翌日トップ面左サイトに「検索フレーズランキング」として表示される。)

 その中には、私自身それまで知らなかった貴重な新情報が含まれていたり、「これは違うでしょ」というようなものや、思わず「クッ、クッ」と笑ってしまう面白いフレーズや、たまには「こんなので来ないでよォ」と思うようなえげつないものがあったりします。

 検索フレーズは厳密に言えば、検索によりブログを訪問された方の個人情報、ということになるのかもしれません。しかし『それによって、その人が特定されるわけでもないんだし・・・』と、私はこれまで何度も『これは !』と思うフレーズを記事の中で使わせていただきました。個人情報セーフゾーンを少し広く取り、かつ記事になりそうなものを鵜の目鷹の目(?)で探している私は、「記事ネタ」になりそうなものについ乗ってしまいがちなのです。
 (これからしっかり記録しておいて、えりすぐりのものを『検索フレーズ傑作集』として公開すれば面白いかもしれません。)

 と、前置きが長くなりましたがー。
 何日か前、またまた記事ネタになりそうな秀逸な検索フレーズを見つけました。それが本記事のタイトルとした、「あの素晴しいバブルをもう一度」というフレーズです。
 私と同じ「団塊の世代」前後の方なら、これが何のパロディかすぐにピンとくるはずです。元は、昭和40年代半ば過ぎ頃大ヒットしたフォークソング『あの素晴しい愛をもう一度』(作詞:北山修、作曲:加藤和彦)ですよね。杉田二郎の『戦争を知らない子供たち』などとともに、当時若者たちの間で好んで歌われました。

 それに「あの素晴しいバブル」を体験されたと考えれば、このフレーズで訪問された方はほぼ私などと同世代の人と考えてよさそうです。
 しかしはたと考えさせられるのは、「この人は何の目的で、このフレーズで検索しようとしたのだろう?」ということです。
 まったく違う二つの見方をすることができそうです。

 一つは、この人はバブル全盛期にうんと良い思いをした、それで現下しきりに喧伝されている安倍政権主導のアベノミクスに「夢よもう一度」という強い期待を寄せている、という見方です。

 そうするとこの人はバブル以前からのいっぱしの個人投資家で、バブル期は信じられないくらい儲けた人とも考えられます。私などは当時カヤの外でしたが、その渦中にいた人にとっては“旨い汁”をたっぷり吸えたようです。最近の『「出世街道」-畠山みどりのド根性人生』で紹介しましたように、歌手の畠山さんも株の投資に熱中し45億円もの資産になったというのです。

 しかし熱中し儲けた人ほど、バブル崩壊後は地獄を見ることになります。
 畠山みどりさんの場合は、わずか3カ月ほど後には逆に35億円の借金が残ってしまったのです。これほど極端ではないとしても、後で身近なところでも、何千万円、何億円損した、会社を潰した、というような話をずい分耳にしました。

 ですからこの人も、バブルがはじけたことでバブル期の儲けは一気に吹っ飛び、それのみかその後の「失われた20年」の間さんざんな目に遭ってきた、その損失を補填するには安倍政権に、株価1万円ちょぼちょぼなどとケチくさいことではなく、ド~ンと3万円くらいの「素晴しいバブルをもう一度」起こしてもらわなければならない、というわけです。
 今度バブルが来ても、既に学習済みだから前のようなヘマはしない、ということなのでしょうか。

 もう一つはそれとは真反対な見方です。「あの素晴しいバブルをもう一度」は、皮肉たっぶりなパロディなのではないだろうか?ということです。

 とにかく平成に入って間もなくのバブル期は異常な狂乱状態でした。
 確か三菱系の会社だったかが当時、「アメリカの象徴」と言われたロックフェラー「666」センタービルを買収したり、日本の資産をもってすれば米合衆国そのものを手に入れるのも造作ない、などと豪語する(対米隷属が明らかになった今となってはドアホな)識者までいました。

 これは身近な不動産屋さんから聞いた話ですが、ある銀行は、とても開発にかけられない従って建物が立たないような川側の崖地にまで、頼みもしないのに何千万円もをポンと融資してくれたそうです。
 そんなメチャクチャな事をしておいて、いざバブルがはじけた途端手のひら返しで「貸し渋り」「貸しはがし」に転じたことはご案内のとおりです。この冷酷さが「銀行屋」の正体なのです。

 それでなくても、バブル崩壊によって失われた日本資産は約五百兆円と言われています。つまりはこれがまるごと「バブル(泡)」だったんだ、と言われてしまえばそれまでですが、それにしても途方もない金額です。
 どれだけ途方もないものか。例えば、大正12年の関東大震災の被害総額は現在価格で約五十兆円と言われています。つまりバブル崩壊による我が国の経済損失は、同時多発的に十ヶ所で関東大震災が起きたのに匹敵するのです。

 もしこの人がこの検索フレーズにたっぷり皮肉を込めたのだとしたら、以上のようなバブルの実態を冷静に見極めている人なのでしょう。

  
 (大場光太郎・記)

関連記事
『公共事業と金融緩和で日本経済は良くなるか』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-2490.html
『「出世街道」畠山みどりのド根性人生』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-1159.html
『ロックフェラー・センターのこと』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-33d1.html

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アルジェリア人質事件はなぜ起きたのか

 (『日刊ゲンダイ』記事-1月23日号3面-の転載です。)

                        *
アルジェの人質事件 報道されない真相

この国のマスコミはすべて興味本位。肝心なことを書いていない

 アルジェリアの人質事件は日本人が多数、殺される最悪展開となった。錯綜する情報の中で、日本のメディアは死亡者の人数に振り回されていたが、肝心のことが抜け落ちている。そもそも、なぜ、テロが起こったのか、ということだ。そこに目をつぶるメディアは欧米先進国の「テロとの戦い」を盲目的に支持し、テロリストの非道ぶりを強調し、殺された人数の多さに騒ぐ。ワイドショー的な報道からは問題の本質は見えてこない。

報じるべきは日本人人質の生死安否か、資本主義大国の搾取か、貧困とゲリラと国家の関係か、アルカイダのテロと西洋軍事大国の問題か

 今度の事件でハッキリしたのは、アルカイダと米国の戦いが全世界に広まったことだ。そもそも事件は、アフリカ北部で勢力拡大しつつあったアルカイダを欧米が力でねじ伏せようとしたことに端を発する。

 「アルカイダ系の武装勢力がアルジェリアに隣接するマリで拠点を築いたのです。テキサス州ほどの広さのマリで、アルジェリアに暴れられたらたまらない。米国は何としても潰そうとした。仏軍がマリ中部の町、ディアバルを空爆したのは今月16日ですが、昨年11月初旬の段階で、国際社会はマリへの軍事介入を議論しているし、米クリントン国務長官や米高官が何度もアルジェリアに入っている。アルジェリア軍を動かすためです。アフリカの国が動けば、アルカイダにプレッシャーを与えることができますからね。こうした動きにアルカイダ系は反発、昨年12月、『恐ろしいことが起こるぞ』と警告を出していた。その矢先に事件が起こった。アルカイダ系と欧米の闘いは泥沼に突入したということです」(元外務省条約局長で作家の孫崎享氏)

 外務省は何をやっていたのか、と思うが、それはともかく、米国はアフガンでもテロリストを撲滅できず、イラクでも失敗した。この間、ビンラディンは殺されたが、アルカイダはリビアのカダフィ政権崩壊後、大量の武器を取得、人質誘拐事件などで、豊富な資金も蓄えた。
 武装勢力のリーダー、AQMIのベルモフタール元幹部は1980年代のアフガニスタンで旧ソ連と戦った筋金入りで、「サハラの海賊王」の異名を持つ伝説的な存在だ。フランス情報機関は「拘束不可能な人物」としていて、今回もまんまと逃げたという情報がある。

力の対決は負の連鎖を呼ぶ

 欧米が軍事力に任せて、力でねじ伏せようとしても、テロリストには通用しない。そんなことは明らかなのに、欧米はモグラたたきのごとく、軍事行動を繰り返す。それが新たなテロを呼ぶ。そこには大国のエゴや膨大な軍事力の維持、利権などさまざまな事情が見え隠れするが、要するに負の連鎖だ。

 「そこに格差の拡大や貧困問題も重なります。北アフリカのアクレブ地方は近年、欧米からの投資が盛んです。東欧よりも人件費が安いので、こちらに投資対象が移った。それが格差拡大と物価高を招き、貧困層を苦しめている。アラブの春でも指摘された社会問題が今度の事件の背景にも横たわっています」(孫崎享氏 = 前出)

 今回、テロリストは日本人も容赦なく、殺した。日本人も欧米の一員として敵視しているということだ。日本が米国ベッタリの外交姿勢を続ける限り、新たな犠牲者が出ることになる。そこをメディアはきちんと報じ、論じないと、安否情報に振り回された安倍政権と同じレベルになってしまう。  (転載終わり)

関連記事
『我が国外交史上最悪の事態か?アルジェリア人質事件』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-a958.html
『大甘&強がり安倍首相でこの国の危機管理は大丈夫か?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0127.html

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フォレスタの「浜千鳥」

 -この歌は、童話雑誌『赤い鳥』から始まった我が国童謡の精華と言えるだろう-


     (「フォレスタ - 浜千鳥」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=Bm_VkyAs1yg


                     浜千鳥

作詞者 鹿島鳴秋   作曲者 弘田龍太郎

 

青い月夜の 浜辺には

親を探して 鳴く鳥が

波の国から 生まれでる

濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

 

夜鳴く鳥の 悲しさは

親を尋ねて 海こえて

月夜の国へ 消えてゆく

銀のつばさの 浜千鳥

 まずは、以前公開しました『浜千鳥-この歌の悲しさの源泉とは?』の(一部削除した)一文を以下に掲げます。この一文は、元は「二木紘三のうた物語」の『浜千鳥』へのコメント(2008年4月)でしたが、開設に当り当ブログに移し替えさせていただいたものです。

                      *    
 日常的なるもののうっとうしさ、わずらわしさから逃れたい時など、ふいにこの歌が口をついて出ることがあります。この歌を口ずさんだくらいで、「現実」というこの重苦しい強固なシステムは、いかんともしがたいもの。そのくらい分かっておりつつも。

 『浜千鳥』。歌のすべてが「メルヘン」です。リリカルなやわらかい月の光りに照らし出された、海そして浜辺の詩的幻想世界。大正浪漫の精髄の一端を見る思いが致します。

 思えば私たちは幼少の頃、このようなメルヘンチックな非現実的世界に、当たり前に身を浸しながら生まれ育ったのでした。しかし長ずるに及んで、この社会の声なき声の、『もういい加減、そんな子供じみたことをしているんじゃありません』との叱咤と促しに、否応なしにその世界から離別することをもって、「大人の世界」への参入の証しとしたのでした。

 この歌の浜千鳥はまるで、「波の国から生まれ出る」と共に、「親を探して鳴く」ことを宿命づけられているかのようなのです。「濡れた翼の銀の色」の、いたいけないひな鳥が…です。
 この歌の「寂しさ」「悲しさ」の源泉は、実にここにあると思います。本当に悲しいです。悲し過ぎます。

 時には、「神話」「伝説」「民話」「童話」「童謡」のような一見荒唐無稽と思われるものの方が、薄っぺらなこの現実よりも、物事の「本質」を突いていることがあるものです。

 この現実の世界での浜千鳥の親鳥は、卵から孵ったばかりのひな鳥をすぐに見捨てるようなことは多分ないでしょう。しかし作詞家・鹿島鳴秋は、この歌の詩的世界で、生まれたてのひな鳥に親を探させている。なぜなのでしょう?鳴秋自身の、幼児体験が投影されているのでしょうか?(それは寡聞にして知りません。)

 鳴秋は、「現実的な親子関係」を超えた、もっと「根源的な親子関係」に想いを致していたのではないでしょうか。

 (以下はあくまでも、私流の解釈です。)

 浜千鳥のひな鳥とは、すなわち私たち「人間自身」。そして探させ、求めさせている親鳥は、私たちをこの世で生み育ててくれた肉親よりずっと悠古の初源の、生命そのものの「根源的な生みの親」。つまりこの存在(それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが)こそが、私たち人間にとっての「真の親」。

 であるにも関わらず、「夜鳴く鳥」である私たち人間の「悲しさ」は、この真の親を、今の今まで完全に見失ってしまっていたことにあった。

 あまつさえ私たち凡人は、「肉親」の他に「真の親」がいることさえ知らずに、「夜の歴史」の間中ずっと酔生夢死を繰返してきた。「海こえて」「月夜の国へ」、真の親をたずねて行った目覚めた者は、むしろごく少数だった。

 大正のあの時代、鹿島鳴秋自身が「目覚めた者」の一人だったのでしょう。当時の大衆の多くがまだ眠りこけている中にあって、既に目覚めてしまった者の「孤独」。それを多分に感じつつ送った生涯だったのではないでしょうか。

 しかし鳴秋は、彼の心の内なるメッセージをメタファー(暗喩)的に潜ませながら、この『浜千鳥』の詞を、あの時代世に出してくれました。以来この歌が、時代を越えて、私たち日本人の心をどれだけ揺さぶり続けて来たことか。

 「人々よ。汝(なんじ)の真の親に目覚めよ」。鳴秋のこの切実な心の叫びを、無意識の内に受け取りながら。

                       *
 大正8年発表のこの歌が、2007年(平成19年)「日本の歌百選」に選定されたのは当然と言えるでしょう。むしろ「この歌を選定せずして何とする」というような、我が国を代表する名童謡であり、名叙情歌であり、名曲です。

 この歌を、白石佐和子さん、矢野聡子さんの2女声が歌ってくれています。メンバーが大勢いるフォレスタにあって、二人だけのコーラスは珍しいと思いますが、例がないわけではありません。確か『赤い靴』も、同じく白石さん、矢野さんお二人だけでしたよね。
 この歌や『赤い靴』のように、しんみり聴かせる、しんみり聴きたい歌に、お二人はぴったりのデュオなのではないでしょうか。

 ウ~ン、白石さんと矢野さんの『浜千鳥』、聴くほどに味わい深く、聴くほどにジ~ンとしてしまいます。
 白石さんの1番前半のソロ、そして後半のコーラス。同じパターンで、2番は矢野さんのソロで後半はコーラス。お二人の歌唱力に、この童謡の物語性が喚起させられます。この歌のメルヘン的幻想世界がまざまざと思い描かれるのです。
 上に掲げた一文のようについ深読みしてしまった私の場合、余計そうです。

【付記】ピアノ伴奏は、南雲彩さんか吉野翠さんか。姿は見えねど、白石さんと矢野さんのコーラスにぴったり寄り添うような演奏、味わい深いです。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『フォレスタ - 赤い靴』
http://www.youtube.com/watch?v=Bm_VkyAs1yg
関連記事
『浜千鳥-この歌の悲しさの源泉とは?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_e448.html
『{赤い鳥運動}について』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4908.html

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大甘&強がり安倍首相でこの国の危機管理は大丈夫か?

-安倍政権と我が国外務省の無力さ露呈。孫子に曰く「自衛隊派遣は下策なり」-

 どんな選挙でも開けてみるまで分からないのに、投票前から「自公で3分の2は取る」と妙に確信をもって公言していたというし、選挙後は選挙後で「今回は2期やる」と、その心は「最終的に改憲し国防軍を創設する」という心ある国民が望みもしないことを口走っているというし。
 こういう信じられない発言を耳にすると、安倍氏本人が「不正選挙の中枢にいたのではないのか?」と、つい疑ってしまいます。

 大々的にぶち上げた「アベノミクス」なるものによって、直前の民主党野田政権があまりにもひどすぎた反動もあり、市場も好感し、平均株価も1万円を軽く超え「バブル再来も夢じゃないぞ」と投資家たちは小躍りし、安倍自民党応援団の大マスコミ匙加減の世論調査はもちろん高支持率キープと、上々の滑り出しをみせました。

 しかしそれは、マスコミを含めた国内官業による「安倍自民党政権保護協定」にしっかり護られているからに過ぎないのです。一歩海外に目を転じると、宗主国のオバマ大統領からさえ袖にされ、当初予定の1月訪米を延期せざるを得なかったように、日本の安倍政権への国際的な評価はシビアなものがあります。

 そしてスタートダッシュよく飛び出した安倍政権にブレーキをかけることになったのが、今回のアルジェリア人質事件でした。最悪の結末となったこの痛ましい事件における、(多分新聞・テレビはあまり伝えないのであろう)安倍政権&外務省のヒドイ対応について、以下に『日刊ゲンダイ』記事(1月25日号3面)を転載します。

 同記事末尾の「自衛隊派遣検討」についてだけ、一言言って置きたいと思います。
 今回何でアルカイダ系過激派組織から日本企業プラント施設が狙われたのか、そこをよく洞察しなければなりません。それなしでの自衛隊派遣表明は過激派組織をいたずらに刺激するだけ、火に油を注ぐようなもの、ますます日本企業施設がターゲットにされるだけです。  (大場光太郎・記)

                       *

最悪の結末で露呈 お坊ちゃん首相の大甘

勇ましいのは口先たけ 情報収集も危機管理もできないくせに・・・

 アルジェリアの拘束事件は、日本人が多数死亡したという最悪の結末となるのはほぼ確実だ。会見する菅官房長官の顔にも悲痛な表情が浮かんでいたが、結局、日本政府は最後までアルジェリア当局から情報を与えられず、英国頼み、手も足も出なかった。

 安倍首相が何度も外遊先から「人命尊重と人質の安全確保を」と申し入れたのもかなわず、アルジェリア当局は犠牲者の出る「救出作戦」を強行した。事件2日目という早いタイミングの軍事行動には英米からも批判が出ているが、日常的にテロとの戦いが行われている北アフリカの軍事国家では「人命第一」が通用しにくいことを、安倍首相は今回、思い知らされたはすだ。

 タカ派のウルトラ右翼の安倍は、憲法改正と集団的自衛権の行使が持論。自衛隊を国防軍に変え、尖閣には公務員を常駐させると選挙で公約した。わざわざ中国との対立をあおり、軍事力強化にも前のめりだ。尖閣を守るためには「日本は血を流しても」と勇ましい発言を繰り返していた。

 だが今回、アルジェリアに大使館を置きながら独自に情報収集すらできず、危機管理もままならない実態が明らかになった。アルジェリアには11年時点で16社の日系企業が進出しているのに、大使館は機能していなかったのだ。お粗末な外交力をそのままに、軍事力だけ強化とは大甘だ。

 政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏はこう言う。
 「今回のアルジェリアの事件はテロとの戦い。戦争です。『血が流れる』とはこういうことです。テロや暴力は毅然と立ち向かうのはいいが、それでは終わらず、暴力は次の暴力を生む。『人命第一』なのか『血を流すのをいとわない』のか。勇ましい発言は言葉だけなのか、本気なのか。安倍さんは『血が流れる』という現実を分かって言っているのでしょうか」

 小野寺防衛相が、邦人救出のために自衛隊法改正が必要と言い出したが、事件に乗じた暴走じゃないか。  (転載終わり)

関連記事
『我が国外交史上最悪の事態か?アルジェリア人質事件』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-a958.html

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我が国外交史上最悪の事態か?アルジェリア人質事件

-邦人10人死亡との情報あり。どうする安倍政権&外務省そして現地日本企業-

 先日の『フォレスタの「カスバの女」』で、アルジェリア独立戦争、首都アルジェのカスバなどに触れたばかりでした。同記事で、現在の「カスバ」は敬虔なイスラム教徒が住む平穏な街である旨を述べました。

 そのアルジェリアでとんでもない事態が起こってしまいました。既にご存知のとおり、16日早朝、イスラム武装過激派集団がアルジェリア南東部イナメナスにある天然ガス関連施設を襲撃し、多くの外国人人質を取って占拠したのです。
 人質は10カ国に及び、国際社会に強い衝撃を与えました。中でも人質数が際立って多かった我が国は、現地邦人の消息、安否情報が、事件発生以来最大の関心事となってきました。

 それもそのはずです。同施設は我が国プラント建設大手「日揮」と、英国石油資本が共同で開発を進めてきたものだったのです。日揮のアルジェリア進出は、1969年同国内での製油所建設を受注たことに始まり、以来40年以上にわたり石油精製や液化天然ガスなどの分野で約50ものプロジェクトに参画してきたといいます。
 過激派武装集団は最初から、日揮ブラントをターゲットにしていた可能性がありそうです。

 地図で見ると今回の事件現場となったイナメナスは、地中海に面した首都アルジェから南東部に遠く離れた、昨年カダフィ大佐が死去した紛争国リビア国境に近いのです。イメージ的にいかにも、武装化した過激派組織が跳梁跋扈していそうな所ではありませんか。
 ただ原油生産量との兼ね合いや石油精製プラントの性質上、リスクの高い僻遠の地に建設せざるを得ないというジレンマもまたありそうです。

 同プラントを襲撃したイスラム過激派武装集団は「アルカイダ系」と見られています。1993年頃から活発化し始めたアルジェリア武装組織が元々ありました。それに、2001年以来の米国を中心としたアフガン戦争によって、アフガニスタンとパキスタンの山岳地帯に潜伏していたアルカイダ勢力が、米軍の無人機攻撃を受け、アルジェリアなど北アフリカに流入したことにより強固になり、勢力を拡大していったとみられています。

 彼らの主な“収入源”は誘拐と麻薬取引であるようです。既に身代金だけで日本円換算で百億円以上保有しているとみられ、これを資金源として、ロシア製ライフル銃などの武器を大量に購入したり、新兵を増やすなどしているのです。

 今回問題なのは、「北西アフリカアルカイダ」に対するアルジェリア政府の強硬な対応です。おそらく占拠した武装集団との交渉なしで、有無を言わせぬ強行突入に踏み切ったのでしょう。現地時間19日、空と地上から攻撃し、武装グループ32人が死亡し占拠状態は解かれたもようです。
 しかし同時に、邦人を含む人質23人も巻き添えとなって死亡したといわれています。大変な「血の救出作戦」だったというべきです。

 国際社会の受けた衝撃は計り知れません。これまでの過激派武装集団の度重なる暴挙に、同国政府が業を煮やしていたことは分からないでもありません。しかしプラント内に取られている人質は、日英米を中心とした外国人なのです。

 武装グループは「隣国マリに軍事介入したフランスと西側諸国への報復だ」と声明を発表していますが、例によって「身代金」だって欲しいはず。なぜ慎重に粘り強く交渉を重ねなかったのでしょうか。「今後あの国で何か起こったら、命の保証はなさそうだぞ」と国際社会から見られたら、これほど国益を損なうことはないと思われるのです。

 問題は邦人(日揮社員)が無事かどうかです。今もって情報が錯綜していますが、強行突入によって少なくとも邦人1名は死亡したようです。日揮自身も20日、「日本人10名、外国人7名の安否が不明」としています。
 そして最新情報(21日未明)によりますと、同プラント内のアルジェリア人スタッフが語ったところでは、「武装集団の襲撃時、日本人9人が殺害されるのを目撃した」ということです。日揮側の「日本人10人の安否不明」と一致するわけです。

 これが事実なら、戦後最大級のテロに邦人が巻き込まれたことになります。我が国外交史上最悪の事態になるかもしれないのです。
 それにしては、「危機管理内閣」を自負しているはずの安倍政権の対応が遅くて煮え切らないこと。そもそも事件発生は、安倍首相自身の持病ゆえのスロースケジュールの東南アジア外遊中のこと。事件が刻々猶予ならざる事態を迎えても、急遽帰国するでもなし。

 二言目には「人命尊重と安全確保を強く申し入れている」の繰り返し。じゃあ、それでアルジェリア政府は強行突入を思い止まってくれたんですか、安倍さん。
 「かくなる上は」と強がって、「だから集団的自衛権行使が可能になるよう、今すぐ憲法改正が必要だ」などと血迷ったことを言い出さないでくださいよね。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタの「カスバの女」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-a5e9.html

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『雪女』-美しくも哀しい幻想譚

-泡沫(うたかた)の現世(うつしよ)のつかの間を、雪女と共に暮らした男の物語-

『雪女』(ネット図書館「青空文庫」版)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html
 (直前、同本文をそのまま転載公開しました。)

 『雪女』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン-以下この名を用いることもあり)の、今からほぼ100年前の『KWIDAN』(「怪談」)でも『耳なし芳一』などとともに有名な作品です。

 私は今から20年ほど前、多少なりとも「文章力に覚えのある者」として(?)、それを生かす道(早い話が「カネになる道」)はないかといろいろ探り、『募集ガイド』という雑誌を一定期間講読したことがあります。その中に、冬の時期、東北のある県主催で「雪の幻想小説コンテスト」というような企画があることを知りました。
 咄嗟に『これだ !』と思いました。

 何せ私は毎度言うとおり、雪国山形の出身で、子供の頃嫌というほど雪を見ながら育ったのです。それに加えて、ポーや乱歩など「怪奇幻想譚」は好きな文学ジャンルの一つでもあります。だから「雪の幻想性ならお手のもの」とばかりに、早速私なりの雪物語をあれこれ考えてみました。
 その時真っ先に思い浮かんだのが、ロシアのある作家の、真っ白い雪の中に絶対に人が通らない状況なのになぜかしっかり残されていた足跡を巡る幻想譚、そしてこの『雪女』でした。

 20世紀ロシア作家の短編はタイトルもストーリーの細部も忘れてしまったくらいですから、置いておくとして。『よーし、小泉八雲の「雪女」に迫るくらいの短編を創ってやるぞ』と意気込んだまではいいものの、いくら頭をひねってもそれらしい物語が少しも浮かんでこないのです。
 それで結局その試みは断念せざるを得なかったのでした。

 のっけから脱線してしまいましたがー。
 雪の幻想性を極限まで高めたラフカディオ・ハーンの『雪女』は、世界的に見ても「雪文学」の最高峰に位置すると思われます。これは短編というよりは「短文」といった方がよさそうな短さですが、そこには怪奇性、幻想性のエッセンスが凝縮されています。

 「雪女」というからには、やはり東北か北陸の豪雪地帯が舞台かと思いきや。物語の書き出しで早々と「武蔵の国のある村」と特定されています。しかし昔々の武蔵の国は、国木田独歩の名作『武蔵野』にあるとおり、一帯を「絶類の美」で鳴らした雑木林に覆われ、なおかつ雪も今よりずっと多かったに違いないのです。
 この物語の武蔵の国の村とは、武蔵国西多摩郡調布村(現・東京都青梅市)とされているようです。

 しかし奇妙なことに、最近の研究でも、その近辺には雪女にまつわる伝承や口伝は伝えられていないようです。『怪談』の他の物語がそうであるように、『雪女』も妻の小泉セツが八雲に原話を語り聞かせたものに違いありません。そして他の物語はすべて原典があります。ではセツは一体どこからこの話を仕入れたでしょうか。
 可能性としてー。晩年の八雲は、出雲(島根県)から東京の新宿に移り住みました。その家のお手伝いのうち二人が青梅出身だったといいます。だからセツが二人と世間話をしている時に、どちらかが何気なく語った話だったのかもしれません。

 それをラフカディオ・ハーンは、類い稀な「雪の幻想物語」にまで昇華したのです。
 父親の出身地のアイルランドで育ったハーンは子供時代から霊感が強く、何度も「お化け」を見たといいます。霊感の強さからくる神秘的なものへの畏れと憧れ。加えてアメリカ時代は新聞記者、作家でもあったハーンの文学的素養によって生み出されたのが『雪女』だったように思われます。

 この物語は老若二人の木こりが森に行った帰り途大吹雪に遭い、川の渡し場の小屋で寝泊りするところから始まります。するとこの川は多摩川だったことになります。事実多摩川のその近辺には、当時幾つもの渡し場があったといいます。
 そして「川」こそは、この幻想譚にあって重要な装置であるのです。以前の『川向こう・考』でも見ましたが、川は「この世とあの世を分ける結界」であり、「川向こうは異界」という意味合いがあるのでした。

 なおも好都合なことに、この場所は洪水のたびに流されて(人為的な)橋が架けられていないのでした。おそらく、ひときわ寒くなった深夜に小屋に忍び入ってきた「雪女」は、ずっと向こうの森の方からやってきたものなのでしょう。

 これ以後物語は佳境となるわけですが、それは本文をじっくり味わってお読みいただくとしてー。ここでは一、二点だけ指摘しておきたいと思います。

 雪女は巳之吉の顔をのぞきこんで、「あなたは美少年だから、助けてあげる」と言って、殺しませんでした。もっとも二人とも殺されていたら後の物語は成立しなかったわけですが、これには、両親の不仲でギリシャ人の母と3歳で生き別れたハーンの、「母への思慕や愛情の裏返しである」というハーン研究家の指摘があります。

 その時雪女はまた、「今夜見たことを誰かに云ったら、あなたを殺します」とも言いました。
 しかし巳之吉はずっと後年、ついに美しい妻にその夜のことを話してしまいます。実は雪女だった妻は巳之吉を殺したでしょうか。いいえ。子供たちが不憫だからと、殺さずに雪女は静かに去っていくのです。

 雪女は雪の精であるとともに、妖怪という禍々しさもあわせ持つ存在です。本来あの世的存在との約束は固く守られなければなりません。もしこれが、厳格な西洋契約社会の(「残酷童話」の)グリム童話だったら、雪女は容赦なく男を殺し、子供たちも皆殺しにして平然と去っていったかもしれません。
 しかしハーンの雪女の去っていき方はどうでしょう。ハーン自身が日本の「和の文化」に強く影響されたからなのか、巳之吉や子供たちへの未練をたっぷり残しながらの、余韻、余情が深く残る去り方なのです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『読売新聞』(2012年10月7日日曜版1、2面-「名言巡礼」)
関連記事
『川向こう・考』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0d36.html

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小泉八雲『雪女』(本文)

  雪女 (YUKI-ONNA)    小泉八雲

 武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。

 茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。
 老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。
 彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
 そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……

 あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。

 翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。

 お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。
 田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。
 ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……
 仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』
 そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……
 お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……
 彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。
 (田部隆次訳)

【注記】以上は、小泉八雲原作、田部隆次訳による『雪女』全文です。続いてこの作品の感想を述べる予定のため、短い作品ですからネット版『青空文庫』より転載しました。(ついでに言えば、この作品は著作権消滅作品でもあります。)

転載元
『青空文庫』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html

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大島渚監督逝去

 -日本映画界を代表する本物の映画監督が、また一人いなくなってしまった-

 1月15日、映画監督の大島渚(敬称略)が肺炎のため神奈川県藤沢市内の病院で亡くなりました。

 大島渚は1932年(昭和7年)生まれ。京都大学法学部在学時は学生運動のリーダーを務め、成績優秀だったため学者を志すも恩師の猪木正道教授の「君は学者には向きませんよ」の一言で学者の道を断念、同大卒業後の1954年、松竹に入社し映画作りの道に進みました。

 監督としてのデビュー作は『愛と希望の街』(1959年)で、その後も『青春残酷物語』などのヒット作により「松竹ヌーベルバーグの旗手」となりました。
 しかし大島渚の作品は同時代の映画作家たちよりはるかに政治的であり、権力に対して戦闘的でもありました。初期のモチーフの核心にあるものは常に権力機構がもたらす人間の蔑視であり、階級対立において侮蔑される側にいる人間の屈辱感を描き出していきました。これらのことから、松竹内部では大島を異端児扱いするとともに邪魔な存在となっていったのです。

 60年安保闘争を描いた問題作『日本の夜と霧』(1960年)を、松竹が大島に無断で上映禁止にしたことから、松竹を退社。1961年、同時に松竹を退社した妻の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏ら6名で映画製作会社「創造社」を設立します。
 1975年には新たに「大島渚プロダクション」を設立、『愛のコリーダ』(1976年)の製作にとりかかりました。

 とここまでは『ウィキペディア』を頼りに、私もよく知らなかった大島監督の略歴を駆け足で見てきました。

 そして私がはじめて大島渚という監督を知ることになったのは、当時話題沸騰だった『愛のコリーダ』によってだったと思います。この映画は本邦初の「(性行為)本番映画」ということでテレビや週刊誌で盛んに取り上げられました。
 例の「昭和の毒婦」阿部定の事件を題材としたものでしたが、この作品に流れる反権力的姿勢や映倫のタブーに真っ向から挑戦するかつてない性描写。大島は公権力からの介入を嫌い、日仏合作として映画の最終編集はフランスで行ったのでした。

 『愛のコリーダ』で、大島渚は国際的な名声を得ることになりましたが、この作品の日本公開はさんざんなものだったようです。案の定映倫の介入によって、およそ作品の体をなさないほど大幅に修正されたのです。
 その後2000年にリバイバル上映され、修正個所は大幅に減ったものの、作品にはボカシ修正が入り日本では現在でもオリジナルを観ることはできない状況です。その後この映画は「芸術かわいせつか」を巡って裁判にもなりました。

 と、今なら冷静に語れますが、当時の私は性に晩熟(おくて)な27歳頃。「本番」と聞いて胸騒ぎし、また雑誌だかで主演した松田暎子を見て『こんな綺麗な人がねぇ・・・』と胸苦しくなったのでした。

  •  なお『日刊ゲンダイ』紙中ほどに、昨年から「プレイバック芸能スキャンダル史」という連載があります。その中でこの愛のコリーダも取り上げられていました。後々の参考にと切り抜いたはずですが見当たりません。見つかり次第『大島渚「愛のコリーダ」』として取り上げてみたいと思います。
  •  大島渚はその後、坂本龍一作曲のテーマソングやビートたけしの出演で話題となり、海外での評価も高かった『戦場のメリークリスマス』(1983年)などの話題作を世に送り続けました。

     しかし私が大島渚をしっかりと認識したのは、映画監督としてではありません。(事実大変申し訳ないながら、大島監督作品を一本も観ていないのです。)
     以前何かの記事でも触れたことがありますが、それはテレビ朝日『朝まで生テレビ』という月1回の深夜討論番組のパネリストとしてです。私は同番組スタート時あたりからの視聴者だったかと思いますが、大島渚は最も早い時期のパネリストだったのです。

     政治や社会問題などのテーマについて、大島の歯に絹着せぬ物言いにえらく感心したのです。そして司会者の田原総一朗を挟んで、大島が一方の最上席だとすると、反対側の席にいたのが作家の野坂昭如です。時に対面の二人の口角泡を飛ばす討論となったりして、けっこう面白いものがありました。
     今はもう観ていません(いえ、テレビ自体を)が、あの頃の『朝生』は、他にも渡部昇一、西部邁、栗本慎一郎、猪瀬直樹など錚々たる論客ぞろいで見ごたえ十分でした。(「あんたらとはもうやってらんねぇや」とばかりに、栗本や猪瀬が途中退席するハプニングもありました。)

     ちょうどその頃だったのでしょう。1990年のある日、大島渚と小山明子の結婚30周年記念パーティが催されました。大島は『朝生』の相方の野坂昭如にスピーチを依頼していましたが、それを忘れてしまい、野坂は一番おしまいでのスピーチとなったのです。
     グデングデンに酔っ払った野坂は壇上で、呂律が回らないスピーチをします。紙に書いたものを読み上げただけです。と、そこまではいいとして、終わった野坂は大島の方を振り向きざま「この野郎、オレを飛ばしやがって」とばかりに、左顔面にカウンターパンチを食らわせたのです。

     大島はよろけ、メガネは吹っ飛びました。側にいた明子夫人は凍りつき、招待客は何が起こったのかわけが分からず呆然と見守るばかりです。しかし元学生運動闘士の大島も負けてはいません。「貴様、何すんだよ」と、すかさず野坂を殴り返したのです。
     ただでさえ血の気の多いご両人。相打ちとなったわけですが、その後両者大いに後悔し、反省文を交わしたといいます。

     とかく型破りな大島渚監督でしたが、病魔には勝てなかったようです。
     ことの起こりは1996年、ヒースロー空港で脳出血で倒れたことだったようです。ちょうどその頃、遺作となった『御法度』の制作が始まったばかりでした。この映画の完成に執念を燃やし、99年に公開されました。
     しかし最初の脳出血は言語障害などの後遺症となり、その後多臓器疾患などを誘発し、またうつ病になるなど壮絶な闘病生活で、明子夫人の介護も大変なものだったようです。

     日本映画界の巨匠がまた一人いなくなった感を深くします。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

     (大場光太郎・記)

    参考
    『野坂昭如&大島渚流「緊張と緩和」』(YouTube動画-30何秒と短いものの、パーティ乱闘の決定的瞬間を捉えており一見の価値あり)
    http://www.youtube.com/watch?v=n1CNy0eIzuY

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    雪の随想

      がうがうと木立に深山(みやま)吹雪かな   (拙句)

     首都圏全域がそうだったのでしょうが、14日(月)は今年初めての雪となりました。それも、降っている最中は大雪を予感させました。
     家の中で縮こまって時折り外の様子をうかがうに、どろんと鉛色の寒々しい冬景色。私の郷里の言葉で言う「もさもさと」見事な降りっぷりです。すぐ近くの家の屋根は一面真っ白で、既に7、8センチほども積っています。

     午後になっても一向に止む気配はなく、『これはけっこう積もるぞ』と思いました。私がそう思ったのは、交通網にどれだけの影響が出るのだろうか、ということです。
     山形の私の郷里ならいざ知らず、首都圏ではちょっとした降雪でも電車のダイヤなどに乱れが生じがちだからです。

     夕方いや夜になればもっと冷え込むのだからもっと降るはずだというのは、豪雪地帯を10代終わり頃離郷した者の浅はかさ。逆に午後4時頃には、雪は小降りになってきたのです。
     どちらかというと外に出たがりの私が、その機会を見逃すはずがありません。すかさず外出しました。かと言って、冷え込む中あまり遠出もしたくありません。そこでいつも利用しているすぐ近くのマック(マクドナルド店)へと向かいました。

     さすがに車が頻繁に行き交う車道には雪がありません。歩道は注意しないと靴に雪が入り込むくらいぬかるんでいます。固雪ではなく霙っぽい湿った感じの雪です。転倒も嫌だし、200メートルほどの道のりを歩道を下りて車道の際を歩きました。
     車を運転している人たちも状況を察し、速度を落としながら中央車線に沿って走り抜けて行ってくれました。

     マックでは100円コーヒーを飲みながら2時間ほどいました。『思考は現実化する』や『引き寄せの法則』などを読んで「心の目」を覚ましたり、業務上の段取りを考えたりしながら。
     そうしている間、ふと『きょうは成人の日かァ』と思い当たりました。例年ならマック店内でも綺麗な振袖姿の新成人の娘さんたちを見かけます。でもその日に限っては一人も見かけませんでした。
     夜には雪が雨に変わり深夜には雨も止みました。それでも外に出れば、思いっきり北風が吹きしんしんと冷え込みます。

     翌日となったきのうはウソのように晴れ渡り、きょうもまあまあの晴天となりました。懸念したほどではなく、雪は日の当らない北側に細長い塊りで残っているくらい。ただ雪の影響で、きのうあたりまで東名高速では走行制限をしたり、国道246号ではけっこうの渋滞になったようです。
     雪の名残を留めているのが、遥か西の方に聳えている大山(おおやま)です。当厚木市では裾野近くまでその全容が眺められますが、全山かなりの雪化粧なのです。それを眺めやるだけで、ブルッと寒さに襲われそうです。

     大山の姿を眺めながら、郷里の遠い昔の雪景色が思い返されました。

     早ければ12月のうちに、遅くても1月初旬には根雪になり、3月中旬頃までは雪一色の銀世界なのでした。
     子供の頃、当時お世話になっていた母子寮の屋根の雪下ろしをする(させられる)ことがありました。東寮の長い棟の自分の家の分くらいの雪を、角スコップで下ろすのです。子供時分から小柄で非力な私が必至になって雪と格闘していると、たちまち大汗が吹き出し、頭髪の上といわず上着の上といわず湯気が立ち上ってくるほどなのです。(ウソじゃない、ホントなんですって。)

     昔は今と違ってしっかりした除雪体制などはなく、余るほどの雪にはほとほと手を焼いていたようです。そうして降ろした雪は軒に順繰り積み上っていくだけなのです。終いには、下に降ろした雪と新たに降った屋根の雪が繋がってしまうわけです。
     それではどの家も中に入れませんから、雪の階段をこしらえて、二階から下りていくような感じで玄関から中に入ったものです。当然家の中は薄暗く、昼でも電灯が必要です。(本当の話ですよ。)
     そして私ら子供たちはと言えば、屋根の上から下まで一連なりになった雪の上を、上から子供用の橇(そり)に乗っかって滑り落ちる遊びに興じたものです。(これもホントですって。)

     雪の町も懐かしい情趣を伴って思い出されるなら、野山の雪景色もひときわ印象深く思い返されます。山々全体、野原全体が白い雪に覆われる中、さすがの雪とて木立の太い幹にすっぽりこびりつくわけにもいかず、湿って黒々と連なって立っています。そんな白と黒のコントラストが何とも言えぬ雪野山の風情なのです。
     だいぶ前、川中島の戦いなどを描いた角川春樹作品『天と地と』(榎本孝明が謙信役で主演)という映画があり、そのキャッチコピーは「赤と黒のエクスタシー」という痺れるものでした。が、エクスタシーなどとは露ほども思えず、「白と黒の寂寥感」とでも言うべきものでした。

     昔の雪国の冬景色というものは、今と違って白黒を基調とした色彩感に乏しい景色だったように記憶しています。
     そんな中、中学時代通った吉野川沿いの通学路の途中に、二、三小さなリンゴ園がありました。そこにはなぜか冬になってももがれず枝についたままのリンゴが幾つもあったのです。国光(こっこう)という種でしたが、雪の帽子をかぶった赤い色がやけに鮮やかだった印象が残っています。

     またこれは町場に越す前の太郎村での思い出です。
     吉野川側の我が家のすぐ上は、宮内町から下荻、小滝、吉野鉱山へと通じる街道が通っていました。ある日の午前中、その道を下荻の方向に三百メートルほど歩いて行きました。街道を逸れて、家とは反対の東山に登って行く谷地(やち)沿いの細道があります。
     そのたもと辺りに杉の木立などに混じって常緑の小さな木がありました。少し大振りな葉が、雪にも負けず艶々しい緑なのです。驚いたことには、葉に見え隠れして南天ほどの真っ赤な実を幾つもつけているではありませんか。

     どうでもいいようなことながら、おそらく6歳くらいだったろう幼い私には、一面の白い景色の中の鮮やかな小さな赤い色がよほど感動的だったらしく、今でもふと蘇えって来ることがあるのです。 

     (大場光太郎・記)

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    フォレスタの「カスバの女」

    -この歌をちあきなおみや八代亜紀らが歌い、そして今「吉田静のカスバの女」 !-

        (「フォレスタ - カスバの女」YouTube動画)
         (この歌の動画は削除されました。)

     私が「フォレスタ」というコーラスグループを知ったのは、女声フォレスタによる『別れのブルース』をたまたまYouTubeで聴いたのがキッカケでした。あの歌における吉田静さんの名唱、白石さん、矢野さん、中安さんのバックコーラスの素晴らしさにしびれ、早速『美しすぎる「フォレスタ」』記事としたのがそもそもの始まりでした。

     それは昨年1月14日のこと。それからちょうど満1年となる本日、またまた吉田静さんの新名唱『カスバの女』を取り上げられますことを、大変嬉しく思います。

     吉田静さんの独唱曲としては『雨のブルース』以来です。その後YouTube動画には吉田さん独唱曲が出ず、『あれっ、新編成になって、吉田さんの独唱はもう無しなのか?』と、ファンの私はやきもきしていたのでした。
     しかしそれは杞憂というもの。一段とパワーアップした歌唱力を魅せてくれているではありませんか ! それによく見ると、『別れのブルース』と同じステージ構成なのも嬉しい限りです。

     それにしても今回は『カスバの女』とは ! 驚きました。『忘れな草をあなたに』や『さくら貝の歌』や(直前記事にした)『揺籃のうた』など、どちらかというと清純なイメージの女声フォレスタにあって、いわく因縁ありそうな『カスバの女』。
     しかしこれから見ていきますが、この歌が良い歌であることに変わりはなく、フォレスタの新領域への果敢なチャレンジ精神に敬意を表させていただきます。

     それを可能にしているのが吉田静さんです。はっきり言って、こういう歌は吉田さんの独壇場だと思います。もちろん皆さんプロの声楽家ですから当然歌おうと思えば歌えるわけですが、要は「歌の雰囲気にマッチするか否か」ということなのです。

                           *
     ここからしばらく、『カスバの女』にまつわる話を述べていきます。
     
     私は、以前観た名画『望郷』から、この歌はこの映画をイメージして作られたものとばかり思っていました。『望郷』をご覧になった方はお分かりかと思いますが、あの映画もこの歌と同じく、アルジェリアの首都アルジェの「カスバ」が舞台なのでした。
     『望郷』(1937年公開)は、往年の名優ジャン・ギャバン演ずる犯罪者のぺぺ・ル・モコが、故国フランスの追っ手から逃れて、当時フランス領だったアルジェリアのカスバを根城としていたのです。

     あの映画のカスバは路地が複雑に入り組み、諸国からの流れ者が隠れ棲むには格好の場所として描かれていました。その迷路性、猥雑さ、怪しげなところが、『カスバの女』のどこかデカダンな雰囲気に相通じると感じたのです。

     しかし今回分かったことには、『カスバの女』は『望郷』とは直接的な関係はなさそうです。実際は、1950年~60年代初頭の「アルジェリア独立戦争」が背景なのです。第二次世界大戦後、他の欧米列強植民地が次々に独立していったのと同じく、ここアルジェリアでも、フランスからの独立を求めてアルジェリア民族解放戦線(FNL)が首都アルジェの「カスバ」を拠点にゲリラ戦を展開していたのです。

     この歌の「カスバの女」は、アルジェリア女性ではなくフランス女性です。2番で明かされているとおり、わけあってパリから流れてきたのです。
     セーヌのたそがれ、瞼の都、シャンゼリゼ、赤い風車。「赤い風車」について少し説明すればー。赤い風車を意味する元々のフランスでの呼称は「ムーラン・ルージュ」、パリはモンマルトルの丘にある有名なキャバレーです。
     1889年に誕生し、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いています。またエルビス・プレスリーやフランク・シナトラら多くの著名なミュージシャンが、ここで活躍していました。

     この歌のヒロインは、かつてその「赤い風車の踊り子」だったのです。華やかな彩りに包まれていた若い頃。しかし今は「売られて」、フランスとは地中海の対面にあるアルジェのカスバの酒場で世をしのいでいる・・・。
     その落差ゆえのペーソス、遠いパリへの望郷ゆえのメランコリー。これが基調にあって、この歌をより魅力的なものにしているように思われます。

     そんなカスバの女の恋と言えば、たまたま女がいる酒場を訪れた外人部隊の兵士との「一夜の火花」。ここで言う外人部隊とは、フランス軍に雇われた対FNL討伐部隊を指しています。しょせん二人とも「買われた命」。相手はたちまちどこかの国に行ってしまい、「ないて手をふる」ことになるうたかたの恋にすぎないのです。

     なおアルジェリア独立戦争の帰趨についてですがー。
     紛糾の末フランス本国政府は、大統領に就いた(ナチスドイツからフランスを開放した救世主の)ドゴールの決断によって、アルジェリア撤退とFNLによる独立を認めました。
     それによってドゴール大統領は、アルジェリアに多数入植していたフランス人(コロン)のテロ組織OASから命を狙われることになります。そのドゴール暗殺計画を息詰まるサスペンスで描いたのが、フリデリック・フォーサイスのスパイ小説『ジャッカルの日』で、これは映画化もされ世界的に大ヒットしました。

                           *
     『カスバの女』は昭和30年(1955年)、独立系の芸術プロの映画『深夜の女』の主題歌(作詞大山ひさお、作曲久我山明)として作られました。歌ったのは、低いアルトで優れた歌唱力の持ち主だったエト邦枝(えと・くにえだ)です。
     しかし同映画はなぜか公開中止となり、エトの歌もまったく話題となりませんでした。当時一部の左翼系知識人の間でアルジェリア独立戦争は関心を持たれたものの、歌謡曲の『カスバの女』には関心が寄せられなかったのです。

     失意のうちにエト邦枝はほどなく歌手を引退し、観光バスガイドの指導を10年間務め、ガイドたちにこの『カスバの女』を教えました。教わったガイドたちがバスの乗客たちに広め、乗客たちが飲み屋などでまた広め、それを聴いた友人・知人たがさらに広め・・・。この歌がじわじわ世間に浸透していき、12年後ヒット曲として大ブレークしていくことになったのです。

     昭和42年(1967年)、突如『カスバの女』はテレビやラジオの歌番組で歌われ出します。当時の有名歌手が競って番組で歌ったのです。
     ちょうどその頃はベトナム反戦運動が、欧米先進国や日本で燃え盛っていた時期でした。まさに「時代がこの歌を求めた」と言えます。

     なお補足として、「カスバ」の現在のようすを記しておきます。
     カスバは、中東のどこの国にも広く存在するイスラム教における都市形態です。おおむね小高い丘陵地帯に築かれ、頂上にはイスラム寺院のモスクが建っており、カスバの入り口はモスクへと通じる道でもあるのです。
     アルジェリア独立後のカスバには、フランスから流れてきた酒場の女も、母国の追っ手を逃れてやってきたお尋ね者ももういません。今では、敬虔なイスラム教徒たちの住む平穏な街なのです。

                           *
     以上で述べたとおり、『カスバの女』は元のエト邦枝をはじめ、昭和42年以降緑川アコ、青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子、八代亜紀らによって歌われています。そしてこのたびフォレスタの吉田静さんが歌ったことにより、その系譜に連なることとなりました。
     それぞれ歌い方には個性や特徴があり、甲乙などつけるべきではありません。しかし吉田静さんの歌唱力は折り紙つきで、それら錚々たる先輩歌手と比較して勝るとも劣らないレベルだと思われます。

     たまたまYouTube動画に「ちあきなおみのカスバの女」がありましたので聴いてみました。確かにコブシを効かせたうまい歌い方ですが、国内基準の演歌調と感じました。その点元々クラシック歌手の「吉田静のカスバの女」は国際基準。
     仮に、吉田さんはじめ白石佐和子さん、内海万里子さん、上沼純子さん、そして「可愛いピアニスト」吉野翠さんが、本場パリのムーラン・ルージュでこの歌を披露したとしたら?ケルテックウーマンなどとは趣きを異にした「なでしこフォレスタ」の歌唱に、観客総立ちなのではないでしょうか !

     『別れのブルース』の『雨のブルース』の、そしてこの歌の吉田静さんにはある種の「凄味」を感じます。美空ひばりや淡谷のり子などは別格としても、歌手として大成するのに、これは欠かせない要素の一つだと思うのです。

     (大場光太郎・記)

    参考・引用
    本記事は『ウィキペデア』の各項と、幾つかの他のサイトを参考にまとめました。特に次のサイトを大いに参考・引用させていただきました。
    『自費出版のリパブリのブログ』-『「アルジェリア独立戦争」の悲恋を歌った「カスバの女」を大ブレークさせた時代背景』
    http://ameblo.jp/kawai-n1/entry-10509646515.html
    関連記事
    『美しすぎる「フォレスタ」』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1920.html
    『フォレスタの「雨のブルース」』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-01d0-1.html

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    史上空前の大規模不正選挙

    -問題は「米官業政電」総がかりである為不正がそのまゝまかり通ってしまう事-

     「12・16総選挙は不正選挙だった」は、どうやら事実のようです。それもかつてないほど大規模な・・・。それを指し示す新事実がネット上で次々に明らかになってきています。
     私はそれらを詳細に精査したわけではありませんが、おおむね以下のような不正が行われたもようです。

    (1)実際にはかなり高かった投票率を、当初の自民党圧勝シナリオにするため、59%台という史上最低投票率にせざるを得なかった。そのため、自公、維新以外の政党の(主に)比例票の差し替えや大量廃棄が行われた。
    (2)実際には自民190台、公明20くらいにしか達していない。自民が比較第一党であることに変わりはないものの、それだと80~90議席を得る見込みだった日本未来の党(当時)との連立という話になる。「米官業」としては、原発、消費税、TPPなどすべての政策で真反対な未来と自民を組ませるわけにはいかなかった。

    (3)したがって、もっとも不正のターゲットとされたのが未来の党である。マスコミ各社の事前の裏調査によって「未来躍進」が明確になっていた。未来の党の(主に)比例500万票が不正に操作され、自公や維新に流され、「未来 9議席」というあり得ない結果となった。
    (4)不正は衆院選同時に行われた都知事選でも行われた。反原発を訴えていた宇都宮健児氏がかなりの票を獲得していたにも関わらず、石原後継の猪瀬直樹氏に大量に流され「433万票余」という史上最高のメチャクチャな得票数となった。

     各選挙区などを詳細に見ていけば、さらに不正疑惑が深まるばかりですが、ざっと以上のような具合です。

     最近記事でみたとおり、今回の不正選挙に威力を発揮したのが「株式会社ムサシ」の自動選挙システムです。この自民党献金民間会社の選挙システムの出所はどこか。これが実は日本製ではなく、「元祖不正選挙」の米国製なのです。それもユダ金財閥のモルガン系列社製です。
     悪名高いあのジョージ・ブッシュと民主党のゴア元副大統領間で行われた2000年米大統領選は、稀に見る大接戦とされ、結局は連邦裁判所の判決により「ブッシュ勝利」となりました。

     例の「9・11」から2カ月ほど経過して、都内の某サークルから定期的な刊行物が私の下に届きました。同サークルは本来は日本霊学に基づいたエコロジーなどをまじめに考える集いでしたが、米国在住の事情通邦人からの情報として、それには次のような驚くべき内容が記されていました。

    ○米大統領選では、大量のゴア票がフロリダ沖海底に投棄された。
    ○ロックフェラーと秘密裏に面談したブッシュは、「戦争を起こすこと」を条件に大統領にしてもらった。
    ○9・11最大の標的となったWTCビルには、約4千人ものユダヤ人がいたが実際のユダ人犠牲者はわずか数名である。主にロックフェラー系企業だったが、同社員らには事前に「9月11日は出社しないように」という手紙が送付されていた。

     今回の不正選挙は我が国の政官業+マスコミのみならず、例によって米国奥の院の意向も働いていたとみられています。ユダ金&イルミナティによる米国蔭の政府からすれば、消費増税、原発、TPP、米軍基地問題などは属国・日本における最重要課題です。対極にある未来(の小沢一郎)が日本政界のキャスティングボートを握ることを、またもや恐れた。これは十分あり得ることです。

     埼玉5区から枝野幸男の対抗馬として出馬して落選した(未来候補だった)藤島利久氏が、期限の今月15日までに「不正に基づく同衆院選の無効と再選挙の訴え」を裁判所に起こすようです。
     藤島氏は以前ご紹介したとおり、一連の小沢検察審査会、小沢裁判の不正、謀略を明らかにするために活動してきた闘士の一人です。

     しかし相手は既にご案内のとおり、自分たちと霞ヶ関官僚群の利益擁護のためには何でもやる「暗黒司法」です。そして最終指令が米国だとしたら・・・。残念ながら同提訴は門前払いでしょう。
     せめて藤島氏らの訴えをマスコミが大々的に取り上げてくれれば、「国民の覚醒」に大いに資することとなります。しかしこちらもご案内のとおり、「米官業政」とはズブズブの共犯関係の「電」(電波)なのですから、望み薄です。

     どうも「9・11」以降、「彼ら」のやり口は乱暴になる一方です。後でつじつまが合わず、大量のポロが出ることなどお構いなしです。これは裏を返せば、「彼ら」がそれだけ追い込まれていることの証明でもあります。
     地球世界の「波動上昇」との勝負なのです。「残り時間が少ない」ことをよく認識している彼らは、その前に(3・11などの)人工地震やウィルスなど細菌兵器や戦争による世界人口大削減、その上で残りの人類に「666」のICチップを埋め込んで一元管理するNWО(世界統一政府)完成を目指しています。

     今回の大規模不正選挙もそのプロセスの一つとみるべきです。しかし「夜明け前が一番暗い」のです。そして「夜明け」は必ずきます。「彼ら」が勝利することは決してありません。それを信じて、不正に組する生き方だけはしないよう心がけていきたいものです。

     

     (大場光太郎・記)

    関連記事
    『12・16総選挙は不正選挙だった !?』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-f00a.html

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    フォレスタの「揺籃のうた」

      -小笠原優子さんのご出産を祝して、優子ママも独唱しているこの歌を !-

        (「フォレスタ - 揺籃のうた」YouTube動画)
         https://www.youtube.com/watch?v=wpxFOxo3Cu8


     洩れ伝わるところでは、小笠原優子さん、最近「ご出産」されたとのことですが、違いますでしょうか?

     ただ「洩れ伝わるところ」とは申しましても、私のソース(情報源)は当ブログをご訪問いただいたフォレスタファンの検索フレーズによるものでしかないのですが・・・。
     たとえば今月6日には「小笠原優子 出産」「小笠原優子さん出産か?」というのがありましたし、翌7日には「小笠原優子 最近子供ができたそうですね」がありました。「何という“早耳ファン”か !」と驚いてしまいます。

     これだけで断言するのは早計かもしれません。こういう事は、小笠原さんご本人やご主人(大野隆さん?)などお身内やフォレスタ関係の方々しか真実は知り得ません。が、もし事実なら大変喜ばしく、まこと慶賀に存じます。

     と言うことで、今回は小笠原優子さんのご出産を既定事実として祝し、『揺籃のうた』を取り上げてみたいと思います。


        揺籃のうた  (作詞:北原白秋、作曲:草川信)

      揺籃の 歌を
      カナリヤが 歌うよ
      ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

      揺籃の 上に
      枇杷(びわ)の実が 揺れるよ
      ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

      揺籃の つなを
      木ねずみが 揺するよ
      ねんねこ ねんねこ ねんねこよ

      揺籃の 夢に
      黄色い月が かかるよ
      ねんねこ ねんねこ ねんねこよ


     ご存知のとおり『揺籃のうた』は、北原白秋作詞、草川信作曲になる我が国の童謡です。名童謡であるとともに、我が国を代表する子守歌でもあります。1921年(大正10年)、雑誌『小学女生』8月号に発表されました。

     1番の「揺籃の 歌を カナリヤが 歌うよ」は、大正7年(創刊年)の『赤い鳥』に発表され、我が国童謡の先駆けとなった西條八十の『かなりや』を多分に意識していると思われます。
     と言うより、西條八十と北原白秋という当時気鋭の詩人だった二人の、阿吽(あうん)の呼吸のようなものを感じるのです。

     西條の『かなりや』で「歌を忘れたかなりや」は、後ろの山に棄てられることも、背戸の小藪に埋められることもありませんでした。それのみか、象牙の船に銀の櫂で月夜の海に浮かべてもらったのです。
     それによって「歌を思い出したカナリヤ」が、最初に歌った歌が「揺籃の歌」。詩人同士の何とも絶妙なバトンタッチではありませんか。

     明治期を経て大正時代のその時期には既に西洋音楽がドッと入ってきて、我が国でもかなり一般化していたはずです。クラシック音楽の一ジャンルである子守歌もそのとおりです。
     ですから、この童謡を作った北原白秋も曲をつけた草川信も、西洋の子守歌は十分認識していたことでしょう。それを踏まえて「我が国にふさわしい子守歌を」と考え、この歌を作ったのではないでしょうか。

     『揺籃のうた』は、西洋詩やクラシック音楽の香気を、何とか我が国的風土に移し替えようとした試みであり、その成果であったように思われます。
     メルヘン調の歌詞ですが、かと言って西洋かぶれのバタくささはまったくありません。北原白秋の「和魂洋才」の賜物と言うべきで、深い「日本の心」が歌われているのではないでしょうか。それは草川信の曲にもそのまま当てはまりそうです。

     西洋に『モーツァルトの子守歌』や『シューベルトの子守歌』があれば、我が国には『揺籃のうた』あり。私たちはそう胸を張っていいように思います。
     この歌にふさわしく“銀のスプーン”を咥えて生まれてきたわけではない私ですら、この歌を聴くと、遥か記憶の彼方の「揺籃期」が懐かしく思い返されるのです。
     『揺籃のうた』は2007年(平成19年)、「日本の歌百選」に選定されました。

                           *
     1番独唱は「噂の」小笠原優子さんです。小笠原さんは、毎度言うことですが、どこにも濁りのない澄んだやわらかい歌声で、非の打ちどころのない「小笠原優子の揺籃の歌」と言っていいように思います。
     もしご出産が本当なら、今流行(はやり)の言葉で言えば「ザ・美魔女」のような小笠原さんの、美しい『揺籃の歌』などを聴きながら育つお子さんは本当に幸せです。

     3番独唱は矢野聡子さんです。矢野さんのこの歌でも、独特な高い声にやはりジーンときてしまいました。これが矢野さんファンを惹きつける魅力の一つなのかな?あるいは単に私だけの条件反射なのでしょうか。
     矢野さんも小笠原さん同様ご結婚によるフォレスタ活動休止中で、時期的にやはり「聡子ママ」になっていてもおかしくはないと思います。が、矢野さんに限っては、「その後の消息杳(よう)として知れず」なのが残念です。

     2番、4番の白石佐和子さん、中安千晶さんが加わった、4女声によるコーラスも見事です。さながら、揺籃のほんの少し上に浮かんで、揺籃の中の嬰児(みどりご)をやさしく見守る「天使たちの歌声」のようです。

    【注記】小笠原優子さん、矢野聡子さんの近況情報につきましては、本記事コメントも併せてお読みください。

     (大場光太郎・記)

    参考
    『フォレスタ - 揺篭のうた』(撮り直しバージョン)
    http://www.youtube.com/watch?v=6yRmSup7IBY
     (白石佐和子さん、吉田静さん、それに新人の上沼純子さんと内海万里子さんの独唱。こちらも素晴らしいのですが、小笠原優子さんが主役であるため、前のバージョンを採用しました。)
    関連記事
    『フォレスタの「かなりや」』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a69f.html

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    世界の中で止まっている日本

    -日本が「動き出す」には硬直した官僚支配構造の打破が最も必要なのだが…-

     現在の我が国の建築家の中でもっとも著名でもっとも活躍しているのは、安藤忠雄(あんどう・ただお)氏ではないでしょうか。
     安藤忠雄氏は1941年大阪生まれの71歳。若い頃世界各国を旅した後、独学で建築を学び、69年に安藤建築研究所を設立したというい異色・異能の人です。97年東大教授に、2003年から同大名誉教授に就任しています。また10年には文化勲章を受賞しました。

     以前何かの本でだったか、安藤氏の言葉に感銘を受け、それを手帳に書き写しました。それはおおむね次のような内容でした。

     感動のない仕事は成功しない → 感動出来ない人間は成功しない
     ①本気で取り組めば、面白いことや感動することが必ず出てくる。
     ②仕事をしている時は、ワクワクしながら生きてみよ。

     同氏自らがそのような姿勢で仕事に取り組んでこられたのでしょう。なかなか説得力のある言葉です。
     凡人は分かっていても、常時「本気で仕事に取り組む」ことも、絶えず「ワクワクして生きる」ことも出来はしません。しかし成功哲学としてはまさにそのとおりなので、時折り読み返してはわが身の至らなさを反省している次第です。

     その安藤忠雄氏、『日刊ゲンダイ』(1月5日号12面)の「新春特別インタビュー」で、グローバルに活躍する同氏の視点から、日本の抱える今日的問題を語っています。普段国内にいる者にはなかなか気づけない指摘だと思われますので、以下に転載します。

                            *

    世界の中で止まっている日本  新春特別インタビュー 安藤忠雄

    国家の復興には一人一人の「人間力」が問われている

     現在、私の仕事はその80%が欧米、アジア、中東など、海外のものです。そのため、外から見た日本の評価をよく耳にします。特に発展目覚しいアジアの国々、中国や韓国、台湾、インドなどから見たら、今の日本は止まっているように見えるようです。
     確かに日本は国家の決断が遅く、スピード感がありません。また、長らくリーダーを欠いた状態で、国家としての明確な目標も見えてこないことが、国民の不安をあおっています。

     戦後、日本の復興は「世界の奇跡」といわれたものです。日本人は忍耐力があり、勤勉でした。しかし、社会が経済的に豊かになった1980年代以降、国民は緊張感を失い、考えることを放棄するようになった。その弊害は、東日本大震災以後の社会の対応の中で、顕著に表われました。

     復興会議メンバーとして参加しましたが、「2030年にはせめて30%ある原子力発電を15%にする。そのためにまずは7.5%の省エネに努め、7.5%を自然エネルギーにシフトする。そして、2050年に向けて原発をゼロにする方針を発表すべきではないか」といったエネルギー問題の方策についても、また「住宅の高台移転」の問題についても、「そういった具体的な話をする会議ではない」とされ、踏み込んだ議論には発展しませんでした。

    「何とかなるさ」では死んでしまう

     エネルギーの指針ひとつとっても、国が明確な方向性を示せない。その結果、しっかりとしたトップがいて、決断が速い企業は、次々と海外に拠点を移したのです。しかし、こうした企業はひと握りで、政府も、他の国内企業も決断が遅く比較的のんびりしている。国民も含めて「何とかなるさ」と思っているのでしょうが、この国はもはや瀕死の状態です。

     こうなったのは戦後日本の教育が、「責任ある強い個人」を育ててこなかったからです。よく言えば民主主義的、悪く言えば、「責任回避型の社会」の弊害です。

     今こそ、国民一人一人の意識の改革が必要です。資源もエネルギーもなかった日本の国が、かつて唯一誇っていた「人間力」、レベルの高い資質を呼び起こし、国家としての復興ののろしを上げなければなりません。年末の選挙で政権政党が交代しましたが、新しい政権が、どれだけの決断力を持ち、強いリーダーシップで国民を導いていくことができるのかー真価が問われるのはこれからだと思います。  (転載終わり)

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    12・16総選挙は不正選挙だった !?

     12月16日に行われた総選挙は不正選挙だった可能性がある。これは同総選挙直後から、植草一秀氏ブログ『知られざる真実』や阿修羅掲示板などネット上で盛んに問題にされてきたものです。(大マスコミは、たとえ不正があったとしても見て見ぬふりの共犯関係ですから、今日ネットの役割はその意味でも重要なのです。)

     不正選挙と言えば、2010年9月に行われた民主党代表選でも、党員票などを巡って大規模な不正が行われたのでは?と当時問題となりました。もちろん菅直人を引き続き代表に選任するために、裏を返せば対抗馬の小沢一郎を落とす目的で・・・。

     何の因果か、ちょうど同代表選当日、検察審査会による小沢一郎への2度目の起訴相当議決が出され、小沢への強制起訴が確定したのでした。あまりにもタイミングが合いすぎることや、同検察審査会は実は開かれていなかった可能性が高いことが後に大問題となりました。

     今回は、曲りなりにも一国の命運を決する重大な国政選挙です。「今は何でもありだから、あり得るぞ」とは思いつつも、一方では「いくら何でも」という思いもまたありました。

     最近また、同総選挙を巡る新たな疑惑が阿修羅掲示板に投稿されました。もしこれが事実なら民主主義の根幹を揺るがす由々しき大問題です。
     本当に不正があったのかどうか、それは今後さらに確実な実態調査などを待たなければなりませんが、私たちは今、やりきれないほど嫌な世の中を生きているという認識だけはしっかり持った方がよさそうです。  (大場光太郎・記)

                            *
    (選挙屋「ムサシ」に重大疑惑)「ジャーナリスト同盟」通信(「ムサシ」の正体を暴く努力幸いなことに、それが始まっている)

    http://www.asyura2.com/12/senkyo142/msg/363.html

    本澤二郎の「日本の風景」(1244)

    <選挙屋「ムサシ」に重大疑惑>
     
     事情通から連絡が入った。「武蔵に重大疑惑。関係筋がメスを入れている」というのである。武蔵というと、2刀流の宮本武蔵や、日本海軍の戦艦武蔵を思い出してしまうが、目下、注目を集めているのは、これまで聞いたこともない株式会社「ムサシ」である。ネットで調べて見ると、確かに不可解な会社である。選挙の投開票すべてを牛耳っている独占企業である。そういえば、12・16総選挙について、各方面から不正選挙の指摘が噴出している。「まさか日本で」と軽く受け流してきたのだが、この民間独占の選挙屋の存在を知ると、理屈では不正選挙が成立するのである。不正選挙は、アメリカの大統領選挙でもあったという。事情通は、この不正可能な装置が日本に持ち込まれている、というのである。

     選挙に不慣れな国での選挙に対して、国際社会は選挙監視団を派遣し、公正を期したりしている。日本も監視団に加わっている。それが日本でも必要になった、というのだろうか。

     選挙の投開票は、会場の中央に持ち込まれる投票用紙を、選挙管理委員会が1枚1枚確認して、みんなで数えるものと思い込んでいた。周囲を各陣営の幹部が目を光らせて、不正がないかどうかを監視する中で進行する、そうするものだと認識していた。
     どうやら、それは70年代以前のことだった。「ムサシ」が自動の投票用紙の読み取り機や計数機などを開発して使っていた、というのである。機械が処理するのであるが、そこに票のすり替えや廃棄などの不正の手がはいりやすい。そんな手口を80年代から、政府・自治体は「ムサシ」選挙システムで実施していたのだ。

    <不可解・独占の選挙システム>
     欧米のメディアは先の総選挙を、腰を抜かすほど驚きを持って報道している。「世論は反原発。ところが、選挙結果は原発派の安倍内閣。安倍は早くも原発の新設・再稼働を口にしている」とレポートしている。日本のマスコミ報道は、オプラートに包んでいるため、こんなことさえ気付いていない市民もいる。
     現に、極右の自民党を勝たせた原動力は、これまで平和や反核を訴えてきた宗教政党ではないか。恐怖の政治的変質を見てとれる。

     整理すると、疑惑の第1は、この民間会社が投開票事業の全てを独占していることである。何故民間任せなのか。そこには政府との深いつながり・天下り関係が存在するはずだ。第2に、従ってこの「ムサシ」は自動読み取り機、投票箱、投票用紙計数機、投票用紙、投票用紙自動交付機など一切合財を請け負っている。これでは、不正をやろうと思えばいくらでも出来るだろう。しかも、それを民間の1企業に?不可解である。
     第3に、ある調査によると、この会社には原子力ムラの要人が社外監査役に就任している。12・16総選挙は、原発ゼロか維持なのか、を問いかける重大な日本進路を決定づけるものだった、というのにだ。おかしい。

     第4に、結果を見ると、原発反対派のほとんどが落選している。原発維持・推進派ばかりが、議席を維持した不思議な結果となった。世論の大勢は反原発である。
     第5に都知事選も不可解な結果だった。原発反対派の候補の票はぜんぜん伸びなかった。石原後継が、空前の大量得票を得ている。どう考えても信じられない数字である。
     結論として、3・11の教訓を全く生かそうとしなかった日本人を、筆者もそうだが、欧米ジャーナリストは驚愕している。筆者は自分を含め日本人を「愚民」と弾劾した。

    <追及へ本格化>
     だが、不正選挙が事実だとしたら?
     これは総力を挙げて、追及する必要があろう。反原発派の落選者は多い。手分けして自己の票数を点検する、はたまた「ムサシ」の正体を暴く努力をすればいいのである。幸いなことに、それが始まっている、というのである。
     野党は手分けをして「ムサシ」問題追及チームを立ち上げて、ありとあらゆる角度・方法でもって、真実を明らかにすればいいのである。議席のある者は、国政調査権を行使するのである。

     筆者に情報を持ち込んだ人物は、この不可解な会社は「安倍の父親のスポンサーだった」と指摘している。清和会・旧福田派との関係が深い会社なのだろうか。旧自治省・現総務省との深い井戸を、とことん掘り当てればいいのだ。必ず不正のしっぽが見つかるだろう。

    <大がかりな不正選挙?>
     指摘されるまで、筆者は全く気付かなかったのだが、「民主党の議席は、自公に流れ、未来の議席は、維新とみんなに流れている」と解説されると、確かに数字は合う。日本人の多くが依然として原発推進派という結論になる。日本人の多くが原発維持派という世論調査は、推進派の読売も出していないだろう。投票用紙は操作されている?もっとも、表の票では、前回選挙で民主を支持した無党派票は、自公に流れていない。自民は前回の得票に達していないのだから。無党派は多くが棄権し、マスコミの世論操作に引っかかった者だけが、維新に流れているという分析だ。
     反原発派の未来は、泡沫扱いだった。確かにおかしい。

     ともあれ、臭いニオイがしてならない。「ムサシ」の全貌を明らかにすれば、イカサマの正体が判明するはずである。

     都議会選挙と参院選挙が夏に向けて実施される。「ムサシ」解明は急がなくてはならない。間違いなく反原発が、この国の民の多数派なのだから。原発派が議席の全てを牛耳った、今回の総選挙結果のカラクリにメスを入れる必要がある。善良な市民の智恵と行動に期待したい。
     日本民主主義への重大な国家的重罪なのかどうか、解明が急がれよう。
    2013年1月5日8時45分記  (転載終わり)

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    「国語力は生きる力」考

      友よ、生きるほどますます学ぶ。 (19世紀インドの大聖ラーマ・クリシュナ)  

     「国語力とは生きる力」。当ブログを以前からご訪問の方の中には、この言葉をご記憶の方がおられるかもしれせん。昨年7月の『続・「銀の匙」と灘校名物国語教師』記事でご紹介した、元灘校国語教師・橋本武先生の言葉なのでした。同記事から、その部分をもう一度掲載してみます。

     では、橋本先生が生徒たちに植え付けた一番の財産とは何だったのでしょうか?
     「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力こそ国語力です。それは、“生きる力”と置き換えてもいい。」 (引用終わり)

     実は橋本先生のこの言葉を紹介した私自身、この中で言われている「国語力は“生きる力”と置き換えてもいい」という箇所が、ずっと気にかかっていたのです。しかし、
     「深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力 = 国語力 = 生きる力」?つまりは、「深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力 = 生きる力」??

     なぜ、そうなるのだろうか。私にはどうもいま一つしっくりと理解できなかったのです。現に生きている私たちに「生きる力」は不可欠です。それに「国語力」が関わっているとしたら、事は重大です。
     そこで、折りに触れて思い出してはあれこれ考えてきたのでした。

     「今回この一文を出すからにはしっかり解ったんだろうね」。いえいえ、決してそうではないのです。本当の答えは橋本先生にしか解らないのかもしれませんし、「こうではあるまいか」という拙い推論を述べていくものです。

     一般的に国語力とは、読解力や文章作成力などとされています。しかし橋本武先生はそういう通念を超えて、「深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力こそが 国語力」というのです。
     それは「物事の本質に深く迫り、把握する力」と置き換えてもいいのかもしれませんし、それこそが本当の意味での読解力と言えるのかもしれません。

     自称「森羅万象探求者」の私が考えますにー。
     それは単に文献やテキストにだけ当てはまるのみならず、日常で出会い目にする万象万物により深く踏み込み、そこに隠された新たな意味を発見する、というように応用可能です。
     古くからの人間関係に新しい意義を見出す、普段見慣れた街並みのほんの些細な何かに美を見出す・・・というように。

     物事の本質やテーマに「深く踏み込む」「深く迫る」。ここで私は以前何かの記事で紹介した、
      進化 = 深化 = 新化 (= 神化)
    という図式が思い出されました。(「神化」は、今回とは別に考えるべき問題なので、()でくくり、以下省略します。)
     今回は「深く」を問題にしていますから、これを次のように並べ換えてみます。
      深化 = 新化  = 進化

     深化しようとする力、つまり橋本先生流の表現の「深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力」は、言い換えれば「新しくする力」とも言えそうです。物事に「深く踏み込む」ことによって、それまでとは違った新しい側面が見えてくる、それによって物事を新しい角度から解釈できる、それを土台として新たな精神的ステージに立てる、ということなのかもしれません。

     ここで私は今読みかけの(20代半ば頃読んだ本の再読)、イギリスの作家コリン・ウィルソンの『賢者の石』(創元社推理文庫)という本の印象に残った一節を思い出しました。それは、
      「新しさが生(せい)の原理である」
    というものです。

     この『賢者の石』は、地球年代記、人類進化など壮大なスケールのSF小説で、図らずも不老不死も重要なテーマであることはさておき。この一節とは逆に、
      「停滞と無力感は死に至る公式です」
    という誰かの言葉もあります。

     私たちの内なる生命活動は停滞つまり古くささを嫌い、常に新鮮さ、新しさを求めるもののようなのです。そこでより新しくあるためには、、「深く踏み込んで、テーマの神髄に近づていこうとする力」が要求されてくるわけです。
     ここにおいて、橋本先生の「国語力は生きる力」というのが納得されてくるのです。

     同記事最後でご紹介したとおり、橋本先生は昨年百歳をお迎えになられました。
     現在我が国には百歳以上の人が3万人以上いるそうですが、残念ながらそのうちの7、8割の人たちは寝たきり状態だといいます。その点橋本先生は今なお矍鑠(かいしゃく)としておられ、現役に近いような規則正しい日常生活を続けておられます。
     橋本先生自らが、「国語力は生きる力」を身をもって示しておられるようです。

     (大場光太郎・記)

    関連記事
    『続・「銀の匙」と灘校名物国語教師』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-7a08.html
    『生きることは学ぶこと』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-5a68.html

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    「出世街道」-畠山みどりのド根性人生

     -畠山さんの逃げない生き方には、久しぶりで「この人を見よ !」と言いたくなる-

       (畠山みどり「出世街道」YouTube動画)(作詞:星野哲郎、作曲:市川昭介)
        http://www.youtube.com/watch?v=3eb7PXm4WBA


     若い人たちには「畠山みどり Who?」でしょう。しかし私など団塊の世代以上の人たちにとっては、大変懐かしい名前なのではないでしょうか。
     今から50年ほど前の昭和30年代後半、畠山みどりさんの代表作『出世街道』がテレビなどからガンガン流れていました。

     「♪やるぞ見ておれ 口には出さず」
     当時中学生だった私は、「人生応援歌」といった趣きの、女だてらの畠山さんの派手な“男歌”にあっ気に取られながらも、内心では共感しながら聴いていました。

     その畠山みどりさん(73)、だいぶ前何十億円もの莫大な借金返済に四苦八苦している、という話を小耳に挟みましたが、その後の消息は知りませんでした。
     ところがこのたび、『日刊ゲンダイ』の「あの人は今こうしている」コーナーに登場したではありませんか。畠山さんの人生はまさに「波乱万丈伝」、実に興味深いものがありますので、今回ざっとご紹介することにしました。

     「♪腹におさめた 一途な夢を」
     畠山みどりさんは1939年、北海道稚内市の生まれです。地元の高校卒業とともにデザイナーを志し上京し文化服装学院に入学するも、幼時からの歌手の夢が棄てがたく退学し、古賀政男ギター学院に入学し直しました。
     昭和35年、素人のど自慢番組での優勝をキッカケに日本コロンビアに入社しました。作曲家・船村徹の下でレッスンするなどして、昭和37年『恋は神代の昔から』でデビューします。扇片手に袴姿という奇抜さが受けて、畠山みどりの名は一躍日本全国に響き渡りました。

     以後『ちょうど時間となりました』や『出世街道』(ともに昭和37年)もミリオンセラーを記録しました。
     昭和40年、千秋与四夫氏(元フジテレビディレクター)と結婚、同年長男貴弘さんを出産します。昭和40年代からはタレント兼実業家としての活躍が目立ち、自身の健康法を書いた著書がベストセラーとなりました。

     畠山みどりさんは、80年代末のバブル期の頃株式投資で一時大成功します。しかしバブル崩壊によってすべてを失ったのです。
     「1年半ほどで総資産が47億円になったの。愛車は4500万円のロールスロイス、腕時計4400万円、4800万円の毛皮のコートをキャッシュで買ったこともあったわ。でも、借金を抱えるまではもっと早かった。90年にたった2ヵ月でスッテンテンになるどころか、37億円近い負債を抱えたから。毎日、死ぬことばかり考えていましたね。」(畠山さん談)

     「♪曲げてなるかよ くじけちゃならぬ」
     それを救ったのは、米国の大学に留学中だったひとり息子の貴弘さんからの国際電話でした。母を気遣い毎日のように電話をかけてよこしてくれたのです。
     貴弘さんからの励ましもあって、畠山さんは債務返済を決意します。まずは後援会長だった佐川清・佐川急便社長(当時)から5億円の借金をして返済に充てました。

     「それでも22億円残り、毎月の利子だけで1000万円。自己破産だけはしたくなかったので、仕事とあらば何でも引き受けました。バラエティー番組でパンジージャンプしながら、♪惚れてしまえば 私の負けよ 負けて嬉しい 恋もある・・・って新曲の『おんな人生劇場』を歌ったこともあった。そのかいあって、もう少しで完済よ。もちろん、投資はもうコリゴリ。地道に歌っていくのが一番ね。」(同談)

     最近は、株式投資の失敗を自虐ネタにした講演会を行うこともあるそうです。当然、ギャラは借金返済に回されるのでしょう。
     「4年後のデビュー55周年の頃には借金はゼロになっているでしょうね。目標はデビュー60周年リサイタルを50周年同様にNHKホールで開催すること。ガンバるわ」(同談)

     「♪どうせこの世は いっぽんどっこ」
     37億円もの借金を自己破産せずに返済し終えようとは。いやはや、恐れ入りました。何百万円の借金に苦しみ、悲観して自らの命を絶ってしまう人だっているというのに。人間としての器量やパワーの違いと言ってしまえばそれまでですが、とにかくただただ脱帽です。

     何かと暗い話題が多い“五里霧中”の世の中で、久々に勇気と希望を与えてくれる明るい話題です。
     借金完済してからが畠山みどりさんにとっての「本当の人生」とばかりに、今後ますます[出世街道」を謳歌、驀進して行っていたたきたいものです。

     (大場光太郎・記)

    参考・引用
    『日刊ゲンダイ』-「あの人は今こうしている」(1月5日号)
    『ウィキぺディア』-「畠山みどり」の項

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    フォレスタの「流浪の民」

    -今年は、「ザ・フォレスタコーラス !」と言いたくなるこの歌からスタートします-

        (「フォレスタ流浪の民」YouTube動画)
         (この歌の動画は削除されました。)

     今年最初の「フォレスタコーラス」です。それに打ってつけの『流浪の民』を最近フォレスタが歌ってくれています。最初聴いた時、新編成の男女フルメンバーによるこの混声コーラス&ピアノ演奏のド迫力に圧倒されてしまいました。
     フォレスタコーラスについては、またのちほどあらためてコメントするとしてー。興味深いものがありますので、少し長めですが「流浪の民」の内容や背景を見ていきたいと思います。

     「流浪の民」は1840年、ドイツロマン派の作曲家ロベルト・シューマン(1810年~1856年)が作曲した歌曲です。「3つの詩」作品29の第3曲で、ドイツ北部出身で当時有名な詩人だったエマニュエル・フォン・ガイベル(1815年~1884年)の詩に曲をつけたものです。

     その時シューマンは既に、名ピアニストのクララ・シューマンと結婚していました。しかしクララの親が結婚に大反対で、それを巡って裁判中でした。ようやくこの年「結婚を認める」旨の判決が出て、それまでピアノ曲が多かったシューマンは取り付かれたように歌曲作りに熱中しました。そのため、1840年はシューマンにとって「歌の年」と言われています。

     『流浪の民』はその中でも代表的歌曲と言っていいようです。いかにも充実した実りの年の作品らしく、この曲全体にエネルギーが漲り、それが曲のすみずみまで行き渡っているように感じられます。
     日本語の訳詞は石倉小三郎によるもので、フォン・ガイベルの原詩を超える名訳との評価が高いようです。ただこれから少し見てみますが、「原詩との乖離(かいり)が大きい」という批判もあります。

     原詩のタイトル「Zigeunerleben」は「ツィゴイナーレーベン」となるのでしょうか?「ツィゴイナーの生活」または「ツィゴイナーの人生」という意味のようです。
     「ツィゴイナー」とは定住しない移動型民族を指しており、いわゆる「ジプシー」として知られた文字どおり流浪の民のことです。そう言えば確か、サラサーテのバイオリンの名曲『チゴイネルワイゼン』も同じようなテーマの曲でしたよね。

     19世紀前半はまだ「ヨーロッパの森」が豊かだったのでしょう。ドイツのとある地方のぶなの森蔭を流浪の民の一団が一夜の住まいとしている、その情景を歌い上げた名曲です。
     定住の地を持たずに集団で流浪して行くのです。自由さ、気安さとは裏腹に、どこに行っても余所者なのです。そこには悲哀も当然あることでしょう。がしかし(この歌とは何の脈絡もありませんが)、
      手鞠唄かなしきことをうつくしく  (高浜虚子)
    のように、叙事詩的に高らかに美しく歌い上げています。

     今回このフォレスタコーラスを聴いて、「ニイルの水に浸されて きららきらら輝けり」の「ニイル」というこの歌唯一の固有名詞が気になりました。何やらドイツ語風な名称のようですから、今ジプシーたちが野宿している場所のすぐ近くを流れる川の名前か?と思いました。事実石倉訳ではそう読み取れます。
     しかし少し調べてみたところ、二イルはドイツとは何の関係もない、遥か南はエジプトのナイル川であることが分かりました。

     「んっ、ナイル川?」。しかし実はここに、『流浪の民』の秘密が隠されていたのです。原詩を忠実に訳すと次のようになるようです。
     「ナイルの聖なる流れのほとりで生まれ、スペインの南国の光に肌を焼いて」
     つまり「ニイルの水」は、流浪の民(ジプシー)のそもそもの出自を指しているのです。それを示すように、「ジプシー」は英語ですが「エジプトからやって来た人」という意味の「エジプシャン」の頭音が消失し「ジプシー」(Gypsy)の名称となったと言うのです。

     「慣れし故郷を放たれて 夢に楽土求めたり」
     これは当時中学生だった横田めぐみさんの歌が残され、まだ記憶に新しいフレーズです。遠い昔、絶世の美女かつジュリアス・シーザーやアントニオとの世紀の恋で名高いクレオパトラ女王死後、プトレマイオス王朝は衰退、滅亡していきます。モーゼのド派手な「出エジプト記」とは比ぶべくもないものの、やはり故国を追われてスペイン辺りに落ちのびた人々がいたとしても不思議ではありません。

     ただ、エジプト出身説は俗説との見解もあるようです。しかし少なくともフォン・ガイベルの原詩は、ツィゴイナー(流浪の民)の出自はエジプトとしています。軽快で弾むようなテンポのこの曲の底流に潜む哀切感、この歌のドラマ性の源はここにあるように思われます。

                             *

     今さら言うまでもなく、フォレスタは全員音楽大学出身者です。したがって、クラシック歌曲の定番と言っていいこの『流浪の民』は、学生時代から各自相当練習もし発表もしてこられたことでしょう。
     そのため皆さん、こんな難しい(と素人には思われる)合唱曲を余裕で楽しんで歌っているように見受けられます。

     しかしそこはプロの声楽家集団のこと、とにかく「凄い !」の一言です。人間の為す事に完璧などと言うことはないのかもしれませんが、これは完璧に迫るコーラスだ、と言えると思います。
     お一人お一人がプロの声楽家としの力量を持ちながら、コーラスの「一曲完成」という目的のために、各自の持てる力を結集した時に生まれる大きなパワーに圧倒されます。聴き応え十分で、まさに圧巻、壮観です。

     この歌の南雲彩さんのピアノ演奏も素晴らしいです !
     最近の男声フォレスタの『群青』演奏も少し聴きましたが、あの歌といいこの歌といい、「南雲彩の本領発揮」という感じがします。ピアノの表現者、ピアノの求道者としての鬼気迫る感すら覚えるのです。

    【付記】 「ジプシー」は、現在の我が国では差別用語、放送禁止用語に該当する言葉とみなされ、代わりに「ロマ」と言うようになっているようです。しかしロマは移動型民族の多くを占めるとは言え、ロマ以外の民族も存在します。
     それに私は以前『差別用語・考』で表明しましたように、差別用語、放送禁止用語は「特定の言葉への差別」であり「言葉狩り」になりかねないと考えています。よって今回はあえて「ジプシー」を使わせていただきました。

     (大場光太郎・記)

    参考
    『ウィキぺディア』(「流浪の民」の項)と共に、下記サイトを参考にしました。
    『流浪の民』http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/akd/zigeuner.html
    関連記事
    『フォレスタコーラス』カテゴリー
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat49069329/index.html

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    今年の年頭に思うこと

      淑気(しゅくき)満つ通りの一歩一歩かな   (拙句)

     2013年という新たな年を迎えました。我が国の年号に直すと平成25年、平成になったのはついこの前のことのように思われますが、まさに「光陰矢の如し」、以来四半世紀が経過したわけです。
     なお以前の『天皇家3代の御名考(3)』でも触れたことがありましたが、「平成」という年号は「平」を分解すれば「一八十」つまり「イワト」、全体で「一八十成ル = 岩戸成る」の天の密意が込められているのでした。

     さて今年はどういう年になるのでしょうか。「運命の2012年」をともかくも超えたのですから、「失われた20年」などと形容される、バブル崩壊以後の重苦しい世の中の視界が一気に開ける年になるのでしょうか。
     
     是非ともそうであって欲しいものですが、あまり過大な期待はしない方がよさそうです。『日刊ゲンダイ』に最長寿コラムを連載している五木寛之氏は、同紙「新春特別号」に『用心第一の年』という年頭特別エッセーを寄稿しています。

     同氏は、同文冒頭を「五里霧中」という言葉から始めています。続けて、
     「四方八方視界がきかず、自分がどこにいるのか見当がつかないことをいう。
     まさに五里霧中、というのが2013年を迎える私の実感だ。明日はこうなる、という学者、専門家の声が、今ほど空疎にひびく時代はない。」
    と言うのです。

     現代の数少ない智者の一人と思しき、五木寛之氏の同文をもう少し引用してみましょう。
     「もし世の中に、時代の潮目というものがあるとすれば、2013年こそはその分岐点かもしれないと思う。
     時代の転換期は、雪崩のようなものだ。雪崩から身を守る智恵はあっても、雪崩を防ぐ方策はない。天災も、恐慌も、戦争も、「忘れた頃にやってくる」のである。人がピリピリして警戒している時に、危機はおとずれない。枕元に常備していた緊急バッグやヘルメットを片づけた時に、危機はやってくるのだ。」

     そこで「経済も、健康も、外交も、天災も、今年一年なんとか無事に乗りきれるよう、用心第一に過ごそうというのが私の年頭の自戒である。」と結んでいます。
     なるほど確かにその通り、と納得させられます。

     五木氏の含蓄ある言に付け加えるなどおこがましいことながらー。
     五里霧中の手探り状態なら、何とかそこから脱け出す方策を考えなければなりません。でなれば、金輪際そこから出られなくなる事態も有り得るのですから。
     「さてその方策は?」となると、五木氏が言うように、政治家も、学者も誰も明解な指標を示すことが出来ないわけです。

     それではどうすべきか?五木寛之氏のように用心して過ごすのはいいとしても、それは少し「座して死を待つ」諦めの姿勢なのではなかろうか。
     五木氏は昨年『親鸞』の一部を上梓してベストセラーになったほど、仏教思想にも造詣が深い人です。なのに私如き門前の小僧が言うのもお恥ずかしいことながら、確か仏教には「法灯明 自灯明」という教えがあったかと思います。

     「法を灯明とせよ。自らを灯明とせよ」という意味です。「灯明」とは文字どおり「灯り」であり「道しるべ」であり「拠り所」ということです。
     ここで注目すべきは、「法灯明 = 自灯明」つまり「法 = 自」であることです。この「自」とは、厳密に言えば法を完成させた覚者、つまり仏を指すのでしょう。それでは私たち凡夫には縁のない話かというと、決してそうではないと思います。

     私たちの内には、直感、直観、インスピレーション、良心の促しの声・・・どう表現してもかまいませんが、そういう素晴らしいナビゲーションシステムが本来的に備わっています。いい例が、かのソクラテスが「デーモンの声」と呼び、慫慂として毒酒をあおって死ぬその瞬間まで従った「内なる声」です。
     この「内なる声」こそが実は、仏あるいは神からの直流の声なのです。

     新聞・テレビのおエライさんの話などではなく、この声こそが自分にとって「唯一正しい声」なのです。いついかなる時でも、過つことはないようです。だからこの「静寂の声」を信頼して、さらに明瞭に聴けるよう、騒がしい内外の「雑音の声」をシャットアウトするのが一番です。
     今年一年、五里霧中状態を無事通り抜けるためにも。

     (大場光太郎・記)

    関連記事
    『天皇家3代の御名・考(3)』
    http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce5d.html

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    黄金の翅の元朝の風

                          与謝野 晶子

      わたつみの波の上より渡りきぬ黄金の翅の元朝の風

      (読み方)
      わたつみの/なみのうえより/わたりきぬ/こがねのはねの/がんちょうのかぜ
     …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……* ……* …… 
     与謝野晶子(よさの・あきこ) 明治11年、大阪堺市生まれ。旧姓鳳(ほう)、本名志よう。堺女学校卒。明治33年、新詩社に加入し、鉄幹に師事。明治34年鉄幹と結婚。第一歌集『みだれ髪』により世の注目を集め、以後、浪漫派の旗手として活躍。歌集に『舞姫』『夢之花』『常夏』『佐保姫』『春泥集』『青海波』『白桜集』などがある。昭和17年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

    《私の鑑賞ノート》

     明けましておめでとうございます。
     新年にふさわしい短歌として、与謝野晶子のこの歌を取り上げてみました。

     さすがは「みだれ髪の歌人」与謝野晶子です。雅(みやび)で絢爛に元朝の海の情景を詠みきっています。
     「わたつみ」とは、万葉集以来用いられている古語で、「わた」は海の意、「つ」は「の」に当る雅語の助詞、「み」は海を支配する神の意、総じて「海原」ということです。

     「元朝」(がんちょう)とは元日の朝ということで、元旦と同じ意味となります。ただ今日では滅多に使われなくなった言葉でもあります。その意味では少し古めかしい言葉ですが、それがかえって新鮮に感じられます。
     「神初めに天地を創り給へり」(『創世記』冒頭)。「元朝」は、この世界が初めて創られた「元初(げんしょ)の朝」のような感覚にさせられる言葉でもあります。

     であるからには、この1月1日の朝は、何もかもがまっさらに真新しい朝なのです。眼前に目にする景色の何もかもが新鮮で美しく輝いている。
     それを見ている人間のみ古い、などということがどうしてありましょうや。もちろん人間だって新しいのです。人体を構成する原子も分子も細胞も絶えず更新され、生命は常にみずみずしく若々しいはずなのです。

     この歌を詠んだ時の与謝野晶子は、そういう感覚、視点に立っているように思われます。
        
     多分太平洋岸のどこかの海辺なのでしょう。海の向こうから初日が昇ってきています。さすがに詩心(しごころ)のない人でも、厳かな気分にはなる場面です。
     この場面に臨んで与謝野晶子は、一気呵成にこの歌を詠んだのです。

     初日の日矢を放つ海から吹き渡る潮風に対して、「黄金の翅の(元朝の)風」とは何とも卓抜な表現です。浪漫的な「与謝野晶子ワールド」出現といった感じがします。

     (大場光太郎・記)

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