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大島渚監督逝去

 -日本映画界を代表する本物の映画監督が、また一人いなくなってしまった-

 1月15日、映画監督の大島渚(敬称略)が肺炎のため神奈川県藤沢市内の病院で亡くなりました。

 大島渚は1932年(昭和7年)生まれ。京都大学法学部在学時は学生運動のリーダーを務め、成績優秀だったため学者を志すも恩師の猪木正道教授の「君は学者には向きませんよ」の一言で学者の道を断念、同大卒業後の1954年、松竹に入社し映画作りの道に進みました。

 監督としてのデビュー作は『愛と希望の街』(1959年)で、その後も『青春残酷物語』などのヒット作により「松竹ヌーベルバーグの旗手」となりました。
 しかし大島渚の作品は同時代の映画作家たちよりはるかに政治的であり、権力に対して戦闘的でもありました。初期のモチーフの核心にあるものは常に権力機構がもたらす人間の蔑視であり、階級対立において侮蔑される側にいる人間の屈辱感を描き出していきました。これらのことから、松竹内部では大島を異端児扱いするとともに邪魔な存在となっていったのです。

 60年安保闘争を描いた問題作『日本の夜と霧』(1960年)を、松竹が大島に無断で上映禁止にしたことから、松竹を退社。1961年、同時に松竹を退社した妻の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏ら6名で映画製作会社「創造社」を設立します。
 1975年には新たに「大島渚プロダクション」を設立、『愛のコリーダ』(1976年)の製作にとりかかりました。

 とここまでは『ウィキペディア』を頼りに、私もよく知らなかった大島監督の略歴を駆け足で見てきました。

 そして私がはじめて大島渚という監督を知ることになったのは、当時話題沸騰だった『愛のコリーダ』によってだったと思います。この映画は本邦初の「(性行為)本番映画」ということでテレビや週刊誌で盛んに取り上げられました。
 例の「昭和の毒婦」阿部定の事件を題材としたものでしたが、この作品に流れる反権力的姿勢や映倫のタブーに真っ向から挑戦するかつてない性描写。大島は公権力からの介入を嫌い、日仏合作として映画の最終編集はフランスで行ったのでした。

 『愛のコリーダ』で、大島渚は国際的な名声を得ることになりましたが、この作品の日本公開はさんざんなものだったようです。案の定映倫の介入によって、およそ作品の体をなさないほど大幅に修正されたのです。
 その後2000年にリバイバル上映され、修正個所は大幅に減ったものの、作品にはボカシ修正が入り日本では現在でもオリジナルを観ることはできない状況です。その後この映画は「芸術かわいせつか」を巡って裁判にもなりました。

 と、今なら冷静に語れますが、当時の私は性に晩熟(おくて)な27歳頃。「本番」と聞いて胸騒ぎし、また雑誌だかで主演した松田暎子を見て『こんな綺麗な人がねぇ・・・』と胸苦しくなったのでした。

  •  なお『日刊ゲンダイ』紙中ほどに、昨年から「プレイバック芸能スキャンダル史」という連載があります。その中でこの愛のコリーダも取り上げられていました。後々の参考にと切り抜いたはずですが見当たりません。見つかり次第『大島渚「愛のコリーダ」』として取り上げてみたいと思います。
  •  大島渚はその後、坂本龍一作曲のテーマソングやビートたけしの出演で話題となり、海外での評価も高かった『戦場のメリークリスマス』(1983年)などの話題作を世に送り続けました。

     しかし私が大島渚をしっかりと認識したのは、映画監督としてではありません。(事実大変申し訳ないながら、大島監督作品を一本も観ていないのです。)
     以前何かの記事でも触れたことがありますが、それはテレビ朝日『朝まで生テレビ』という月1回の深夜討論番組のパネリストとしてです。私は同番組スタート時あたりからの視聴者だったかと思いますが、大島渚は最も早い時期のパネリストだったのです。

     政治や社会問題などのテーマについて、大島の歯に絹着せぬ物言いにえらく感心したのです。そして司会者の田原総一朗を挟んで、大島が一方の最上席だとすると、反対側の席にいたのが作家の野坂昭如です。時に対面の二人の口角泡を飛ばす討論となったりして、けっこう面白いものがありました。
     今はもう観ていません(いえ、テレビ自体を)が、あの頃の『朝生』は、他にも渡部昇一、西部邁、栗本慎一郎、猪瀬直樹など錚々たる論客ぞろいで見ごたえ十分でした。(「あんたらとはもうやってらんねぇや」とばかりに、栗本や猪瀬が途中退席するハプニングもありました。)

     ちょうどその頃だったのでしょう。1990年のある日、大島渚と小山明子の結婚30周年記念パーティが催されました。大島は『朝生』の相方の野坂昭如にスピーチを依頼していましたが、それを忘れてしまい、野坂は一番おしまいでのスピーチとなったのです。
     グデングデンに酔っ払った野坂は壇上で、呂律が回らないスピーチをします。紙に書いたものを読み上げただけです。と、そこまではいいとして、終わった野坂は大島の方を振り向きざま「この野郎、オレを飛ばしやがって」とばかりに、左顔面にカウンターパンチを食らわせたのです。

     大島はよろけ、メガネは吹っ飛びました。側にいた明子夫人は凍りつき、招待客は何が起こったのかわけが分からず呆然と見守るばかりです。しかし元学生運動闘士の大島も負けてはいません。「貴様、何すんだよ」と、すかさず野坂を殴り返したのです。
     ただでさえ血の気の多いご両人。相打ちとなったわけですが、その後両者大いに後悔し、反省文を交わしたといいます。

     とかく型破りな大島渚監督でしたが、病魔には勝てなかったようです。
     ことの起こりは1996年、ヒースロー空港で脳出血で倒れたことだったようです。ちょうどその頃、遺作となった『御法度』の制作が始まったばかりでした。この映画の完成に執念を燃やし、99年に公開されました。
     しかし最初の脳出血は言語障害などの後遺症となり、その後多臓器疾患などを誘発し、またうつ病になるなど壮絶な闘病生活で、明子夫人の介護も大変なものだったようです。

     日本映画界の巨匠がまた一人いなくなった感を深くします。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

     (大場光太郎・記)

    参考
    『野坂昭如&大島渚流「緊張と緩和」』(YouTube動画-30何秒と短いものの、パーティ乱闘の決定的瞬間を捉えており一見の価値あり)
    http://www.youtube.com/watch?v=n1CNy0eIzuY

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