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今年の年頭に思うこと

  淑気(しゅくき)満つ通りの一歩一歩かな   (拙句)

 2013年という新たな年を迎えました。我が国の年号に直すと平成25年、平成になったのはついこの前のことのように思われますが、まさに「光陰矢の如し」、以来四半世紀が経過したわけです。
 なお以前の『天皇家3代の御名考(3)』でも触れたことがありましたが、「平成」という年号は「平」を分解すれば「一八十」つまり「イワト」、全体で「一八十成ル = 岩戸成る」の天の密意が込められているのでした。

 さて今年はどういう年になるのでしょうか。「運命の2012年」をともかくも超えたのですから、「失われた20年」などと形容される、バブル崩壊以後の重苦しい世の中の視界が一気に開ける年になるのでしょうか。
 
 是非ともそうであって欲しいものですが、あまり過大な期待はしない方がよさそうです。『日刊ゲンダイ』に最長寿コラムを連載している五木寛之氏は、同紙「新春特別号」に『用心第一の年』という年頭特別エッセーを寄稿しています。

 同氏は、同文冒頭を「五里霧中」という言葉から始めています。続けて、
 「四方八方視界がきかず、自分がどこにいるのか見当がつかないことをいう。
 まさに五里霧中、というのが2013年を迎える私の実感だ。明日はこうなる、という学者、専門家の声が、今ほど空疎にひびく時代はない。」
と言うのです。

 現代の数少ない智者の一人と思しき、五木寛之氏の同文をもう少し引用してみましょう。
 「もし世の中に、時代の潮目というものがあるとすれば、2013年こそはその分岐点かもしれないと思う。
 時代の転換期は、雪崩のようなものだ。雪崩から身を守る智恵はあっても、雪崩を防ぐ方策はない。天災も、恐慌も、戦争も、「忘れた頃にやってくる」のである。人がピリピリして警戒している時に、危機はおとずれない。枕元に常備していた緊急バッグやヘルメットを片づけた時に、危機はやってくるのだ。」

 そこで「経済も、健康も、外交も、天災も、今年一年なんとか無事に乗りきれるよう、用心第一に過ごそうというのが私の年頭の自戒である。」と結んでいます。
 なるほど確かにその通り、と納得させられます。

 五木氏の含蓄ある言に付け加えるなどおこがましいことながらー。
 五里霧中の手探り状態なら、何とかそこから脱け出す方策を考えなければなりません。でなれば、金輪際そこから出られなくなる事態も有り得るのですから。
 「さてその方策は?」となると、五木氏が言うように、政治家も、学者も誰も明解な指標を示すことが出来ないわけです。

 それではどうすべきか?五木寛之氏のように用心して過ごすのはいいとしても、それは少し「座して死を待つ」諦めの姿勢なのではなかろうか。
 五木氏は昨年『親鸞』の一部を上梓してベストセラーになったほど、仏教思想にも造詣が深い人です。なのに私如き門前の小僧が言うのもお恥ずかしいことながら、確か仏教には「法灯明 自灯明」という教えがあったかと思います。

 「法を灯明とせよ。自らを灯明とせよ」という意味です。「灯明」とは文字どおり「灯り」であり「道しるべ」であり「拠り所」ということです。
 ここで注目すべきは、「法灯明 = 自灯明」つまり「法 = 自」であることです。この「自」とは、厳密に言えば法を完成させた覚者、つまり仏を指すのでしょう。それでは私たち凡夫には縁のない話かというと、決してそうではないと思います。

 私たちの内には、直感、直観、インスピレーション、良心の促しの声・・・どう表現してもかまいませんが、そういう素晴らしいナビゲーションシステムが本来的に備わっています。いい例が、かのソクラテスが「デーモンの声」と呼び、慫慂として毒酒をあおって死ぬその瞬間まで従った「内なる声」です。
 この「内なる声」こそが実は、仏あるいは神からの直流の声なのです。

 新聞・テレビのおエライさんの話などではなく、この声こそが自分にとって「唯一正しい声」なのです。いついかなる時でも、過つことはないようです。だからこの「静寂の声」を信頼して、さらに明瞭に聴けるよう、騒がしい内外の「雑音の声」をシャットアウトするのが一番です。
 今年一年、五里霧中状態を無事通り抜けるためにも。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『天皇家3代の御名・考(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ce5d.html

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コメント

日本人には、目指す世界がない。
むしろ、何も動かないのが、天下泰平の世の中であり、伝統的にそれを人民が願っているのだ。
「我々はどこから来たか」「何者であるか」「どこに行くか」という考え方はない。
日本語には、時制 (過去・現在・未来の世界を分けて考える考え方) がないからである。
一寸先を闇と見る政治家たちに行く先を案内されるのは不安でたまらない。
つかみどころのない人間ばかりの社会では、とかくこの世は無責任となる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


投稿: noga | 2013年1月 2日 (水) 14時14分

寺嶋眞一先生
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 ご指摘のとおり、私も含めて多くの日本人は、変化を好まず現状維持で良しとする傾向が多分にありそうです。それで済まされる天下泰平の世なら、それも民族的智恵の一つと言えたかもしれません。しかし今はどうやら、「変化を促されている」時代のように思われます。あまり動かず澱んでしまっていた社会、各個々人を蘇生させるために、あえて動きを生じさせるような・・・。
 問題は、それに気がついて、シンドクても、動き、変化の風を自らが起こせるかどうかだと思われます。社会も個人も。もし気がつけなかったり、変化を起こすことを怠っているようだと、変革を起こさせるための強制力が働くような気がします。そういう外圧はいつの場合も、より厳しく過酷になるもののようです。

投稿: 時遊人 | 2013年1月 2日 (水) 17時43分

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