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雪の随想

  がうがうと木立に深山(みやま)吹雪かな   (拙句)

 首都圏全域がそうだったのでしょうが、14日(月)は今年初めての雪となりました。それも、降っている最中は大雪を予感させました。
 家の中で縮こまって時折り外の様子をうかがうに、どろんと鉛色の寒々しい冬景色。私の郷里の言葉で言う「もさもさと」見事な降りっぷりです。すぐ近くの家の屋根は一面真っ白で、既に7、8センチほども積っています。

 午後になっても一向に止む気配はなく、『これはけっこう積もるぞ』と思いました。私がそう思ったのは、交通網にどれだけの影響が出るのだろうか、ということです。
 山形の私の郷里ならいざ知らず、首都圏ではちょっとした降雪でも電車のダイヤなどに乱れが生じがちだからです。

 夕方いや夜になればもっと冷え込むのだからもっと降るはずだというのは、豪雪地帯を10代終わり頃離郷した者の浅はかさ。逆に午後4時頃には、雪は小降りになってきたのです。
 どちらかというと外に出たがりの私が、その機会を見逃すはずがありません。すかさず外出しました。かと言って、冷え込む中あまり遠出もしたくありません。そこでいつも利用しているすぐ近くのマック(マクドナルド店)へと向かいました。

 さすがに車が頻繁に行き交う車道には雪がありません。歩道は注意しないと靴に雪が入り込むくらいぬかるんでいます。固雪ではなく霙っぽい湿った感じの雪です。転倒も嫌だし、200メートルほどの道のりを歩道を下りて車道の際を歩きました。
 車を運転している人たちも状況を察し、速度を落としながら中央車線に沿って走り抜けて行ってくれました。

 マックでは100円コーヒーを飲みながら2時間ほどいました。『思考は現実化する』や『引き寄せの法則』などを読んで「心の目」を覚ましたり、業務上の段取りを考えたりしながら。
 そうしている間、ふと『きょうは成人の日かァ』と思い当たりました。例年ならマック店内でも綺麗な振袖姿の新成人の娘さんたちを見かけます。でもその日に限っては一人も見かけませんでした。
 夜には雪が雨に変わり深夜には雨も止みました。それでも外に出れば、思いっきり北風が吹きしんしんと冷え込みます。

 翌日となったきのうはウソのように晴れ渡り、きょうもまあまあの晴天となりました。懸念したほどではなく、雪は日の当らない北側に細長い塊りで残っているくらい。ただ雪の影響で、きのうあたりまで東名高速では走行制限をしたり、国道246号ではけっこうの渋滞になったようです。
 雪の名残を留めているのが、遥か西の方に聳えている大山(おおやま)です。当厚木市では裾野近くまでその全容が眺められますが、全山かなりの雪化粧なのです。それを眺めやるだけで、ブルッと寒さに襲われそうです。

 大山の姿を眺めながら、郷里の遠い昔の雪景色が思い返されました。

 早ければ12月のうちに、遅くても1月初旬には根雪になり、3月中旬頃までは雪一色の銀世界なのでした。
 子供の頃、当時お世話になっていた母子寮の屋根の雪下ろしをする(させられる)ことがありました。東寮の長い棟の自分の家の分くらいの雪を、角スコップで下ろすのです。子供時分から小柄で非力な私が必至になって雪と格闘していると、たちまち大汗が吹き出し、頭髪の上といわず上着の上といわず湯気が立ち上ってくるほどなのです。(ウソじゃない、ホントなんですって。)

 昔は今と違ってしっかりした除雪体制などはなく、余るほどの雪にはほとほと手を焼いていたようです。そうして降ろした雪は軒に順繰り積み上っていくだけなのです。終いには、下に降ろした雪と新たに降った屋根の雪が繋がってしまうわけです。
 それではどの家も中に入れませんから、雪の階段をこしらえて、二階から下りていくような感じで玄関から中に入ったものです。当然家の中は薄暗く、昼でも電灯が必要です。(本当の話ですよ。)
 そして私ら子供たちはと言えば、屋根の上から下まで一連なりになった雪の上を、上から子供用の橇(そり)に乗っかって滑り落ちる遊びに興じたものです。(これもホントですって。)

 雪の町も懐かしい情趣を伴って思い出されるなら、野山の雪景色もひときわ印象深く思い返されます。山々全体、野原全体が白い雪に覆われる中、さすがの雪とて木立の太い幹にすっぽりこびりつくわけにもいかず、湿って黒々と連なって立っています。そんな白と黒のコントラストが何とも言えぬ雪野山の風情なのです。
 だいぶ前、川中島の戦いなどを描いた角川春樹作品『天と地と』(榎本孝明が謙信役で主演)という映画があり、そのキャッチコピーは「赤と黒のエクスタシー」という痺れるものでした。が、エクスタシーなどとは露ほども思えず、「白と黒の寂寥感」とでも言うべきものでした。

 昔の雪国の冬景色というものは、今と違って白黒を基調とした色彩感に乏しい景色だったように記憶しています。
 そんな中、中学時代通った吉野川沿いの通学路の途中に、二、三小さなリンゴ園がありました。そこにはなぜか冬になってももがれず枝についたままのリンゴが幾つもあったのです。国光(こっこう)という種でしたが、雪の帽子をかぶった赤い色がやけに鮮やかだった印象が残っています。

 またこれは町場に越す前の太郎村での思い出です。
 吉野川側の我が家のすぐ上は、宮内町から下荻、小滝、吉野鉱山へと通じる街道が通っていました。ある日の午前中、その道を下荻の方向に三百メートルほど歩いて行きました。街道を逸れて、家とは反対の東山に登って行く谷地(やち)沿いの細道があります。
 そのたもと辺りに杉の木立などに混じって常緑の小さな木がありました。少し大振りな葉が、雪にも負けず艶々しい緑なのです。驚いたことには、葉に見え隠れして南天ほどの真っ赤な実を幾つもつけているではありませんか。

 どうでもいいようなことながら、おそらく6歳くらいだったろう幼い私には、一面の白い景色の中の鮮やかな小さな赤い色がよほど感動的だったらしく、今でもふと蘇えって来ることがあるのです。 

 (大場光太郎・記)

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コメント

雪の原にそびえる取り残しりんご
その歯にしみる冷たさと蜜のような甘さ
あれは、蜜入りサン富士より旨いです  共感!

投稿: hanasaka,j | 2013年1月17日 (木) 22時21分

 どうもありがとうございます。
 けっこうな数があったと思いますが、なぜ取り残しておくのか、今もって分かりません。小学校高学年まで、当時の食糧事情の乏しさもあって(笑)、実りの秋、友だちと向山辺りのりんご園や内原のぶどう園に放課後よく出没していました。が、さすがに冬のりんご園で雪をこいでも取る気にはなりませんでした。食べればきっと旨かったことでしょう。

『どこまでも鉈追ってくる・・・』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-a0a7.html

投稿: 時遊人 | 2013年1月17日 (木) 23時45分

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