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2013年2月

奴隷根性丸出しの安倍首相

 日本の中枢には緑色の蛇が食らいついている。この呪いから逃れる術(すべ)は最早ない。  (三島由紀夫)                       
 
 阿修羅掲示板に投稿された、元外務省国際情報局局長で外交評論家の孫崎享氏の一文を転載します。今回の安倍首相訪米の「報道されざる真実」から、戦後日米関係の驚くべき「知られざる真実」が語られています。
 なお冒頭三島由紀夫の言葉を掲げたことに違和感を持たれる方もおられるかもしれませんが、さすが予言者らしい核心を衝いた言葉なのであえて掲げました。  (大場光太郎・記)

                       *
奴隷根性丸出しの安倍首相   孫崎享


安倍首相は、2月22日、米国訪問時にCSISでの政策スピーチを
次のスピーチで始めました。

「 ハムレさん、ご親切な紹介ありがとうございます。
アーミテージさん、ありがとうございます。
グリーンさんもありがとうございました。
そして皆さんがた本日は、おいでくださいましてありがとう
ございます。」

そして次のように続けました。

「昨年、
リチャード・アーミテージ、ジョゼフ・ナイ、マイケル・グリーンや
ほかのいろんな人たちが、日本についての報告を出しました。
そこで彼らが問うたのは、日本はもしかして、二級国家になってしまう
のだろうかということでした。 
アーミテージさん、わたしからお答えします。」(出典;首相官邸ブログ)

 驚愕です。

演説の冒頭は、重要な来客に向けて行うものです。
CSISでの政策スピーチを聞く聴衆はよほど、貧弱な層だったのでしょう。
主な来客が、ハムレ、アーミテージ、グリーンです。
とても一国の首脳が行う時の主要ゲストのレベルではありません。
現役の政治家や政権担当者が挨拶には不在なのです。
よほどこうした人々には安倍首相の関心はないのでしょう。

ハムレ氏 は米戦略国際問題研究所(CSIS)所長 と言っても、
元米国防副長官レベルです。

アーミテージ氏は元国務副長官ですが、2003年7月に、CIAリーク事件で
糾弾された人物です。

ウイルソン元大使が、イラク戦争に関して2003年7月6日付けの
ニューヨーク・タイムズ紙に、イラクの核開発についての情報が
捻じ曲げられていると寄稿して世論に訴えた。

2003年7月14日ウイルソンの妻がCIAエージェントであると報ずる
制裁措置をとったが、結局このリークはアーミテージが関与したことを
認める。こうしてアーミテージの威信は一気に低下した。

マイケル・グリーン氏はジョージタウン大学外交政策学部准教授に
過ぎません。

ナイもハーバード大学名誉教授であっても、
公的には国務次官補経験者にすぎません。

このレベルに冒頭お礼を言わなければならない程、来客のレベルが
低かったのでしょうか。

ハムレ氏、アーミテージ氏、マイケル・グリーン氏には共通点が
あります。彼らは、日本を操る人々、ジャパンハンドラーと呼ばれる
グループに属しています。

つまり、一国の首相が、米国の公の研究所でお礼を言う、
ご主人様にお礼を言う姿です。

全く奴隷精神そのものです。

更に「アーミテージさん、わたしからお答えします」と演説を始めている。
ジャパンハンドラー・アーミテージに報告という形で、演説を
進めています。この神経は一体何でしょう。

しかし、こうした姿は日本の歴史を見ると、決して異例と言えない所が
日本の悲しさです。

以下は私の『戦後史の正体』からの引用です。

「日本は米国の保護国である」といえば、多くの人は「そんなバカな」
という反応をされると思います。

日本には天皇もいる、首相もいる、国会議員もいる。
その日本がなんで「米国の保護国」なのか、むやみに挑発的な言葉を
使うなとお叱りをうけるかもしれません。

しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくる
のです。米国で外交・軍事面でもっとも重要なポストは、
国務長官と国防長官ですが、このふたりに劣らず重要なのが
国家安全保障担当の大統領補佐官です。つねに大統領のそばにいて、
ときに国務長官や国防長官よりも重要な役割を演じます。
いちばん有名なのはキッシンジャーでしょう。

ブレジンスキーはカーター大統領時代、国家安全保障担当の
大統領補佐官として辣腕をふるった人です。
最近でもオバマ大統領の選挙で外交顧問をつとめ、オバマ大統領から
「もっとも卓越した思想家のひとり」とよばれています。
日本でも彼の本は一〇冊以上出版されているのでないでしょうか。

そのなかに『グランド・チェスボード』(”The Grand Chessboard”)
という本があります(日本語訳は『ブレジンスキーの世界はこう動く
――21世紀の地政戦略ゲーム』)。

ブレジンスキーはこの本のなかで、日本をアメリカの
「セキュリティ・プロテクトレイト」(a security protectorate)、
つまり米国の「安全保障上の保護国」と書いています。

この「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、
現在までつづいているものです。
ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、
一般国民の眼には見えないのでしょう。
それは実にみごとな間接統治が行なわれているからです。

間接統治では、政策の決定権は米国がもっています。
しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。
「米国が日本政府に命令している場面」は国民に見えません。
見えるのは日本政府が政策を実行しているところだけです。
その部分だけを見ると、日本は完全に独立しているように見えます。
しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなると
それは米国です。日本はただ従属しているだけというケースが
多いのです。

米国の国務・陸軍・海軍から構成された調整委員会で
「連合国最高司令官の権限に関する通達」が検討されました。
一九四五年九月六日、トルーマン大統領の承認を得て、この文書は
マッカーサー元帥に送られました。
「連合国最高司令官の権限に関する通達」は、米国が日本を
どのように占領するかについて定めた基本文書です。

第一項で「天皇および日本国政府の国家統治の権限は、
連合国最高司令官としての貴官〔マッカーサー〕に属する」と規定して
います。日本がこの時点でGHQの属国であることを明確に
のべているのです。

第二項で「日本の管理は日本政府を通じて行なわれるが、
それはこのような措置が満足な成果をあげる限度内においてである。
そのことは、必要とあれば直接に行動する権利を妨げるものではない」
としています。

マッカーサー自身、次のように書いています。

「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。
歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対して
もったほどの権力をもったことはなかった」

「軍事占領というものは、どうしても一方はドレイになり、
他方はその主人の役を演じはじめるものだ」(『マッカーサー回想記』)

天皇も総理大臣も、マッカーサーからみれば「ドレイ」なのです。
つまり自主的には判断ができない存在です。

しかし「ドレイ」だからといって、イコール悲惨な生活ということ
にはなりません。ドレイは財産です。しっかり働いてもらわなければ
ならないので、虐待されるとはかぎりません。

古代ギリシアでも一九世紀の米国でも、財産であるドレイが大事に
されるケースは数多くありました。
しかし主人に嫌われれば命をなくするのもドレイの宿命です。
運命は御主人様次第なのです。

さらにいえば、ドレイには上級ドレイ(日本人支配層)と
下級ドレイ(一般市民)が存在し、前者が後者を支配するという
構図が存在します。

吉田首相は、上級ドレイが下級ドレイに対して尊大に接する様子を、
一般の人びと相手によく演じていました。
しかし、夜陰にまぎれ、帝国ホテルにこっそりとしのびこんで、
主人であるウィロビーと会っていた姿は国民にはみせていません。
かろうじて犬丸帝国ホテル社長のような人が見ているだけです。

トルーマン大統領は次のように書いています。

「マサチューセッツ工科大学の総長コンプトン博士は、
〔日本から〕帰国したあとホワイトハウスに来て私に説明した。
彼にまとめてもらった覚書は次のとおりである。

日本は事実上、軍人をボスとする封建組織のなかのドレイ国であった。
そこで一般の人は、一方のボスのもとから他方のボスすなわち現在の
わが占領軍のもとに切りかわったわけである。
彼ら多くの者〔にとって〕はこの切りかえは、新しい政権のもとに
生計が保たれていければ、別に大したことではないのである」
(『トルーマン回顧録』)

こうして、今も綿々と奴隷の精神が受け継がれているのです。

演説だけに終わっているならまだいい。

しかし、今回は国民の生活を犠牲にするTPPという貢物を提供しています。
安倍首相はどうも、祖父岸信介の考え方より、吉田茂の生き方を
受け継いでいるようです。
そしてこの安倍首相を今、日本国民が拍手喝さいしているのです。
奴隷国家日本の面目躍如です。  (転載終わり)

転載元
『阿修羅掲示板』
http://www.asyura2.com/13/senkyo144/msg/403.html

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マスコミ、TPP報道でまたも大本営発表

 -一体この国のマスコミはどこまで堕落し、その騙しに国民はいつ気がつくんだ-

 今回は時間的余裕がないため、私の前説抜きで『日刊ゲンダイ』(2月27日号3面)記事を以下に転載します。文中にも『TPPは国を滅ぼす』という著書名が出てきますが、まことTPPは由々しき問題で安直に参加すべきものではありません。TPPの罠、危険性については、今後何度も取り上げることになろうかと思います。

                       *

これぞ大本営発表の典型 大新聞のTPP報道は全部ウソッパチだ

 これぞ世論誘導の極みではないか。安倍首相訪米の焦点とされたTPP(環太平洋経済連携協定)に関する大新聞の報道だ。米側の譲歩を勝ち取ったとして、“成果”を強調した書きっぷりだったが、大ウソもいいところ。この報道は大本営発表と同じである。

 昨年の総選挙で「聖域なき関税撤廃を前提とする限り、TPP交渉に反対する」と公約を掲げた自民党。日米首脳会談後、安倍首相は「聖域なき関税撤廃が前提ではないことが明らかになった」と胸を張り、事実上の交渉参加を“宣言”した。大新聞は「すべての関税撤廃せず 首相、米大統領と確認」(読売23日夕刊)なんて、安倍の“直談判”の成果を報じ、これで世論はガラリと変わった。共同通信が23、24日に実施した全国電話世論調査で、TPP参加に賛成する国民は63%。なんと、前回1月調査から10ポイントものアップである。

 世論が好感したのは、もちろん、安倍がオバマから大幅な譲歩を引き出したかのように報じられたからだ。しかし、これは全然違う。「TPPは国を滅ぼす」の著者でジャーナリストの小倉正行氏はこう言った。

 「米国はもともと、『関税の完全撤廃の約束』を求めていません。『すべての物品を関税撤廃の対象にして交渉のテーブルに着く』ことを要求していただけです。最初から求められていないことを、さも米国から要求されているかのように見せかけて、オバマ大統領から譲歩を引き出したかに演出した。これが日米首脳会談の真相です。大新聞は政府の詐欺の片棒を担いでいるようなものです」

米側の“聖域”だけが明文化

 今回の日米共同声明は、“すべては交渉の結果次第”ということを確認したに過ぎない。「聖域」や「例外」が担保されたわけではない。それどころか、共同声明には、米側の要求で懸案事項として自動車と保健分野が明記された。米側の“聖域”だけが明文化され、日本の農業などは共同声明で具体的に触れられなかった。

 米国の狙いは日本車への高額の関税を維持して国内自動車産業を守り、一方で日本の保険市場に進出してかんぽ生命の牙城を崩すこと。大新聞はそれを追及しなくてはならないのに、知らんぷりだ。TPP反対を主張してきた元民主党議員の川内博史氏が言う。

 「米国のもくろみも、日本の交渉能力不足も分かっていながら、日米首脳会談の“成果”を喧伝する大新聞の報道は昔の大本営発表を見ているみたいです。TPPは『聖域なく関税撤廃します』と自ら宣言してから参加する。ここが肝心です。“聖域”=例外はあくまで各国との個別交渉で決まる。事前の確保、保証はあり得ません。その危うさを伝えなければいけません」

 なのに大新聞は「首相の姿勢を評価」(朝日)「TPPで早く存在感を」(毎日)とヨイショだ。タカ派首相に対し大本営発表が続く日本の今後が恐ろしい。  (転載終わり) 

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フォレスタの「みかんの花咲く丘」

-折角の名曲、あっちこっち脱線しましたが最後までご一読く下されば幸甚です-

    (「フォレスタ - みかんの花咲く丘」動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=9ffRwJ6TswQ

 戦後間もなくの昭和21年、当時人気絶頂の童謡歌手・川田正子(かわだ・まさこ)によって歌われたこの歌(作詞:加藤省吾、作曲:海沼実)は、今でも広く歌われ、国民的歌謡と言っても過言ではないと思います。
 小高いみかん丘から見はるかす叙情的な海の景観が目に浮かびます。歌詞もメロディも、全体が日本人の感性に訴えかける、ある懐かしい情感を呼び起こされます。
 当然のことながら、この歌は2007年「日本の歌百選」に選定されました。

 私は若い頃からついこの前まで、『みかんの花咲く丘』は、みかんが実っている季節つまり晩秋から初冬にかけての頃の歌とばかり思い込んでいました。しかしつい最近になって、タイトルが「みかんの花咲く」であることにハタッと思い当たりました。
 人によっては「そんなの幼稚園の時から知ってたわよ」「それがどうした?」「大勢に影響ないじゃん」というところでしょうが、単細胞な私にとっては驚きの発見だったのです(笑)。

 私は東北の山国出身で、他に自慢できるものは何もなくても、桜桃(「さくらんぼのこと)、リンゴ、洋梨、ぶどうなど果物だけは豊富にありました。しかしさすがに蜜柑など柑橘類は・・・。
 それで「みかんの花咲く」場面を見たことがないので何とも言えませんが、「♪りんごの花ほころび・・・」と同じく、盛春から晩春頃と見ていいのでしょうか?

 いずれにしても、今の早春の頃では有り得ないわけです。なのに今回この歌を取り上げたくなったのは、4年前のちょうど今頃の季節、この歌の一節を織り込んだ一文を公開したことがあったからです。
 場所は、「横浜三塔」のうちの「キング」と呼ばれている神奈川県庁本庁舎屋上です。ある夕方、真下(5階)の関係部署を訪問し予定より早めに用事が済んだので、昭和初期建築の時代がかった帝冠様式のこの建物の屋上に出て、間近い横浜港を眺めながら一服したくなったのです。

神奈川県庁 本庁舎
Kanagawa Prefectural Government
Kanagawa Prefectural Office.jpg

 屋上は同庁舎唯一の喫煙場所があり、職員数名がタバコを吸っていました。中に、若くて知的な感じの美人職員が一人、男性職員に混じって、海の方を見やりながら悠然とタバコを吸っている姿に驚いた、というようなことを書きました。
 今回は余談ばっかりの冗長な一文になりそうですが(苦笑)、屋上に誰もいなくなってからの同記述を途中から転載してみます。

                       *
 早春の淡い西日を浴びて、横浜港が大パノラマで一望できます。すぐ目に飛び込んでくるのが、何といっても左手の横浜赤レンガ倉庫、そして真ん中から右よりの大桟橋(横浜港大さん橋国際客船ターミナル)です。そのさらに右手は山下公園ですが、手前の大きなビルに阻まれて全体は確認できません。

 さらには向う岸の神奈川区や川崎市鶴見区などの途切れることなく建ち並ぶ建造物群が、夕霞に霞みがちに見えています。本夕さして風はなく、鶴見区の工場の高い煙突から白い煙がほぼ真上にもくもくと立ち上っているのが認められます。
 その間港内を中くらいの大きさの真っ白い客船が、ゆっくりこちらに向って来ます。少しすると、赤レンガ倉庫から張り出した停船所に着船しました。乗客を降ろすのでしょうか。

 横浜港に接する手前に、赤レンガ倉庫や大桟橋埠頭そして山下公園などに行くための、高架の遊歩道が見られます。老若男女さまざまな人がひっきりなしにそこを行き交っています。その道を中央部から視線を左に赤レンガ倉庫の方にたどってみると、なるほど名高い観光スポットの一つなわけです。その手前の道あるいは倉庫前広場に、小さな人影がいっぱい集まっているのが認められます。

 そうこうしているうちに、停船していた例の客船がまた出航していきました。新たな乗客を乗せ終わったのでしょうか。まるで亀の歩みのように、じれったいほどのろのろです。
 するうち、倉庫と大桟橋埠頭のちょうど中間くらいの海面でパタッと停まってしまいました。『んっ?』と思って見守ること何分か。そのうちゆっくりゆっくり時計回りに旋回し始めました。『そうか。あそこまで船尾方向から進んで、本来の向きに変えてるんだな』。そのとおりで、海面に丸いやや大きな波紋を広げてぐるっと180度向きを変えていきます。その時一瞬、見えている側の黒い船窓が西日にキラッと光りました。そしてまた何分かのじれったい停止。それから静かに動き出しました。

 後には小さな水脈(みお)を残しながら。一時大桟橋の陰に隠れ再び姿を現して、そのままゆっくり右手の港の外へと。
      ……  ……
    黒い煙をはきながら 
    お船はどこへ行くのでしょう
      ……  ……
 私は紫煙をくゆらしながら、『みかんの花咲く丘』を口ずさんでいました。お船は本当にどこへ行くのでしょう?早春の潮風に吹かれてどこまでも…。 (転載終わり)

                       *
 この『みかんの花咲く丘』を、中安千晶さん、白石佐和子さん、矢野聡子さん、吉田静さんの4人の女声フォレスタが歌ってくれています。
 前列の中安さん、白石さんの交互の独唱に、後ろの矢野さん、吉田さんのコーラス。いやあ、見事な「フォレスタのみかんの花咲く丘」です。

 まず初めは中安千晶さんの独唱。この歌唱の時の中安さんは、どこか少女らしさを残しており、その点彼女のこの歌の1番の独唱は納得できます。
 続いて1番後半、中安さんの独唱にかぶさるような白石さんのハモリあたりから、このコーラスが勢い盛り上がっていきます。

 既に削除された以前のフォレスタ動画のこの歌に、ある人が「『お船が遠く かすんでる』の部分の白石さんのコーラスには鳥肌が立ちました」というようなコメントをしていました。
 私は鳥肌こそ立ちませんでしたが、確かにそういう感想を持たれた人がいたとしてもおかしくないと思います。全員そうですが、特に白石さんの「お船が波に揺れているように」体を左右にゆったりと揺らしながらのハモリや2番の独唱、実にさまになっています。

 とにかくこの歌における白石さん、「白石佐和子 美人」の極みで最高のパフォーマンス、私個人的にはこの歌を「白石佐和子代表曲」としたいと思います。

 白石さんも中安さんも矢野さんも吉田さんも、とにかく心から楽しんでこの歌を歌っておられるようです。彼女たちにとって、おそらくこの歌は子供の頃から大好きな歌だったのではないでしょうか。
 心の底からの喜びの波動は伝わります。聴いていてストレートに感動が得られます。

 ピアノ演奏は南雲彩さんでしょうか?この歌の良さをうまく引き出している良い演奏です。近々フォレスタでは初の試みとなる「フォレスタピアノ発表会」があるとのこと。南雲彩さんをリーダーとして、吉野翠さん、山元香那子さん、大池栄里奈さん、4人のフォレスタピアノ陣名づけて「チームなでしこ」だそうです。大成功、陰ながらお祈り申し上げます。

 ところで、everstone04さんご提供のこの歌の動画の再生回数、とうとう『別れのブルース』(42,087回-2月25日未明時点)を抜いて、42,523回となっています。『別れのブルース』を女声フォレスタの代表曲と勝手に決め込んでいる私としては、少し複雑な気持ちですが、やはりフォレスタファンのこの歌唱への支持が多いということなのでしょう。

 (余談の余談)最近この両曲を抜いて、ある歌が遂に再生回数トップに躍り出ました。それは何でしょう?『恋のバカンス』です。42,526回。歌の良さもさることながら、「ゆうこりん&しぃちゃん」によるデュエットの、軽やかに踊りながらの、フォレスタでは前代未聞の歌唱スタイルが受けたのでしょうか?

【追記】
 今回は余談、脱線だらけの、やけに長ったらしい『フォレスタの「みかんの花咲く丘」』になってしまいました。どうせだから、余談ついでにつけ加えさせていただきます。

 つい先日の小雨がちの夕方、また神奈川県庁本庁舎を訪ねた折り屋上に上ってみました。当然赤レンガ倉庫も大桟橋も雨にけぶり、人影もほとんどありませんでした。右手の山下公園途中に突き出た氷川丸も、同公園と山下通りを挟んだ「手前の大きなビル」も雨にけぶって・・・。
 その時の私が特に注目したのが、そのビルのある街区のことです。同ビルの2つほど先に、私が所属しております神奈川県○○書士会事務局も入っている産業貿易センタービルがあり、さらに2つ先くらいに「ホテルニューグランド」があるはずです。

 このホテル名を聞いて、ある歌を思い浮かべた人は相当の「通」です。そうなのです。「平成のブルースの女王」吉田静さんが名唱した、昭和モダニズムの名曲『別れのブルース』が誕生した由緒あるホテルなのです。
 戦前の昭和12年頃のある晩、作詞家の藤浦洸(ふじうら・こう)がこのホテルの3階の一室に宿泊し、その部屋の窓越しから「メリケン波止場」(今の大桟橋の前身)など港夜景を眺めながら、この歌の歌詞を着想したのです。

関連記事
『神奈川県庁本庁舎にて(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-eaf9.html
『美しすぎるフォレスタ』(「別れのブルース」中心記事)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-1920.html
『「別れのブルース」秘話』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-aeeb.html
『フォレスタの「恋のバカンス」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-8a07.html

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どうなっちゃったんだ、山形大学

 -出身県の大学の不祥事から、この国の深刻な病根を思わずにはおられない-

 山形大学は、私の出身県である山形県にある国立大学です。私が郷里にいた昭和40年代前半頃は、東大・京大など旧帝大系は「国立一期校」、山形大学など多くの県の国立大は「国立二期校」と呼ばれて区別されていました。
 それでも国立大学には違いなく、当時は今と違ってあっちにもこっちにも大学がある状況ではなく、「山形大学生」というと地元の誰もが一目置く存在でした。

 今回私の出身県内とは言え、なぜ東北のローカル大学を取り上げるのかと言いますと、少し前の『日刊ゲンダイ』の「話題の焦点」というコラムに、山形大学の話題が載っていたからです。
 それも良い話題ではなく、最初の大見出しが「6人目の逮捕者」とあるとおり、不名誉な出来事が続いているためです。

 以下に『日刊ゲンダイ』記事を転載しますが、内容を読むと「山形大学、ホントにどうなっちゃったんだ?」と思うような体たらくぶりです。

 原因として、現学長の大学運営上の問題もありそうです。しかし私はそれだけではなく、と言うよりひとり山形大学のみならず、このような問題はすべての国公立大学、その他のどこの大学ででも起こり得るのではないだろうか、と考えます。
 深く病根に蝕まれているこの社会、システム全体、国民全体が劣化しているこの国の、一つの表出例なのではないだろうか、と。  (大場光太郎・記)

                        *
6人目の逮捕者 山形大で何が起きているのか

明石康も輩出

 学生の逮捕者はついに6人目だ。1月31日に男子学生が窃盗で捕まった。今月1日には別の男子学生が公然わいせつ罪で逮捕されている。教職員らも含めると逮捕、摘発は11人。元国連事務次長の明石康氏(旧制山形高校から東大)を輩出した山形大が異常事態に見舞われてる。

 大学側はHP上での注意喚起のほか、昨年末には、学生にも直接指導していたようだが、効果はなかったらしい。
 同校の広報担当者は、「過去5年、学生の逮捕は年に1~2人でしたが、今年度は6人。外部の専門家も入れて原因などを調べたい」と言うが、そもそも、例年1~2人の逮捕者が出ていたこと自体、驚きだ。

 同大は医、工、理、農、人文、地域教育文化の6学部ある国立大だ。大手予備校の代ゼミによれば、偏差値は医学部が60、人文学部が57、工学部が48となっている。大学通信のゼネラルマネージャー・安田賢治氏がこう言う。
 「典型的な地方大で、医学部の医学科を除けば難関ではない。学生は、地元進学校の出身者が中心です」

 フジテレビの武田祐子アナや、「幽☆遊☆白書」などで知られる漫画家の富樫義博、ロックミュージシャンの遠藤ミチロウ、作家の藤沢周平(山形師範学校)なども卒業生だ。

 実は、結城章夫学長は、“大学業界”の有名人。東大卒のキャリア官僚で、05年には旧科技庁出身者として初めて文部科学事務次官に就任、07年に退任し現職となった。当時母天下りとの批判もあったが、「地域と連携し、先進的な改革をしている、ヤリ手のイメージが強いです」(安田氏)と意外にも評価は高い。

 07年12月には朝日新聞のインタビューで「山形大は教養教育で勝負しようと思っています。教養教育の充実には、カリキュラムを変え、先生の考え方を『学生中心』に変えないといけない」と語っていた。だが、その結果が逮捕者続出を招いたとすれば、方向転換が必要になりそうだ。  (転載終わり)

【蛇足の一言】
 結城学長は、山形東高校、東大工学部を経た元キャリア官僚のようです。文科省事務次官まで務めたエリート官僚だったわけです。で、そういうお人に学校経営を委ねると、このような結果です。翻って、隣県の秋田国際教養大学を急成長させている学長は民間出身です。
 今この国は事実上「官主主義国家」です。官僚が国家の根幹を押さえ、国を牛耳り、国民の首根っこを抑えている状況なのです。一大学の経営ですらロクな成果を上げられないエリート官僚に、国家経営の要(かなめ)を抑えられていていいのでしょうか。

転載元
『日刊ゲンダイ』-「話題の焦点」(2月11日5面)

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イエス・キリストの本当の顔

-「この人を見よ」。この肖像こそ人類最大のスーパースターの本当の顔である-



 この肖像こそは近年、「イエス・キリストの本当の顔」と言われているものです。眉目秀麗で端正な顔立ち、深い英知を偲ばせる広い額・・・。一目見ただけで「気高い人」「聖なる人」ということが分かります。ただ驚くのはその東洋的な風貌です。

 時代とともにヨーロッパに広まり西洋化していったキリスト教にあって、各時代夥しいキリストの肖像画が描かれました。また近年の映画産業の隆盛にあって、人類史上最大のスーパースターであるイエス・キリストが登場する映画も多くありました。
 当然のことながら、それらは皆西洋的な風貌で描かれています。この肖像写真は黒い髪に黒い目ですが、宗教画の中には金髪で青い目のイエスが多くあります。そのイメージを今日の私たちも受け継いできたわけです。

 しかしよく考えてみれば「ナザレ人」イエスは、パレスチナ(のユダヤの地)という中東の出身なのです。東洋人の顔立ちでなければむしろおかしいわけです。私個人としては、東洋的なこの顔立ちのイエスの方により親近感を覚えます。

 余談ながらー。キリスト教は偶然ヨーロッパに広まったわけではなく、キリスト教は西洋中心、仏教は東洋中心と当初から決められていたようです。

 突然奇異なことを言い出すようですが、その点「神素盞嗚尊」(かむ・すさのおのみこと)は「青海原を治(しら)すらべし」、すなわち地球全体の救世主神であるようです。(『古事記』は本当は、「6通りの読み方」ができる世界的大聖典。)
 これについては、いずれもう少し詳しく述べる機会があるかもしれません。が、今は、「神儒仏耶回」(神道または道教、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教)の世界五大教の悉くがアジアの大地で生まれていることにご注目ください。

 ここで、この肖像写真の謂れについて簡単にご説明します。
 時は20世紀半ば過ぎのこと、所は中米ユカタン半島のある場所、ある人にイエスが現れました。いろいろと深遠なやり取りがあり、その時示現したイエス自身が自らの写真を撮ることを許可したというのです。
 そういう経緯により、この肖像写真はその後全世界に広まっていくことになったわけです。

 「慈しみ深き友なるイエスは・・・」と賛美歌にも歌われています。
 イエスはその母の聖母マリアとともに、昇天(アセンション)後もこの地上世界にけっこう姿を現しています。
 一方のお釈迦様の出現例は稀で、際立った対比を見せています。「役割の違い」と言ってしまえばそれまでですが、「愛の人」イエスは、やはり人類世界の動向が気がかりなのかもしれません。

 出現例として次のようなケースがあります。いずれもアメリカの20世紀前半頃のエピソードだと思われます。

【その1】
 ある人が航海中の船が難破して、海に放り出されてしまいました。その人は日頃信仰心の篤い人で、溺れかけているその時必死に御名を呼びイエスの助けを求めたのです。と、それに応えるようにイエスがすぐ目の前に現れたというのです。
 それと同時にどこからか丸太が流れ着き、その人は夢中でそれにしがみつき、危うく難を逃れることが出来たといいます。

【その2】
 手がつけられないほどの乱暴者がいました。その男はある時ある人に暴行を働き、傷害罪で刑務所に入ることになりました。ムショの中でも看守に悪態をつき暴れるなど凶暴さがおさまらず、旧時代の刑務所の事、その男は半死半生の目に遭わされ独房に放り込まれます。
 生死の境をさ迷っている時、これ以上ない不信仰者の男の前に、突如イエスが現れたのです。これがその男にとっての人生上の最大の転機となりました。以来人が変わったように素行は改まり、模範囚となります。
 出所後、「スターディリー」(日々輝く)という名を名乗って、宣教師として大きな社会貢献をしたということです。

 (大場光太郎・記)  


関連記事
聖母は名もなき者を嘉し給いて (こちらは聖母示現による感動秘話です。)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-02e5.html
(賛美歌312番)慈しみ深き友なるイエスは
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高まりつつある「核保有論」

 -唯一の被爆国として核廃絶、恒久平和を謳った現憲法の精神は今いずこ-

 険悪化する一方の日中関係において、中国艦船による海上自衛隊艦へのレーダー照射事件だけでも、我が国にとっては重大問題なのに、その証拠の開示などどこかに吹っ飛ばす重大問題がまた、持ち上がってしまいました。
 今月12日の北朝鮮による3度目の核実験です。

 北朝鮮は11年12月の金正日前総書記死去後、金王朝3代目となる金正恩体制となっても、先軍主義なかんずく核開発の手を決して緩めようとはしません。
 それもそのはずで、世界の中でも有数の経済弱国である北朝鮮にとって、世界に伍して生き抜いていくために、「核保有」こそは初代の金日成以来の国是のようなものなのです。金前総書記も死去直前「核開発を続行すべし」と強く遺訓したそうです。

 米国が北朝鮮を攻撃でもしようものなら、同盟国の首都にミサイルを撃ち込み、「ソウル&東京を火の海にしてやる」と意気込まれるわ、韓国に駐留・滞在している3万人以上の米国人の命の保証は出来ないわ。
 その上北朝鮮の後ろには、米国が内心ライバル視している中国が控えているし。
 北朝鮮の核暴走に対して、同国を「ならず者国家」に指定している「元祖ならず者国家」の米国とて、ウカツには手出しできない状況です。

 今の東アジアにあって、韓国以上に微妙な立場に置かれているのが日本です。
 ご覧のとおり北の暴れん坊は核暴走するし、中国はしきりに挑発してくるし、ロシアとも難しい北方領土問題があり安倍政権の様子うかがいに領空侵犯はしてくるし。近隣では唯一のお仲間である韓国とも例の竹島問題でトラブっているし・・・。
 「前門の虎、後門の狼」がゾロゾロいるような危なっかしい状況です。

 我が国にとって、最大頼りになるのが日米安保の同盟国(盟主国)の米国ですが、二言目には「もっとカネよこせ」「ТPPに参加して丸裸になって我が国に市場開放しろ」などとの無理難題。尖閣問題でも、レーダー事件でもさほど頼りにはならないのです。
 そうしてみると米国こそが、日本の心臓部に食らいつく邪悪な「緑色の蛇」なのかもしれません。

 このように我が国は、外交・防衛・安保上関係諸国と幾重もの難解な問題を抱えています。これを一つ一つ解決していくのは、関係5カ国をもじって言えば連立5次方程式(式として成立するのかどうかは不明)の解を得るような至難さです。
 しかし今後とも東アジアの平和を維持し、我が国が栄えていくにはどんな難題でも解いて、一つ一つの外交問題を平和的に軟着陸させていく以外方途はありません。

 しかし今日、かかる正当な解決法によらない、やゝ、いなかなり異端な方法(禁じ手)で閉塞的な近隣関係を打開しようという論法が声高になりつつあります。

 ズバリ「核保有論」、つまり「日本も核保有すべし論」の広がりです。
 例えば最近の『日刊ゲンダイ』(2月19日号5面)の連載コラム『溝口敦の斬り込み時評』(月曜掲載)でこの問題を扱っています。
 溝口敦氏は暴力団情報に詳しいノンフィクション作家で、どらかというとリベラル派かな?と思っていただけに同氏の同コラムの内容は驚きです。

 私の前説がだいぶ長くなりましたが、以下に転載します。  (大場光太郎・記)

                       *
日本が「核を持つ」と言い出したらどうなるか?   溝口敦

 2月12日に北朝鮮が3度目の核実験を強行したことに対し、衆院本会議が14日、全会一致で抗議決議を採択した。
 「……一連の国連決議や6者会合共同声明、日朝平壌宣言に明確に違反し、……度重なる核実験は、国際的な核不拡散体制に対する重大な挑戦であるばかりでなく、唯一の被爆国のわが国として断じて容認できない暴挙であり、厳重に抗議し、断固として非難する……」
 こうした抗議を受けて、北朝鮮が核武装を断念するとは誰も思っていまい。

 ところで当コラムの読者である大物政治家の元秘書から、次のような提案を受けた。
 <北朝鮮が核武装するなら、わが国も自衛上核武装せざるを得ないと、安倍政権が言い出せば、一番日本の核保有を嫌がるのは中国だ。
 なぜなら日本が核を持てば、中国はロシア、パキスタン、インド、日本と四囲を核保有国で取り巻かれるからだ。それが嫌だから、中国は必死になって核開発を止めろと北を説得するだろう。北朝鮮が中国の制止を無視するなら、中国は金正恩を幽閉するぐらいのことは平気でやる。金正恩をさらわれたら、北は核開発どころでなくなる>

 日本は非核三原則を国是としている。核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませずだから、今、核武装を言い出せば、世論はたちまち紛糾しよう。だいいちアメリカが難色を示す可能性がある。
 元大物秘書は次のように反論する。

 <核はたとえ持ったところで、使えない兵器だってことは世界の常識だ。しかし、日本が非核三原則が国是だと胸を張っても、世界のどの国が日本を尊敬するというのか。脅せば弱いと侮られるだけ。
 1957年、当時の岸首相は「自衛権を裏付けるに必要最小限の実力であれば、私はたとえ核兵器であって持ち得るということを憲法解釈としては持っている」と述べている。岸の言う通り、日本でも持とうと思えば核は持てる。まして当時と状況が変わって、中国が持ち、北が持とうとしている。
 しかも核武装すると言い出すのと、実際に核武装するのとは違う。今、言い出せば、中国が真剣になって北を抑えにかかる。日本の政治家は、なぜこれぐらいの知恵が働かないのか、私は情けなく思う>

 産経新聞が2年前に行った世論調査では、政府や国会で核問題の論議を行うことに「賛成」と答えた人が86.7%を占めたという。北の核実験があったからには、核について国会で論議ぐらいはあってもいいのかと思う。  (転載終わり)

【最後に一言】
 産経新聞の「2年前の」世論調査は、文脈上当然福一原発事故以前なのでしょう。事故後国民の意識は相当変わっています。おびただしい原発の核燃料が核兵器に転用できることを、多くの国民が知り始めています。溝口敦氏ともあろうお人が、こんなデータを持ち出してはいけませんね。現時点で「不正」や「操作」のない世論調査を再度実施すべきです。
 問題は、「国会で十分論議しました。はい、お終い」とは100%ならないだろうことです。 

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易水送別

       駱賓王

  此 地 別 燕 丹    此の地 燕丹(えんたん)に別れしとき
  壯 士 髪 衝 冠    壮士 髪(はつ) 冠(かん)を衝けり
  昔 時 人 已 沒    昔時(せきじ) 人已(すで)に没(ぼっ)し
  今 日 水 猶 寒    今日(こんにち) 水猶(なお)寒し

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
駱賓王(らくひんのう) (?~684年)
 義烏(浙江省)の人。少年時代から詩の才能を認められたが、素行はおさまらず、博徒と交際していた。皇族道王につかえ、武功・長安の主簿を歴任したが、高宗の末年、政権を握っていた則天武后に上書していれられず、臨海(浙江省)の丞に左遷され、不平を抱いて辞任した。高宗の死後、則天武后が帝位についた光宅元年(684年)、徐敬業が武后打倒の軍をおこしたとき、賓王はその幕下に加わり、檄文を起草した。武后はこの檄を読み、顔色をかえて、賓王を見方にしなかったのは宰相の責任だと言った。敬業の軍が敗れたあと、賓王は消息を絶ったが、伝説によれば杭州の西の霊雲寺に住んでいたという。
 初唐四傑の一人。いま『駱丞集』4巻または『駱臨海集』10巻が残っている。 (岩波文庫版『唐詩選下』より)

《私の鑑賞ノート》
 冒頭の「此の地」とは、易水(えきすい)という川のほとりを指しています。「易水」は、現在の河北省易県付近に源を発する川で、今の大清河の支流にあたります。

 この詩で以下に詠まれているとおり、この辺りは(古代中国)戦国時代に「燕(えん)という国があった所でした。
 戦国末期、燕の太子の丹(たん)は、強大化しつつあった新興国秦(しん)の王である政(せい-のちの始皇帝)に恨みを抱き、荊軻(けいか)という剣客を秦都に送って暗殺させようとしたのです。

 すべての準備が整って、ある日の朝、荊軻は秦都咸陽(かんよう)へと出発することになりました。それで太子丹は臣下とともにこの易水で送別の宴を催すことにしたのです。
 見送る方も見送られる方も、これが死出の旅であることが分かっています。よって丹以下みな喪服である白装束を着ての宴でした。

 そもそも「易水の別れ」は、司馬遷(しばせん)の『史記』の叙述が初出です。中国の歴史書『史記』は本来「列王伝」や「宰相伝」が主体です。しかしなぜか、「刺客列伝」という傍流で描かれている「易水の別れ」が古来最も有名な場面の一つなのです。

 宴たけなわとなり、主役である荊軻がおもむろに立ち上がり歌を歌い始めます。筑(ちく-琴に似た楽器)の名手の演奏に和しながら。

  風蕭蕭兮易水寒     風蕭々(しょうしょう)として易水寒し
  壮士一去兮不復還    壮士一たび去って復(ま)た還らず
     (『史記』原文)

 初めは悲愴調を強調する「変緻(へんち)」という調べで歌い、後で高ぶった感情を表現する「羽声(うせい)」に転じました。
 駱賓王のこの詩では「壮士 髪 冠を衝けり」と荊軻自身の事のように描いています。しかし『史記』の記述では、目を怒らせ「髪 冠を衝けり」となったのは、それを聴いて悲憤慷慨(ひふんこうがい)の極地に達した太子丹以下臣下たちであったのです。

 送別の宴が終わると、荊軻は車に乗り真直ぐに秦地に向かい、二度と振り返ることはしませんでした。
   風蕭々として易水寒し
   壮士一たび去って復た還らず
 これぞ男の究極のダンディズム、その壮烈たるやいわく言い難し。
 秦始皇帝の阿房宮(あぼうきゅう)で何があったか、荊軻がどうなったか、これも多くの方が既にご存知のことでしょう。

 この五言絶句の題は『易水送別』。易水のこの地は戦国の昔から「送別の地」として有名でした。遥か時代が下った唐代初期、駱賓王はこの地でたまたま人を見送ることがあったのです。
 略歴で見たとおり、駱賓王も義侠心に富む人物だったようです。現実のある人の送別から飛躍して、伝説の「義侠の士」荊軻の故事に連想が及んだのもむべなるかな、という気がします。

 (大場光太郎・記)

参考図書
岩波文庫『唐詩選下』(前野直彬注解)
関連記事
『風蕭々として易水寒し(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9217.html
『風蕭々として易水寒し(4)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-334f.html

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フォレスタの「早春賦」

-早春と言えば『早春賦』。毎年今頃の季節、無意識のうちにこの歌を口ずさむ-

    (「フォレスタ 早春賦」YouTube動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=QNOLRSOI99w
          

    早春賦   作詞:吉丸一昌、作曲:中田章

 春は名のみの 風の寒さや
 谷のうぐいす 歌は思えど
 時にあらずと 声もたてず
 時にあらずと 声もたてず

 氷融け去り 葦はつのぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく
 今日も昨日も 雪の空
 今日も昨日も 雪の空

 春と聞かねば 知らでありしを
 聞けばせかるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か
 いかにせよとの この頃か

 この歌は郷里にいた十代の頃から好きな歌でした。

 以前の『早春賦』記事でも述べましたが、高校2年の音楽の最後の授業で、一人ひとりが前に出て歌を披露することになりました。若い頃は東京で活躍していたという50代の女の音楽の先生が、「何でもいいから各自好きな歌を」ということだったのです。
 男子は『二人の世界』『霧の摩周湖』といった当時流行っていた歌を歌う中、ひとり私は大まじめでこの『早春賦』を歌ったのです。(後で歌った女子の中にこの歌を歌った人がいて、『オレよりうまいぞ』と思って聴いていました。)

 時は2月中旬、東北は山形の高校のこと。教室の周りのグランドなど(校歌にも歌われている)「早苗が原」一面はまだ深い根雪に覆われていました。
 長い根雪に閉ざされた先の雪解(ゆきげ)の春、それは輝くような芽吹きの春、万物の蘇えりの季節。雪国に住む者にとって春はひときわ待ち望まれる季節なのです。
 そういう気持ちをこの歌に託したのだったか、多感だった当時の私にとって、この歌はその時の感性に適った歌だったのか。今となっては高校時代の懐かしい思い出の一つです。

 「春待ち歌」は多くあるのでしょう。しかし早春の歌と言えば『早春賦』というほど、大正2年に作られたこの歌が真っ先に浮かんできます。早春の頃の季節感をこれほど見事に描ききった歌は他にないのではないでしょうか。
 『早春賦』は、2007年の「日本の歌百選」に選定されました。

 先日の『立春大吉』記事でこの歌の歌詞を掲げ、この歌について述べました。この記事に、フォレスタファンで長野県在住の「みすず」さんよりコメントをいただきました。そのラストの部分を以下に掲げさせていただきます。

長野県 安曇野市では、毎年4月末に「早春賦を歌う集い」があるようです。 信州住まいの私、一度行きたい…と思いながら果たせないでいます。 (転載終わり)  

 私は「そう言えばこの歌の歌詞は、信州安曇野が舞台だったのではなかったでしょうか?『フォレスタの「早春賦」』作成まで調べておきます。」と返信しました。その後調べましたら、やはりそうだったのです。

 この歌を作詞した吉丸一昌(よしまる・かずまさ)は当時「尋常小学唱歌」の作詞委員会代表でしたが、大正初期の早春の頃長野県安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受け、この歌の詩を書き上げたのです。
 今の私たちには作り得ない格調高い文語体のこの歌詞、大町文化会館、穂高町の河川敷に歌碑が建っているそうです。そしてみすずさんによりますと、安曇野市では毎年4月末「早春賦を歌う集い」が催されているわけです。

 なお「賦」とは、元々は対句の形を取り、脚韻を有する長い漢文を意味していました。以前の『赤壁』記事でも触れた『赤壁賦』が代表例です。
 転じて「長い詩歌」をも表わすようになりました。『早春賦』とは「早春に賦す」の意味になります。

 この歌を作曲したのは中田章(なかだ・あきら)です。『雪の降る街を』『夏の思い出』『小さな秋見つけた』を作曲した中田喜直の父です。中田喜直は春の歌も作っていますが、「私には、父の『早春賦』を超える春の歌を作ることはできない」と語っていたそうです。
 まさにこの歌詞にしてこのメロディあり。詞曲一体となった名曲です。

                      *
 この『早春賦』を、男声フォレスタが歌っています。これにつきましては、先ほどの「みすずさんコメント」の前半部を再び引用させていただきます。

♪早春賦。。。立春の声を聞くと、私もこの歌が聴きたくなります。 仰る通り、歌詞と言いメロディーと言い本当に素晴らしいと思います。
女声のみ、あるいは混声でしかお聴きしていませんでしたが、男声FORESTAでお聴きした時、とても新鮮に感じました。
男声だけでも素敵なんですね。。。♪
静さんの♪早春賦。。。私もお聴きしたいです。 (転載終わり)

 みすずさんのこのコメントだけですべて言い得ていると思います。と申しましても、それでは何ですから私からも一言、二言。

 1番前半は榛葉樹人さんと澤田薫さん(テノール)という高音の2人による歌唱、後半は川村章仁さん(バリトン)今井俊輔さん(バリトン)、大野隆さん(バス)という低音の3人が加わった全員コーラス。2番は川村章仁さんと榛葉樹人という高低2人による歌唱。3番は5人全員によるコーラス。
 一つの歌でさまざまに趣向を変え、コーラスの良さ、面白さをうまく演出しているように思われます。詩情豊かで重厚な『早春賦』です。余計なことながら、男声では珍しい白いスーツも新鮮です。

 思えば、ダークダック、ボニージャックス、デュークエィセスなど往年の名コーラスグループが高齢化した今、我が国を代表する男性コーラスグループは「男声フォレスタ」をおいて他にないのではないでしょうか。

 なお、「静さんの♪早春賦」というのは、言うまでもなく吉田静さんを指しています。1月中に行われた(フォレスタ外の)2つのコンサート両方で『早春賦』を歌われたのです。それで「聴きたかったなあ」と本文で述べたのでした。
 (余談ついでに)あろうことか吉田さん、この歌以外にも『朧月夜』『ゴンドラの唄』『アカシヤの雨がやむとき』『別れのブルース』など、私の聴きたい歌ばかりピックアップしてお歌いになったのです(笑)。

 それはともかく。次は「撮り直し」で、吉田さんのソロをメーンとした女声フォレスタの『早春賦』も聴いてみたいものです。

【追記】私も今回初めて知ったことを付け加えておきます。
 この歌のメロディは、モーツァルトの歌曲『春への憧れ』(k596)及び同じモチーフを使った『ピアノ協奏曲第27番(第3楽章)』(k595)との曲想の類似が指摘されているようです。
 私も少し聴いてみましたがなるほど似ているところもありそうです。中田章にはこの両曲が念頭にあったのは間違いないのではないでしょうか。しかし盗作というようなものではないと思います。中田章の心象の中でしっかり咀嚼され、日本の風土にマッチしたメロディとして生まれ変わった、と言った方がよさそうです。
 古来我が国は外来の事物を取り入れ、禅や茶道など独自の文化にまで高めてきました。そのような不思議な吸収・同化作用が、この歌のケースでも当てはまりそうです。
 「遠い東洋の国で、わが曲がこんな形で甦ろうとは」と、大モーツァルトも大いに満足しているのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

参考
『メッツォ・ソプラノ吉田静のビタミンCちゃん日記』-「テーマ【演奏会】」
http://ameblo.jp/yoshizuyoshi/theme-10028782282.html
『モーツァルト「春への憧れ」』(YouTube動画)
https://www.youtube.com/watch?v=7g8b_U1xusE
『モーツァルト「ピアノ協奏曲第27番』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=YTjPRkbVavs
関連記事
『早春賦』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c727.html
『立春大吉』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-47bf.html

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ローマ法王の突然の退位表明に思うこと

 -「聖マラキ予言」によると、ローマ教皇庁はあと一人の法王を残すのみ・・・-

 まずは『日刊ゲンダイ』(2月13日号3面)記事を転載します。

醜聞、権力闘争・・・ローマ法王が退位

生前退位は600年ぶり


 「老齢」を理由に11日、突然の退位を表明したローマ法王ベネディクト16世(85)。原則、終身制のローマ法王が自らの意思で退位するのは約600年ぶり。
 ドイツ生まれのベネディクト16世は05年4月、第265代の法王に即位。歴代の中でも在任期間は8年足らずと短かった。近年はツィッターで信者に語りかけるなど斬新な活動を行ったが、健康不安に加え、07年以降、カトリック教会の聖職者らによる未成年者の性的虐待や、昨年には法王側近が関与した機密文書流出が発覚。バチカンは幕引きを図ったが、背後に権力闘争がささやかれるなど心労が絶えなかった。新法王は、3月中に開かれる法王選出会議「コンクラーベ」で決定される見通しだ。  (転載終わり)

                       *
 ローマ教皇庁(バチカン)は言うまでもなく、欧米を中心に約12億人もの信者を擁するカトリックの総本山的存在です。バチカンは、ローマ市内にあり世界最小とは言え「バチカン市国」というレッキとした国家でもあります。その国家元首にも相当する法王が突然の退位表明となれば、カトリック信者のみならず世界的驚きとして受け止められるのも当然です。

 3年半ほど前に観た映画『天使と悪魔』の中で、やはりコンクラーベに際して、サンピエトロ大聖堂とその広場に群衆(信徒)が雲集するシーンがありました。その偉容と広大さは桁外れで度肝を抜かされました。

 余談ですがー。この地にサンピエトロ大聖堂が建てられることになったいきさつについては、感動的な伝説が残っています。
 イエス死後(『使徒行伝』によると、復活したイエスが弟子たちが見守る中昇天した後)、十二弟子やパウロたちはパレスチナを離れて各地に福音を宣べ伝えることになります。一番弟子格の聖ペテロ(サンピエトロ)が受け持ったのは、古代ローマ帝国の中心都市ローマでした。

 しかし次第にローマ帝国による迫害が激しくなり、ローマ市内で布教しているキリスト者は迫害を逃れるためローマを離れることにします。長老ペテロもそうでした。
 ペテロがローマを背にした南東の郊外の道を歩いていると、ローマの方向に向かおうとしているイエスと出会います。ペテロは驚いて尋ねます。
 「ドミネ・クォ・ヴァディス?」(主よ、いずこに行かれるのですか)
 「エホ・ロマム・イテルム・クルキフィム」(再び十字架に架けられるためにローマへ)
 そう言うなり、イエスはローマ目指して歩き去って行きました。

 師の後姿に深く感じ入ったペテロは元来た道を引き返します。
 案の定ローマ当局に捕らえられ、十字架刑に処せられることになります。その時ペテロは「主と同じでは畏れ多い」と、自ら望んで「逆さ十字架刑」で死んでいったといいます。
 ペテロが葬られた墓地の上に建てられたのがサンピエトロ大聖堂(ただし現在の大聖堂は16世紀初頭に建て替えられた第2期建造物)だと言われているのです。こうしてイエスの「私の岩の上に私の教会を建てる」という福音書の預言が成就したのです。(ペテロという名はイエスの命名によるもので「岩」の意)

 このような美しい伝説の上に築かれたローマカトリック教会は、聖アウグスティヌスや中世アッシジの聖フランチェスコ、アビラの聖女テレジアから近年のコルベ神父やマザー・テレサに至るまで、正真正銘の聖人を数多く輩出してきました。またギリシャ神話とともに、西洋絵画・音楽・文学など各芸術のインスピレーションの源泉にもなってきました。

 しかし一方、「神の教会」にあるまじき負の側面も有していました。
 数次の十字軍遠征によるイスラム教徒の虐殺、カタリ派など異端と認定した少数派の抹殺。すべての学問を停滞させた中世暗黒時代。ガリレオなどに対する誤った宗教裁判。サボナローラやジャンヌ・ダルクなど異端認定者の火あぶりの刑。魔女狩り、魔女裁判、拷問、処刑。一部特権聖職者による富の独占、陰湿な権力闘争、男色、漁色・・・。

 ご存知の方もおられるかもしれませんが、キリスト教が強い影響力を及ぼしてきた2千年間は「魚座の時代」でした。ペテロ(本名シモン)は元はガリラヤ湖で魚を採って生活する漁師でしたし、キリスト教の主要シンボルの一つは「魚」です。
 極言すればキリスト教は「魚座の宗教」なのです。

 魚座(ビスケス)は「双魚宮」とも言われ、そのマークからもうかがえるとおり、特徴は「二項対立」「二元対立」です。まさに「神と悪魔の戦い」「光と闇の戦い」「霊と肉の戦い」、これらがキリスト教の大きなテーマでした。

 ローマカトリック最大の矛盾点・問題点は、イエスとマグダラのマリアの婚姻の事実を隠し、神としての絶対性を強調するあまり「キリストの独身性」を教義の根っこに据えたことです。「キリストの去勢」からローマ教会は出発したわけです。が、実際のイエスは高度な性魔術師でもあったと言われています。
 教会によって娼婦に貶められたマグダラのマリアは、イシス神殿の高度な女性イニシェートでした。二人の間に生まれた女の子「サラ」は歴史の闇に隠されました。こうして「アヌンナキ」という地球外の強大な父権勢力によって作られたローマカトリック教会は、女神性、女性性を徹底排除したのです。

 しかし今は魚座から「水瓶座」(アクエリアス)へと移行しつつある時代です。来るべき時代は、穏やかにすべての二元対立を融かし、精神性やスピリチュアル主体の一元性へと収斂されていく時代です。
 その中には、現歴史では無視され続けてきた「女神の復活」も含まれます。これは女性上位や肉食女子というようなことではなく、外側の男性、女性のバランスある関係、自分自身の内なる男性性と女性性のバランスを取り戻すことを意味します。

 今回のベネディクト16世の突然の退位は、在位中に進めようとした内部改革が遅々として進まないことから、自ら退位することで強く問題提起しようという意思もあったとみられています。
 しかし思うに、カトリック内部改革以前の問題として、もうキリスト教の役割は終わったのではないでしょうか。いや我が国巨大教団の堕落から見ても、ひとりキリスト教のみならず「宗教そのものの役割」が。

 どうせだったらベネディクト16世、退位にあたって、バチカンの奥深くに秘匿しているという例の「ファティマ第3の予言」を全世界に公表してもらいたかった、と思います。それがバチカンの今一番の世界貢献なのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『「天使と悪魔」を観て(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-f80f.html
『イエスとマグダラのマリア(5)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-bc3a.html
『ルシア自身が語る「ファティマ第3の予言」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-1862.html

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レーダー照射事件-日中戦争にまた一歩近づいた?

-緊迫する難解な外交方程式、安倍政権で「平和解決」という解が出せるの?-

 政権担当能力ゼロの民主党政権下で、尖閣沖中国漁船衝突事件や尖閣国有化問題、竹島問題などで、中国や韓国との関係がかつてないほど悪化しました。
 その点かつての穏健保守路線の旧自民党とは違う極右安倍政権とは言え、半世紀も続いた自民党の外交上のノウハウは引き継いでいるはず。ならば諸外国との外交上の駆け引きなどお手の物と思いきや。

 ラッキーにもちょうどグローバルな経済的上げ潮機運にも乗り、思惑通りの「円安、株高」で国内経済もここのところ順調気配です。その後押しもあって、1月に起きたアルジェリア人質事件では安倍首相以下、現政権幹部が民主党前政権とあまり変わらない外交無策ぶりを早くも露呈したのに、逆に内閣支持率は急上昇です。

 しかし今月に入ってまたも厄介な外交・防衛問題が持ち上がりました。
 1月30日、東シナ海において中国海軍所属のフリゲート艦「ジャンウェイ」が、海上自衛隊の護衛艦「ゆうだち」に向けて火器管制レーダーを照射したというのです。
 この事実を2月5日に発表した小野寺五典防衛相は、その後の衆院予算委員会で「国連憲章上、武力の威嚇にあたるのではないか」と、中国側を強く牽制しました。

 これに対してしたたかな中国政府は、「日本政府による捏造だ」と全面否定しています。結局「やった、やらない」で、中国お得意のうやむや幕引きを図りたいのでしょう。
 これで引くに引けなくなったのが日本政府です。ならばとばかりに小野寺防衛相、「証拠はある。開示する」とヒートアップ。
 不正選挙に乗っかって誕生したのかもしれない安倍政権でも、いくらなんでも国際社会に向かって起きもしなかったことを「起きた」とは言わないでしょう。中国艦船からのレーダー照射は間違いなくあったとみるべきです。

 それでなくても中国軍の日本に対する挑発行為は過熱する一方です。
 年明け早々から、中国戦闘機が日本の防空圏内に入り、軍幹部らは「軍事衝突」を示唆する発言を繰り返しています。例えば中国人民解放軍を指揮する総参謀長が全軍に対し、2013年の任務について「戦争の準備をせよ」との指示を出していたといいます。
 つまり軍はこの方針に沿って動いているとみられ、今回のレーダー照射もその一環ととらえるべきです。

 ますます経済大国化、軍事大国化していくお隣り中国に対して、日本にとっての頼みの綱は米国です。実際日本政府は今回の事件について、米国に事前通告してから公表したといいます。しかし米国の反応は期待していたほどではなく、米国内でさほど大きなニュースにもならなかったようです。
 11日になってようやく、米国務省のヌランド報道官が、「レーダー照射があったことを確信している」とコメントし、中国側に懸念を伝えたことを明らかにしました。

 しかし米国の善意もここまででしょう。なぜなら米国にとって中国は今や巨大な生産拠点であり、投資先であるからです。いたずらに中国を刺激すれば「財政の崖」状態の米経済が大打撃を受けかねないからです。
 元外務省国際情報局長の孫崎享氏が言うように、「米国が東アジアで最も重要視している国は中国」なのです。だからこの事件のみならず今後の日中間のゴタゴタ解決に、米国が本気で乗り出すなど期待しない方がよさそうです。

 中国軍首脳は「もし日中戦争になったら日本にミサイルを撃ち込む」と、物騒な発言をしているといいます。このように最近中国の日本への挑発はエスカレートする一方です。しかしなぜそうなっているのか、その背景を考えた方がよさそうです。
 確かに胡錦濤体制から習近平体制へと移行しつつある中国国内事情が背景にあるのでしょう。しかし同時に、「親米反中」の安倍晋三が我が国の首相として登場してきたことも大きな要因なのではないでしょうか。

 年初の『今年の年頭に思うこと』で、五木寛之氏の次の言葉を引用しました。
 「もし世の中に、時代の潮目というものがあるとすれば、2013年こそはその分岐点かもしれないと思う。
 時代の転換期は、雪崩のようなものだ。雪崩から身を守る智恵はあっても、雪崩を防ぐ方策はない。天災も、恐慌も、戦争も、「忘れた頃にやってくる」のである。」

 近代史における日中戦争の発端がまさにそうだったではありませんか。昭和12年(1937年)7月7日、北京西北郊外の盧溝橋付近で日中両軍が対峙していました。深夜中国国民革命軍の方から一発の銃声が聞こえてきました。
 それは単に偶発的に発砲されたものでしたが、中国進出の機会をうかがっていた日本軍にとってはまさに好機到来、以後大規模戦闘に発展し、日米戦争にも直結する泥沼の日中戦争の幕開けとなったのです。

 以来75年余を経て、日中は攻守所を変えています。多くの側面において中国が優位に立っているのです。「日中もし戦わば」、いづぞやも見たとおり、国土面積、人口比、資源において十分の一に過ぎない我が国は長期化すればするほど不利になります。
 日本全土が火の海になりかねないことを考えれば、外交による平和解決が最上策です。相手は確かに米国といい勝負かもしれない覇権国家ですが、決して挑発に乗らないことです。「逆・盧溝橋事件」にでもなったら塗炭の苦しみを味わうのは国民なのです。

 本質が「戦争屋」の安倍首相に、果たして中国との平和外交という視点があるのかどうか。「(前政権で)靖国神社に参拝しなかったのは痛恨事」などと中韓を刺激するようなことは、思っていても言わないに限ります。
 まずはあらゆるルートをたどって、中国首脳との会談の実現を目指し、東アジアの安定に向けた忌憚ない意見交換をするべきです。

 (大場光太郎・記)

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不正選挙総まとめ

 以下に掲載するのは、『るいネット』掲示板に投稿された記事です。当ブログでも問題にしてきた「12・16不正選挙」について、16もの事例について簡潔にまとめてあります。これを読めば「不正があった」ことは明らかなのではないでしょうか。

 以前の『史上空前の大規模不正選挙』でも述べましたが、問題は、衆院選挙という国の運命を左右する選挙で有り得ざる大規模不正が行われても、誰もそれを正すことができないことです。事は「米官業政電」総がかりであるためです。
 そして巨大不正選挙の結果圧倒的多数を得て政権を奪取した、安倍自公政権に71%もの高支持率を与えているのです。(直近の読売新聞調査)

 この国は「民主主義」とは名ばかり、黒を白と押し通す「米主主義」「官主主義」が実態です。歴史の法則からして、巨大不正がまかり通って栄えた国はないことでしょう。ある外国人の著書の中の「恍惚として死にゆくアメリカ」をもじって言えば「恍惚として死にゆく日本」 唯一の希望は「草の根ネット民主主義」の広がりです。         (大場光太郎・記)

                        *

不正選挙まとめ~パイナップルさんのツイートより~

転載元『るいネット』
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271988&g=122103

パイナップル(脱原発に一票) @hannibal9111 リンクのツイートをまとめます。


不正選挙まとめ① 戦後最低の投票率と伝えるマスコミと、それとは裏腹に各地で目撃・報告される投票者が作る行列の謎。戦後最低ならこの行列の写真は何なのか? リンク 

不正選挙まとめ② 過去最高の無効票の謎。無効票は204万票にものぼると発表された。前回の選挙の2倍だという。投票率が戦後最低だというのに無効票だけが過去最高?戦後最低の投票率の中わざわざ投票に行くような人たちが白票のような棄権票や候補者以外の名前書いた票を大量に出しますかね?

不正選挙まとめ③ 三原じゅん子参院議員のブログの謎。三原議員は開票30分前のブログで「次々と入ってくる出口調査の結果が自民党に厳しく、マスコミ情報とは全然違う」と書いている。リンク  そんな出口調査を見て、なぜマスコミは自民圧勝を伝えられたのか。

不正選挙まとめ④ 時事通信から漏れた衆院選リハーサル内容の謎。12月12日、時事通信に不正アクセスがあり、試験的に作ったとする得票数・議席数が実在の候補者の名前と共に書かれていた。いくらリハとは言え、細かく数字なんて打ち込むだろうか?

不正選挙まとめ⑤ 比例票=小選挙区×0.6の謎。宮城2区斎藤やすのり候補が戦った宮城野区、若林区、泉区の全てで比例の得票数が小選挙区の票数に0.6をかけたものになっている。新潟の候補者も同じ割合で得票している。宮城と新潟という異なる地域の8区全てでこんな現象が起こるものだろうか?

不正選挙まとめ⑥ 選挙システムを独占してる会社ムサシの謎。2003年には選挙記録改ざんにより選挙無効を引き起こした前科がある。集めた票の束を読み取り集票ソフトが正しく合計するかはノーチェック。まとめ⑤の不可解得票を行えるとすれば集票ソフトのプログラムか?ブッシュはそれで不正した。

不正選挙まとめ⑦ 米大統領選の不正との類似性の謎。ブッシュの不正を暴いたグレッグ・パラスト氏が指摘した不正選挙の特徴。①無効票という名の廃棄②候補者の名前が一覧画面で欠落③不在者投票がカウントされない④特定の地区で投票所が閉鎖される・・・今回の選挙と似ている部分が多い。

不正選挙まとめ⑧ 繰り上げられた投票時間の謎。全国の投票所の多くが時間を繰り上げて投票受付を終わらせた。6時台に終わらせる所もあり、4時間も終了を早めた投票所も。早期終了が周知徹底されていれば問題無いが、周知されておらず投票出来なかった人もいる。なぜこんな大規模な終了繰り上げを?

不正選挙まとめ⑨ 凍結される選挙結果の謎。総務省は選挙の最終結果を1月中旬まで公開しないとした。結果は選挙翌日に公開されてたが、得票率や得票数がおかしいと騒がれ始めると、公開を中止、1月中旬まで公開しないとした。不正選挙への提訴期間は選挙から30日、つまり1月15日が期限である。

不正選挙まとめ⑩ 不自然な得票率の謎。 基本的に時間系列の得票率をグラフにしても激しい変化は見られないもの。一定だからこそ出口調査が出来るのであるが、なぜか自民党の得票だけ不自然な右肩上がりのグラフを描く。これは神奈川県の選挙区18ヶ所の解析である。リンク 

不正選挙まとめ⑫ 疑惑の千葉4区の謎1。野田元総理の選挙区である。0時から30分の間に開票された4万5千票のうち野田の得票率が93.7%!さらに0時半から1時までに開票された約9300票の99.9%が無効票扱い!異常すぎるデータである。リンク 

不正 選挙まとめ⑬ 疑惑の千葉4区の謎2。以前、得票率は大抵一定だと述べた。開票の前半と後半を比較すると、自民は一定だが、未来は18%→2.2%、共産は12.9%→2.4%、野田はなんと43.2%→70.7%!と激変する。リンク 

不正選挙まとめ⑭ 消えた比例票の謎。広島6区は亀井静香議員の選挙区。後援会も支持者も強固である。なのに小選挙区では9万1千票、比例は約2万3千票。小選挙区票の75%に当たる6万8千票が違う政党に投票されたことになる。亀井氏を支持し続けてる人が大挙して違う政党に入れるだろうか?

不正選挙まとめ⑮ 極端すぎる結果の謎。今回の選挙は全てが極端である。最高か最低しかない。戦後最低の投票率。過去最高の無効票。自民圧勝、左派政党壊滅、原発推進派が圧勝、反対派は20人だけ当選、都知事の猪瀬は史上最高の433万票である。なぜ全てがこんなに極端なのか?違和感だけが残る。

不正選挙まとめ⑯ マイケルグリーンの予言の謎。マイケルグリーンとは米国シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)のアジア日本部長である。彼は選挙前に「総選挙は左派勢力に最後のとどめを刺すことになりそうだ 」と述べている。原発事故直後の選挙であり、左派が壊滅する要素は皆無だったが。  (転載終わり)

関連記事
『史上最大の大規模不正選挙』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-56a3.html

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フォレスタの「とうだいもり」

-学校では教えていないらしいが、いついつまでも世を照らす歌であって欲しい-

    (「フォレスタ とうだいもり」YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=qyzTJelULEw


 良い歌が集中していたからなのか、小学校高学年で教わった歌は長く記憶に残る歌が多いようです。この『とうだいもり』もその中の一曲です。
 一応私が教わった年代も述べておいた方が方がいいと思います。小学校5年生、昭和35年のことでした。この歌の季節は「真冬」ですからその年の冬だったのでしょう。教わった当時から、何と気高い、心が清々しくなる歌だろうと思っていました。

 この歌が我が国の歌ではなく外国の歌であることは音楽の教科書を見ただけですぐに分かりました。楽譜の上に「勝承夫」とあったからです。以前の『唱歌「夜汽車」』でも触れましたが、勝承夫(かつ・よしお)という名前は外国の歌にけっこう登場し、すっかりおなじみだったのです。
 歌詞の感じから古くからの文部省唱歌かな、と思いきや。戦後間もなくの昭和22年(1947年)の小学校5年用音楽教科書が初出なのです。

 『フォレスタ - とうだいもり』冒頭に「イギリス民謡」と謳われています。最近まではそれが定説でしたが、2011年この定説が覆りました。一橋大学名誉教授の桜井雅人氏によって、それまで作者不明とされていた『仰げば尊し』の原曲は19世紀アメリカのある人が作曲したものと判明し、同時にこの歌もほぼ同時期のアメリカの歌だったことが分かったのです。
 賛美歌として作られたという説もあるようですが、こちらは確実ではありません。しかし当時の私もこの歌に何となく「気高さ」を感じたように、もしそうだったとしても不思議ではないと思います。

 アメリカのこの歌の原曲、日本では明治期から知られていました。『鉄道唱歌』『故郷の空』『青葉の笛』や明治期軍歌の作詞者として有名な大和田建樹(おおわだ・たけき)によって、明治22年、『旅泊』という歌詞が作られました。
 張継という人の漢詩(七言絶句)を下敷きにしたというこの歌詞もなかなか良い詞です。ただ当時は日本人による作詞・作曲が建前だったので、『旅泊』は尋常小学校唱歌としては採用されませんでした。今日ではこの歌詞を知る人は皆無に近いようです。

 この歌が広まったのは何と言っても、勝承夫(1902年~1981年8月3日)の『灯台守』によってです。アメリカの原曲の厳かな感じ、さらには以前の『旅泊』から連想されたのかも知れないこの歌詞。
 一唱気が引きしまり勇気が湧いてくるような名訳詞です。戦後間もなくの打ちひしがれた気分を一新させ、当時の国民に大きな希望を与えたであろうことは想像に難くありません。

 「灯台守」とくればすぐに思い浮かぶのが、名画『喜びも悲しみも幾年月』です。昭和32年(1957年)、木下恵介監督により松竹が制作・公開した作品でした。
 佐田啓二と高峰秀子という往年の名優が灯台守の夫婦を演じ、戦前から戦後25年間にも及ぶ灯台守の生涯を描いた感動作でした。その間、北は石狩灯台、中ほどの観音崎灯台(神奈川県三浦市)、伊豆大島灯台から南は女島灯台(長崎県五島列島)まで、何と全国11ヶ所もの灯台を転任しています。

 ずっと後年ビデオで二度ほど観ましたが、まさに「想えよ とうだい まもる人の」「とうときやさしき 愛の心」、涙なしでは観られませんでした。
 今ふと思いました。この歌には別にヒットした(男声フォレスタも歌っている)『喜びも悲しみも幾年月』という主題歌があります。が、しかし木下監督、そもそもは『灯台守』の歌に触発されてこの映画を構想したのではないでしょうか?

 だいぶ長くなりましたが、どうしても触れておかなければならないことがあります。
 こんな名曲を学校で教えなくなっているというのです。えっ、どうして?どうも国内の灯台が有人から無人灯台に切り替わったからのようです。完全自動化となったのは2006年(平成18年)12月5日、それ以降日本には灯台守はいなくなったといいます。

 少し荒っぽい言い方ですがー。
 文部科学省のおエライお役人さんよ、それがどうだって言うんだ。現実にはいなくなったのかもしれないけど、かつては絶海の孤島状態で、厳しい作業に身を粉にして船舶の航海の安全を守ってくれていた人たちがいたわけでしょう。その「尊き」姿を歌った歌をなぜ教えようとしないの?あなたがたとてこの歌を学校で教わったんでしょう。その時どう感じました?

                       *
 我がフォレスタはもちろんそんなことはなく、嬉しいことに、この『とうだいもり』しっかり歌ってくれています。
 前列の吉田静さん、中安千晶さん、白石佐和子さん、矢野聡子さん、4人の女声と、後ろの大野隆さんと横山慎吾さんの高低音男声2人、計6人による混声コーラスです。

 まず気がつくのは、この歌、いつものピアノ演奏がないことです。つまり最初から最後までアカペラなのです。それでいて何か違和感があるかというと、まったくそんなことはありません。「これぞフォレスタコーラス !」と言いたくなる見事なコーラスです。
 歌詞そのものの斉唱はもとより、イントロ及び中間のハモリまで、男声、女声、高音、低音がほどよくミックスされた、心地良い合唱です。さながら一人ひとりの声が楽器であるかのように、一つのハーモニーとなって響き渡っています。
 さすがは声楽のプロ集団、脱帽です。

 「コーラスは低音が命」とはよく言われることのようです。この歌はどちらかというと荘重な感じの歌ですから、余計そうなのでしょう。男声ではバスの大野隆さん、女声ではメッツォ・ソプラノの吉田静さんの低い声が実によく効いています。

 前列の女声の皆さん、気高い曲調の歌だからそう感じるのか、古歌にある「乙女の姿しばしとどめん」を彷彿とさせる、清らかな立ち姿です。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『フォレスタ - 喜びも悲しみも幾年月』
http://www.youtube.com/watch?v=RrlzofGei0c
参考動画
『岡林信康の「とうだいもり」』(我らの世代の反骨の「フォークの神様」が、何ともやさしい声でこの歌を歌っています。アメリカンフォーク調のギターも聴きものです。原曲もこんな感じだったのかな?)
http://www.youtube.com/watch?v=Q3AnLUfS9ys
関連記事
『唱歌「夜汽車」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-dad9.html

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雪の原の犬

          川端 茅舎

  雪の原犬沈没し躍り出づ

…… * …… * …… * …… * ……
川端茅舎(かわばた・ぼうしゃ) 明治33年東京日本橋生まれ。独逸協会中学卒。洋画家を志し、藤島武二絵画研究所に入り、のち岸田劉生に師事した。病弱のため画業を断念、少年の頃からたしなむ俳句に専念することとなった。大震災後京都の寺に住んだこともあり、仏典に親しみ、仏語を多用して、茅舎浄土をえがいた。池上本門寺裏がその終の棲家であった。兄は川端龍子。句集に『川端茅舎句集』『華厳』『白痴』。昭和16年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 俳句は、ごくありふれた日常的な場面を切り取って詠む文芸です。第一、政治的、社会的な出来事を大上段に振りかぶって描くことなど、わずか5・7・5の十七音のみの俳句に出来るわけがありません。
 しかしだからと言って、ごくありふれた日常の一こまを、ごくありふれた言葉で綴ってもいけません。それでは単なる忘備的なメモ書きとさほど変わらないではありませんか。

 俳句は詩型の一種なのです。それゆえごくありふれた日常の、ハッとする場面、感動的場面を鋭くキャッチして詠んだものでなければなりません。
 と、要らざる講釈をしたところで川端茅舎の句についてです。

  雪の原犬沈没し躍り出づ

 まずもって発句に「雪の原」と置いたことによって、この句の構図がスパッと決まっています。全景一面の雪に覆われた野原のイメージが読み手にも伝わってきます。

 とある雪の原に、今一匹の犬がいます。さてこの犬はどんな犬か。和犬かはたまた大型の洋犬か。黒犬か白犬か赤茶けた色の犬なのか。そういう詳細な情報は何もなしに、いわゆる動物種としての「犬」。
 俳句という短詩型では一々の細密な描写は不可能ということもありますが、この句にあっては不必要ですらあります。

 この句で詠まれているのは、何色の何種の犬であろうとも、犬が雪の原にいれば共通して見せるであろう面白い行動についてだからです。
 その行動とは何か。
 「犬沈没し躍り出づ」、これです。

 昔の童謡『雪』でも歌われているではありませんか。   

   雪やこんこ 霰やこんこ。
   降つても降っても まだ降りやまぬ。
   犬は喜び 庭駈(か)けまはり、
   猫は火燵(こたつ)で丸くなる。  (2番)

 犬は寒がりな猫と違って、むしろ雪の中でも平気で遊び回るもののようです。その特性をこの句はしっかりと捉えてうまく表現しています。これこそ先ほど述べた、ありふれた日常における決定的な「俳句的場面」を捉えた、格好の例句といえそうです。

 一旦は雪の中に「めろんと」(とは私の郷里の方言で、「まるごと」「すっぽりと」の意)姿が見えなくなるまで埋まり、『あれれれっ』と思った次の瞬間、犬は辺りに雪片をまき散らながら躍り上がってきたのです。
 その活き活きとした躍動感。そのようすをデジカメででも連写したら、きっと面白いスナップショットが出来たことでしょう。

 略歴にあるとおり、川端茅舎は若い頃岸田劉生の下で絵画修業をしたといいます。そのためか、この句全体が極めて絵画的で映像的です。これは良い句の大切な要素の一つであると思われます。

 (大場光太郎・記)

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『名句鑑賞』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat32263708/index.html

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ご難続きの歌舞伎界、原因は「歌舞伎座の呪い」?

 -後ろの29階のタワービルが象徴的、原因は利益第一主義にあるのでは?-

 最近の『市川団十郎さん逝去』記事では、最近の歌舞伎界が見舞われている不幸の原因を、2010年11月の市川海老蔵暴行事件がケチのつき始めか?としました。しかし少し“内部事情”を探ってみますと、どうもそうではなく、むしろ海老蔵も被害者である構図が見えてきます。

 今回の市川団十郎、昨年12月の中村勘三郎逝去以前から、歌舞伎界を襲う不幸をめぐって、ネットの2ちゃんねるでは「あること」が囁かれていました。あることとは、ズバリ「歌舞伎座の呪い」です。どういうことなのでしょう。順を追って見ていきましょう。

 「歌舞伎座」とは、東京都中央区銀座四丁目にある歌舞伎専用の劇場(及び企業)のことです。1951年1月開場した従前の第四期歌舞伎座は、老朽化や耐震性などの問題があったため2010年4月30日に閉場し、代わって現在同敷地に第五期となる新歌舞伎座を建設中なのです。
 その「こけら落とし」(完成公演)が今年の4月2日で、これを待たずに逝去した市川団十郎はさぞ無念だっただろう、という関係者の話を前記事で紹介しました。

 さて問題の「歌舞伎座の呪い」。これは旧歌舞伎座の取り壊しと新歌舞伎座建設にまつわるもので、例えば「芝居の神様の祟り」が噂されているのです。しかし梨園(歌舞伎界)はそれを単なる与太話として済まされないほど、ご難続きです。
 もう一度時系列的に列挙してみましょう。

 2010年4月  旧歌舞伎座閉場
 同年  11月  市川海老蔵暴行事件
 2011年1月  中村富三郎死去
 同年  11月  中村芝翫死去
 2012年2月  中村雀右衛門死去
 同年   8月  市川染五郎転落事故
 同年  11月  市川段四郎、片岡仁左衛門体調不良
 同年  12月  中村勘三郎死去
 2013年2月  市川団十郎死去

 お亡くなりになった5人は、言うまでもなく歌舞伎界の大名跡です。特に中村芝翫氏は(財)日本俳優協会会長として、「新しい歌舞伎座の外観図発表に際して」というメッセージを寄せています。これほど短期間のうちに重鎮が相次いで世を去るものか。これでは通常の世の習いを超えた「呪い」を考えたくもなるというものです。

 肝心の新歌舞伎座の外観はどんなものなのでしょう。完成予想画像を掲げます。

 晴海通りに面している、手前の低層の時代がかった建物(和風桃山様式)が歌舞伎座の本体であることは分かります。しかし後ろの威圧するようなウザったいノッポビル、ありゃ何だ?実はビジネスエントランス、昭和通りに面したこの高層タワーも含めて「新歌舞伎座」なのです。
 施主:松竹&歌舞伎座。設計:三菱地所設計&隈研吾建築都市設計事務所。施工:清水建設。
 階数:地上29階、地下4階。高さ:145m。延べ床面積:9万4097㎡。

 「後ろにあんなビルが建っちゃって。これじゃあ芝居の神様も降りてこられないよな」とは市川海老蔵が洩らしたという感想です。ピンポ~ン。これは正論、まさにそのとおり。海老蔵さん、言う時は言うんだねぇ。
 かつて劇場脇に祀られていた「歌舞伎稲荷」の上にこんなノッポビルが建ったんじゃあ、ビルが邪魔してお社(やしろ)に降りられず神様が怒っている、というわけです。

 「芝居の神様云々」は別としても、風水的に見てもまずいでしょ、これは。周辺の「気の流れ」を乱し、遮断してしまいます。

 それ以外にも、2ちゃんねるではさまざまな憶測的物言いがされています。主なものは以下のような具合です。

 ○歌舞伎座建て替えの際、地下に埋めてあった「要石(かなめいし)」を取り除いてしまったのが原因だろう。
 ○自分は霊能があるが、建て替えの時にイチョウの木を伐ったようだ。このイチョウの木は歌舞伎座を守っていたのだ。それをバッサリ伐られたイチョウの木の怨念が渦巻いている。きちんと供養しないと悪いことがまだまだ続くよ。
 ○こけら落としは4月2日、「しにの日」だぞ。縁起悪すぎね?

 そして極めつけがこの人、美輪明宏さんです。1月13日のあるラジオ番組で「歌舞伎座呪い論争」に参入したというのです。江原啓之氏とともに当今を代表する霊能者の見立てはこうです。
 「近代的なビルに建て替えて、表だけ歌舞伎座の形をしていてもダメ。
  とにかく苛められた端役(はやく)の人やお二階さんやスタッフの
  慰霊碑を作りなさい。」

 さすがは私も日頃敬愛してやまない美輪さん、正鵠を得た指摘です。
 しかしどの呪いによるものなのか、あるいは複合的な呪いなのか、はたまた相次ぐ不幸事は単なる偶然なのか。私などはさっぱり分かりません。ただもうこれ以上、歌舞伎界の暗いニュースを聞くことなく、無事こけら落としを済ませていただきたいものです。

 (大場光太郎・記)

参考
『日刊ゲンダイ』(2月7日号7面)-「新装歌舞伎座オカルト論争の真贋」
歌舞伎座サイト『新歌舞伎座立替え計画』(中村芝翫氏らのメッセージや新歌舞伎座紹介動画あり)
http://www.kabuki-za.co.jp/rebuild/about.html
関連記事
『市川団十郎さん逝去』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-7b4a.html

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パティ・ペイジ『テネシー・ワルツ』

-良きアメリカンスピリットを失った米国よ。今こそ『テネシーワルツ』を聴き給え-

   


「テネシー・ワルツ」歌手のパティ・ペイジさん死去 1千万枚ヒット

『msn 産経ニュース』 2013.1.3 11:23 [有名人の訃報]
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130103/ent13010311240002-n1.htm

2日のAP通信などによると、「テネシー・ワルツ」などのヒット曲を生み出した米歌手パティ・ペイジさんが1日、カリフォルニア州エンシニタスで死去した。85歳だった。

 南部オクラホマ州で生まれ、勤めていたラジオ局で歌い始めた。バックコーラスを雇う予算がなかったため、複数のパートを一人で歌って多重録音したレコードを発売したところ、ヒットして注目が集まった。

 1950年発売の「テネシー・ワルツ」はポップスとカントリー、R&Bの垣根を越えた空前の人気となり、1千万枚以上が売れた。

 ほかにも「ウッド・アイ・ラヴ・ユー」、「モッキン・バード・ヒル」など50~60年代にヒット曲を連発。自身のウェブサイトによると、通算84曲が米ビルボードチャートの40位までに入った。(共同) (転載終わり)

                       *
 いやぁ、びっくりしました。パティ・ペイジさんがお亡くなりになったとは。
 実はそれを知らずに、何の気なしにこの歌を取り上げようとしていたのです。それで調べているうち、思いも寄らず訃報に接したというわけです。85歳とのことですから大往生と言っていいのでしょう(ご逝去は1月1日)。

 冒頭のYouTube動画はアメリカの人による投稿のようですが、現時点で400万回以上の再生回数となっていて、いまだに根強い人気を誇っていることを物語っています。この動画は1950年のテレビ番組を録画したもののようです。

 この動画のパティ・ペイジさん、堂々たる歌唱力を聴かせる大歌手といった風格が漂っています。しかし当時の彼女は、まだ22、3歳のうら若き女性歌手だったのです。いやあ、それにしては何と﨟長(ろうた)けた美しいレディぶりなのでしょう。

 パティ・ペイジ(敬称略)及び『テネシーワルツ』のことを簡単に見てみます。
 パティ・ペイジ(Patti Page)は1927年生まれで、本名はClara Ann Fowler。1948年、歌手デビューにあたって当時のラジオ番組のスポンサーであった「ペイジ・ミルク・カンパニー」から「ペイジ」のステージ名を名乗ることになりました。

 一方『テネシーワルツ』は、1946年にカントリー&ウェスタンバンドのリーダー、ビー・ウィー・キングが、ラジオで聴いたビル・モンローの「ケンタッキーワルツ」をリメイクして『テネシーワルツ』を作りました。
 それにメンバーだったレッド・スチュワートが詞をつけ、1948年に初めてレコーディングされました。しかしあまり注目されなかったのです。

 この曲が注目を浴びたのは、1950年にパティ・ペイジが歌ってからです。
 3ヶ月にわたって全米ヒットチャート(ビルボード誌)1位を独走し、レコード売り上げ600万枚のミリオンセラーとなったのです。ペイジのバージョンでは、上の「産経ニュース」にもあったヴォーカル多重録音によるものでした。
 なおこの歌は1956年、テネシー州4番目の州歌に選定されました。

 日本でも1952年(昭和27年)、14歳だった故・江利チエミがこの歌(邦訳)でデビューし23万枚のヒットとなりました。

 原歌詞は香気ある詩ですが、残念ながら米国著作権法の関係でご紹介できません(末尾参照) その代わり、あるサイトで素敵な訳文を見つけましたので以下に引用させていただきます。

(びん流日訳)

 いとしの彼と楽しいダンスそしてテネシーワルツを
 嬉しい巡り合わせ幼なじみの再会そして彼に伝えた
 二人は手を取り合うように踊り始めて、彼を失うことを知った
 忘れはしないあの夜のこと そして麗しのテネシーワルツを
 今思うことは無くした事の意味の大きさを
 そうよ、私が失った物はかけがえのないあなた
 その夜に流れるのは麗しのテネシーワルツ
 <間奏>
 そうよ、私が失った物はかけがえのないあなた
 その夜に流れるのは麗しのテネシーワルツ


 この地上は未完成な「クオレ(愛の学校)」です。ゆえに愛の学びのため、「恋人の横取り」といった間違った愛でも許されている。とは言え、それをされた側は、この詩のように、いつまでも切なく痛ましい失った愛の思い出として残ります。

 この歌ほど劇的なシチュエーションではないにせよ、「愛は奪うもの」と思い込んでいる人がいる以上、若い頃誰でも一、二度これに類する体験をしがちなものです。この歌詞のそんな普遍性が世界的な広い共感を呼んだのかもしれません。

 それに加えて、古き良きアメリカのトラデッショナルなカントリーミュージックのエキスを受け継いだような、スローテンポの甘美なワルツ。
 この歌詞にこのメロディ。さらに表現力豊かな歌唱力と美貌のパティ・ペイジの歌声。ヒットするべくしてヒットした歌と言ってよさそうです。

 「よくぞこんな名曲が作れたものよ」と言いたくなる、20世紀中期、アメリカが最も輝いていた時代に生まれた不朽の名曲です。

 謹んで、パティ・ペイジさんのご冥福をお祈り申し上げます。

【付記】この歌についは、実は既に開設時『「テネシーワルツ」-主人公は男性?女性?』という記事があります。この歌について興味深い観点から考察(?)した一文ですので、ご興味がおありでしたらご一読ください。

 (大場光太郎・記)


(「The Tennessee Waltz - singer Patti Page 1950」YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=_Ek3eCbfqp0
参考
『The Tennessee Waltz 』歌詞(原文)
http://j-lyric.net/artist/a052caf/l01d857.html
引用日本語訳文『マスターびんのいつまでもアロハな毎日』より
http://blogs.yahoo.co.jp/arahtte7/46067896.html
関連記事
『「テネシーワルツ」-主人公は男性?女性?』
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市川団十郎さん逝去

-そういう星の下の生まれなのか市川海老蔵、歌舞伎界の救世主になれるか?-

 歌舞伎の(十二代目)市川団十郎さんが3日夜、都内港区虎ノ門病院にて逝去しました。享年66歳でした。
 昨年12月の中村勘三郎さんの訃報もまだ記憶に新しいのに、歌舞伎界の大看板がまた一人消えたことになります。まずは謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 私などは歌舞伎にほとんど関心がなく、よって歌舞伎界の動向などとんと分かりません。団十郎さんがらみでは、その“不肖の息子”が10年に起こした『市川海老蔵暴行事件』を記事にしたくらいなものでした。
 あの時団十郎さんの姿がチラッとテレビ画面に映りましたが、いたってお元気そうでした。しかし市川団十郎さんは長い間白血病と闘っていたといいます。その壮絶な闘病生活の様子を『日刊ゲンダイ』(2月5日号3面)が伝えていますので転載します。

 文中にもありますが、ここのところ歌舞伎界はご難続きです。あまり因果関係はないのかもしれませんが、私には市川海老蔵(35)の例の西麻布事件が発端だったような気がしてなりません。
 以前なら歌舞伎界のプリンス、それが事件後の「お主はやっぱり役者やのう」のウソっぽい会見などから、すっかりヒールになった感のある市川海老蔵です。「大きな器の父にジェラシーを感じるくらいでした」と語っているという海老蔵、偉大な父亡き後、成田屋と、自ら権威失墜に一役買った歌舞伎界をどう立て直す?         (大場光太郎・記)

                        *
松竹真っ青 団十郎壮絶闘病死

 またひとり歌舞伎界の大看板が消えた。長い間、白血病と闘っていた市川団十郎(本名・堀越夏雄)さんが3日午後9時59分、東京・港区の虎ノ門病院で肺炎のため死去した。66歳だった。

 細胞移植や輸血などを繰り返す治療を続けた。
 08年には妹で舞踊家の市川紅梅(63)から骨髄移植を受けた。輸血と投薬の繰り返しで血液型がA型からО型に変わるほどの激しい闘病生活だったが、舞台を続けていた。その間、10年には息子の海老蔵が西麻布で暴行事件に巻き込まれるなど心配事も絶えなかった。

 最近の体調は順調とみられていたが、昨年12月18日、京都・南座での顔見世公演中に風邪をこじらせ途中休演。帰京後に都内の病院で「肺炎の兆候がみられる」と診断され、入院した。
 今年1月の東京・新橋演舞場公演と、3月に予定していた主演舞台「オセロー」の公演中止を発表。4月2日に開場する新しい歌舞伎座のこけら落としをめざて闘病してきたが、免疫力と治癒能力が低下し続け、ついに力尽きた。

全身あざだらけ、鼻血が止まらず

 「一番無念なのは、こけら落としの舞台を踏めなかった本人でしょう。でも、肺炎で入院した時から最悪の事態は想定していました」と肩を落とすのは成田屋関係者だ。こう続ける。
 「とにかく一般人よりも免疫が低下しているのでさまざまな病気に罹患しやすい。体は青あざだらけだし、昨秋からは鼻血が止まらなかったり、目の充血もひどかった。団十郎の死で、尾上菊五郎と一緒に公演を行う五月興業の恒例『団菊祭』も中断です。損失の大きさは計り知れません」

 不幸続きの歌舞伎界。昨年2月には名女形の中村雀右衛門(享年91)が死去。8月には市川染五郎(40)が舞台の奈落に転落して大けが。11月には片岡仁左衛門(68)、市川段四郎が体調不良で休演。そして12月には中村勘三郎(享年57)を失った。人気役者の死去とトラブルで、新歌舞伎座の開場を控える松竹は真っ青だ。  (転載終わり)

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立春大吉

  立春の雲東(ひんがし)に流れけり  (拙句)

 本日2月4日は立春です。文字通り「春立つ日」ですから、暦の上ではこの日が春の始まりということになります。私は最近あまり俳句を作っていませんが、プロの俳人や全国に大勢いらっしゃる俳句愛好家の方々は、「この日をもって春」と俳句的頭脳回路を切り替え、やおら春の句を作られることでしょう。

 しかし立春とは言ってもそれは暦の上、歳時記の上のことであって、現実的感覚ではまだまだ冬の続きです。
 ご存知かと思いますが、「立春」とは1年365日を二十四等分した「二十四節気」の一つです。「立夏」「立秋」「立冬」「春分」「秋分」「夏至」「冬至」と並んで、特に重要な季節の変わり目となる日でもあります。

 我が国で二十四節気は奈良時代から用いられてきましたが、元々は中国伝来の暦法に基づくものです。そして本場中国ではどのようにしてこの二十四節気を定めたかといいますと、古代中国における文化の中心だった黄河以南地域の気候が基準になったのです。
 上古の律令国家日本は何でも唐の制度を真似(今日米国を真似ているように)、暦も直輸入でしたから、気候・風土の違いから暦上と現実の季節感にはどうしてもズレが生じてきます。

 立春などはその最たるものの一つですよね。二十四節気で立春の一つ前は「節分の鬼」さえ震える「大寒」ですからね。大寒の次がいきなり立春なんてそりゃないぜ、てなもんですが、実際旧暦ではそうなっているのですから仕方ありません。
 今は定かではありませんが、昔の雪国の小中学校では夏休みを短縮し、その分「冬休み」というのが半月ほどありました。それが記憶では2月上旬ではなかったか、と思うのです。雪の降らない地方でも余寒たっぷりですが、雪国の2月は根雪の真っ最中なのです。

 しかし寒さがまだまだ厳しい2月上旬に早めに立春にした、というのは昔の人の智恵でもあったのかもしれません。
 「冬来たりなば春遠からじ」
 これは詩人シェリーの有名な詩句ですが、どこの国のどこの地域の人であっても、春は待ち望まれる季節です。ならば実際はどうあれ、暦の上だけでも早いとこ春にしちゃえ、ということではなかったのでしょうか。(これは単なる憶測です。)

   早春賦    作詞:吉丸一昌、作曲:中田章

 春は名のみの 風の寒さや
 谷のうぐいす 歌は思えど
 時にあらずと 声もたてず
 時にあらずと 声もたてず

 氷融け去り 葦はつのぐむ
 さては時ぞと 思うあやにく
 今日も昨日も 雪の空
 今日も昨日も 雪の空

 春と聞かねば 知らでありしを
 聞けばせかるる 胸の思いを
 いかにせよとの この頃か
 いかにせよとの この頃か

 『早春賦』の歌詞を掲示するのはこれで3度目です。とにかく早春の季節感をこれほど見事に捉えた歌は他にないと思います。今ころの季節、毎年何度かは口ずさむ歌です。
 この歌を吉田静さんが、1月中のフォレスタ外の2度のコンサートで既に歌われたようです。『聞いてみたかったなぁ』というのはともかく。この季節、当ブログの以前の『早春賦』記事へのアクセスがボチボチ増えてきます。

 同時に時折り見受けられるのが、「早春賦の季節はいつ?」という検索フレーズです。これについては、昨年2月の『北の子は遊び疲れて・・・』記事の中で既に私なりの回答をしておきました。
 要約すればー。一言で早春とはいっても、地方によって季節感はだいぶ異なり、一概に「この時期だ」と断定はできない。したがってその人が早春賦をふと思い出し、口ずさんでみたくなったその時がその人にとっての「早春賦の季節」なのではないだろうか、というものでした。

 ところで本記事のタイトルとした「立春大吉」についてです。
 近年年明け、私の所に郷里のお寺から郵便物が届きます。新暦、旧暦の暦、ご住職がパソコンで作成したお寺の会報などとともに、「立春大吉」と大書され、それに重ねて大きな朱印が押してある真っ白いお札が入っているのです。
 ご存知の方がおられるかしれませんが、立春大吉のお札は昔から曹洞宗の専売特許だったようです。

 昔はご住職が、近隣の檀家の家を一軒一軒訪ねて手渡ししたものなのでしょう。しかし当今は私がそうであるように、どこのお寺でも檀家衆が遥か遠方に散らばっているケースが珍しくありません。そこで各寺院とも、何かの連絡は郵便でということになってきているのでしょう。

 ちなみに当家のお寺(南陽市下荻)のご住職は、現在40代前半の若い僧侶です。何年か前の亡母の法事の折りお話をさせていただきましたが、私の高校のずっと後輩なのです。勢い話が盛り上がったわけですが、長井市近郊のお寺のご次男で、近年こちらのお寺に赴任しているということでした。
 しかし法事の最中は、和尚さんの読経に神妙に聞き入り、深く首を垂れていたことは言うまでもありません。

 皆様におかれましても「立春大吉」でありますように。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『早春賦』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c727.html
『北の子は遊び疲れて・・・』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7db5.html

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製造業の衰退を物語る就労人口減少

-製造業「技術立国」は資源小国ニッポンの生命線。安倍政権で蘇えるのか?-

 『日刊ゲンダイ』(2月4日号3面)記事を後に転載します。

 同記事のタイトルからも分かるとおり、製造業で働く人が半世紀ぶりで1000万人を下回ったということです。

 我が国は、諸外国から原材料を安く輸入し、国内の優れた技術力で加工・製造した製品を高く輸出する。それこそが、資源小国の我が国が国際的に強い競争力を維持し得た原動力なのでした。
 その意味で製造業は、建設業と並んで、否それ以上に重要な我が国の基幹産業です。よってこの分野での就労人口減は、我が国の抱えるさまざまな問題について考えさせられます。

 バブル崩壊後の「失われた20年」で、製造業はすっかりおかしくなってきていました。そこにはさまざまな要因があることでしょう。ざっと思いつくだけでもー。

 ○韓国や中国など後進国に技術レベルでどんどん急追され、追い越されている。
 ○製造業大手が、グローバル時代の価格競争を勝ち抜くため、中国など人件費の安い国に工場を移転させている。そのため国内製造業の空洞化が進んでいる。
 ○製造業大手は上の理由から、ガッポリ内部留保をため込み、一方では容赦ない社員のリストラを行ってきた。ベクトルが、技術革新や人材育成や設備投資などあるべき方向に向かわなかった。
 ○小泉政権下の米国追従政策の一環として、労働者派遣法が改正(改悪)され、製造業における派遣労働者の就労が可能となった。これによって、正規社員と非正規社員との給与・待遇の甚だしい格差が生じた。

 それでなくても、以前から製造業の現場は「3K」(キツイ、キタナイ、キケン)とみなされ、ホワイトカラー志向の若年就業者からは敬遠される傾向にありました。それに加えて上掲のような要因によって、製造業は一段と魅力を失い、今回の1000万人を切るという事態に至ったわけです。

 思えば、第一次産業である農業・漁業は土や海洋(自然)と密着していました。昭和30年代半ば以降の高度経済成長によって、我が国は有史以来のその基盤から決別し、第二次産業である製造業へと向かいました。それでも製造業は、「ものづくり」を通して現実生活とかなりの部分密着していました。
 それが今日では、欧米流の先進国気取りの我が国は、サービス業やIТ産業などの第三次産業へと移行中です。

 いささか皮肉を込めて言えば、私たちが目指してきた「豊かな社会」とは、自然と決別し現実からも遊離した、根無し草のように儚いものなのです。土を耕すことを忘れ、物作りを厭(いと)う社会に、より良き未来があるのでしょうか。
 文中に出てくる「三丁目の夕日」の昭和30年代前半の社会を知っている者にとって、「思えば遠くへ来たもんだ」という感を深くするのです。  (大場光太郎・記)

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半世紀ぶりに1000万人割れ
安倍政権「製造業の復活で経済成長」の大ウソ


 製造業で働く人が昨年12月に1000万人を下回った。ピークは1992年10月の1603万人。20年間で600万人以上の雇用が消失したことになる。安倍政権は「強い製造業の復活」を成長戦略の柱にしているが、ハードルは高い。

 製造業の1000万人割れは1961年6月以来、なんと「三丁目の夕日」の時代に逆戻りである。
 東海東京証券チーフエコノミストの斎藤満氏が言う。
 「日本の製造業は目に見えない敵と戦っています。タイやミャンマー、インドなど、生産コストがとてつもなく安い国々が競争相手。社員数を減らし、給与も抑制しなければ、対抗できません。生産拠点もどんどん海外に出ている。就業者数が大台を割り込むのは当然の流れだし、昨年は現金給与総額もバブル後最低を更新しています。大台回復は見込めません」

 経営者も「大きな流れは変わらない」(神戸製鋼所・藤原副社長)、「国内の新たな製造工場などで雇用を増やす方向には戻らない」(JVCケンウッド・江口社長)と言っている。国内の製造業はメタメタだ。

数十億円の予算で何がやれるのか

 そこで安倍政権は、製造業を復活させ、経済を成長させるシナリオを描いている。日本の高度成長は、ものづくりが牽引した。自動車や家電は世界で信頼を獲得し、メード・イン・ジャパンは市場を独占。国内で作った製品を海外で売ることで社員の給与は増え、個人消費が盛り上がり、景気も拡大していった。あの頃の夢よもう一度、というわけである。
 そんなうまい話があれば結構なこと。ぜひ、推し進めてもらいたいが、来年度予算案を見ても、道筋は見えてこない。

 「製造業復活に必要なのは、コストの安い新興国を2周遅れにするぐらいの圧倒的な技術力です。それには、日の目を見ていない有望な技術に予算をつけ、ものになるまで支えることが重要。例えば、iPS細胞などの再生医療関連に10億円を計上していますが、すでに広く知れ渡った技術です。それよりも、隠されている分野に光を当てる政策を進めるべき。エネルギー関連など、丹念に見ていけば、眠っている技術はたくさんあるのです」(斎藤満氏 = 前出)

 モノになることが分かっている技術には、放っておいても民間企業が飛びつく。わざわざ税金を投じて育てるまでもない。国がやるべきは、それより前の段階の幅広い支援というわけだ。

 省エネ効果の大きい半導体の開発や新しいプラスチックの開発など、ほかにも予算はついているが、いずれも数十億円程度。「10年で200兆円」という国土強靭化に比べるとスズメの涙だ。本気で製造業の復活を考えているのか疑わしいレベル。これでは、ものづくりの担い手も減る一方である。
 結局、安倍がやろうとしているのは公共事業のバラマキだ。土建業界だけが潤う旧来の自民党政治である。  (転載終わり)

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フォレスタの「雪の降る街を」

  故郷(ふるさと)の雪明り街想ふかな   (拙句)


 『雪の降る街を』は、私が雪国の郷里町で過ごした十代の頃から知っていました。高校時代、現実のおらが「雪の降る街」を歩きながら、なるほど雰囲気をうまくつかんだ歌だなと思う一方、少し違うかな?という感じもしたのです。
 どことなくハイカラな歌詞とメロディから、この歌は雪国の本場とは違う街を歌った歌なのではないだろうか?と。

 例えば、東京のような大都会にたまにどっさり降った雪の感興を歌った歌なのでは?と。一面の雪景色というものは、普段見慣れた街の様子を一変させ、常ならぬ叙情的な街の姿を現わすものですから。
 しかし今回この歌を取り上げるにあたって調べてみましたら、意外な事実が分かりました。この歌は、作曲した中田喜直(なかだ・よしなお)が昭和27年(1952年)、山形県鶴岡市で見かけた雪景色がこのメロディが生まれるそもそもの発端だった、というのです。

 その時のようすを、『山形県鶴岡市観光連盟ホームページ』が述べていますので以下に紹介します。

昭和27年は前年から大雪の年で、自作の学園歌発表のため夜遅く鶴岡駅に着いた作曲家・故 中田喜直氏(平成12年5月没)は、出迎えの地元音楽愛好家菅原喜兵衛氏の馬そりに乗り彼の家へと向かった。その夜は珍しく風もなく、雲の合い間で上弦の月が輝き、遠くは月山、近くは金峯・母狩の雪に包まれた山並みが見えた。雪の影があざやかな晩だった。月の光の中から舞い落ちてくる雪の花びらは温かい頬に触れては消えた…。 (転載終わり)

 そうだったのか。東京などの“俄か雪降り”ではなく、正真正銘の雪国の街の情景が元となって作られた歌だったんだ ! それにおらが出身県内の鶴岡市がこの歌の舞台だったとは !

 しかしそうは言っても、鶴岡市はおらが郷里町とはだいぶ離れています。
 おらが置賜(おいたま)盆地は山形のデープな内陸部、最上川の源流地域であり、最上川は山形市近郊を過ぎてなお北へと流れ、『奥の細道』で松尾芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ(秋田県に近い)大石田町や新庄市で急に西に曲がり、「暑き日を海に入れたり最上川」(芭蕉)の大河となって日本海に注ぐ河口域が酒田市、その下(南)が鶴岡市です。

 酒田、鶴岡は、江戸時代から日本海航路によって関西商人などとの交易が盛んな土地柄であり、中学校の国語の先生いわく「あっちの人の話はよ、『来(こ)られんけんや、来(く)るばってんこん』などと、何しゃべってんだがえっこ(さっぱり)分がんねぇ」と。(分からないことでは我が郷里のズーズー弁も人後に落ちないのを棚に上げ)私などは、その話を聞いて毒気に当てられ、『そだなどこ(そんな所)の人どは付き合いたくねえなぁ』と思ったのでした。
 今はもちろんそんなことはなく、未だ足を踏み入れたことのない鶴岡市ですが機会があれば訪ねてみたいものです。

 それはともかくー。鶴岡市ではそれを記念して、毎年2月に行われる「鶴岡音楽祭」で、フィナーレに『雪の降る街を』が歌われるそうです。そして作曲した中田喜直存命中は、毎年本人が鶴岡市に出向き、自ら指揮を取っていたといいます。没後は中田幸子夫人がその任に当たっています。
 ちなみに今年の「鶴岡音楽祭2013」は2月3日(日)午後1時30分開演(鶴岡市文化会館)で、特別ゲストの中田幸子さん、ソプラノの釜洞祐子さん、指揮の工藤俊幸さん、山形交響楽団の演奏で行われます。

 さてこのような経緯によって作られたこの曲の初出は、昭和26年(1951年)NHKラジオで放送された連続放送劇『えり子とともに』の挿入歌としてだったようです。この放送劇の作家だった内村直也が作詞したのです(鶴岡市の記述と時期の食い違いがあるようですが、鶴岡市の方の誤記でしょうか?)。それで人気が出て、高英夫(こう・ひでお)の歌唱によりレコードも製作されヒットしました。
 この歌はその後、NHK『みんなのうた』放送開始直後の昭和36年(1961年)、立川澄登(澄人)と東京少年少女合唱隊によって歌われ、国民に広く浸透していくことになりました。

                        *
 この歌を、男声4人(大野隆さん、川村章仁さん、榛葉樹人さん、横山慎吾さん)、女声4人(小笠原優子さん、白石佐和子さん、矢野聡子さん、中安千晶さん)の混声フォレスタが歌ってくれています。
 『雪の降る街を』は、我が国の代表的な冬の名曲と言っていいかと思います。男声と女声がほど良くミックスされた混声コーラスは、歌全体を通して重厚、荘重な感じをかもし出しており、この歌の名曲たるゆえんをあますところなく引き出しているように思われます。

 時として雪とは厄介で難儀なものですが、かくも格調高く歌われてしまうと「雪もまんざら捨てたものじゃないぞ」と思わせられます。

 推察するに、このコーラスは女声フォレスタが初結成された2006年の年の収録だったのではないでしょうか?(注 実際は2008年の収録)
 まあ、後列で歌っている横山慎吾さんのぶっきらぼうなザンキリのような髪型だこと。その後今日の芸術家然と洗練されたヘアースタイルへと変貌することになったのは、女声加入効果の賜物でしょうか?(笑)

 それに、前列女声4人の皆さんのお若いこと !
 その中で今回は、普段あまり取り上げる機会のない中安千晶さんに少し注目してみたいと思います。
 最近ではすっかり淑女美が増し加わった中安さんですが、この時は初々しい美少女といった面持ちで歌っておいでです。今より心持ち頬のあたりもふっくらしていたようです。少し緊張気味に歌っておられ、それがまた何とも可愛いのです。

 「雪月花」の雪の有する独特な叙情性と幻想性はありながら。実際の「雪の降る街」は、寒冷さや白一色の単一の色調から、ともすれば気が滅入ることもあるものです。
 その気分がこの歌では、「一人心に 満ちてくる この哀しみを」や「だれも分からぬ わが心 この空しさを」という詠嘆となって表れています。

 もしそれだけで終わっていたなら、この歌はどうしようもない暗い歌になってしまいます。それを救っているのが、各番の最終の「あたたかき幸福の ほほえみ」「緑なす春の日の そよかぜ」「新しき光ふる 鐘の音」というフレーズです。
 この後半の明るい転調こそは、戦後間もない当時の日本社会の、より良き未来への「希望」であり「祈り」であったと思われます。そして今日に至るもこの歌が歌い継がれているゆえんも、ここにあるのではないでしょうか。

【付記】文中の(注)につきましては、東海林太郎さんのコメントをお読みください。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
山形県鶴岡市観光連盟サイト『鶴岡音楽祭』
http://www.tsuruokakanko.com/season/fuyu/ongaku.html
『フォレスタコーラス』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat49069329/index.html

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