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フォレスタの「故郷を離るる歌」

 -離郷の動機は千差万別、各人各様の「故郷を離るる」物語がおありでしょう-

    (「フォレスタ - 故郷を離るる歌」YouTube動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=jwrQ5DVXtmA
    (everstone04さん提供のフォレスタ動画は削除されました。代わって、
     敗戦後のドイツ人の祖国への帰還画像版の動画に差し替えました)
     


  故郷を離るる歌   (作詞:吉丸一昌、ドイツ民謡)

園の小百合、撫子(なでしこ)、垣根の千草。
今日は汝(なれ)をながむる最終(おわり)の日なり。
おもえば涙、膝(ひざ)をひたす、さらば故郷(ふるさと)。
さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。

つくし摘みし岡辺よ、社(やしろ)の森よ。
小鮒(こぶな)釣りし小川よ、柳の土手よ。
別るる我を憐(あわれ)と見よ、さらば故郷。
さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。

此処(ここ)に立ちて、さらばと、別(わかれ)を告げん。
山の蔭の故郷(ふるさと)、静(しずか)に眠れ。
夕日は落ちて、たそがれたり、さらば故郷。
さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。


 
卒業、新学業、就職の季節です。今は、そういう事情によって故郷を離れて異郷に移り住む人たちが大変多い時代です。その意味で、この『故郷を離るる歌』をたまたま聴いたりすると、ジーンと熱いものがこみ上げてくるという人も多いのではないでしょうか。

 それほど、この歌は「離郷の名曲」として我が国で長く愛唱されてきました。
 しかし冒頭掲げましたとおり、この歌はもともとはドイツ民謡です。もう少し踏み込んで言えば、この歌の原曲が長らく分からず最近ようやく分かったことには、ドイツの「ラウテ(昔の弦楽器)の歌 9」の『喜び、悩みのなかの愛』にある353番目の曲(歌)で原題名は『Der Letzte Abent』であるようです。

 原曲は、日本人観光客に人気が高いロマンチック街道の出発点となるドイツ中部のフランケン地方の民謡でした。
 日本語の訳詞は、先月取り上げた『早春賦」』の作詞者として名高い吉丸一昌の名訳になるものです。
 ドイツ語の原詞も同じく、故郷を離れて遍歴修業に旅立とうとしている若者の心情を歌った内容です。ドイツではご存知のとおり、中世あたりから若者が各地のマイスター(名工)を訪ねて、そこで特定の技能を身につけるため一定期間修業する徒弟制度が一般的でした。

 ただ原詞は、「故郷にいる恋人との別れのつらさ」がメーンとなっています。「オラー、あの娘と離れ離れになりたくねえよぉ~」という未練たっぷりな歌なのです。ですから、吉丸一昌名訳詞のような「園の小百合」も「なでしこ」も原詞には出てきませんし、最後の「さらばふるさと」も「さらば恋人」となっています。

 ここからは、いつもお決まりの「わたくし事」で申し訳ありません。
 私は今から5年前となる2008年3月11日、『二木紘三のうた物語』のこの歌に少し長いコメントを出しました。私自身の離郷時の思い出を綴ったものです。時は昭和43年3月10日夜から11日未明にかけて。
 ちょうど45年前のことなので感慨深くもあり、主要部分を以下に転載させていただきます。

                        *
 昭和30年代半ば過ぎまで、私の田舎では出征兵士を見送る遺風が残っていました。当時私は、山形の田舎町の母子寮にお世話になっている小学生でした。寮の先輩の多くは、中学を卒業して就職のため上京していきました。その見送りに私も、毎年のようにかり出されました。
 地元の駅頭で、先輩は、見送りの者らと中学の応援団員らに囲まれて、応援団長のかけ声で始まる中学校の校歌や応援歌などに送られて、列車に乗って行ったものでした。

 しかし私が就職のため首都圏にやってきた昭和43年には、もうそんなことも行われず、一人寂しく故郷を後にしました。気の合う級友らとは(高校)卒業式終了後、N市内のコーヒー店でお別れ会をし、親戚や知人には前日から当日に挨拶を済ませていましたし。
 夜10時過ぎの上野行きの夜行列車だったと思います。駅の周辺には、雪がはだらに残っていました。汽車を待つ間、それまでの故郷での思い出のあれこれが、浮かんでは消えたり、ただボーッとしていたり。気になっていた、同じクラスだった女生徒の白い顔がパッと浮かんだり…。

 でもそんなことよりも、これから先の未知の土地での生活の不安感の方が、圧倒的でした。逆説でも何でもなく、まるで山形から首都圏への「都落ち」の心境でした。出来れば故郷を離れたくはなかった。いつまでも住み続けたかった…。
 地元での就職の失敗が、そんなささやかな望みを打ち砕きました。歯車が狂い、故郷を押し出されるようにして、首都圏へ。

 夜汽車に乗り込み、外は真っ暗ですからそのうちぐっすり寝込みました。あくる日の午前3時頃、ググッとブレーキをくれて停まり、それで目が覚めました。見ると宇都宮駅。しばらく停車していました。車窓の遠方に目をやると、宇都宮市街は、まだ未明の暗さの底に沈んでおりました。建て混んだ家並みの上空に、下弦の赤い月が大きく浮かんでいました。心細い身にはこたえる、異郷の不気味な光景でした。
 『オレは、ホントに一人ぼっちなんだな。』
                         *
    虫の夜故郷喪失して久し   (拙句)
 以来、首都圏何千万人かのうちの平凡な無名の一人として、悲喜交々をいっぱい(どちらかというと「悲」の方を多く)味わいながら生きてきました。
 今でもあの時の赤い月が、ふっと甦ってくる時があります。たいがいはピンチの時です。ハッとなって思うのです。『何もなしでこっちに来たんじゃないか。失うものなんて何もないじゃないか。出来るだけのことは、やってみろよ』。すると、たいがいの窮地は切り抜けられます。
 幾十星霜。覇気のなかった私も、この激動の時代の荒波を多少なりともかぶって、精神的に少しはタフになったのでしょう。  (転載終わり)

                         *
 昨年削除された以前のYouTube動画の時から、女声フォレスタのこの歌は時折り聴いていました。
 削除後1、2ヶ月ほど経った頃、「フォレスタの故郷を離るる歌 聴かれない」というような検索フレーズで訪問された人がいました。よく見ると「言語 Chinese」なのです。日本へ留学生として来ている中国人なのでしょうか。「故郷を想う心」に、国境などないわけです。
 それとともに、フォレスタは中国の人も聴いているのか、とつい我がことのように嬉しくなりました。

 その時以来私も密かにもう一度聴いてみたいと思っていましたが、昨年暮れeverstone04さんがついにこの歌をアップしてくれました。

 この歌自体名曲であることは言うまでもありません。それに加えて、小笠原優子さん、白石佐和子さん、矢野聡子さん、中安千晶さんという初代女声フォレスタによるコーラスがたまらないのです。

 以前取り上げた『旅愁』『揺籃のうた』などもそうですが、この歌のコーラス、やわらかく、落ち着いた、和みの女声コーラスで心にしみ透ります。
 メッツォ・ソプラノの吉田静さんの加入前なのでしょうが、よく聴きますと小笠原さんと白石さんが低音部を担当されているのか、やはり高音、低音のきちんとしたコーラスになっています。

 この4女声の「故郷」と言えばー。
 小笠原さんが青森県、白石さんが東京都内、矢野さんが千葉県、中安さんが東京都八王子市。小笠原さんだけが遠い故郷のご出身で、後の3人は近県ないしは都内、白石さんに至っては23区のうちの東京下町のご出身ではなかったでしょうか。

 小笠原さんのこの歌への想いはひとしおでしょう。
 では白石さん、矢野さん、中安さんには故郷がないかというと、そんなことはないと思います。いくら近くても生まれ育った町こそは故郷。またそれぞれイメージとして描いている故郷がしっかり心の中にあって、それがこの『故郷を離るる歌』のコーラスとなって表現されているように思われます。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『フォレスタの「早春賦」』
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