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フォレスタの「七里ヶ浜の哀歌」

 -2年前の東日本大震災の大津波で「犠牲」になられた2万余柱の尊き御魂に、慎しんでこの歌そしてこのコーラスを捧げます。-

    (「フォレスタ - 七里ヶ浜の哀歌」YouTube動画)
     (この歌の動画は削除されました。)


       七里ヶ浜の哀歌  (作詞=三角錫子、作曲=インガルス)

    1 真白き富士の根(ね) 緑の江の島 
         仰(あお)ぎ見るも 今はなみだ 
      帰らぬ十二の 雄雄(おお)しきみ魂(たま)に 
         捧げまつらん 胸と心
 
    2 ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
         風も浪(なみ)も 小(ち)さき腕に 
      力もつきはて 呼ぶ名は父母(ちちはは) 
         恨(うら)みは深し 七里ヶ浜辺(しちりがはまべ)
 
    3 み雪(ゆき)は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて 
         月も星も 影(かげ)をひそめ 
      み魂よ何処(いずく)に  迷いておわすか 
         帰れ早く 母の胸に
 
    4 み空にかがやく 朝日のみ光 
         暗(やみ)にしずむ 親の心 
      黄金(こがね)も宝も 何しに集めん 
         神よ早く 我を召せよ
 
    5 雲間(くもま)に昇りし 昨日の月影
         今は見えぬ 人の姿 
      悲しさ余(あま)りて 寝られぬ枕に 
         響く波の 音もたかし
 
    6 帰らぬ波路(なみじ)に 友よぶ千鳥に 
         我もこいし 失(う)せし人よ 
      尽(つ)きせぬ恨(うらみ)に 泣くねは共ども 
         今日も明日(あす)も かくてとわに 


 そう言えばフォレスタコーラス、『まだ七里ヶ浜の哀歌、歌ってないなぁ』と常々思っていたのでした。そうしたら、このたび遂にこの歌がYouTube動画にアップされたではありませんか。それも特上のコーラスで。
 フォレスタのこの歌については後ほどあらためて取り上げるとして、まずは例によってこの歌にまつわる事柄から述べてきたいと思います。

 とは申しましても、この歌について述べたいこと、述べるべきことは多々ありそうです。今回は草案なしのぶっつけ本番ですから、あっちこっちの脱線が大いに懸念され、かつまたやたら長い一文になるやもしれません。
 私としては「1週間の春休み」をいただいた埋め合わせ(笑)のつもりですが、最後までご一読いただければ幸いに存じます。

 さてこの歌は、明治43年(1910年)1月23日、逗子開成中学校ボート部部員12名を乗せたボートが七里ヶ浜付近で転覆し全員死亡した事件が発生した、それを悼んで歌われた歌であることはどなたもご存知のことでしょう。
 作詞したのは三角錫子(みすみ・すずこ)という当時38歳の系列校・鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)の教師でした。原曲はアメリカ人ジェレマイア・インガルス作曲の賛美歌でした。

 逗子開成中学校における追悼法会で鎌倉女学校生徒らによって初めて歌われ、大正4年(1915年)レコードが発売され、またその後演歌師が歌ったことにより全国的に広まっていくことになりました。
 この歌の歌い出しを取って、『真白き富士の根』または『真白き富士の嶺』というタイトルで呼ばれることもあります。

 文芸評論家の柄谷行人(からたに・こうじん)の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)という著書の中に、この歌の背景や真相を掘り下げた優れた論考があります。それによりますと、作詞した三角錫子は清教徒系のクリスチャンであり、だからこそつい最近まで不明だったインガルスの白人霊歌の原曲も知り得たわけです。
 しかし三角は、それ以前に徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』から決定的な影響を受けており『七里ヶ浜の哀歌』の歌詞にもそれが及んでいる、と柄谷は言うのです。『不如帰』は結核に冒された薄幸の女性・浪子がヒロインで、明治期に一世を風靡した大ベストセラー、それ以降の大衆に与えた影響は凄まじいものがありました。

 それ以降結核は「文学的な病」となりましたが、三角錫子自身も結核だったのです。三角は49歳の若さで世を去りましたが、この歌4番の「神よ早く 我を召せよ」の歌詞は、三角自身の文学的希求も込められていそうです。

 私がこの歌を初めて聴いたのは中学校3年の1学期でした。東京・鎌倉への修学旅行直前に国語の先生だったТ先生が歌ってくれたのです。このТ先生の授業は灘校の橋本武先生ばりにユニークで、その次第は幾つかの記事で既に書いています。
 Т先生は当時30代半ばの女性教師で、この人も実は結核で、ために婚期を逸したと噂されていたのです(ただし私が離郷後ご結婚されたよし)。その知識の該博なこと、今客観的に判断しても田舎の中学教師にはもったいない人だったと思います。

 Т先生は私の1年時の担任でもあり、入学時から目をかけていただき、中学3年間を通して他の男子生徒がやっかむくらいひいきにしていただきました。私が「文学のイロハ」を教わり文学開眼したのはこの先生のおかげです。
 それは、その後の私に信じられないほど豊かな情操世界をもたらしてくれました。しかし反面、私の深い部分を「文学的なるもの」が占めることとなり、実生活において今日までつぶしの利かない人生にしたことも紛れもない事実です。

 決して美人とは言えませんでしたので(先生ごめんなさい)恋心などはまるで抱きませんでしたが、Т先生ほど私を高く買ってくれた人は我が半生に他におりません。先生の期待に背く生き方ばかりしてしまいましたが、その意味でТ先生は私にとってありがたい最大の恩師です。

 今から25年ほど前、それも元旦の午前中に江ノ島から「真白き富士の嶺」を仰ぎ見たことがあります。江ノ島内の神社参拝に向かう途中江ノ島大橋から眺められたのです。当日は大快晴、ピンと張りつめた冷気の中で遠く望まれた富士山の姿は秀麗で気高くもありました。
 向かったのは大勢の参拝客でごった返す江ノ島神社ではありません。その前の道路を通り、木立に覆われた山坂道を左に右に曲がり石の階段を登った小高い処にある児玉神社です。

 初めて聞く人も多いかと思いますが、この神社は日露戦争最大の功労者である児玉源太郎大将を祀った神社なのです。そして驚くのが、ここの神職は、当時も今も極めて珍しいと思いますが、山本白鳥(やまもと・はくちょう)とおっしゃる女性宮司なのです。
 山本宮司は当時30代半ばくらいの華奢で細面な凛とした人でした。私より若い2人と共に、児玉大神の拝殿で山本宮司のよく透る、厳かな祝詞奏上に深々と頭を垂れ、続いて児玉大将の大きな肖像写真が掲げられた社務所での山本宮司との直会(なおらい)の次第などは『児玉神社参拝記(1)(2)』に記しました。

 鎮魂歌であるこの『七里ヶ浜の哀歌』が戦時期、最も劇的な場面である人によって歌われたことがあります。私はその場面を昭和前期(戦前、戦中期)の「隠れた名場面」と考えているのですが、ご興味がおありの方は『もう一つの12月8日未明』をお読みください。

 冒頭の献辞で、東日本大震災の大津波で亡くなられた方々をあえて「犠牲」と表記しました。私は今もって大震災&福一原発事故は米国「闇の勢力」によって仕掛けられたもの、との疑念を拭い去ることができないのです。大地震直後に発せられた次のツイッター文をお読みください。

原田武夫@本人、です。「地震とは、起きるものではなく、起こすものである。2004年以降、そうなっている。知らないのは日本人だけだ」米側関係者から伝わってきた言葉。要注意。

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コメント

この歌 私も好きです 賛美歌は通ってた教会でしたら歌ったことがあります
が しかし 災害を美化してる感はあると思います 死んだ20歳の生徒の最年長者は三角教師と愛人関係だったのは当時の新聞にもすっぱ抜かれてたはず😢 & この生徒たちは今で言う不良達で 勇ましさ示威か根性試しがてら舟を出してます 大人に止められたのを無視して😢 歌が良いだけに残念です

投稿: ひろ | 2015年9月15日 (火) 23時13分

ひろ様

 貴重なコメントありがとうございます。

 遭難した生徒たちの素行が決して誉められたものでなかった事は、本文中に引用した柄谷行人の論考の中にも出ていたと記憶しています。ただその最年長者が三角錫子と愛人関係にあったことまでは・・・、初耳です。

 いずれにせよ、実際のボート遭難事故と三角によるこの歌とはかなりの乖離があるということですね。一世を風靡したこの歌の歌詞を作った三角が当時聖女のように奉られた事も含めて、単なる不良グループの遭難事故が、文学的出来事に昇華されたわけです。

 ただ齢60半ばなのに未だ文学的傾向のある私には、その事を踏まえながらも、歌自体は掛け値なしに素晴らしいと思います。

投稿: 時遊人 | 2015年9月15日 (火) 23時57分

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