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2013年5月

公明党はやっぱりヌエ政党だ

 -(統一と共に)半島系のイルミナティ宗教がこの国の政治を牛耳っている異常さ-

 従軍慰安婦発言などによって国内外から批判にさらされている橋下徹大阪市長が、大阪市議会の自民、共産、民主会派によって問責決議案を提出されました。
 同決議案を提出した各会派は、橋下市長の一連の発言は「市政を大きく混乱させており、既に深刻な国際問題にまで発展しつつある」と指摘し、その上で「市長としての職責を全うしているとは言い難い状況であり、公人の立場での発言には責任問題が伴うことを自覚すべきだ」としたのです。

 直前までの予想ではこれに第2会派の公明党が賛成し、問責決議案は可決されると見られていました。そうなると橋下市長は辞職するしかなく、さすがの口八丁手八丁、論点すり替え、はぐらかしの名人も今回ばかりはジ・エンドかと思われました。
 そうなると夏の参院選を間近に控え維新の受けるダメージは測り知れません。元々が自民党補完勢力である同党がズッコケてくれることは、現在のオール与党的危険な政治状況の風穴を開けるにはまたとないチャンスとなるはずでした。

 ところが何ということか。土壇場になって公明党が寝返り、問責決議案は否決されたのです。今のグチャグチャで何でもありの政治状況を象徴するような同党の変節によって、どんより澱んだ政界梅雨模様が今後ますます続きそうな雲行きです。
 橋下市長の従軍慰安婦肯定&風俗活用発言には公明の支持母体である創価学会婦人部のアレルギーが強く、いくら時々にクルクル方針を変える「鵺(ぬえ)政党」の同党も、今回ばかりはよもや寝返りはないだろう、と見られていたのにです。

 だいたい公明党という政党は表向き、戦争のない平和社会の建設、社会福祉の充実、女性や子供の人権擁護などをお題目のように唱えながら、森・小泉・安倍などの自民党とつるんでやってきたことはそれと真逆のことばかりです。
 そもそも自公連立は、すねに山ほど傷を持つ池田大作名誉会長の国会証人喚問を自民党に脅されて、池田御大の「オレを守れ」の鶴の一声で始まったことでした。が、それ以降同党議員たちは与党のうまみに味をしめ、大義なきイラク戦争への自衛隊派遣や弱者切捨て、格差拡大などの自民党の悪政策に何でも賛成してきたのです。

 そもそも創価学会(以下「創価」)という宗教団体と一体化している公明党は、政教分離を定めた現憲法に違反しています。「自公」という与党勢力である以前にこういう宗教政党をのさばらせていてはいけないのです。
 しかし現実には、この弱小政党がダメ自民党の延命装置として与党の一角を占めてやりたい放題です。なぜなのでしょう?

 理由はいくつも考えられますが、その一つが、この国のマスコミが創価批判をしないことにあります。オウムとのつながり、坂本弁護士一家殺害事件などなど。創価という巨大なブラックボックスを厳しくチェックし批判すべき、新聞・テレビ・雑誌といったマスコミが創価に対しては特に口をつぐんでいます。
 なぜかといえば、すべてのマスコミに創価の毒饅頭が回ってるからです。

 創価のマスコミ対策は実に巧妙です。例えばその機関紙である聖教新聞です。総資産数兆円と言われている創価が、自前の印刷所を持ちそこで印刷することなど造作なくできます。
 しかしそうしないで、毎日新聞など大新聞系列の印刷会社に何百万部という同新聞などの印刷を丸ごと発注しているのです。毎日は過去何度も経営危機に陥りながら倒産しないのはそのためだ、と言われているのです。

 それ以外の新聞社、週刊誌や月刊誌などの出版社にも、広告料という創価の毒がたっぷり回っています。だから創価という大スポンサーの悪口は書けないのです。
 例えばある出版社系の週刊誌が創価批判記事を始め出したとします。すると創価の副会長クラス(池田独裁体制維持のため特定人への権力集中を防ぐため大勢いる)がある日その出版社に出向き、広告掲載を頼み込むのです。こういう籠絡手段で主要出版社は皆「創価の味方」なのです。

 ところで、先ほどから名前の出ている池田大作名誉会長は最近どうなさっておられるのでしょう?
 日蓮の生まれ変わり、末法の大指導者である偉大なる池田センセイ。各国の大学の名誉博士などの称号を金で買いまくり、『人間革命』なる隠れた大ベストセラーをせっせとゴーストライターに書かせ続けた似非文化人の池田センセイ。長年の資金工作によってノーベル平和賞受賞を目論みながらいまだもらえていない池田センセイ。南米の麻薬王だった故ノリエガ氏と大のお友だちだった池田センセイ。婦人部の人妻に次々に手をつけ何件もの訴訟を起こされた宗教指導者の鑑(かがみ)のような池田センセイ。・・・

 池田大作こと本名・成太作(ソン・テチャク)氏は、久しく会員たちの前に姿を現していませんし、聖教新聞などもその消息をまったく伝えていないようです。
 創価では仏罰病と忌み嫌われている脳腫瘍を最高指導者自身がわずらったのは事実のようですが、現在生きているのか既に死んでいるのか、それすら皆目分からないのです。
 これは金正日総書記の死去を正確に公表した北朝鮮以上の、前近代性、閉鎖性、暗黒性と言うべきなのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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フォレスタの「桜井の訣別」

 -この歌は『青葉の笛』と共に、日本史中の悲劇的名場面の歌の双璧だろう-

    (『フォレスタ 桜井の訣別』YouTybe動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=kodfmfUJ19c


   桜井の訣別

        作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭  

青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に
散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子(わがこ)正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
いましはここまで来(きつ)れども
とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ

父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
この正行は年こそは
未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に
御供(おんとも)仕(つか)えん死出の旅

いましをここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏(たかうじ)の儘(まま)ならん
早く生い立ち大君に
仕えまつれよ国の為め

この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

共に見送り見返りて
別れを惜む折りからに
復(また)も降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀(あわれ)と聞かざらん
あわれ血に泣くその声を


 『桜井の訣別』(さくらいのけつべつ)は、作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭による明治32年(1899年)発表の唱歌です。別に『青葉茂れる桜井の』または『大楠公の歌』とも言われます。
 南北朝期の動乱を描いた『太平記』最大の名場面「桜井の訣別」を謳い上げており、歌の主人公は南北朝動乱期最大の名将と言ってもいい楠木正成(くすのき・まさしげ)です。

 この歌をより深く味わうためにも、楠木正成の事跡をざっと見ていきたいと思います。

 楠木正成の前半生はほとんど不明であり、分かっているのは元弘元年(1331年)の挙兵から湊川(みなとがわ)における自刃までの6年間だけです。
 元弘元年の某資料に「悪党楠木兵衛尉」として現われるのが最初です。そこから鎌倉幕府の御家人帳にはない、河内を中心とした付近一帯の水銀などの流通ルートで活動した悪党と呼ばれた豪族であったと考えられているのです。

 同年、鎌倉幕府打倒を目指して時の後醍醐天皇が挙兵しました。幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者が少なかった中で、数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があったのです。
 後醍醐帝に謁見して戦への意見を求められた正成は、「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。が、智謀を尽くし策略をめぐらせば勝機はあるでしょう」と答えたといいます。

 地元に戻った正成は山中に築いた山城の赤坂城を拠点に挙兵しました。挙兵とは言ってもわずか五百の兵、これに対して幕府は大仰にも数万の討伐軍を差し向けたのです。粗末な山城を甘く見て一気にひねり潰す勢いの幕府軍は各自勝手に攻撃を始めますが、途中に仕掛けられたドデカイ岩や大木になぎ倒されるわ、藁人形に騙されるわ、熱湯や糞尿を浴びせられるわ、とさんざんな目に遭います。
 機略縦横の正成流ゲリラ戦法本領発揮の図です。結局この戦いに20日間耐え続け、いよいよの段になって正成は城に火を放ち、それに乗じてまんまと脱出に成功したのでした。

 この時の幕府軍の中にいたのが足利尊氏(あしかが・たかうじ)です。尊氏は「正成という男は只者ではない」と感心したといいます。
 その後再挙兵した正成は、河内や和泉の守護を次々に攻略し、摂津の天王寺を占拠し京を睨みます。業を煮やした北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けましたが、正成の神出鬼没の作戦に精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍はついに天王寺から撤退します。正成軍の戦死者ゼロという大勝利でした。

 翌1333年2月、幕府はとにかく目障りな正成に対して8万もの大軍を向かわせました。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に籠城します。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の知略を恐れてうかつに近づけないわけです。
 結局2年前の赤坂城と同じく兵糧攻めを選びますが、これが大失敗、先に飢えたのは大軍を擁する幕府軍の方だったのです。山中で飢餓に陥った幕府軍に対して、抜け道からどんどん食糧が送り込まれていた正成軍は、3カ月経ってもピンピンしていたのです。

 やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れとなりました。
 8万もの大軍がわずか千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国に伝わりました。これによって「幕府軍、恐れるに足らず」と、各地の豪族が次々に蜂起し始めました。遂には幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す武将が出てきました。
 こうして尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取りました。140年続いた鎌倉幕府滅亡の端緒を開いたのが楠木正成だったと言っても過言ではないのです。 

 1333年、執権の北条氏支配による鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇による建武新政が始まったのはいいけれど。武家支配力を弱めようとするあまり、公家には篤く、幕府打倒の原動力となった武家には薄い恩賞に不満爆発、早くも政局は混乱します。
 分けても実力者の足利尊氏(あしかが・たかうじ)が新政から離反したことにより、不満武士たちの多くが尊氏に従うこととなりました。

 南朝系(大覚寺統)の後醍醐帝による新田義貞や北畠顕家らの討伐軍により敗北した尊氏は、九州に下りました。終生後醍醐帝への忠誠を変えなかった楠木正成は、今や武士のみならず民衆の心が天皇方から離れていることを痛感し、「尊氏との和睦」を涙ながらに帝に進言します。しかし事態が読めていない帝や公家たちは「勝利した我々が尊氏と何で和睦せなならんのじゃ」とこれを一蹴しました。

 案の定尊氏は1336年4月末、九州で多くの武士や農民の支持を得大軍勢となって北上してきました。そこで後醍醐天皇は「湊川で新田義貞の軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じたのでした。
 尊氏軍はかつての幕府軍とは力量が段違いの上軍勢も圧倒的に優位です。そこで正成は、尊氏との和睦案や、山中での奇襲戦法で迎えるべく都を捨てて比叡山に上るなど、この時も帝に何度も進言しています。しかしそれらは正成の力量を恐れるボンクラな公家たちに悉く退けられてしまいます。
 こうして正成は失意のうちに湊川(現・兵庫県神戸市)に向かって出陣して行くのです。

 だいぶ長くなりましたが、こうして『桜井の訣別』の名場面となるわけです。
 西国街道の「桜井の駅」(櫻井の驛)まで進軍してきた楠木正成は意を決して、この歌のとおり、長男の正行(まさつら)を呼び「我は兵庫へ討ち死に覚悟で出陣するが、汝は故郷へ帰るように」と申し渡したとされるのです。

 対して正行は「いかに父上の命とは言え、年若くとも死出の旅のお供をさせていただきたい」と願い出ます。正成は「お前を帰すのは、私が討死にした後のことを考えてのことだ。帝のため、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わずいつの日か朝敵を倒せ」と諭すのでした。
 そして先年後醍醐天皇より下賜された菊水の紋が入った短刀を授けたのでした。

 私は中学3年生の夏頃、吉川英治の『私本太平記』を読了しました。その中でやはり一番感動的だったのがこの場面で、その名描写に涙が止まりませんでした。ついでに言えば当時吉川英治は国民的作家で、中一で『宮本武蔵』を、中二で『三国志』を読みました。

 さて楠木正成の最期についても簡単に見ておいた方がいいと思います。
 同年5月25日、湊川で両軍は激突します。海岸に陣を敷いた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れとなり、正成と合流出来なかったばかりか、足利軍に加わる兵までいました。
 こうして尊氏の軍勢3万数千を迎え撃つことになった正成軍はたったの七百。戦力差は約50倍と歴然としています。尊氏は正成軍に対して戦力を小出しにするだけでなかなか総攻撃に移ろうとはしませんでした。

 3年前は共に倒幕を果たした同志でもあり傑出した才能を認めてもいた尊氏は、正成の投降を待っていたのです。しかしそんなつもりなど微塵もない正成軍の鬼気迫る突撃の繰り返しに、このままでは自軍の損失が増える一方とついに一斉攻撃を命じます。
 6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家に入り死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。正成は弟の正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して絶命していたといいます。楠木正成、享年42歳でした。

 正成の首は一時京の六条河原に晒されたものの、その死を惜しんだ尊氏の特別の計らいで正成の故郷の河内の親族へ送り届けられました。今でも「大楠公首塚」として大阪府河内長野市の高野山真言宗寺院の檜尾山観心寺境内にあります。
 尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将である正成の死について「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ者ぞなかりける」と記しています。
 
                        *
 『桜井の訣別』は、奥山朝恭(おくやま・ともやす-教育者、作曲家)のメロディもさることながら、落合直文(おちあい・なおふみ)の歌詞に尽きると思います。
 楠木正成、正行親子の桜井での別れの場面を、さすが日本史に通暁した国文学者で歌人の落合直文らしく、的確にかつ格調高い文語体の詞で描写しています。通常は冒頭に掲げた6番までの詞として知られていますが、元は15番まであったようです。

 もうそうなると、楠木正成一代の叙事詩といった趣きです。ここから私は同じく明治期に発表された土井晩翠(どい・ばんすい)の『星落秋風五丈原』の長詩を想起してしまいます。

 諸葛亮と楠木正成と。中国の三国時代と日本の南北朝という時空の隔たりはあるものの、二人に共通するキーワードは「忠烈無比」。
 諸葛亮(しょかつ・りょう)は、先王劉備の「君の才は(魏の皇帝)曹丕に十倍する。もし我が子禅が賢なればこれを補佐し、もし愚なれば君が皇帝に就き給え」の遺命なれど、劉備亡き後暗愚の劉禅を必至に支え、三国一の弱小国蜀の経営に全精力を傾けたのでした。その果ての数次に及ぶ最強国魏への北伐、そして五丈原における陣没。

 楠木正成はその神算鬼謀の軍略の才もさることながら、やはり今なお人の心を打つのは、状況がいかに不利になろうとも後醍醐天皇への忠誠心を最後まで曲げなかったことです。
 「成否を誰かあげつろう 一死尽くせし身の誠」(『星落秋風五丈原』より)
 古今を通して、この二人のように至誠を貫いた人は滅多にいません。しかし人は、こういう鮮烈な生き方こそが「人倫に適う道」と心のどこかで知っいます。だからこそ心揺さぶられるのだと思われるのです。
 
                        *
 この名唱歌を、横山慎吾さん(テノール)、澤田薫さん(テノール)、川村章仁さん(バリトン)、今井俊輔さん(バリトン)の4人の男声フォレスタが熱唱してくれました。

 出だしの「アー、アー、アー、・・・」のハモリは、「嗚呼~、嗚呼~、嗚呼~」とも聞こえます。
 遥か時代は下って、かの水戸のご老公徳川光圀が楠木正成終焉の地である湊川に墓石を再建した際、自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻ませたといいます。
 冒頭「嗚呼」という墓碑銘など古今類を見ないことでしょう。水戸光圀公は、「(北朝系の現天皇家から見て)逆賊であろうと主君に忠義を捧げた人間の鑑(かがみ)であり、すべての武士は正成公の精神を見習うべし」と楠木正成の名誉回復に努めた人でした。

 1番は男声4人によるピアノ伴奏なしのアカペラコーラスです。荘重、悲壮調のこの歌にぴったりの歌い出しであるように思います。ただ何となくこの歌に限っては2番あたりからピアノが入ってきそうだぞと思っていたら、案の定絶妙なタイミングでピアノが鳴り出したではありませんか。
 この歌のピアノ伴奏なかなか味わいがありますが、さてどなたなのでしょう?音はすれども姿は見えず、ということがまゝあります。が、ピアノ奏者もレッキとしたフォレスタのメンバー、せめてそういう場合は、字幕にて「ピアノ演奏 ○ ○」と表示していただければと思います。

 1番と2番のピアノ間奏に印象的な和歌が縦書きで表記されます。

   返らじと兼て思へど梓弓
   なき数に入る名をぞとどむる

 おそらく楠木正成辞世の歌なのでしょう(だとしたら『私本太平記』にもあったはずですが、初めて知ったようなものです)。正成は戦上手なだけの悪党無頼な無骨者ではなく、書を読み歌も詠む教養ある武将だったことが偲ばれます。

 2番は横山慎吾さん、3番は澤田薫さんという二人のテノールによる独唱です。4、5番がなくて(この歌に限ってはすべて歌い切ってほしかった !)終いの6番を高低4人のコーラスで締めるという構成です。

 全体的に素晴らしいコーラスですが、ここでは特に2番独唱の横山慎吾さんに注目してみたいと思います。
 2番は、その子正行を故郷に帰すにあたっての正成のいわく言いがたい心情を描いたフレーズですが、その心情を十分に汲み取った上での横山さんの説得力ある歌唱のような気がします。
 普段は韓流のヨン様のような「なよっとした」雰囲気の横山さんですが、この歌では声量豊かに真に迫った歌唱で、百点満点です !

【追記】
 当初予想もしなかったような長文となってしまいました。「フォレスタコーラス」中随一の長文をここまでお読みいただいた皆様に感謝申し上げます。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『中沢新一「悪党的思考」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-38b7.html
『続・星落秋風五丈原』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-aa31.html

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アベノバブルス株急落など

  佐保姫よ苦戦をばしてをりまする   (拙句)

 私の今週は珍しく多忙な「仕事週間」でブログ更新もままならないほどでした。
 特に22日からはマイブログはおろかパソコンを開くことすらままならず。23日夜になってようやく余裕が出てきたのでいつもどおり深夜から未明にかけての記事更新を行おうとしたのでした。が、前夜が珍しく完徹でその反動がドッと出て眠くてどうにもならず、そのまま朝まで「グースカピーピー、夜中のかいもつ」(これは私の郷里の言葉ですが、今もって意味不明)状態でした。

 『普段は閑古鳥状態が多いのに、にわかに「ドットコム」じゃたまらんぜよ。平均してコンスタントに、が一番だぜよ』 思わず“龍馬言葉”が出たほどでした。
 これは同業者が著わした『行政書士開業成功法』(申し遅れましたが、私も行政書士です)などと銘うったハウツウ本に出ていましたが、「忙しくしている時ほど仕事がやってくる。だから常に“忙しく”しているべし」と言うのです。なるほど「引き寄せの法則」からみてもこれは当たっているところがあります。要は「やる気」「意欲」「モチベーション」の問題。多分私の士業のみならずすべての仕事に当てはまる真理なのでしょう。

 さて夏本番を思わせる暑さとなった23日(金)午後、息せき切って神奈川県庁担当部署に小難しい申請書提出に赴きました。無事提出を済ませた4時半過ぎ、恒例のカフェ・ベローチェ店に入りました。この店は、港の赤レンガ倉庫方向に向かう大通りに面した、と言うより横浜ベイスターズ球場後ろの広大な公園の真向かいにあるコーヒーショップなのです。
 店に入り際そちらの方を眺めやるに、ケヤキやクスノキなどの落葉樹、常緑樹の高木の緑が豊かに繁り、浜の方から吹き渡ってくる涼風とともに、「♪みどりのそよ風 いい日だね」、徹夜で疲れ切った我が体とついさっきまでパンパンにテンパッていた我が頭と心を和ませてくれます。

 神奈川県は「知事としてこれしか実績がなかった」とも噂される松沢前知事の全国に先駆けた禁煙条例により、この店もずっと前から完全分煙、肩身の狭いことに喫煙コーナーは店の奥へと追いやられています。
 そこの適当な席に座りながら、まずは途中のコンビニで買ってきた日刊ゲンダイをざっと読むことにしました。その1面見出しに驚いてしまいました。
 「大謀略 陰謀仕掛け人」「株乱高下」「バブル一瞬ではじけた」・・・
 そんなドギツイ見出しがデカデカと躍っているではありませんか。

 そう言えば20日、記事更新もままならない中私のコメントなしで、『アベノミクス終焉の予兆』という同紙記事を苦し紛れに転載したばかりなのでした。
 株価急落は22日の東京株式市場だったようです。現在無テレビ、大新聞不購読、加えてネットニュースや阿修羅掲示板すら目を通せなかった私は、丸一日経過してその事実を知ったのでした。

 俄然興味を覚えた私は同紙1面から3面の関連する記事を一読しました。
 何でも1万6000円をうかがう勢いだった株価が、一転前日比で1143円28銭安の大暴落となったというのです。『これは大変だ』と、株の「かの字」も知らない私でも驚いてしまいました。たった一日で1100円以上の暴落など、あまり記憶にないからです。
 それもそのはずで、今回の暴落はIТバブルが崩壊した2000年4月17日以来13年ぶりの下げ幅で、株式史上10位だったというのです。あの東日本大震災やリーマンショックでもこんなに下がらなかったわけですから、株式市場が右往左往するのも無理からぬところです。

 ひょっとしたら(1%の超富裕層は別として)多くの国民生活を直撃しかねない大問題になりかねません。
 よってこの問題は、橋下徹大阪市長の例の「従軍慰安婦は必要だった」「米軍は風俗を活用すべきだ」というトンデモ発言、飯島勲内閣参与による参院選(衆参同時選挙?)対策見え見えの北朝鮮訪問など一気に霞む大問題なのではないでしょうか。

 とは言いながら場所柄、同ベローチェ店内の周りには多くの企業戦士グループがいましたが、そのことが話題になることもありませんでした。そう言えばこの日の街や電車内のようすも常と変わらぬさまでした。
 みんな賢明にもアベノミクスなるものの正体などとうに見抜き「どうせバブルだから異常な高騰を見せている株価もそのうちはじけるさ」と読み切っていたからなのか、異常な事態が頻発する当今の事象に感覚がすっかり鈍磨してしまっているからなのか、はたまた「戦後何十年もさして不自由ない生活がして来られたんだ。何があっても今後もずっとこうさ」と楽観視しているからなのか・・・。

 株価は翌日は少しずつ反発してまたぞろ上昇気配に転じているようです。だから今回の大暴落は「日本売り」に直結するようなマジヤバイ状況でなかったようで、ほっと一安堵です。
 今回の暴落の原因として、日本市場の7割を牛耳る外国人投資家や米国の動向、FRBの思惑、中国経済の失速などが取りざたされています。

 そんな中、アベノミクスの立役者である黒田日銀総裁と安倍首相の「アベクロコンビ真犯人説」まで囁かれています。
 その心は?今の相場がバブルであることを誰よりもよく分かっているのがアベクロコンビです。ただ参院選直前に弾けられては困るわけです。そこで大勢に影響のないこの時を狙って暴落を仕掛けたというのです。一旦どんと下げておいて、参院選投票日まで再び上昇操作し「ついに1万6000円の大台を突破しました」と持って行ければ万々歳なわけです。
 参院選に大勝利し衆参ともに安定多数を確保出来ればこっちのもの、「後は野となれ山となれ」てなもんですよ。

 ところで冒頭の拙句は今から10年以上前の句です。この句にはちゃんと季語があるのですが、さてそれは何でしょう?意外なことに「佐保姫」なのです。古来佐保姫様は春の女神とされているのです。
 そこでこんな茶目っ気のある句を作ったわけですが、行政書士業を開業して十数年、自営は厳しいもので本当に「苦戦」の連続です。特にリーマンショック後のここ数年はひどいものでした。いつかこの窮地を抜け出した暁には、戦前の河上肇という人の『第二貧乏物語』をもじって「実はこうでした」と『第一貧乏物語』を当ブログシリーズで発表しようか?とも考えています。

 それにはこのアベノバブルスが出来るだけ穏便にソフトランディングしてくれることが条件です。くれぐれも国債、株式、円のトリプル安による日本たたき売りといったハードランディングとならぬよう、ただただ祈るばかりです。

 (大場光太郎・記)

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アベノミクス終焉の予兆

 『日刊ゲンダイ』(5月23日号2面)記事を以下に転載します。

                       *

アベノミクス終焉の予兆  ついに国債バブル崩壊が始まった! 
反リフレ派の論客 小幡績慶大教授が警鐘乱打

トリプル安で日本経済はお陀仏…

 株式市場は相変わらずイケイケだが、その裏で恐ろしいことになっているのが国債市場だ。黒田バズーカの異次元緩和で価格が上昇する見込みは大外れ。21日も下落し、新発10年債の利回りは0.88%まで上がった。国債暴落懸念がよぎるが、慶大教授の小幡績氏は近著「ハイブリッドバブル」でこう書いている。〈「日銀おひとりさまバブル。日本銀行だけが(国債を)買いつづけるバブル。日本国債バブルの最終局面が始まった〉〈いよいよバブルは崩壊する〉。小幡氏に緊急インタビュー。

 小幡氏は黒田日銀総裁が異次元緩和を決めた4月4日、「頭の中が真っ白になった」という。

「あり得ない量の異次元緩和だったからです。私はこの日、日本国債のバブル崩壊は決定したと思っています。実をいうと、これまでも日本国債は奇妙なバブルだったのです。あれだけの国債を発行し、当然、財政破綻リスクがあるのに、高値安定している。これは財政破綻リスクを見ようとしない機関投資家と、そうした懸念を考慮しつつ、利益を上げようとする2種類の投資家によって、引き起こされた特殊なバブルで、私はそれをハイブリッドバブルと名づけた。そこに日銀買い入れバブルが融合し、国債市場は典型的なバブルに変質したのです。この日、私はたまたまリフレ派の学者と議論していた。世間はいまだにアベノミクスの良し悪しを論じていますが、洪水が押し寄せてくるのに、雨を降らせるにはどうしたらいいのかを議論しているようなものです」

 こういう小幡氏は、このバブルは必ず、崩壊し国債暴落につながると断言する。

「日銀がもくろみ通り、2%の物価目標を達成すれば、インフレになっているわけですから、今度は金融を引き締めなくてはならない。つまり、今度は国債を売る側に回る。その瞬間、国債価格は暴落します。日銀が買ってくれるので、成り立っていたバブルなんですから。一方、2%に届かなければ、日銀はさらなる緩和メニューを出さざるを得なくなる。景気が回復しなければ、財政出動も必要になってくる。そうなると、日銀の大量国債買い入れは財政ファイナンスであると見られてしまう。このシナリオでも国債暴落につながりますが、その場合、円の信用も揺らぎ、債券安、通貨安になる」

 つまり、どっちに転んでも国債暴落は避けられないのだが、だから、メガバンクは逃げるようにして、手持ちの国債を売っている。それが価格の下落に拍車をかけている。小幡氏によると、こうした価格の乱高下こそ、典型的なバブル崩壊の前兆だという。

「株式市場もバブルが崩壊するかどうかはともかく、この相場は完全にバブルであるのは確かです。企業の業績は明るくなっていますが、期待が大きい分、バブルが膨らんでいるのです。ファンダメンタルズを見れば、日経平均は1万4000円くらいが妥当と見られているし、新興市場は乱高下している。株、円、債券のトリプル安に見舞われれば、日本経済はとんでもないことになる。この警告が無駄になるような奇跡が起きて欲しいものです」

 今後が恐ろしくなってくる。

(インタビューはニコニコ動画の「日刊ゲンダイチャンネル」でも配信しています)
 http://www.nicovideo.jp/watch/1369198039   (転載終わり) 

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フォレスタの「菩提樹」

-ヘッセの『青春彷徨』という小説の題名をふと・・・。「青春の夢と憧れ」の名歌曲-


    (『フォレスタ 菩提樹』YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=ZEBz3nwWjmI


 フランク・シューベルトの『菩提樹』は、ロベルト・シューマンの『流浪の民』とともにクラシックを代表するほどポピュラーな歌曲なのではないでしょうか?
 以下少し長くなりますがー。「知るを楽しむ」、まずもって私自身が楽しむためにこの歌に関連する事柄を述べていきたいと思います。

 『菩提樹』は、シューベルトが1827年に作曲した連作歌曲集『冬の旅』(作品89、D911)に収められた作品です。
 『冬の旅』は、1823年作曲の『美しき水車小屋の娘』と同じく、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーの詩集から採られたものです。2部に分かれ24の歌曲からなります。

 この歌曲集の主人公である若者は、失恋の痛手から住み慣れた街を捨てさすらの旅を続けて行くという設定です。全曲を通して「疎外感」、「絶望と悲しみ」、「決して得られないもの、もう失われたものへの憧れ」に満ちています。
 そして唯一の慰めである「死」を求めながらも旅を続ける若者の姿は、現代を生きる人々にとっても強く訴えかけるものがあるとされ、彼の三大歌曲集(『冬の旅』『美しき水車小屋の娘』『白鳥の歌』)の中でも最も高い人気があります。

 シューベルトは、1823年に体調を崩し入院して以来、健康状態が下降に向かっていました。友人たちとの交流や旅行は彼を喜ばせましたが、体調が回復することはなく、経済状態も困窮のまま、性格も暗くなり、次第に死について考えるようになります。とりわけ、ベートーヴェンの死は、彼に大きな打撃を与えました。シューベルトがミュラーの『冬の旅』と出会ったのは、1827年2月のことでした。彼はこの詩集の、絶望の中で生きなければならない若者の姿に、自分を投影したのだろうと言われています。

 同歌曲集中最も有名な『菩提樹』は第1部の5番目に収められています。
 冬の夜、恋人の住んでいる街から去って行きさすらいの旅に出た失意の若者は、泉のほとりに繁る菩提樹の前を通りかかります。街からさほど離れているわけではなく、かつて若者はこの木陰を訪れてはいつも甘美な物思いに耽っていたのでした。

  

 ここで「菩提樹」という木についてざっと見ていきたいと思います。
 菩提樹は中国原産の落葉高木です。高さは10mほどで、花期は6・7月頃で淡黄色の花を咲かせます。日本へは臨済宗開祖の栄西(えいさい)が中国から持ち帰ったと伝えられ、各地の仏教寺院によく植えられています。

 と言うのも、ご存知のとおり、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたことで知られているためです。この木の下で結跏趺坐(けっかふざ)して深い瞑想に入っていたお釈迦様は、前方の空に輝く明けの明星を見て宇宙的真理を悟られたのでしたか?
 この木の名の由来もそこにあるわけです。(「菩提」とは、サンスクリット語「bodhi」を音訳した仏教の根本概念で、「悟りの果としての智慧」の意味) ただし「お釈迦様の菩提樹」は本種ではなく、クワ科のインドボダイジュのことであるようです。

 こうしてみると、菩提樹は見た記憶がありませんが、ユーラシア大陸に広く分布している樹木だったわけです。
 この歌の原題は「Der Lindenbaum」というようですが、「ダー リンデンバウム」となるのでしょうか?(「Der」は英語のTheと同じような定冠詞なのでしょう。)
 『えっ、リンデンバウム?』 そう言えば私が中学生の頃、確か梓みちよだったか『リンデンバウムの木の下で』という歌を歌っていたよなぁ。

  リンデンバウムの木の下で
  あなたとわたし
  楽しく すごしましょう
  リンデンバウムの木の下で ・・・

 当時は何も知らず、『リンデンバウムというハイカラな木は、どんな木なんだべ』と頓珍漢なことを思っていましたが、実は菩提樹のことだったのか。

 お釈迦様の出現により、菩提樹はインド、中国、日本などでは神聖な木となりました。ひるがえってドイツ人のルーツであるゲルマン民族ではどうだったのでしょうか?
 ゲルマン人はリンデンバウム(菩提樹)を母なる木として特別の愛情を抱き、この木の下に村人が集まりダンスをし、裁判が行われました。この木はゲルマン人の愛と豊穣と良き家庭の女神であるフレアの木だったのです。

 神聖ローマ帝国のミツバチの牧草地であり、カード遊びでリンデンバウムは自由な農民階級のシンボルとされました。対してキリスト教は、フレア・リンデを破壊しマリア・リンデに変えたのでした。
 なおまだ記憶に新しい東西ドイツ統合の記念に、ドイツの地理的中心地であるニーダードーラにリンデンバウムが植樹されたということです。 (この項、フロンティア出版刊浅井治海著『樹木にまつわる物語-日本の民話・伝説などを集めて-』の「7.ヨーロッパの民俗との対比」の項を参考)

                        *
シューベルト「菩提樹」  近藤朔風訳

1.
泉にそひて、繁る菩提樹、慕ひ往きては、
美(うま)し夢みつ、幹には彫(ゑ)りぬ、ゆかし言葉、
嬉悲(うれしかなし)に、訪(と)ひしそのかげ。

2.
今日も過ぎりぬ、暗き小夜なか、眞闇に立ちて、
眼(まなこ)とづれば、枝は戦(そよ)ぎて、語るごとし、
来(こ)よいとし侶(とも)、こゝに幸あり。

3.
面をかすめて、吹く風寒く、笠は飛べども、
棄てゝ急ぎぬ、遙(はるか)離(さか)りて、佇まへば、
なほも聴こゆる、こゝに幸あり。

 名前が出てくるたびに思い出していきますが、近藤遡風(こんどう・さくふう)も堀内敬三と並んで中学・高校音楽での懐かしい名前でした。この歌の格調高い文語体の訳詞は、今なお歌い継がれています。近藤遡風は1915年(大正4年)35歳で世を去った人です。するとこの訳詞はゆうに100年以上もの長い間日本人に親しまれ、歌い継がれてきたことになります。

 先ほど『冬の旅』は、「疎外感」「絶望と悲しみ」など暗い情念が全体のモチーフであることを見てきました。しかし近藤遡風訳詞の『菩提樹』に限っては暗い影は見られず、むしろ一陣の夜の涼風が吹きぬけるような爽やかさが感じられるのです。
 この人の訳詞は原詩に忠実なのが特徴らしいですが、しかし彼の心のどこかに「菩提樹 = 釈迦の悟りの木」という意識があったのではないでしょうか。私などはこの訳詞から、「青春の夢と憧れ」「青春の祈り」のようなものを感受してしまいます。

                        *
 フォレスタの「菩提樹」。吉田静さん、小笠原優子さん、白石佐和子さん、3人の女声によるコーラスです。
 この歌は『流浪の民』などとともに音大生時代そうとう歌い込んでこられたのでしょう。さすが皆さん、余裕で楽しんで歌っておられるようです。

 私はこの歌はもう少し大人数で歌うものというイメージがありましたが、意外や3女声のみ。しかしよく聴いてみますと、やはり吉田さん、小笠原さん、白石さんの3人だけで十分ですね。シューベルトの原曲と近藤遡風の訳詞による「菩提樹の情景」があますところなく、表現されていると思います。

 全体的にお3人のコーラスの妙を讃えるべきですが、今回は特に2番の転調のフレーズを独唱されている吉田静さんに注目してみたいと思います。
 いやあ、このフレーズの吉田さんの独唱を何と表現しようか。この訳詞冒頭を借りて、泉の底からこんこんと湧き出るような清らで豊かな声量、とでも表現しましょうか。

 ともあれ、「オペラ歌手吉田静の本領発揮」といった素晴らしい歌唱です。『別れのブルース』『女の意地』など流行歌路線だけの吉田さんではないのです。
 (でも私のようなガサツ者にはオペラはイマイチどうも・・・。やはり流行歌路線の吉田さん派ですね。)

 『フォレスタの「津軽の故郷」』でも述べましたが、この歌は私の好みのドレスで。合成して3人を近づけた画面がありますが、このシーンなどは皆さん本当に美しく「三人のミューズ」と讃えたくなります。

 末尾ながら。南雲彩さんのピアノ演奏も“聴きもの”です。
 心身ともに「菩提樹世界」に没頭しておられるようです。際立っているのは南雲さんの手の動きです。なかんずくしなやかな指の運び。「ビアノの魔術師」リストにも迫ろうかというほど長くて(少しオーバーでしたか?)、繊細で芸術的な指の動きです。

 (大場光太郎・記) 

参考・引用
『ウィキペディア』-「冬の旅」「ボダイジュ」の項                

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笹目仙人と夏八木勲氏(2)

 -接点などという生易しいものではなく、夏八木勲氏は笹目仙人の後継者だった !-

 大本聖師・出口王仁三郎にしてみれば、その日から3、4日後の昭和10年「12月8日未明」に起きることになった「第2次大本弾圧事件」など百も承知です。なぜなら、「三千世界の立替え、立直し」という深い経綸のため、出口王仁三郎自身が「(当時の)国家が大本を弾圧せざるを得ないように」仕向けたのですから。
 だから笹目師に御神体を託したのは、同事件が起きることを自明の理とした布石だったのです。

 それとともに「大本の御神体をなぜ崑崙山になのか」、それが意味するものを考えてみなければなりません。

 単に第2次大本弾圧事件への対応ならば、長野県の皆神山(みなかみやま)など国内にいくらでも候補地はあったはずです。なのにわざわざ崑崙山頂に。出口聖師は、はるか未来を透視していたのではないでしょうか。「世界五大陸の雛型の国」「世界の霊的中府の国」日本が、その役割を果たせなくなる時が来る・・・。
 なるほど70年余の今日、もはやこの国は並みの国の「ニッポン」であり、国民は単なる「ニッポン人」に過ぎないのですから。

 ・・・こうして出口聖師から重大使命を託された笹目秀和師は、大陸で大本弾圧事件の発生を知り大衝撃を受けますが、気を取り直して、一路崑崙山の麓に隠棲する(当時五百余歳の)シュロ神仙を訪ねる旅に出ます。年が明けて何ヶ月か後、シュロ神仙に会えた笹目師は、「天の鳥船」に同乗して崑崙山頂に連れて行ってもらいました。
 そこに無事大本の御神体を鎮座させることができた笹目師は、同時にシュロ神仙から各種の秘密の修法なども伝授されました。

 その後の笹目秀和師には大苦難が待ち受けていました。戦後間もなくソ連兵に連行され、強制収容所に入れられたのです。
 それも普通の収容の仕方ではなく、厳寒の大晦日に最初入れられたのは、どんな人間でも3日で音(ね)を上げるという「水牢」なのです。早く言えば「水攻め」で、くるぶしまで水につかり放しという拷問です。寝台などなしで一日中その状態で立ち通し、夜はそのまま壁にもたれて寝るしかないのです。

 すぐに水につかった部分の感覚がなくなり何日か経つうちに腐りかけてきます。しかしこの拷問を笹目師は1ヶ月間耐え抜いたのです。それを可能にしたのが、シュロ神仙から教わった「太陽の精気を食(は)む法」でした。牢に一ヶ所30センチ四方の窓がありましたが、そこから1日3分間だけ太陽光線を受けて吸い込むだけで食事を全然与えられなくても生きられ、また全身に精気が循環し腐りかけた足も直ったというのです。
 いつまでも参らない笹目師を見て驚いたのがソ連の看守です。気味が悪くなったらしく水牢から開放してくれ、シベリアの強制収容所送りとなったのです。

 笹目秀和師は計11年4ヶ月にわたってソ連に抑留され、日本に帰還したのは32年(1957年)のことでした。
 帰国した笹目師が最初にやったことは「道院の設立」でした。道院(どういん)とは大正時代に中国で創始された、宇宙神である至聖先天老祖(大乙老人)から降された「地球に危機が迫っているから心せよ」「世界五大教同根」などの教えを実修する組織のことです。

 なおその後の研究の結果、至聖先天老祖とは日本の明治期に大本開祖・出口直(でぐち・なお)にお筆先を降ろした「艮の金神(うしとらのこんじん)」(実は地球国祖・国常立大神)と同一神であることが確認されました。
 実際大正12年に発生した関東大震災以降、出口聖師率いる大本はその実践団体である中国の紅卍会(こうまんじかい)と親密に提携したのでした。

 さて笹目秀和師が道院の拠点として定めたのが、東京奥多摩の大岳山(おおたけやま)山頂でした。笹目師は亡くなるまでこの道院で過ごしたのです。
 と、ここでやっと笹目師と夏八木勲氏との接点を語れる段になります。

 夏八木勲氏は40代と思しき頃、大岳山頂の道院に笹目師を訪ねているのです。
 おそらくその前に同氏は、笹目師の『神仙の寵児』という大著を読み深く感じるところがあったからだと思われます。その時、道院の柵に寄りかかって奥多摩の山々を眺め、笹目師が何事かを夏八木氏に話しておられるようなツーショット写真が、笹目師の著書『モンゴル神仙邂逅記』(115ページ)に載せられています。
 その時のお二人にはどのような感応道交(かんのうどうこう)があったのでしょうか。

ファンタジー-ファイル0024.jpg

 それのみか驚くべきことに、夏八木勲氏は笹目師帰天後の跡を継ぐ多摩道院二代目統首だったのです。そのことを記した貴重なサイト記事がありますので、以下に転載紹介します。

                       * 
夏八木勲さんは1/9の過去記事でも紹介したように笹目秀和老師の弟子で笹目老師が帰天したあと老師の跡を継ぐ道院二代目として神が任命しました。

その夏八木勲さんは死後すぐに神仙界から多くの仙官たちが迎えに降りてきて万霊神岳神界という神仙界に一気に昇仙されたようです(@_@)

普通一般人は死後中幽界に行き49日間そこで過ごしそれぞれの冥界へと旅立ちますが、夏八木さんのような特別の霊は中幽界を飛び越えて一気に昇天します!

夏八木さんは現在師の笹目仙人がいる万霊神岳神界で過ごされています。いずれお役目を頂き人々の為に尽くすでしょうね(^O^)

夏八木さんのように仙縁のある人は死後こうした神仙界に迎え入れてくれるでしょうが、でもごく僅かの人達だけだそうです。どうも生まれた時から決まっているみたいです(>_<)  (転載終わり)
                       *
 だとすると夏八木氏は、
 国常立大神、神素盞嗚尊(かむすさのおのみこと)→シュロ神仙、リョリンライ神仙→出口王仁三郎→笹目秀和→夏八木勲 
と直流する、大変な身魂(みたま)だったわけです。
 あらためて夏八木勲氏への敬愛の念を深く致します。  -  完  -

 (大場光太郎・記)

引用サイト(夏八木勲氏画像も拝借しました)
『ファンタジー』-「★神仙界に昇天した夏八木勲氏★」
http://ameblo.jp/201212-777/entry-11529914032.html
関連記事
『笹目秀和師に託された重要な大本神業』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c6a2.html
『もう一つの「12月8日未明」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-5be6.html

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笹目仙人と夏八木勲氏(1)

 -好漢は好漢を呼ぶ。ナイスガイの夏八木勲氏と笹目仙人との意外な接点-

  5月11日、俳優の夏八木勲(なつやぎ・いさお)氏が鎌倉の自宅で亡くなりました。根っからの役者人生と言うべきで、昨年からすい臓がんを患い入退院を繰り返しながらも仕事を続けていたということです。享年73歳でした。

ファンタジー-ファイル0024.jpg

 慶応大仏文科中退の夏八木勲氏(1939年東京生まれ)の、俳優としての出発点は俳優座養成所だったようです。後に「花の15期生」と呼ばれることになったメンバーの一人で、同期には原田芳雄、林隆三、村井国夫、前田吟、地井武男、栗原小巻、太地喜和子など錚々たるメンバーがいます。

 俳優座養成所卒業後すぐの1966年(昭和41年)、『骨までしゃぶる』で映画デビューし、以後アクション映画、時代劇、やくざ映画やテレビドラマなど数多くの作品に出演してきました。
 代表的作品は、映画『野生の証明』や『戦国自衛隊』、NHK連続テレビ小説『鳩子の海』(1974年)など。また原発事故を題材にした昨年公開の映画『希望の国』での演技が評価され、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。

 夏八木勲氏の数多くの出演作には主演ももちろんありましたが、どちらかと言うといぶし銀のように渋い演技が光る名脇役の印象が強い俳優でした。その飾らない朴訥とした風貌もあいまって、一本筋が通った気骨のようなものを感じ、私としては好きな俳優の一人でした。
 地井武男氏、三國連太郎氏などの訃報もまだ新しいのに、惜しい名優がまた一人逝ってしまったか、との感を深くします。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 と、俳優としての夏八木勲氏はどなたもよくご存知でしょうからこのくらいにして、ここからは同氏と意外な人物との接点について紹介していきたいと思います。

 意外な人物とは、過去に何度か当ブログでも取り上げてきた「笹目仙人」こと笹目秀和師です。
 笹目秀和(ささめ・しゅうわ)師については「初めて聞いた」という読者の方も多いかと思われます。そこで少し長くなりますが、以前の『笹目秀和師に託された重大な大本神業』の要約などから、夏八木勲氏との接点に至るまでをざっと見ていきたいと思います。

 笹目秀和師は中央大学法科の学生だった大正時代後期、一人で中国大陸旅行に出たことにより運命が激変します。
 まず白頭山(ペクトゥサン)の天池(チョンジ)の洞窟に隠棲していた当時二百余歳のリョ・リンライ神仙に逢い、東亜の大地における同師の重大使命を告げられます。

 「蒙古の地が汝(なんじ)を待っている」とのリョ神仙の言に従い、ただちにモンゴル平原に向かいました。かの地で王族の血を引く女性と義母子の契りを結ぶなど数奇な巡り会いを重ねながら、モンゴル国独立の礎となる人材育成に同地、中国、日本を奔走することになるのです。

 獅子奮迅の働きの結果、モンゴル人の優秀な留学生6人を日本に連れてきて早稲田大学などに送り込むことに成功しました。その過程で多大な援助を受けたのが大本聖師の出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)でした。
 大陸に戻るにあたって笹目師は、お礼のため京都は綾部の大本教団本部を訪ねました。時に昭和10年12月初旬。なぜか笹目師の来訪を知っていた出口聖師やその補佐役の出口日出麿(でぐち・ひでまる)師から重大な大本神業を託されます。

 「大本の御神体」を崑崙山頂のある場所に埋めてきていただきたい、というのです。恩人から「これを頼めるのは、笹目さん、あなたしかおらんのや」とまで言われれば断るわけにいきません。
 それにかの地で笹目師を待っているというシュロ神仙は、かつてリョ神仙から「12年後に会うことになる」と言われており、この時がちょうど12年目だったのです。
 幾重にも折り重なった神界の深いはかり事と言うべきです。  (以下次回に続く)

 (大場光太郎・記)

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小笠原優子さんの「春のそよ風ほか」

-「春のそよ風」のように爽やかな小笠原優子さんに「お会い」出来て大感激です !-


     (この動画は削除されました。)

 ご覧のとおり9日、「takeharu uehara」さんが、『小笠原優子-春のそよ風ほか』をYouTube動画にアップしてくれました。これは4月27日に18年ぶりに再放送された『ふえはうたう』(1995年5月15日、6月26日放送分)に出演していた小笠原優子さんのハイライトシーンです。
 takeharu ueharaさんには、『小笠原優子さんの近況(2)』における私の勝手なリクエストにお応えいただき、早速アップしていただき深く感謝申し上げます。

 その旨『フォレスタ動画情報』にコメントくださいましたので、取るものも取り合えず動画を見せていただきました。動画冒頭から18年前の小笠原優子さんの姿が映し出されます。

 何と若々しい姿なのでしょう ! 髪はショートカット、赤いシャツ、黒い「ミニ」スカート、白いスニーカー。この時はまだ東京音楽大学卒業直後(?)なのですから当然ですが、「女声フォレスタの小笠原さん」のイメージとの違いに驚きました。
 スポーティで躍動感にあふれ、とってもキュートです !

 2分28秒のこの動画には、『春のそよ風』と他の一曲が収められています。いずれも「新感覚の童謡」といった感じの歌です。当時子供たちの間でよく歌われていた歌だったのでしょうか?今聴いても爽やかで気持ちのいい童謡です。
 2曲とも小笠原さんは同じ服装ですから、同じ日の放送分なのでしょうが、曲の季節感からして5月15日放送分の方でしょうか?

 はじめの『春のそよ風』の方は、もっぱら小笠原優子さんの歌に身振り、手振りのジェスチュアを交えた独り舞台です。歌うだけではないのですから、素人目にはけっこう難しかったろうと思われるのに、表情豊かに活き活きと、余裕で楽しんでおられるようです。
 この歌では小笠原優子さんの顔が何度か大きくアップされています。若々しいお顔立ちなのは当然ですが、やはり目元涼やかで端正な美形ですね。

 2番目の歌は「とんぼ」が出てきますから、夏から初秋にかけてのハイキングの歌でしょうか?この歌では何と、「うたのお兄さん」の関俊彦さんと軽快なダンスを踊っているではありませんか !
 このような躍動感溢れる姿はフォレスタではめったに見られないわけですが、小笠原さんの身体的パフォーマンス能力の高さを再認識させられました。

 ここで『ふえはうたう』について簡単に見ていきたいと思います。
 『ふえはうたう』は、1974年4月から1997年3月までNHK教育テレビ(当時)で放送された小学3年向けの音楽番組です。「たてぶえ」(当時呼称、現在は「リコーダー」)の演奏を学ぶ番組で、学校放送でもありました。だから『ふえはうたう』は、学校教育を補助する目的で音楽の授業に連動して視聴された番組だったのです。

 開始から23年間続いた『ふえはうたう』では、番組進行のための「うたのお兄さん」「うたのお姉さん」がいました。このうちうたのお姉さんは歴代8人いましたが、我らが小笠原優子さんは最後の「うたのお姉さん」で、1993年4月から1997年3月までの4年間務められました。

 以上は『ウィキペディア』-「ふえはうたう」を参考にしましたが、歴代のお兄さん、お姉さんの中で小笠原さんにだけ「脚注」がついています。それはー
 「現在、『BS日本・こころの歌』(BS日テレ)でFORESTAのメンバーとして活躍中」
というものです。

 なお私は、小笠原さんが『ふえはうたう』に出演するに至ったのは直前「ミス東京音大」に選ばれたことをNHKスタッフが聞きつけてか?と思っていました。しかし実際はそうではなく、小笠原さん自らが同番組のオーディションにチャレンジし見事合格して、ということだったようです。
 多くの応募者の中から実力で「うたのお姉さんの座」を射止めたわけですから、凄いですよね !

 小笠原さんにとって同番組出演は、終生忘れ得ぬ「青春の記念碑」的思い出であることでしょう。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』-「ふえはうたう」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%88%E3%81%AF%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%86
関連記事
『小笠原優子さんの近況(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-036a.html
『フォレスタ動画情報』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-0a39.html

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「マイナンバー法案」衆院通過で国民総家畜化に拍車

-霞ヶ関官僚の言いなりで同法案を成立させた自公維新など5党の政治屋は、これが自身への「666刻印」に直結するおぞましい法案であることを知っているのか?-

衆院通過 マイナンバー法案で国民総家畜化 
 (『日刊ゲンダイ』5月11日号2面より転載)

喜ぶのは官僚、天下り団体、ITゼネコンだけ

問題だらけの法案がきのう(9日)衆院を通過した。国民全員に番号を割り振る「マイナンバー法案」(共通番号制度関連法案)である。

法案は、国民一人一人に番号を振り、番号カードを発行。所得や年金、健康保険といった社会保障の情報を一括管理する仕組みだ。今国会中に成立する見通しで、早ければ15年秋から各個人に番号を通知し、16年1月にも運用が開始されるという。大マスコミは「年金給付の申請が簡単」「確定申告の手続きが簡素化する」と強調しているが、コトはそう単純ではない。

「すでにマイナンバーが導入されている韓国では、08年からの4年間で1億2000万人分の個人情報が流出し、なりすまし事件も頻発している。民間企業をハッキングして盗むケースがほとんどですが、日本の法案でも、法律施行3年後をめどに民間活用の可能性が検討されることになっており、注意が必要です」(反住基ネット連絡会の白石孝氏)

総務省は「セキュリティーに万全を尽くす」(住民制度課)と説明するが、問題はプライバシーの保護だけではない。国民は国に個人情報をガッチリ握られ、いや応なしにカネを搾り取られ続ける。政府によって「総家畜化」される恐れがあるのだ。

マイナンバーは導入費用に約2700億円が投じられるほか、初期の維持費もざっと400億円が必要と見積もられている。システムを管理、運営するのは、「地方自治情報センター」から格上げされる「地方公共団体情報システム機構」。現在、住民基本台帳ネットワークを運営している総務省所管の天下り団体だ。

住基ネットといえば、99~03年にシステム構築に約400億円が投じられ、マイナンバーと同様、鳴り物入りで始まったが、住基カードの累計交付枚数は昨年末で714万枚足らず。それなのに年間120億円の維持費がかかっている。マイナンバー導入で喜ぶのは、国民の個人情報を握ってコントロール下に置ける官僚と運営を請け負う天下り団体、「ITゼネコン」の一部メーカーだけだ。

ベラボーな額の税金を使って役人のやりたい放題。羊のような国民はそれに従って管理されるだけ……。それでいいのか。  (転載終わり)

【私のコメント】
 嫌な法案が衆院を通過したものです。この「マイナンバー法案」は最近の『バーコードに隠された「666」』シリーズで見ましたが、全国民への「666刻印」に確実に直結します。

 上掲文にもありましたが、同法案施行に伴って全国民に「番号カード」が交付されます。しかしカードでは、紛失や盗難、個人情報の流用、悪用という深刻な問題がつきまといます。
 「この弊害を解決する」と称して、とどのつまりは「全国民の人体に直接番号を打ち込もう」ということに必ずなるのです。

 その番号は、(コンピュータの「コの字」もなかった)18世紀の米国のある牧師が、『ヨハネの黙示録』などの聖書研究の結果に基づき予告したように、共通して頭に「666」を持つ十数桁の数字になります。

 額へのバーコード刻印になるのか、右手へのICチップ埋め込みとなるのか。いずれにしても「666刻印」は日本一国だけの問題ではないのです。
 邪悪な現世界システムにあって、スーパーエリートと呼ばれる666勢力によるNWО(世界統一政府)完成に欠かせない最重要事なのです。先進国の国民に対していつでも実施できるよう、「彼ら」はとうの昔にスタンバイオーケー状態です。

 近未来、国民一人ひとりがその選択を必ず迫られることでしょう。その時どうするのか。「666刻印」を受けるのか、拒否するのか。今回の人生どころではない、「魂」としての究極の選択となります。  (大場光太郎・記)

関連記事
『バーコードに隠された「666」(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-b103.html

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八木重吉記念館(3)

     草に すわる
              
  八木重吉

   わたしのまちがいだった
   わたしの まちがいだった
   こうして 草にすわれば それがわかる


 ここで八木重吉(やぎ・じゅうきち)の生涯をざっと見ていきたと思います。

 八木重吉は1898年、東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)に生まれました。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めました。

 神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において洗礼を受け熱心なクリスチャンになりました。1921年頃から短歌や詩を書き始め、翌年島田とみと結婚した後は詩作に精力的に打ち込みました。1923年のはじめから6月までにかけて、自家製の詩集を十数冊編むほどの多作ぶりであり、1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行しました。

 同年、佐藤惣之助が主催する『詩之家』の同人となり、この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになりましたが、翌年には体調を崩し結核と診断されてしまいます。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したものの、出版物を見ることなく、翌1927年29歳で亡くなりました。

 5年ほどの短い詩作生活の間に書かれた詩篇は、2000を優に超えます。短い詩が多いのが特徴であり、103篇をおさめた『貧しき信徒』には、10行を超えるものはたった2つしか見られません。
 1982年には筑摩書房から『八木重吉全集(全3巻)』(2000年に増補改訂版全4巻)が、1988年には同社のちくま文庫から『八木重吉全詩集(全2巻)』が出版され、彼の全貌をたどることが容易になりました。 (参考『ウィキペディア』「八木重吉」の項)


 現・東京都町田市相原町の生家に設けられたのが、今目の当たりにしている「八木重吉記念館」だったのです。1984年の開館だそうです。
 夕方5時近くで急いで帰りたい気分あり、庭園から遠目で眺めただけでどの建物が記念館なのかわかりませんでしたが、重吉生存時からあった土蔵を改造したのがそうであるようです。
 同記念館を開館し、今日まで管理してこられたのは、重吉の甥の八木藤雄氏です。


        手前に立っている人が八木藤雄氏

 つまり生家の土蔵を改造して記念館とした「八木重吉記念館」は、東京都や町田市による公設ではない、私設、自前の記念館なのです。だから金ぴかの箱物などではあり得ないわけです。でも私などは、
 (こういう記念館こそ望ましい。変な色がついていないこういう記念館が各地にもっとあればなあ)
と、正直思いますね。

 「日本一小さな記念館、文学館だけど、日本一大きな心を伝えている」
とは、館長の八木藤雄氏の言葉です。並々ならぬ自負が伝わってくるようです。

 土蔵の1階、2階とも展示室になっており、詩稿や著書や手紙、写真や詩人・高村光太郎による直筆の『定本八木重吉詩集』序の原稿など約3千点余を収蔵、展示しているそうです。
 この日は夕方ということもあり、辺りはひっそりとしていて人影はないようでした。しかしこれまで同記念館を訪れた人はけっこう多いようです。

 八木藤雄氏の語るところでは、「ふらりと立ち寄った人が、自殺を思いとどめ生きる勇気を与えられ、帰っていったことも何度かあった」ということです。
 それが八木重吉の「詩の力」なのかもしれません。本シリーズ冒頭にその三篇の詩を掲げました。これらの詩から伝わってくるのは「やさしい心」です。それと感じるのは、八木重吉の心の奥から湧いてきた想いをそのまま詩として表わしていることです。
 頭の中でこねくり回した言葉ではないわけです。それゆえ、窮地にある人ほど八木重吉の純粋な想いがびんびん感じるのかもしれません。

 これからどこまで歩いていかなければならないのか、気が気でない私が同記念館の庭園にいたのは10分弱でした。館内には入れませんでしたが、それでも私にとっては大きな発見だったと思います。バスに乗ったのではまず気がつけなかったと思いますから。
 (いつか中に入ってゆっくり見てみたいものだ)
 そう思いながら、同記念館を後にまた歩き出したのでした。(なかなかバス来ず、結局相原駅まで1時間強歩きましたよ。ア~ア、疲れた !)  -  完  -

八木重吉記念館 (無料開放)
〒194-0211  東京都町田市相原町4473
TEL 042-783-1877 要電話予約(午後5時以降)

 (大場光太郎・記)

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八木重吉記念館(2)

     素朴な琴

          八木重吉
 
 このあかるさのなかへ
  ひとつの素朴な琴をおけば
  秋の美しさに耐えかねて
  琴はしづかに鳴りいだすだらう

 法政大学多摩キャンパス入り口を過ぎても、当然ながらバスはやってきません。そこでなおも歩くことに決め、どんどん先に歩いていきました。
 そのうちТ字路となり、相原駅方面となる右に曲がるべく、道路を横切って反対側に行きました。この通りは町田街道と呼ばれる道路で、それまでの道よりも少し広くなり、両側に歩道もついています。

 反対側の歩道を歩こうとしたら、Т字路のすぐのお屋敷の皐月などがこんもり植え込まれた庭園の一角に、
 「八木重吉記念館」
と、白地に黒い字で書かれた横書きの案内板が目に飛び込んできました。
 (八木重吉?聞いたことある名前だぞ)
 そこまで約20分ほど歩きづめで少しくたびれたせいか、どんな人だったかすぐには思い出せません。その案内板を見ながら何秒か経って、わが頭脳回路はやっと、
 (あっ、そうか。あの八木重吉か !)
という情報を伝達してきました。

 八木重吉(やぎ・じゅうきち)は、大正・昭和初期頃の詩人だったのです。
 それより何より、当ブログを開設した年の2008年9月にこの詩人の代表作『素朴な琴』を取り上げたではありませんか。

 (そりゃ、大変だ !)
 俄然興味を覚えた私は、はじめて歩みを止めて同記念館の外観を眺めることにしました。手前の庭園は広く、皐月や樹木などがほどよく植え込まれてます。その中の右にくねった通路を登った上に赤いトタン屋根の建物が2、3棟並んで建っています。
 それは小山の際にあり、建物から先には新緑の樹木が繁っています。一部に真直ぐに伸びた竹の一群も認められます。


           (注 こちらは別の案内板、左が「生家」石塔)

 (あの建物全体が記念館なのだろうか?)
 それにしては何とも地味な記念館ではありませんか。どう見ても農家風の造りで、それに少し手を加えたくらいにしか思えないのです。
 当今は記念館流行(ばやり)で全国各地に「○○記念館」があり、その多くはうんと金をかけて造った壮麗な箱物だというのに・・・。

 庭園の目立つ所に、やっぱりありました ! 代表作の『素朴な琴』を刻んだ石碑が。これは八木重吉自筆を拡大して石に刻んだもののようです。



 この詩を冒頭に掲げましたが、今では中学校の教科書に載るほど有名らしいです。しかし私など「昭和30年代少年」は学校で習った覚えがなく、正直に言いますが、こんな良い詩を知ったのはブログを開設した年だったように記憶しています。
 当ブログカテゴリーに『名詩・名訳詩鑑賞』を加えることにし、にわかに備えつけの詩集を漁っているうちたまたまこの詩を発見したのです。

 彼とほぼ同時代を生き、そして同じく昭和初期に若くして世を去った詩人に金子みずずがいます。金子みすずも私たちが子供の頃は無名の女流詩人で、その名とその詩が広く知られるようになったのは最近のことです。
 あるいは八木重吉もそれと似たケースだったのかもしれません。

 進行方向に歩くと、植え込みの中に「詩人八木重吉生家」という石塔が建っていました。すると八木重吉はこの家で生まれ、生家をそのまま彼の記念館にしたわけです。  (以下次回に続く)

 (大場光太郎・記)

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八木重吉記念館(1)

     蟲(むし)

           八木重吉
 
  蟲が鳴いてる
  いま ないておかなければ
  もう駄目だというふうに鳴いてる
  しぜんと
  涙がさそわれる

 
 2年前のちょうど今頃諸般の事情で車を手離してからというもの、どこへ行くにも徒歩、バス、電車の組み合わせです。不便と言えば不便です。しかしこの「ユックリズム」が、時として意外な発見につながることがあります。
 今回はそんな一例を述べていきたいと思います。

 月が変わった今月1日、相模原市緑区内の某社を訪ねました。先月新しく顧客になっていただいた会社で、その日は2回目の訪問でした。JR相模線の厚木駅から(途中橋本駅乗換え)JR横浜線の相原駅で降りて、同駅近くからバスに乗り20分ほどかけて行くのです。
 残念ながら、
ゴールデンウィークだからせめて国内の遠くへ旅行を、などという余裕などない私にとってそれは「ささやかな旅行」のようなものでした。

 同社には午後3時半前に着きました。主に応対してくれたのは、ここで新しく社長に就任することになったまだ30歳前の新社長です。気性のさっぱりした好青年です。同社は建設業関係の会社で創業はけっこう古いようです。
 若い新感覚的経営で会社を盛り立て、さらには地域の次世代リーダーとして大成していっていただきたいものです。

 さて打ち合わせも終盤となった4時過ぎ、同社事務所の窓越しに1台のバスが停まっているのが見えました。実は同社の隣がバス路線の終着となる折返し場なのです。
 (終わるまで待っていてくれないかなぁ)
 と言うのも、この路線は1時間に一本のバス往復しかないからです。
 しかし非情にも、少しするとバスは行ってしまったらしく、次にその方向を見たときには影も形もありませんでした。

 打ち合わせが終了して同社を辞したのが4時半頃でした。くだんの折返し場でバス時刻を確認するに、何と40分くらい待たなければならないのです。
 この日は曇り空で5月だというのに少し寒いくらいの陽気です。それにこの辺りは両側から小山の連なりが迫る山間(やまあい)の地区で、畑や田んぼの合間に家がポツリポツリと点在するような具合です。
 いろんなことから、40分もジッと待ってられるような条件ではないのです。

 そこで私は、往きはバスで来た道を、行けるところまで歩いてみることにしました。
 こうして
山間の道を歩き始めました。駿馬(しゅんめ)ならぬ駄馬の私なのに、ズシリと重い斤量(きんりょう)となるバックを手に持ちながら(苦笑)。
 重いはずです。中には700ページもあろうかという『思考は現実化する』や、400ページ弱の『お金と引き寄せの法則』と文庫本、それに業務関係の厚い書類をはさんだビニールファイル3冊などがあるのでから。

 しかしこの時は打ち合わせが順調に運んだこともあってか、バックの重さもさほど気にならずに少し早足で歩けました。
 余裕で周りの景色に目をやると、道の右手20メートルくらいは畑で、その向こうは小川です。その先は小山で木々に豊かな新緑が繁っています。
 中でも目を引いたのは、山際に繁っている木のところどころにうす紫色の花のようなものが垂れているさまです。

 (んっ?)
と思って目を凝らして見るに、それは藤の花なのです。それがあっちこっちの木々の天辺や途中から垂れて、今を盛りに咲いているのです。
 町場の家の庭先や公園の藤棚でならいくらでも見られるけれど。まさかあんな具合に大きな藤の木として山に自生していようとは。

 歩きながら思ったことにはー。そう言えば、山藤章二という(某週刊誌に有名人たちのユニークな似顔絵を連載している)漫画家がいるけれど、名前だけかと思っていたら「山藤」は本当にあったわけだ。
 さらに思い出しました。数年前一緒に合併して相模原市緑区となった旧・藤野町はすぐ近くですが、やはりこんな風に藤の木が山に多いことから名づけられた町名だったのだろうか?
 いずれにしても
思いもよらぬ発見でした。

 バス停を1つ2つ越して歩くと少しずつ両側の山が遠くに退き、人家もある程度まとまり集落らしくなっていきます。
 15分ほど歩き3つ目のバス停を過ぎた辺りに、左折すると法政大学へ行く道にやってきます。もちろんここが同大学本部ではなく「多摩キャンパス」です。この辺は行政区域が入り組んでいて、ここは東京都町田市相原町となるようです。

 バスは同大学キャンパス内を一巡します。ただこの路線の利用客はほとんど地元の人たちで、法政大学生専用バスは相原駅近くのバス発着場から別に出ています。
 私は2度バスに乗って同大学キャンパス内を一瞥したわけですが、山の中に入って行く感じなのです。造成はキャンパス各施設周辺の最小限にとどめ、周囲の小山など自然はそのまま残す配慮をしているようです。だから折りしも新緑の季節、豊かな緑の木立に覆われた中に各キャンパス施設があるような感じです。

 シティボーイ、シティガールぶった「ちゃらい」学生は別として、自然の何たるかが分かる、もしくは分かろうと努める学生にとっては、最高のキャンパス環境であることでしょう。  (以下次回に続く)

 (大場光太郎・記)

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童謡「背くらべ」

 -この懐かしい童謡を述べながら、後半はつい余計な深読みをしてしまいました-

    (「せいくらべ」YouTube動画-独唱している女性歌手名は不明)
     http://www.youtube.com/watch?v=v9tMRD25aGE


     背(せい)くらべ

        作詞:海野厚、作曲:中山晋平

  柱のきずは おととしの
  五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
  計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
  遠いお山も 背くらべ
  雲の上まで 顔だして
  てんでに背伸(せのび) していても
  雪の帽子を ぬいでさえ
  一はやっぱり 富士の山


 『背くらべ』は、『鯉のぼり』とともに「こどもの日」の代表的な童謡です。
 何年か前のこどもの日に車で少し遠出してある所に立ち寄った際、ふとこの歌が思い出されました。
 「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ ・・・」
 『思えば遠くに来たもんだ』、いろんな意味で・・・。口ずさみながら、涙がこみ上げそうになりました。

 『背くらべ』を作詞した海野 厚(うんの あつし/1896年-1925年)は、静岡県豊田村曲金(現・静岡市駿河区)の裕福な農家の出身(ただし後に没落)で、7人兄弟の長兄です。旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学するため地元の静岡を離れ一人上京しました。
 童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ、海野は童謡作家となりました。

 この歌の背景にもなりますが、実家には3人の妹と3人の弟がいました。中でも17歳年下の春樹は、海野にとって特別に可愛い存在だったといいます。しばらく帰っていない地元で暮らす可愛い弟。もう2年も帰省していないが、弟は大きくなっているだろうか?元気に暮らしているだろうか?そんな切ない思いが、童謡『背くらべ』の歌詞には込められているというのです。

 この作品は兄に背の高さを測ってもらった弟の視点で書かれています。しかし実際の海野厚はこの歌の兄の立場(7人兄弟の長兄)でした。柱の傷が去年のものではなく一昨年なのは、この頃東京に出ていた(早稲田大学在学中)厚が帰省できなかった時のことを弟の気持ちになって書いたからだといわれています。
 都会の生活にも慣れ、俳句や童謡の世界に没頭した海野は、病弱だったこともあり、1919年を最後に地元の静岡には帰郷していなかったのです。

 中山晋平らとともに『子供達の歌』を出版し、雑誌『海国少年』の編集長も務めた海野でしたが、1925年5月20日、結核のため28歳の若さで亡くなっています。
 才能を十全に開花させることなくして夭折した海野厚は、作品自体少なく、『背くらべ』は代表作といってよさそうです。

 『背くらべ』は1919年(大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲(中山晋平作曲)としては1923年(大正12年)に発売された『子供達の歌 第3集』が初出です。2007年(平成19年)、「日本の歌百選」に選ばれました。

 と以上見ましたとおり、この歌は、年の離れた弟春樹への想いから発した真情を童謡にしたものであることは疑う余地もありません。
 ただこの童謡が作られた当時の日本の置かれた立場を視野に入れると、無意識的だったにもせよ別の「背くらべ」が見えてきそうです。以下はそれに基づいた私流の深読みです。

 『背くらべ』が発表された大正時代中期は、明治期からの「脱亜入欧」「欧米列強に追いつき、追い越せ」という掛け声とともに、殖産興業、富国強兵に邁進し日本が精一杯「背伸」していた時期でした。
 この童謡2番に、その辺の事情が暗に示されていると思われるのです。
 「富士の山」は日本人の心の拠りどころ、シンボリックな山ですから、「日本」を表わしています。対して「てんでに背伸 していても」、富士の山にはとても適わない遠い山々を「欧米列強」に比定してみると面白いと思います。

 ところで明治維新から昭和20年(1945年)の敗戦までと、それから平成今日までの戦後日本の歩みは、不思議にパラレルで、どこかシンクロしているところがあります。

 かつての欧米列強式の帝国植民地主義は、今日では「グローバリズム」「新自由主義」「市場原理主義」などの美名に装いを変えています。が、根っこは同じ、「弱肉強食」の獣的な「競争原理」なのです。
 この「獣的競争原理」を標榜する(ユダ金・イルミナティ主導の)米国にひれ伏し猿真似しているのが、おらが国の「政官業」リーダーたちです。

 学業、ビジネス、スポーツ、芸事、習い事・・・。あらゆる分野で適度な競争は必要です。その意味で「良きライバル」の存在は、眠っていた潜在能力を引き出し、向上させてくれる尊い磨き石といえます。
 しかし「力づくで」「他を蹴落として」「ブラフをかけて」「他が持っているものを強奪して」の、獣的競争原理はいかがなものか。少なくとも、そんな行き方は日本の行き方ではありませんよ。魔違えてはいけません。

 今から20年近く前、船井総研創業者の船井幸雄氏が、資本主義の終焉を予告し、これからの人類のあり方として「エゴからエヴァへ」と提言したことがありました。「エゴ」とは我欲の競争原理、「エヴァ」とは互恵の共生原理です。
 実際もう、米国流の獣的競争原理の「強欲資本主義」では立ち行かない土壇場まで来ているのです。これは別に論ずべきことですが、日本は世界に先駆けて「エヴァ(大調和)の型」を出すべき聖使命の国なのです。魔違えてはいけません。

 「幼な児たち(の遊び)は天国の型」
 まこと子供たちが無邪気かつ天真爛漫に遊びに興じている姿こそ、天使そのものの姿ではありませんか。そこには当然ながらお金も、変な差別や規制やコントロールも何もないのですもの。なのに子供たちは自分たちが決めたルールでうまく、元気一杯遊び回り、「今ここ」(be-here-now)に生きる喜びを全身で真素直に表現しているのですから。

 さて今日の大人社会は「何の型」なのでしょうか?こどもの日のきょう、私たち大人も童心に帰って、子供たちの遊び興じるさまを身をかがめて学び直したいものです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『背くらべ 童謡・唱歌 歌詞と試聴 - 世界の民謡・童謡』(+『ウィキペディア』)
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/seikurabe.htm

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小笠原優子さんの近況(2)

-先週は「小笠原優子ウィーク」というほどアクセスが集中。なぜかと思ったら・・・-

 当ブログ、先週はさながら「小笠原優子ウィーク」といった感じでした。4月22日(月)夜9時の『BS日本・こころの歌』以降あたりから小笠原優子さん関連記事へのアクセスが集中したのです。
 それは「検索フレーズランキング」にもハッキリ反映され、小笠原さん関連フレーズが連日上位を独占し続けました。分けても「小笠原優子」フレーズが(件数で2位以下のフレーズを大きく引き離し)1位を占めた日が何日もありました。

 特に4月27日(土)夕方4時台以降さらに小笠原さん記事へのアクセスが集中し、「小笠原優子ウィーク」がピークに達しました。ついにこの日は、ここ2カ月ほどトップだったある記事を押さえ『小笠原優子さんの近況』が当ブログ全記事でのアクセストップとなったのです。

 現在テレビを観ていない私には、何があったのかさっぱり分からないわけです。そこでいつも参考になるのが当ブログを訪問されるファンの検索フレーズです。例えば何人かのフレーズに「小笠原優子 フォレスタ復帰」「小笠原優子 復活」というのがありました。
 『えっ、小笠原さんもう復帰したの?』 そうか、これだったのか、と思いつつ。昨年9月にお生まれの花子ちゃんの育児を考えれば少し早い気がするものの、小笠原優子さんの一日も早い復帰は多くのフォレスタファンの望むところ。もしそうなら大変喜ばしいことですが・・・。

 遅ればせながらこのたび「小笠原優子ウィーク」の次第を記事にするにあたり、念のため小笠原さんのサイトを当たってみることにしました。その結果、謎は簡単に解けてしまいました。 

 4月27日午後4時30分から、今から18年前に放送されたNHK教育テレビ(当時)の『ふえはうたう』という音楽番組が再放送されたからだったのです。

 ご存知の方が多いかと思いますが、当時東京音楽大学在学、卒業直後の小笠原優子さんは、同番組最後の「歌のおねえさん」として4年間出演していたのです。
 今回は、当時の15分番組を2回分まとめての再放送だったようです。そして2回分とも、小笠原さんが出演している回だったのです。(1995年5月15日放送分、同年6月26日放送分-Eテレ「Eテレセレクション」)

 小笠原さんご自身が、ブログでそのことを事前に予告されていたではありませんか。それを知った小笠原優子ファンの関心が俄然高まり、その“余慶”として、この1週間ほど当ブログの小笠原さん記事へのアクセスが集中したということだったらしいのです。
 そう言えば、と今にして思えばー。アクセスが集中し出した当初から、「小笠原優子」「小笠原優子 結婚」などに混じって「ふえはうたう」関連フレーズが時折り見られ、『あれっ、どうしてかなぁ』と思ってはいたのでした。

 NHK教育『ふえはうたう』の歌のおねえさんとしての、「ミス東京音大」直後の若々しく美しいショートカットの小笠原優子さんの姿、私も是非拝見させていただきたかったです ! これをお読みで、同再放送を見逃した方も同じ思いでしょう。

 そこで、再放送をご覧になりそれを録画された方へのお願いです。
 これをお読みのどなたか、この貴重な「お宝映像」をYouTubeにアップしていただけないでしょうか !? 「良いもの」は独り占めして密かに楽しむものじゃありませんよ(笑)。「公共の福祉」のため(笑)、是非どなたかよろしくお願いします !!

 もっと早くに小笠原さんブログを訪問して、再放送の件を当ブログで取り上げその事実を前もって告知すれば、知らないファンの方への多少のPRができたのに・・・。
 肝心な時に役立たずで、小笠原さんごめんなさい。

 それにしても、今回のような「アクセス集中現象」を目の当たりにすると、あらためて絶大な「小笠原優子人気」を感ぜずにはおられません。ご結婚、ご出産、花子ちゃん育児による長いブランクなど物ともせぬ人気ぶりです。
 「小笠原さ~ん。復帰をいつまでも待ってま~す !」という多くのファンの熱い想いが伝わってくるようです。 

【追記】
 このたび「takeharu uehara」様が、YouTube動画に、若き日の小笠原優子さん出演『ふえはうたう』(再放送分)の主要部分をアップしてくれました !

『小笠原優子 - 春のそよ風ほか』(YouTube動画-2分28秒)
http://www.youtube.com/watch?v=Y6bV3qnj8nU

 歌もさることながら、小笠原さんの軽快にスキップするダンス、いやあ驚きました。フォレスタではほとんど見ることができませんでしたが、この番組に出演時の小笠原さんとってもキュートで、身体的パフォーマンス能力も高いものがありますね。18年前の小笠原さんにお会いできて大感激です !
 私の勝手なお願いをお聞き届けくださったuehara様には深く感謝申し上げます。 (5月9日)

 (大場光太郎・記)


小笠原優子さんブログ『EVENT & FROM YOKO』
http://musication.cocolog-nifty.com/blog/
ウィキペディア『ふえはうたう』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%88%E3%81%AF%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%86
関連記事
『小笠原優子さんの近況』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-4dea.html

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