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フォレスタの「桜井の訣別」

 -この歌は『青葉の笛』と共に、日本史中の悲劇的名場面の歌の双璧だろう-

    (『フォレスタ 桜井の訣別』YouTybe動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=kodfmfUJ19c


   桜井の訣別

        作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭  

青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に
散るは涙かはた露か

正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子(わがこ)正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
いましはここまで来(きつ)れども
とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ

父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
この正行は年こそは
未(いま)だ若けれ諸共(もろとも)に
御供(おんとも)仕(つか)えん死出の旅

いましをここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏(たかうじ)の儘(まま)ならん
早く生い立ち大君に
仕えまつれよ国の為め

この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

共に見送り見返りて
別れを惜む折りからに
復(また)も降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀(あわれ)と聞かざらん
あわれ血に泣くその声を


 『桜井の訣別』(さくらいのけつべつ)は、作詞:落合直文、作曲:奥山朝恭による明治32年(1899年)発表の唱歌です。別に『青葉茂れる桜井の』または『大楠公の歌』とも言われます。
 南北朝期の動乱を描いた『太平記』最大の名場面「桜井の訣別」を謳い上げており、歌の主人公は南北朝動乱期最大の名将と言ってもいい楠木正成(くすのき・まさしげ)です。

 この歌をより深く味わうためにも、楠木正成の事跡をざっと見ていきたいと思います。

 楠木正成の前半生はほとんど不明であり、分かっているのは元弘元年(1331年)の挙兵から湊川(みなとがわ)における自刃までの6年間だけです。
 元弘元年の某資料に「悪党楠木兵衛尉」として現われるのが最初です。そこから鎌倉幕府の御家人帳にはない、河内を中心とした付近一帯の水銀などの流通ルートで活動した悪党と呼ばれた豪族であったと考えられているのです。

 同年、鎌倉幕府打倒を目指して時の後醍醐天皇が挙兵しました。幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者が少なかった中で、数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があったのです。
 後醍醐帝に謁見して戦への意見を求められた正成は、「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。が、智謀を尽くし策略をめぐらせば勝機はあるでしょう」と答えたといいます。

 地元に戻った正成は山中に築いた山城の赤坂城を拠点に挙兵しました。挙兵とは言ってもわずか五百の兵、これに対して幕府は大仰にも数万の討伐軍を差し向けたのです。粗末な山城を甘く見て一気にひねり潰す勢いの幕府軍は各自勝手に攻撃を始めますが、途中に仕掛けられたドデカイ岩や大木になぎ倒されるわ、藁人形に騙されるわ、熱湯や糞尿を浴びせられるわ、とさんざんな目に遭います。
 機略縦横の正成流ゲリラ戦法本領発揮の図です。結局この戦いに20日間耐え続け、いよいよの段になって正成は城に火を放ち、それに乗じてまんまと脱出に成功したのでした。

 この時の幕府軍の中にいたのが足利尊氏(あしかが・たかうじ)です。尊氏は「正成という男は只者ではない」と感心したといいます。
 その後再挙兵した正成は、河内や和泉の守護を次々に攻略し、摂津の天王寺を占拠し京を睨みます。業を煮やした北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けましたが、正成の神出鬼没の作戦に精神的にも肉体的にも疲労の極に達した幕府軍はついに天王寺から撤退します。正成軍の戦死者ゼロという大勝利でした。

 翌1333年2月、幕府はとにかく目障りな正成に対して8万もの大軍を向かわせました。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に籠城します。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の知略を恐れてうかつに近づけないわけです。
 結局2年前の赤坂城と同じく兵糧攻めを選びますが、これが大失敗、先に飢えたのは大軍を擁する幕府軍の方だったのです。山中で飢餓に陥った幕府軍に対して、抜け道からどんどん食糧が送り込まれていた正成軍は、3カ月経ってもピンピンしていたのです。

 やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れとなりました。
 8万もの大軍がわずか千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国に伝わりました。これによって「幕府軍、恐れるに足らず」と、各地の豪族が次々に蜂起し始めました。遂には幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す武将が出てきました。
 こうして尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取りました。140年続いた鎌倉幕府滅亡の端緒を開いたのが楠木正成だったと言っても過言ではないのです。 

 1333年、執権の北条氏支配による鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇による建武新政が始まったのはいいけれど。武家支配力を弱めようとするあまり、公家には篤く、幕府打倒の原動力となった武家には薄い恩賞に不満爆発、早くも政局は混乱します。
 分けても実力者の足利尊氏(あしかが・たかうじ)が新政から離反したことにより、不満武士たちの多くが尊氏に従うこととなりました。

 南朝系(大覚寺統)の後醍醐帝による新田義貞や北畠顕家らの討伐軍により敗北した尊氏は、九州に下りました。終生後醍醐帝への忠誠を変えなかった楠木正成は、今や武士のみならず民衆の心が天皇方から離れていることを痛感し、「尊氏との和睦」を涙ながらに帝に進言します。しかし事態が読めていない帝や公家たちは「勝利した我々が尊氏と何で和睦せなならんのじゃ」とこれを一蹴しました。

 案の定尊氏は1336年4月末、九州で多くの武士や農民の支持を得大軍勢となって北上してきました。そこで後醍醐天皇は「湊川で新田義貞の軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じたのでした。
 尊氏軍はかつての幕府軍とは力量が段違いの上軍勢も圧倒的に優位です。そこで正成は、尊氏との和睦案や、山中での奇襲戦法で迎えるべく都を捨てて比叡山に上るなど、この時も帝に何度も進言しています。しかしそれらは正成の力量を恐れるボンクラな公家たちに悉く退けられてしまいます。
 こうして正成は失意のうちに湊川(現・兵庫県神戸市)に向かって出陣して行くのです。

 だいぶ長くなりましたが、こうして『桜井の訣別』の名場面となるわけです。
 西国街道の「桜井の駅」(櫻井の驛)まで進軍してきた楠木正成は意を決して、この歌のとおり、長男の正行(まさつら)を呼び「我は兵庫へ討ち死に覚悟で出陣するが、汝は故郷へ帰るように」と申し渡したとされるのです。

 対して正行は「いかに父上の命とは言え、年若くとも死出の旅のお供をさせていただきたい」と願い出ます。正成は「お前を帰すのは、私が討死にした後のことを考えてのことだ。帝のため、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わずいつの日か朝敵を倒せ」と諭すのでした。
 そして先年後醍醐天皇より下賜された菊水の紋が入った短刀を授けたのでした。

 私は中学3年生の夏頃、吉川英治の『私本太平記』を読了しました。その中でやはり一番感動的だったのがこの場面で、その名描写に涙が止まりませんでした。ついでに言えば当時吉川英治は国民的作家で、中一で『宮本武蔵』を、中二で『三国志』を読みました。

 さて楠木正成の最期についても簡単に見ておいた方がいいと思います。
 同年5月25日、湊川で両軍は激突します。海岸に陣を敷いた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れとなり、正成と合流出来なかったばかりか、足利軍に加わる兵までいました。
 こうして尊氏の軍勢3万数千を迎え撃つことになった正成軍はたったの七百。戦力差は約50倍と歴然としています。尊氏は正成軍に対して戦力を小出しにするだけでなかなか総攻撃に移ろうとはしませんでした。

 3年前は共に倒幕を果たした同志でもあり傑出した才能を認めてもいた尊氏は、正成の投降を待っていたのです。しかしそんなつもりなど微塵もない正成軍の鬼気迫る突撃の繰り返しに、このままでは自軍の損失が増える一方とついに一斉攻撃を命じます。
 6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家に入り死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。正成は弟の正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して絶命していたといいます。楠木正成、享年42歳でした。

 正成の首は一時京の六条河原に晒されたものの、その死を惜しんだ尊氏の特別の計らいで正成の故郷の河内の親族へ送り届けられました。今でも「大楠公首塚」として大阪府河内長野市の高野山真言宗寺院の檜尾山観心寺境内にあります。
 尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将である正成の死について「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ者ぞなかりける」と記しています。
 
                        *
 『桜井の訣別』は、奥山朝恭(おくやま・ともやす-教育者、作曲家)のメロディもさることながら、落合直文(おちあい・なおふみ)の歌詞に尽きると思います。
 楠木正成、正行親子の桜井での別れの場面を、さすが日本史に通暁した国文学者で歌人の落合直文らしく、的確にかつ格調高い文語体の詞で描写しています。通常は冒頭に掲げた6番までの詞として知られていますが、元は15番まであったようです。

 もうそうなると、楠木正成一代の叙事詩といった趣きです。ここから私は同じく明治期に発表された土井晩翠(どい・ばんすい)の『星落秋風五丈原』の長詩を想起してしまいます。

 諸葛亮と楠木正成と。中国の三国時代と日本の南北朝という時空の隔たりはあるものの、二人に共通するキーワードは「忠烈無比」。
 諸葛亮(しょかつ・りょう)は、先王劉備の「君の才は(魏の皇帝)曹丕に十倍する。もし我が子禅が賢なればこれを補佐し、もし愚なれば君が皇帝に就き給え」の遺命なれど、劉備亡き後暗愚の劉禅を必至に支え、三国一の弱小国蜀の経営に全精力を傾けたのでした。その果ての数次に及ぶ最強国魏への北伐、そして五丈原における陣没。

 楠木正成はその神算鬼謀の軍略の才もさることながら、やはり今なお人の心を打つのは、状況がいかに不利になろうとも後醍醐天皇への忠誠心を最後まで曲げなかったことです。
 「成否を誰かあげつろう 一死尽くせし身の誠」(『星落秋風五丈原』より)
 古今を通して、この二人のように至誠を貫いた人は滅多にいません。しかし人は、こういう鮮烈な生き方こそが「人倫に適う道」と心のどこかで知っいます。だからこそ心揺さぶられるのだと思われるのです。
 
                        *
 この名唱歌を、横山慎吾さん(テノール)、澤田薫さん(テノール)、川村章仁さん(バリトン)、今井俊輔さん(バリトン)の4人の男声フォレスタが熱唱してくれました。

 出だしの「アー、アー、アー、・・・」のハモリは、「嗚呼~、嗚呼~、嗚呼~」とも聞こえます。
 遥か時代は下って、かの水戸のご老公徳川光圀が楠木正成終焉の地である湊川に墓石を再建した際、自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻ませたといいます。
 冒頭「嗚呼」という墓碑銘など古今類を見ないことでしょう。水戸光圀公は、「(北朝系の現天皇家から見て)逆賊であろうと主君に忠義を捧げた人間の鑑(かがみ)であり、すべての武士は正成公の精神を見習うべし」と楠木正成の名誉回復に努めた人でした。

 1番は男声4人によるピアノ伴奏なしのアカペラコーラスです。荘重、悲壮調のこの歌にぴったりの歌い出しであるように思います。ただ何となくこの歌に限っては2番あたりからピアノが入ってきそうだぞと思っていたら、案の定絶妙なタイミングでピアノが鳴り出したではありませんか。
 この歌のピアノ伴奏なかなか味わいがありますが、さてどなたなのでしょう?音はすれども姿は見えず、ということがまゝあります。が、ピアノ奏者もレッキとしたフォレスタのメンバー、せめてそういう場合は、字幕にて「ピアノ演奏 ○ ○」と表示していただければと思います。

 1番と2番のピアノ間奏に印象的な和歌が縦書きで表記されます。

   返らじと兼て思へど梓弓
   なき数に入る名をぞとどむる

 おそらく楠木正成辞世の歌なのでしょう(だとしたら『私本太平記』にもあったはずですが、初めて知ったようなものです)。正成は戦上手なだけの悪党無頼な無骨者ではなく、書を読み歌も詠む教養ある武将だったことが偲ばれます。

 2番は横山慎吾さん、3番は澤田薫さんという二人のテノールによる独唱です。4、5番がなくて(この歌に限ってはすべて歌い切ってほしかった !)終いの6番を高低4人のコーラスで締めるという構成です。

 全体的に素晴らしいコーラスですが、ここでは特に2番独唱の横山慎吾さんに注目してみたいと思います。
 2番は、その子正行を故郷に帰すにあたっての正成のいわく言いがたい心情を描いたフレーズですが、その心情を十分に汲み取った上での横山さんの説得力ある歌唱のような気がします。
 普段は韓流のヨン様のような「なよっとした」雰囲気の横山さんですが、この歌では声量豊かに真に迫った歌唱で、百点満点です !

【追記】
 当初予想もしなかったような長文となってしまいました。「フォレスタコーラス」中随一の長文をここまでお読みいただいた皆様に感謝申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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『中沢新一「悪党的思考」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-38b7.html
『続・星落秋風五丈原』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-aa31.html

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コメント

興味深く読ませて貰いました。興味の対象が同じようです。文章もお上手で読みやすいです。時折、拝見させて貰います。ありがとうございます。

投稿: 北條隆司 | 2013年5月29日 (水) 07時46分

北條隆司様
 コメントありがとうございます。
 ブログ左サイトのカテゴリーをご覧になればお分かりのとおり、私の関心は多岐に及んでいます。すべての記事に共感いただけるかどうか心もとありませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

投稿: 時遊人 | 2013年5月29日 (水) 18時10分

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