昔、藤圭子さんからサインをもらったことがありました。
-あの時代のいな「あの時代だけの歌姫」に深い哀悼の意を表しつつこの一文を-
(「圭子の夢は夜ひらく+京都から博多まで」1970・71年紅白版)
http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM
いやあ、驚きの訃報でした。歌手の藤圭子さんが22日、東京都新宿区内の高層マンションから飛び降り自殺したというのです。
最近の藤圭子さん(本名:阿部純子-享年62歳)は歌手活動から遠ざかり、07年に宇多田照實氏と正式に離婚し、その後都内マンションで(元マネージャーの)30代後半の同居男性とひっそり暮らし、世間から忘れられた存在でした。
そのため「藤圭子」と聞いても、若い人たちは「宇多田ヒカルの母親」くらいのイメージしかないかもしれません。しかし藤さんと同世代の私など(実際は私の方が2歳ほど年上)は、藤さんもかつては娘の宇多田ヒカルに勝るとも劣らない栄光の時代があったのだ、と証言したい気持ちに駆られます。
1969年(昭和44年)、『新宿の女』で彗星のようにブラウン管に登場したのが藤圭子(以下敬称略)でした。まだ18歳のうら若き女性歌手の鮮烈デビューです。
「♪バカだな、バカだな、だまされちゃって ・・・」
それもそんじょそこらの歌い方ではなく、夜の巷に生きる女の情念を、心の底からしぼり出すようなドスの利いた声で歌ったのです。爽やか系・明るい系が主流のフォークソング全盛の中、私なども少なからず衝撃を受けたものでした。
この年は東大安田講堂攻防戦のあった年で、全共闘による70年安保闘争が最も過激さを増した年でもありました。当時の若者誰しもが時代への閉塞感を感じ、ブルーベル・シンガーズの『昭和ブルース』やあがた森魚の『赤色エレジー』などの暗い歌も好んで歌われました。が、その極めつけが藤圭子の登場だったように思われます。
『新宿の女』は20週連続でヒットチャート1位を独占し、続く『女のブルース』を含め37週連続1位という空前絶後の大記録を樹立したのです。
「♪十五、十六、十七と、私の人生暗かった ・・・」
時代が藤圭子の歌を求めていたと言えるのでしょう。3曲目となる翌1970年(昭和45年)の『圭子の夢は夜ひらく』によって人気は頂点に達し、藤は時代の寵児の地位を揺るぎないものにしたのでした。
一世代前の60年安保の象徴歌が西田佐知子の『アカシヤの雨がやむとき』だったとするなら、この歌は70年安保の全共闘世代の象徴歌といってもいいのかもしれません。
作家の五木寛之は、藤圭子の歌を「怨歌(えんか)」と呼びました。五木はエッセイの中で、「歌手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」と記し、「それが(当時の)藤圭子だ」と言わんとしたのです。
*
デビュー前の藤圭子は苦労したようです。若い頃映画のロケで先輩女優にジャムパンをもらい、「子供の頃食べたかったけど貧しくて食べられなかった」と涙を流したエピソードがあるといいます。
藤圭子は1951年7月5日、岩手県一関市に旅芸人の子として生まれ、幼い頃一家は北海道旭川市に移り住みました。成績優秀だったものの貧しさのため高校進学を断念し、やがてスター目指して上京します。
浅草で流しをしていた頃、作詞家の石坂まさを(今年3月逝去)の目に留りました。藤の育ての親である石坂自身も幼くして父を亡くし、母と2人の生活を送ったのでした。
だから石坂まさをは、つぶらな瞳の少女に自らの境遇を重ね合わせ、この少女を「藤圭子」と命名し、『新宿の女』を作詞・作曲してデビューさせたのです。
*
何でも私自身のことに引きつけて申し訳ありませんがー。
『圭子の夢は夜ひらく』発表から少し経った頃だったでしょうか。私は藤圭子を間近にしてサインをもらったことがあったのです。
サインをもらった場所は、コンサート会場などというありきたりな場所(?)ではありません。意外も意外、当厚木市の平塚市寄りの郊外部、東名高速のすぐ近くの田んぼの中だったのです。
何でそんな所で?
藤圭子の方の事情など私には知る由もありません。が、私の方の事情なら話せます。
私は昭和43年(1968年)春に山形県の高校を卒業して、すぐ当市内の小さな測量事務所に勤めました。その日は近くの田んぼを実測するため、先輩と2人でたまたまその近くにいたのです。
朝方作業車で現場にやって来てボチボチ仕事にかかろうか、という頃合い。周囲を回ってきた先輩が、「おい大場君、見てみろよ。あっちに藤圭子がいるぞ」と言うのです。「えっ?」と思ってそちらの方をみると、少し離れた所に確かにテレビで見ている藤圭子と思しき女性が、東名高速を背に立っています。
「行ってみようよ」と先輩が促すまま私もついていきました。
その辺の記憶は曖昧ですが、藤圭子の目と鼻の先に近づいて先輩と一緒に挨拶したのだったかと思います。そして私は日頃隠しているミーハー気質がモロに出て、手に持っていた野帳(やちょう)の後ろのページを開いて、「これにサインしてください」と差し出したのです。
「野帳」というのは、測量する現場の境界点や基準点、それに実測した角度や距離などを記録するための(胸ポケットにしまえる縦長、薄型の)手帳です。
田んぼは刈入れがとうに終わった晩秋から早春にかけてのいずれかの季節でした。周りにスタッフなどはおらず、藤圭子はただ一人で田んぼの中にいたのだったと思います。
確かオレンジがかった赤系統のセーターに黒いスカートといった装いでした。テレビどおりの華奢で綺麗な人でした。ただ場所が場所だけに、今をときめくアイドルスターとしてのオーラなどはあまり感じませんでした。
藤は一瞬戸惑ったようですが、しかしそこは商売柄すぐに了解し、野帳を受け取ってくれました。そこではたと気がつきました。書く物を渡してなかったのです。「何か書く物持ってませんか?」と図々しくも私。こんな所でサイン会などするわけないのだから持ってなくて当たり前です。しかし藤はすかさず、
「あるじゃないですか」
と、私に鋭い一瞥をくれて作業服の胸ポケットを指差しました。
さすがに少し上がっていたらしく、そこに鉛筆を入れていたことを忘れていたのでした。『鉛筆じゃなく、サインペンかボールペンで・・・』と思ったものの、無いものねだりしても仕方ないので鉛筆を渡しました。藤はそれでさらさらとサインしてくれ、野帳と鉛筆を返してくれました。
私は礼を言って、先輩とともにその場を去ったのでした。
藤圭子が何であの時あんな場所にいたのかは、今考えても謎です。
しばらくはその野帳を大事に取って置いたかと思いますが、気がついた頃にはどこかに紛失してしまっていました。今となっては大変残念です。
*
藤圭子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(大場光太郎・記)
関連動画
『藤圭子-新宿の女-』
http://www.youtube.com/watch?v=jqO0d-HiLXc
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