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2013年10月

米国戦争屋のラスト・リゾートに堕した日本

-「戦争屋のラスト・リゾート」とは、つまり日本は「最後の草刈り場」ということ。私たちお人好しの国民は、ペンペン草も生えぬまで荒されて初めて気がつくのだろうか-

 阿修羅掲示板投稿記事の中に興味深いコメントを見つけましたので、以下に転載します。

 記事の元は『新ベンチャー革命』という、欧米寡頭勢力をウォッチして、それと日本
との関わりなどについて鋭く分析しているサイトです。当ブログでも度々使わせていただいている、「戦争屋」(ユダ金ロックフェラー)「銀行屋」(ユダ金ロスチャイルド)という用語は、こちらのサイトからの借用です。

 「世界帝王」として長く君臨してきた戦争屋大ボスのデビットRFは、自分で仕掛けた311が「躓きの石」となって、直後に失脚したと見られ、最近は97歳死亡説まで流れています。それとともに、戦争屋ロックフェラー帝国は落日・崩壊。代って、元々ユダ金本家である銀行屋ロスチャイルドが覇権を取り戻したとみて間違いないようです。

 どっちもどっちの、(アブラハムを始祖とする正統ユダヤではない)白人系偽ユダヤの「ユダ金」(ユダヤ金融資本)であることに変わりはありません。しかし『新ベンチャー革命』さんが「戦争屋」「銀行屋」と見事に区別したように、両者の世界支配の手法は大きく異ります。
 これは重大ことで、日本政府も外務省・防衛省など官僚機構も直ちにシフトすべきなのです。

 しかるに、「売国」安倍政権がシャカリキになって進めている、TPP、秘密保護法案、日本版NSC(国家安全保障会議)設置法案などは、あくまで「米国戦争屋対応」、世界的に見て周回遅れもいいところです。
 凋落米国からの隷属状態を脱け出す絶好の機会なのに何やってんだ、という話です。   (大場光太郎・記)

                        *
転載元
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/533.html
04. 2013年10月28日 01:45:18 : FbGdHh0gUE

★米国で追い詰められる米国戦争屋のラスト・リゾートに堕した日本

1.米国寡頭勢力の暗闘:日本は追い詰められる米国戦争屋のラスト・リゾートに堕している

 本ブログのメインテーマは米国戦争屋の動態ウォッチと分析です。

なお、上記、米国戦争屋(世界的寡頭勢力の主要構成メンバー)およびそのロボット・悪徳ペンタゴンを構成する日本人勢力の定義は本ブログNo.687の注記をご覧ください。

 2013年1月、アンチ米戦争屋である米国オバマ民主党政権二期目がスタートして以来、米戦争屋があの手この手で追い詰められていることがわかります。

 そして、追い詰められた米戦争屋のラスト・リゾートが極東日本となっており、米戦争屋の忠実な奴隷である安倍政権への米戦争屋の闇支配が強化されていることがわかります。平和憲法改正、集団自衛権行使容認、特定秘密保護法制定、日本版NSCの実現、日米軍事演習の強化・頻発化などに、その兆候がみられます。米戦争屋ジャパンハンドラーとその奴隷・悪徳ペンタゴン日本人連中は、小沢・鳩山・亀井トリオを筆頭とするアンチ米戦争屋政治家の完全無力化に成功し、米戦争屋奴隷の安倍独裁政権を実現した今、安倍政権は日本の軍国化、ナチス化に向けて暴走中です。

2.日本に入れ込む米国戦争屋ネオコンは、オバマ政権と国際社会から追い込まれている

 米戦争屋ジャパンハンドラーの対日支配が強化され、彼らは日本に入れ込んでいますが、そのワケは、彼らが米国で追い詰められているからです。以下にその兆候を列挙します。

(1)米戦争屋は米軍のシリア介入をオバマ政権に阻止された

 オバマ政権のシリア限定空爆作戦は米戦争屋の仕掛ける本格的シリア戦争計画を骨抜きにするものでした。そして今、米戦争屋の企む次期中東戦争の突破口・シリア戦争の芽は完全に潰されました、そして、現実には対シリア限定空爆すらも行われていません。まさに米戦争屋ネオコンはオバマ政権に一杯食わされたのです(注1)。これで、米戦争屋はイラン戦争への足掛かりを失ったわけです。

(2)米国vsイランの首脳外交成立:米戦争屋の企むイラン戦争計画は頓挫

 2013年9月末、オバマ米大統領とイラン・ロウハニ大統領の会談が成立しています(注2)。この事実から、オバマ政権はイラン戦争する気は毛頭ないことがわかります。そして、イラン戦争を企む米戦争屋ネオコンとイスラエル・ネタニヤフ・ネオコン政権は打つ手なしの状況です。

(3)米戦争屋ネオコンの牙城・NSAが国際社会から非難の的となった

 悪名高い米国NSA(国家安全保障局)は周知のように、米戦争屋ネオコンの牙城です(注3)。そのため、アンチ戦争屋のオバマ政権はなんとかNSAの実権を米戦争屋ネオコンから奪取しようとしています。そこで、盟友のドイツ・メリケル首相から、オバマに直接、NSAがメルケル首相の携帯電話を盗聴していると抗議させ、国際社会がNSAのスパイ活動を非難するよう仕向けることに成功しています(注4)。

(4)米戦争屋の秘密兵器・無人偵察機の使用を中止させるべく国際世論を盛り上げる

 2001年の9.11事件後、米戦争屋ネオコンが牛耳ったブッシュ米政権はパキスタンを根城に、アフガン空爆を始めた歴史がありますが、その後、テロ対策を口実に、彼らの最新鋭秘密兵器・無人偵察機(ドローン)をパキスタンで使用し続けてきました。それに業を煮やしたパキスタン・シャリフ首相はオバマに、ドローン使用を中止するよう要請しています(注5)。ちなみに、パキスタンはこれまで、今の日本と同様に、米戦争屋に抑え込まれてきました。そのパキスタンが遂に立ち上がったのです。ちなみに、日本を闇支配する米戦争屋のひとりアーミテージはかつて、パキスタン・ムシャラフ元首相を恐喝していた事実があります(注6)。今の日本は依然として、このような野蛮な米国人に闇支配されているのです、なんと情けない!

(5)米戦争屋ボスの牛耳るJPモルガン・チェース銀行が苦境に追い込まれる

 2008年のリーマンショックは、オバマ政権を闇支援する欧米銀行屋(アンチ米戦争屋)が仕掛けた可能性が高いわけです。その証拠に、欧米銀行屋系のゴールドマン・サックスの損失は少なく、米戦争屋ボス・デビッドRF系の金融機関が大打撃を食らっています。JPモルガン・チェース銀行はデビッドRF系ですが、このたび、1兆円超の大罰金が科せられる見通しのようです(注7)。この事実から、かつては無敵を誇った米戦争屋ボス・デビッドRF一派は、デビッドのライバル・欧米銀行屋の闇支援を受けるオバマ政権に追い詰められていることがわかります。

(6)米ドルを仕切る米中央銀行FRBの次期議長は米戦争屋ボスの息がかかっていない

 次期FRB議長にジャネット・イエレン氏が就任するようです(注8)。この人物は米戦争屋ボスとの関係はなさそうです。当初、オバマはラリー・サマーズ氏をFRB議長にする計画でした。サマーズは米金融界の大物・ロバート・ルービン氏系人物のように見えます。ルービンは米戦争屋ボス・デビッドRFとつるんで日本の長銀乗っ取り作戦に関与していましたが、米戦争屋および欧米銀行屋の両方とうまく付き合う狡猾な人物のようです。その証拠に、ゴールドマン・サックスとシティ(デビッドRF系)の両方を渡り歩いています。以上より、イエレンがFRB議長になれば、デビッド系勢力のFRBに対する発言力は低下します。

(7)JALがエアバス機導入決定:米戦争屋系ボーイングに意趣返し

 最近、JALは欧州エアバス機の導入を決定しています(注9)。JALは1985年、御巣鷹山事件にて、米戦争屋からひどい目に遭っています。そこで、今、米戦争屋の勢いが失せているのを見逃さず、早速、米戦争屋系ボーイングから欧州エアバス(米戦争屋のライバル・欧州寡頭勢力系)に取引先を切り替え始めたということです。

3.米国で追い詰められる米戦争屋の悪あがき

 上記のように、戦後日本を私物化してきた悪徳・米戦争屋ネオコンはオバマ政権下で苦境に陥っています。それでも、彼らは依然、しぶとく食い下がっています。その例を挙げると、

(1)日中、日韓の領土紛争をネタに日本発の極東戦争にもっていこうとする米戦争屋ジャパンハンドラー

米戦争屋ジャパンハンドラーのひとり・ジョセフ・ナイ氏は先日の東京国際大での講演にて、尖閣や竹島における日中、日韓の領土紛争に関して、国際司法裁判所に提訴するよう示唆したそうです(注10)。ほんとうに懲りない連中です。

(2)米民主党内の米戦争屋エージェント・ヒラリー・クリントン氏を次期大統領に画策する米戦争屋ネオコン

 オバマ政権一期目にて、米戦争屋エージェントを務めたヒラリー・クリントン氏を、米戦争屋陣営は2016年の大統領選に出馬させようと動き出しているようです(注11)。米国民がネットで覚醒し、共和党の正体を知ったので、米戦争屋が寄生してきた共和党では勝てる見込みがないと思われます。ちなみに、ヒラリーを推薦するジョージ・ソロス氏は米戦争屋のシマ・日本で稼ごうとしており、単に、米戦争屋に恩を売っているだけなのではないでしょうか。この人物は親日家のマハティール・マレーシア元首相から“悪魔”と罵られた人物です。

 われら国民は米戦争屋の対日闇支配の現状に早く気付きましょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/archive/2013/10/27 (『新ベンチャー革命』) (転載終り)

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フォレスタの「赤い靴」

      (「フォレスタ 赤い靴」YouTube動画)
      https://www.youtube.com/watch?v=EgLIGCrRUZM       


      赤い靴   (作詞;野□雨情、作曲;本居長世)

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 フォレスタ童謡『赤い靴』、『いずれそのうち・・』とは思いつつ、当面取り上げるつもりはありませんでした。しかしつい最近、『赤い靴』をテーマとした『時の話題(7)』(2010年4月)にアクセスして来られた人がいました。
 同記事は、横浜市の姉妹都市である米国サンディエゴ市に、『赤い靴はいてた女の子の像』が新しく造られた話題を紹介したものなのでした。

 滅多にアクセスのない記事ですが、久しぶりに読み返し、数年前の、童謡『赤い靴』や山下公園の『赤い靴はいてた女の子の像』への私自身の思い出が懐しく蘚って来ました。それにグットタイミングなことに、最近hskjikさんが、YouTubeにこの歌のフォレスタ動画をアップしてくれたではありませんか !
 と、少々回りくどい話ながら、それで今回急遽取り上げることにした次第です。

 なお例によってわたくし事に引きつけて申し訳ありませんが、「数年前の私自身の思い出」をここで述べさせていただきます。
 『フォレスタの「うれしいひなまつり」』でも少し触れましたが、事の起りは2008年3月2日、「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』にコメントを寄せたことから始まります。

 『赤い靴』とはあまり関係ない話ながら、当家が零落の極みだった昭和31年、私が小学校に入学した4月に父が死去し、その葬儀直後3歳の下の妹・菊子が、福島県K市の叔母にひったくられるようにしてもらわれて行ったこと、その年の9月に流行り病であっけなく死んでしまったことなどを綴ったものでした。

 このコメントに早速感想をお寄せになられたのが、当時70代後半のれいこ様でした。れいこ様は横浜在住が長かった人で、その中で山下公園の『赤い靴はいてた女の子の像』に触れておられました。
 「近いうち赤い靴の女の子の像に会ってきます」と返信で約束し、事実「会いに行き」、その感想を『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』として追加コメントしたのでした。


              山下公園 『赤い靴はいてた女の子の像』

 『実見記』コメントはかなり長文のため、開設とともに当ブログに移させていただきました。私は、国民的音楽サイト「二木紘三のうた物語」に100くらいのコメントを残しています。他に秀逸なコメントが幾つもある中で(?)、『赤い靴』コメントのインパクトは断トツのようで、今でも同サイト『赤い靴』経由で『実見記』へのアクセスがチラホラ見受けられます。

 1年ほど前、当ブログの関係記事に「読んでおおいに心をゆさぶられました。・・・この大場さんの妹さんへの鎮魂の文章に対し感動した人は千人、万人いたでしょう。」というような、ありがたいコメントをお寄せになった「うた物語」ファンの人がいました。
 何のためにこの世に出て来たのか分らなかったような妹・菊子への手向けのため、当時こんな出来事を経験した家もあったのだというささやかな時代証言の一つとして、今後とも多くの人にお読みいただきたいものと考えます。

                        *
 以下に、『時の話題(7)』記事の中の、童謡『赤い靴』にまつわる話を転載します(一部修正、行替え、段替えを行っています)。

 童謡『赤い靴』は大正10年(1921年)野口雨情の作詞になるものです。翌大正11年に「近代童謡の創始者」本居長世が曲をつけました。
 ご存知の方もおられるかと思いますが、この童謡にはモデルがいたのです。「岩崎きみ」という少女です。

 岩崎きみは明治35年(1902年)7月15日、日本平の麓の静岡県不二見村(現静岡市清水区)で生まれました。きみは赤ちゃんの時、いろいろな事情により母親岩崎かよに連れられて北海道に移りました。そこで母親に再婚話が持ち上がり、かよは夫となる鈴木士郎と開拓農場(現北海道留寿都村)に入村することになりました。

 当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく3歳のきみをアメリカ人の宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木士郎は開拓農場で懸命に働きますが、努力のかいなく開拓はうまくいかず、明治40年失意のうちに札幌に引き上げました。

 その後夫の鈴木士郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃同新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。なお明治41年(1908年)小樽日報に移った士郎は、北海道時代の石川啄木とも親交を持ちました。

 ところで野口雨情は、明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。そんな折り、かよは雨情との世間話の中で、お腹を痛めた女の子(きみ)を外国人の養女に出したことを話したものと思われます。この薄幸で数奇な少女きみちゃんにわずか7日間だけの命だった長女が結びつき、詩人野口雨情の中に「赤い靴の女の子」のイメージが着想され、『赤い靴』が生まれたのかもしれません。

   赤い靴はいてた 女の子
   異人さんに つれられて行っちゃった

 あまりにも有名な、1番の歌詞です。母かよは死ぬまできみちゃんがヒュエット夫妻に伴われてアメリカに渡り、かの地で元気に暮らしていると信じていたそうです。また「赤い靴はいてた女の子…」とよく口ずさんでいたといいます。
 
 しかし実は岩崎きみは、異人さんにつれられてはいなかったのです。
 というのも、ヒュエット夫妻が日本での仕事を終えて帰国する際、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれていた結核に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京(麻生十番)のメソジスト派の孤児院(永坂孤女院)に預けられたのです。

 そして投薬治療などの甲斐なく、明治44年(1911年)9月15日、同院で一人寂しくわずか9歳の生涯を閉じたのです。きみちゃんは、青山墓地にある鳥居坂教会のお墓に埋葬されました。

   横浜のはとばから 船に乗って
   異人さんにつれられて いっちゃった

 薄幸の少女岩崎きみは、実際はアメリカに渡っていなかった。しかしきみちゃんをモチーフとした童謡『赤い靴』はその後日本全国で歌われ、「異人さんに連れられていった、赤い靴の女の子」のイメージは多くの日本人の心にしっかり定着していくことになります。
 それとともに、2番の歌詞のゆかりから、横浜港に接した山下公園にその像が建てられることになったのです。そして今度は、とうとう海を渡った米国サンディエゴ市にその像が建つ運びになったわけです。 (転載終り)

                        *
 『フォレスタの「「赤い靴」』。白石佐和子さんと矢野聡子さんのお二人のデュエットです。同じお二人のデュエット曲として、動画コメントである人が「白石さんと矢野さんの名唱」と絶賛しておられる『浜千鳥』があります。
 どちらも大正童謡黄金期の名曲ですが、「これを歌うには、この二人しかいない」ということでの人選だったのでしょう。

 こちらも『浜千鳥』に負けず劣らず素晴しいデュエット曲です。むしろ『赤い靴』の方が、プロならではの「アレンジの妙」においては勝っている、と言えそうです。

 たとえば1番の白石さん独唱の途中から矢野さんの高い声のハモリがかぶさったり、2番はその逆で、2番と3番の間奏部にはお二人の「アー、アー、アー」のスキャット(と言うのでしょうか?)が入ったり、3番は白石さんの歌唱に矢野さんが追いかける輪唱形式だったりと、とにかくプロの隠し技が随所に見られ楽しめるコーラスです。

 ところで、とこのコーラスからは離れますがー。
 コアな白石佐和子ファンならとうにご存知だと思いますが、今年の2~3月(ずい分前の事を今頃紹介ですみません)、白石さんはイタリアに1ヶ月ほど短期留学されたようです。白石さんの歌の原点はイタリア生まれの「ベルカルト唱法」という発声法だそうですが、その学び直しのため、ミラノに3週間ホームスティし、イタリアでも有名なオペラ歌手直伝のレッスンを受けられたとのことです。

 フォレスタ活動、ソロ活動と多忙な中、より高みを目指して本場イタリアに身を投じる向学心、向上心、チャレンジ精神には頭が下ります。それと、1ヶ月ものイタリア滞在、一流歌手のレッスンを受けられほどの「豊かさ」が羡しい ! 洩れ聞くところ、白石さんは東京下町(荒川区?)の良家のお嬢様とのことですが・・。

 続いて矢野聡子さん。
 全フォレスタメンバー中、矢野さんほどその後の消息が沓(よう)として知れない人はいません。ご自身で、ブログやツイッターなどで発信なさるわけでもなし。本当にミステリアスな人です。『フォレスタ通信』などでは、「結婚のため活動休止」「海外在住中」とのみ。
 「矢野聡子さんのご主人は外国人ですか」。えっ、まさか矢野さん、この歌のように「異人さんに つれられて行っちゃった」の?

 「矢野聡子さんの復帰はいつですか」。私の率直な感じでは、小笠原優子さんの復帰の可能性は高いと思いますが、矢野さんの復帰は無いのではないでしょうか?新女声メンバーによる旧バージョンの「撮り直し」がどんどん進められていますが、どうも矢野さんソロがメーンのようなのは気のせいでしょうか?
 他のフォレスタメンバーのブログで、矢野さんについて一言の言及がないのも気になるところです。

 この歌や『夏は来ぬ』『搖藍のうた』『浜千鳥』『赤とんぼ』などの、思わず涙が誘われる矢野聡子さんの名唱を新たに聴くことはもうないのかもしれない。だとしたら、本当に残念です。

 ・・余計なことながら、お二人の黒いドレスがシックで、この歌の雰囲気にとっても合っていますね。
 またピアノ演奏はどなたなのか、ハ短調(でいいんですか?)の哀切なこの曲の感じをうまく表現し得ている素晴しい演奏です。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『時の話題(7)』
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『フォレスタの「うれしいひなまつり」』
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『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_2c19.html
『父と妹の死の頃』
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『フォレスタの「浜千鳥」』
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杜甫『吹笛』

  吹 笛      (すいてき) 

      杜甫

吹笛秋山風月淸  笛を吹く 秋山 風月の清きに
誰家功作斷腸聲  誰家(たれ)か功みに作(な)す 断腸の声
風飄律呂相和切  風は律呂(りつりょ)を飄(ひるがえ)して相い和すること切に
月傍關山幾処明  月は関山に傍(そ)うて幾処(いくしょ)か明らかなる
胡騎中宵堪北走  胡騎(こき) 中宵(ちゅうしょう) 北走するに堪(た)えたり
武陵一曲想南征  武陵(ぶりょう)の一曲 南征を想う
故園楊柳今揺落  故園の楊柳(ようりゅう) 今揺落(ようらく)す
何得愁中卻盡生  何ぞ愁中に卻(かえ)って尽(ことごと)く生ずるを得し

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

 杜甫(712-770)。盛唐の詩人で李白と並び称せられ、中国詩史の上での偉大な詩人である。字は子美(しび)。少陵(しょうりょう)または杜陵と号す。洛陽に近い鞏県(きょうけん)の生まれ、7歳より詩を作る。各地を放浪し生活は窮乏を極め、安禄山の乱に賊軍に捕らわれる。律詩に巧みで名作が多い。湖南省潭州(たんしゅう)から岳州に向かう船の中で没す。年59。李白の詩仙に対して、杜甫は詩聖と呼ばれる。

(大意)
 秋の山の風も月も清らかにさえわたる夜、笛の音が聞こえてくる。誰がこれほど巧みに、人の腸(はらわた)をかきむしるように物悲しい音を吹きならすのだろうか。
 風は律呂の響きをひるがえして調和もとれ、月は関山によりそうて、幾つかの峰にさえわたっている。
 このような笛の音を聞けば、晋の劉琨(りゅうこん)の故事のように、手荒い胡の兵も悲しみに堪え切れず、夜中に北方の故郷へ逃げ去ったであろう。また後漢の馬援が武陵に遠征した時、部下の曲に合せて歌った「武陵深行」という曲もこのように悲しいものであったろうか。

 故郷の柳も秋になって葉も落ちつくしたであろう。それなのに今巧みな「折楊柳」の曲をきくと、愁いにふさがる私の胸の中に緑の柳の芽を出させ、その枝を折って別れのなげきをくり返すことが出来ようか。

《私の鑑賞ノート》
 杜甫晩年の作品です。
 以前の『登岳陽楼』で見ましたように、安禄山の乱(755年~)以降唐の国の蓑退にシンクロするように、杜甫の運命も激変します。以来、家族を伴って諸国を放浪する「漂泊の詩人」となるのです。

 定めなき放浪・漂泊の苛酷な人生によって、肺腑を抉るような悲嘆、悲愁の詩が生み出されました。お遊びの戯文調ではない、真実の心の叫びの詩が、杜甫によって切り拓かれたのです。

 杜甫一家は、蜀(しょく)の都・成都でやゝ安住を得、何年かを過ごしました。
 しかし(西暦)765年成都を去り、長江上流域にあたる三峡を下って768年、虁州(きしゅう=現在の奉節県)に移り、この地に滞在しました。その年のある秋の夜、哀れな笛の音を聞いてこの詩を作ったのです。杜甫55歳でした。『唐詩選』にも所収されています。

 漢詩はなべて、今の私たちには難解な語句が散りばめられているものです。この詩も例外ではありませんが、切りがありませんので一つだけ、「律呂(りつりょ)」について注釈します。

 律呂は、当時の音階です。全体を陰陽の二つに分けた十二音階から構成され、陰を呂(六呂)陽を律(六律)としていました。
 誰(た)が吹く笛か知らねども。(「・・今宵名残りの白虎隊」の名調子はこの詩をもとに作られたのでしょう、きっと)断腸の笛の音に合わせて、風さえ「律呂を飄して相い和」して吹き過ぎる、というのです。

 この詩の悲愁が極まると、この地から長江をなお下った岳州(現・湖南省)の洞庭湖畔の岳陽楼で詠んだ最晩年の『登岳陽楼』になるわけです。

 (大場光太郞・記)

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杜甫『登岳陽楼』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-a4f6.html

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山本太郎議員、「お金使うべきは原発収束」とただ一人五輪決議反対

-「お金使うべきは原発収束」と言ってただ一人反対した山本議員の勇気を讃えるとともに、「山本太郎抹殺」という事がなきよう国民全体で支えていかねばならない-

 福島原発汚染水、消費税増税、TPPなど、この国の命運を決しかねない大問題を抱えながら、安倍政権は「不正」な衆参両院選挙で獲得した汚ない安定多数の力をバックに独断専行の独裁手法でやりたい放題、4ヶ月も国会を開きませんでした。

 やっと臨時国会を開いたと思ったら、今国会は国民の「知る権利封殺」、「言論弾圧」の秘密保全法案成立確実と見られ、早くも「民主主義ご臨終国会」「戦前回帰序曲国会」の様相を呈しています。

 そんな中、2020東京五輪の成功に向けて政府に努力を求めた国会決議の採決が行なわれ、700人という大余剰の「不選良」衆参両院議員のうち、無所属の山本太郎参院議員がただ一人反対しただけというのです。

 戦後の日本共産党は、元々自民党の補完勢力として、自民党共々米国CIAの資金援助によって創られた政党だから別に驚かないとしても。小沢一郎の生活党や福島瑞穂の社民党までもが賛成とはどうしたことか。
 いよいよもって、戦前ソックリの大政翼賛政治、全体主義の到来を思わずにはおられないのです。

 一体全体、「汚染水は完全にブロックしている」と大嘘を言ってまで招致した、「裏ばかり」(表無し=おもてなし)の2020東京五輪など、700人もの大余剰の衆参両院議員らが手ばなしで礼賛すべきものなのか?
 いつぞや見たとおり、オリンピックとはつまるところ、人類70億人を支配するわずか1万人ほどのサタン勢力による「イルミナティイベント」なのです。

 つまるところ山本太郎議員以外のロクでもない国会議員たちは、尨大な東京五輪予算のおこぼれに預りたいがため、「お金使うべきは原発収束」などという発想はしないのだろうし、「人類大削減」を画策しているサタン勢力のお先棒を担いでいると見られても仕方ないのではないでしょうか?

 以下は、阿修羅掲示板投稿記事の転載です。  (大場光太郎・記)


山本太郎氏、オリンピックよりは「お金使うべきは原発収束」 (かっちの言い分)
投稿者 笑坊 日時 2013 年 10 月 20 日
http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/246.html

日本の国として、東北地方の復興、福島原発の処理など、緊急にやるべきことがたくさんあるなか、東京オリンピック招致のため100億円以上掛けて、一国の総理が世界に向かって「汚染水は完全ブロックしている」と大嘘を言ってまで招致するという愚挙は許せないと思っていた。

東京オリンピックを招致する理由は、スポーツの祭典というよりは、前回東京都が施設を建てようとした土地を野ざらしに出来ないという理由と、この際環状道路、国立競技場等の整備という理由の方が大きいと思っている。道路だけで6000億円程度が投資されるという。国立競技場の改修に業者は3000億円という値を出してきた。正に利権オリンピックである。スポーツ選手も東京でやらなくても、他国でやる分には自分の活躍の場を奪われる訳ではない。

その中で、ただ一人五輪決議に反対したのは、以下のように山本太郎氏という。ただ一人というのがすごい。使うべきは、「原発収束」という。その通りと思う。

安倍首相を含めて、政府は、原発の現状をまだ高を括っていると考えている。タンクに汚染水を貯めて、まだ高々1、2年前後でこれだけの事故が発生している。廃炉処理は一声100年単位で掛る。このブログで何度も書いているが、製造物の事故の頻度というのは、必ずピークが出て来るものである。つまり、今時々起きている汚染水漏れは初期の現象(頻度)で、その内、頻度の最大ピークが現れてくる。これは、工業界で製品を作っているメーカーの人ならだれでも知っている常識である。

だから、自動車会社のメーカーは、車に何か欠陥品は発生すると、早々にリコールを掛けて、全部品を交換する。汚染水タンクも、同じ製造方法、同じ材質で作られているなら、前記のリコールと同じことをしない限り、同じような事故のピークが出て来るということである。

安倍首相は福島の漁港で汚染されていないと試食していたが、福島の人達には申し訳ないが、大嘘つきの安倍首相がそんなパフォーマンスをする程、逆効果と言っておきたい。大嘘つきの首相を誰も信じない!

「お金使うべきは原発収束」 山本太郎氏 ただ一人五輪決議反対
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013101902000122.html

 二〇二〇年の東京五輪とパラリンピックの成功に向けて政府に努力を求めた国会決議の採決で、衆参両院議員のうちただ一人反対した無所属の山本太郎参院議員(東京選挙区)が十八日、本紙の取材に「うそで固められた五輪開催には賛成できない」と語った。

 山本氏は、国際オリンピック委員会(IOC)総会で「(東京電力福島第一原発の)汚染水は完全にコントロールされている」と訴えた安倍晋三首相の演説内容が事実と異なると批判。「原発事故は収束していない。汚染水問題など、お金を使うべきところに使わず、はりぼての復興のために五輪をやろうとしている。うそまでついて招致したのは罪だ」と主張した。

 決議への反対については「声を上げる場所は議会しかなかった。党に所属していないからこそ、自分の意思を自由に示すことができた」と語った。 (転載終り)

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フォレスタの「夕焼小焼」

     (「フォレスタ 夕焼小焼」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=VV_rbb5V9aU


     ♪ 夕焼け小焼けで 日が暮れて
       山のお寺の 鐘が鳴る …… ♪

 およそ日本人で、童謡『夕焼小焼』を知らない、あるいは聴いたことがないという人はいないのではないでしょうか?それほどこの童謡は、お年寄りから小さな子供たちに至るまで幅広く歌い継がれてきています。ちなみに、我が国の童謡の中で、各地にその歌碑が建てられていることでは、この歌がダントツなのだそうです。

 なぜこんなにも人気があるのでしょう?
 まず考えられるのは、小さな子供でも歌の意味が分かってすぐに覚えられそうなほど、極めてシンプルな歌であるということです。歌詞でも曲でも、内容がどうであれ小むずかしい歌は、一部の熱烈な愛好者を得られても、国民大衆に広く受け入れられることはありません。

 しかしシンプルな歌なら何でもいいかというと、それだけではダメだろうと思います。分かりやすく覚えやすい歌でありながら、その中に「深い何か」がなければならないと思うのです。知らず知らずのうちに、心の奥深くまで入り込んで、いつしか人々の心を揺り動かしていく。このようなことが、国民に幅広く受け入れられ、しかも長く後世までも歌い継がれていく、名曲・名童謡の必須条件なのではないでしょうか?
 まさに『夕焼小焼』は、この条件を見事にクリアーしていると思われます。

 更にこの歌には、一定以上の年代の人たちにとっては、歌うほどに聴くほどにそれぞれの子供時代の美しい「夕焼け体験」が鮮やかに呼び起されて、「たまらない !」ということもあるのではないでしょうか。
 その意味でこの童謡は、遠い昔の日本の懐かしい原風景を思い起こさせてくれる、「郷愁の歌」でもあろうかと思われます。
 この歌は、2007年(平成19年)の「日本の歌百選」の一曲に選定されました。

                        *
 この名童謡を作詞した中村雨虹(なかむら・うこう)は、明治30年(1897年)東京府南多摩郡恩方(おんがた)村の宮尾神社の宮司・高井丹吾の二男として生まれました。同地は、現在の東京都八王子市上恩方町です。本名は高井宮吉。
 大正5年(1916年)東京府立青山師範学校(現・東京学芸大学)を卒業し、北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師となりました。

 雨虹は日暮里で教員生活を送るかたわら、児童の情操教育のためと、童謡や童謡詩を童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)に投稿していました。その作品の選考にあたっていたのが、野口雨情(のぐち・うじょう)でした。雨情は、若い教師の自然体の詩を高く評価していたようです。
 そして雨虹もまた雨情に傾倒し、後に「雨情」の「雨」の字をもらった「雨虹」というペンネームを使うことになります。

 中村雨虹は、思い切って教師をやめて作家の道を歩もうとも考えたようです。しかし作家として生計を立てられるかどうかは定かではありません。そこで、教師を続けながら作家も…という二束のわらじ生活も考えました。しかしどう考えても、教師という職業柄、思うように机に向って創作に没頭する時間を確保出来そうにないし…。
 悶々と思い悩んでいたある日、当時の校長から「このままでは、教員としての職務に支障をきたすぞ」と、大目玉を食らってしまいました。そこで雨虹はやむなく、童話作家の道を断念し、少しの時間で創作可能な童謡詩に方向転換することになります。

 そんな大正12年(1923年)。当時としては珍しかった輸入ピアノを販売していた「鈴木ピアノ」では、ピアノを買ってくれた客に新作童謡を集めた楽譜をプレゼントしていました。そこの社長が雨虹のもとに詩の依頼をしてきたのです。
 その依頼に応えて雨虹は5編の詩を提出しました。その中に大正8年作詞した『夕焼小焼』も入っていたのです。この詩は、故郷の恩方村の風景を歌ったものでした。
 その年の7月末、プレゼント用の童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に、草川信の作曲で発表されました。
 なお雨虹はこの年、その発表に先立って、漢学者・本間問亭の二女・千代子と結婚しています。

 『夕焼小焼』を作曲した草川信(くさかわ・しん)は、明治24年(1893年)2月14日長野県で生まれました。東京音楽学校(現・東京藝術大学)卒業後、雨虹と同じく教師のかたわら演奏家として活動していました。 その後童話雑誌『赤い鳥』に参加し、童謡の作曲を手がけることになります。昭和23年(1948年)9月20日亡くなりました。
 『揺籃の歌(北原白秋作詞)』『夕焼け小焼け』)『どこかで春が(百田宗治作詞)』『汽車ポッポ(宮原薫作詞)』『みどりのそよ風(清水かつら作詞)』など、今なお歌い継がれている数々の名童謡を残しました。

 『夕焼小焼』が、童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に発表されてから1ヶ月余。当時の日本社会を震撼させる大きな出来事が起こりました。大正12年9月1日、関東大震災の発生です。この震災は午前11時58分と、ちょうどお昼時と重なったため火を使っていた家庭も多く、東京市中を中心に二次災害的大火災となりました。 この大震災による死者数は約10万人といわれています。

 この予期せぬ悲劇的出来事により、『夕焼小焼』が入った楽譜集も、そのほとんどが焼失してしまいました。もう永遠に日の目を見ないのか、と思われました。しかし何という天の配剤でしょうか ! そんな中わずかに既に人手に渡っていた楽譜集がありました。その数たった13部。

 童謡『夕焼小焼』は、この13部から始まったのです。この歌が今日までこうして歌い継がれているのは、実にこのわずかに残っていた楽譜集によるものなのです。
 雨虹の妻・千代子の妹の下田梅子は、東京府内の小学校の教員でした。彼女は、震災で家や親を失った多くの子供たちを何とか元気づけるためにも、その中の一部の楽譜をもとに、義兄が作ったこの歌を一生懸命教えたそうです。

 そのようにして、この歌は大震災の直撃に遭った東京で、先ず歌われたのです。「良いもの、本物は必ず広く伝播する」―これは法則であるようです。それを証明するかのように、それから関東一円で、そして遂には全国津々浦々で歌われ、長く歌い継がれていくことになるのです。

                        *
 その後中村雨虹は、昭和2年(1927年)神奈川県立厚木実科高等女学校(現・神奈川県立厚木東高等学校)の教師として厚木市に赴任してきます。厚木東高校は、厚木高校と並んで神奈川県央地区の伝統ある名門校です。以来退職した昭和24年(1949年)まで同校で教鞭を取ることになりました。

 こうして雨虹は、昭和2年以来、現在の厚木市泉町という本厚木駅南口から徒歩数分の市街地に住み続けることになります。雨虹はその間、厚木市立厚木小学校歌や厚木ちぐさ幼稚園園歌など多くの歌を残しています。

 厚木市は他でもないこの私が住んでいる町です。昭和43年(1968年)に当市にやって来てから、途中の7、8年を除いてずっと厚木市です。もう私にとって「第二の故郷」と言うべきものですが、中村雨虹が当市に住んでいるらしいことは早くから噂で知っていました。
 昭和47年(1972年)、中村雨虹が市内の県立病院(現・厚木市立病院)で亡くなった時は(享年75歳)、市内の大きな話題になりました。

 そんなご緑から、厚木市全域270ヶ所に設置されている防災無線スピーカーから、夕暮れを告げるために流されるのは『夕焼小焼』のメロディです。今の季節は春秋時間の夕方5時、冬は4時30分、夏は6時となります。

 中村雨虹の45年にも及ぶ厚木在住の中で、以下のようなエピソードが残っています。

 雨虹は厚木市内に住みながらも、同市西端の「七沢(ななさわ)」の地が故郷恩方の風景と似通っているからと、しばしばその辺りを散策したそうです。七沢は「七沢温泉」として関東の温泉地の一つとして有名です。雨虹も、その中の元湯玉川館にしばしば足を運んだそうです。当時の旅館主人・山本均二の夫人が雨虹の教え子だったという奇遇もあったようです。

 住まいの厚木市から大山の峰を眺めて夕焼けを見つけると、「今夕焼けがきれいだろ」と均二氏に電話することがあったそうです。それで均二氏が片道30分かけて車で迎えに行くと、千代子夫人と一緒に外で待っておられた。その車に同乗して七沢に到着した頃には、周りはすっかり薄暗く既に夕焼けは消えていた…。そんなことが何度かあったそうです。

 雨虹は、自らが作詞して今や全国で歌われている『夕焼小焼』の歌、故郷恩方の景色を偲ばせる七沢の夕焼けを、こよなく愛していたのに違いありません。

 またある時雨虹は、「『夕焼小焼』の碑が、終生の地となる神奈川にはないんだよ」と、ポツリと呟いたそうです。そこには、出来れば第二の故郷・厚木市なかんずく七沢の地に、同歌の歌碑を建ててもらいたいという、想いが込められていたのかもしれません。
 雨虹の意を汲むように、その後山本均二が、元湯玉川館入り口に『夕焼小焼』の歌碑を建てました。

                        *
 以上「フォレスタの」を冠しながら、『夕焼小焼』を作詞した中村雨虹と当市とが縁が深いもので、ついこの歌と雨虹の事跡を長々と述べてしまいました。フォレスタファンの皆様お待たせしました。さあここからが本当の『フォレスタの「夕焼小焼」』です。

 『フォレスタの「夕焼小焼」』。中安千晶さん、矢野聡子さん、小笠原優子さん、吉田静さんの4女声によるコーラスです。童謡『夕焼小焼』は2番までの歌訶ですが、いずれも出だしの独唱が矢野さん、続いて中安さんとの重唱、そして小笠原さん独唱で締める、という構成です。

 いずれにせよ、矢野さん、中安さん、小笠原さんの歌唱リレーは絶妙です。それにこの歌ではもっぱら、独唱の他の3人をフォローし盛り立てる役割りの吉田さんの低音のハモリも加わり、4女声による素晴しい『フォレスタの「夕焼小焼」』です。

 中でも中安千晶さんは八王子市のご出身ですから、この歌への思いはひとしおでしょう。最近『フォレスタ 八王子コンサート』が行われたよし。出来れば、中安さんがメーンとなって、ラストでこの歌を会場の人たちと一緒に大合唱していただきたかったですね。

 ところで『夕焼小焼』は、「ヨナ抜き音階の歌」-西洋7音階のうちの4(ファ)と7(シ)を抜いた5音階の歌-だそうです。えっ?どれどれ。
 「ソーソラミドドレミレー/ミーミソラドドラソソラソドー ・・・」
 ほんとだ。みごとに「ファ」と「シ」が抜けてる。

 作曲した草川信はもちろん西洋音楽理論をしっかり学んだ人ですが、日本的叙情を出すためにあえて日本固有の5音階、つまり「ヨナ抜き」でこの歌を作曲したのだろうと思われます。

 素人の私などはそれゆえ、得も言われぬ叙情味がかもし出されたのではないだろうか?と思うのです。が、作曲家の中には、「ヨナ抜き童謡・唱歌はダメだ」「ヨナ抜き演歌はダメだ」と主張される大先生もおられたようです。
『そんなぁ。それではこの歌もダメ、ヨナ抜きの歌はとにかくダメ。ついでに日本の伝統音楽は全部ダメ、ということですかぁ?いくら何でもそんな殺生な。』

 我がフォレスタメンバーは全員音大卒業ですが、そういうこだわりはお持ちではなく、ヨナ抜きだろうが何だろうが、良き日本の歌を心を込めて歌ってくださっていることに大感謝です。

 (大場光太郎・記)

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10・24までにM7.5の地震首都圏襲う?

 本記事とは何の関係もありませんがー。直前の『新聞はいま、誰が読むのか』記事の私のコメントで書き忘れたことがありましたので、ここで補足させていただきます。
 「私は(新聞を)読んでいません」と書きましたが、それは朝日、読売、毎日などの「大新聞を読んでいません」という意味です。それ以外なら、夕刊紙の『日刊ゲンダイ』を、月曜日から金曜日まで、近くのコンビニなどで買っては読んでいます。

 と言うわけで今回は、その『日刊ゲンダイ』の『えっ、そうなの?』と思った記事を以下に転載します。
 「今月24日までに、首都圏M7.5、震度6、7規模の地震が起きる」と、地震雲研究の第一人者が緊急警告している、と言うのです。

 「そりゃ、大変だ」となるわけですが、本当に大変かどうかは本文をお読みいただくとしてー。例によって、少し脱線話をしてみたいと思います。

 日本は世界でも有数の地震が多い国です。そのためか、昔から専門家以外の人による「いつ、いっかに地震が起きる」式の予言をして世間を騒がすケースがまゝありました。
 代表例は、日露戦争の英雄の一人、と言うよりNHKドラマスペシャル『坂の上の雲』の主役の秋山真之(あきやま・さねゆき)です。

 秋山真之には元々優れた霊能力があったようです。それが最大限に発揮されたのが、他でもない「運命の日本海大海戦」です。『坂の上の雲』でそのことが描かれていたかどうか観ていないので分かりませんが、ロシアのバルチック艦隊が日本海か太平洋かどちらのコースを取って北上するのかが分からず、東鄕平八郎司令長官は悩みに悩みます。

 秋山参謀は進言します。「バルチック艦隊は必ずや日本海を北上して来ますから、我が艦隊をそちらに集結させましょう」
 その根拠は、「そのようすを心の眼でありありと視た」、つまり霊視したというのです。日頃から秋山参謀の手腕を高く買っていた東鄕司令長官はその進言を容れ、日本海でバルチック艦隊を迎撃し、かくて「皇国の興亡この一戦にあり」を大勝利したのでした。

 (この項、私の記憶違いによる記述だったため削除しました。)

 秋山真之はその後神秘的傾向を強め、大正6年、「本年6月26日東京で大地震が起きる」の予言となります。日露戦争の軍神の地震予言に世間は騒然としますが、その日結局何も起きず秋山の評価はガタ落ちになります。

 当ブログでも取り上げましたが、3・11のあった年の8月、やはり首都圏直撃大地震を予言した、静岡在住の「コテ造」君という小学生による予知夢がネットで大きな話題になりました。結局この時も何も起きませんでした。
 こういうケースはけっこう多いようです。

 「地震予言はなぜ外れるのか?」、これはまたまたオカルト的解釈ですがー。
 この世の事象はすべて、霊界(幽界)にまず「型」(青写真)となってから現れると言われています。霊能者はそれを感知するわけです。しかし事地震に限っては、ある人がそれを予言し大勢の人が知ってしまうと、どういうわけか予定の日時が変えられてしまう、つまり予言が外れる、ということが起こるようなのです。

 今回は予言ではなく、地震雲研究の第一人者によるデータの積み重ねに基いた「予知、予測」です。そこが違うわけですが、さてどうなるのでしょう?私もその一人ですが、首都圏にお住まいの方はその間用心するに越したことはないかもしれません。
 その結果「何もなかったじゃないか」となるのが一番いいわけです。 (大場光太郎・記)

                        *
第一人者が緊急警告
10・24までにM7.5の地震首都圏襲う
「日刊ゲンダイ」(10月16日5面)

「今月24日までに、首都圏M7.5、震度6、7規模の地震が起きる」――。地震雲研究の第一人者が、緊急警告だ。

 大地震の予測を出したのは、北陸地震雲予知研究観測所の上出孝之氏。30年以上地震雲の観測を続け、スマトラ沖地震(04年、M9.3)や四川省地震(08年、M8.0)の発生などを予知し、2年半前の3・11直前の三陸沖地震も的中させた。
 今回も上出氏は帯状の巨大な地震雲を観測。08年の四川省地震の直前に出ていた地震雲と、形や大きさがよく似ていたという。

「今月9日の午前9時から午後3時の間、自宅から見て南西の空から北東にかけて発生していました。私の蓄積データや経験則から、この方角に地震雲が出ると、かなりの高確率で、東京湾から福島沖の範囲、つまり関東全域と福島県の間で地震が起きています。発生した地震雲が四川省地震と同じくらいの規模だったことから、今回はM7.5(±0.5)の地震が起きる可能性がある。地震雲の発生から2週間程度は、要注意。震度6~7の揺れを警戒してください」

<重なる不安要素>

 12日未明には、茨城県北部と南部で震度4の地震が起きた。関東周辺の地震は収まる気配がないだけに心配だ。さらに、上出氏は続ける。

「関東大震災の直前が大嵐だったとの記録が残っているように、私が調査してきた過去の統計から見ても、台風の後や満月の前後は大きな地震が発生しています。今週は、16日に台風26号が本州に接近すると予報されており、19~20日は満月。不安要素が重なっているだけに、なおさら注意が必要です」

 上出氏の一連の地震予知は、マスコミや関係自治体に発信されている。昨年1年間は48回の予知のうち42回が的中。今年(10月14日現在)は31回中24回も的中させているという。それだけに侮れない。心構えはしておきたい。 (転載終り)

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新聞はいま、誰が読んでいるのか

-今のダメ新聞の補完勢力は高齢化する社会そのものだというトホホな実態-
 
 ところで皆さん、新聞読んでます?
 ちなみに私は読んでいません。購読を止めてから、ちょうど10年になります。これは以前の記事で何度も述べたことですが、2003年に起きたイラク戦争ヘの無批判垂れ流し報道につくづく嫌気が差して、スパッと止めたのです。

 それまで購読していたのは朝日新聞です。長かったんですよ、私が21歳の1970年(昭和45年)から33年ほど朝日一筋でしたから。しかし止める何年か前から、『もう昔の朝日じゃないな』というイヤなシグナルがチラホラ出始めていました。完全に商業ベース+米国追随主義に組み込まれ、朝日新聞らしい批判精神が影をひそめつつあったのです。

 そして911を経てイラク戦争報道です。「朝日よ、お前もか」、そんな裏切られた思いがしたのです。以来10年、朝日新聞に限らず大新聞は今やすっかり権力補完勢力に成り下がっているように見受けられます。
 読む価値がないというより読めば害になる。これでは若年層ほど「新聞離れ」が顕著で、玉石混淆ではあっても「ネット情報に真実を求めよう」となるのは致し方ないと思われます。

 以下に、『BLOGOS』(ブロゴス)投稿記事を転載します。 (大場光太郎・記)

                        *
新聞はいま、誰が読んでいるのか
永江一石2013年10月14日 10:28
『BLOGOS』http://blogos.com/article/71656/

(前略)

2010年の調査だが、NHKが大規模に行ったものがあった。住民基本台帳から層化無作為2段抽出で対象は7,200人(12人×150地点×4回)。うち4,905人が有効回答だからかなりしっかりした内容。調査員が訪問して回収だから、ネット調査などと違って偏りがない。

で、見たら仰天した。新聞を読んでいる年代別の比率だ。

1

年齢層      1995年      2010年
20代男性     32%        13% ▲20%
30代男性     55%        23% ▲32%
40代男性     67%        41% ▲26%
50代男性     74%        49% ▲25%
60代男性     73%        68% ▲5%

逆に
70代男性     73%        78% △5%

完全爺メディア。主な読者は60代〜70代の男性!

なんと、年を食うのに比例して新聞離れの傾向は弱くなり、70代では元気だし暇だしで、逆によく読むようになってる(笑)。しかも男女とも同じ傾向なのがさらに笑える。女性も60代以上は逆によく読むようになってます。

10〜20代ではいまや新聞読むヤツは8人に1人で変わり者の域に達していた。20代で読んでるのは就活控えた大学3年、4年と新卒くらいのような気も。しかし20代も30代もわずかではあるが、女性のほうが男性より新聞を読んでいる。今の男、情けなさ過ぎ・・・。

もうひとつ驚くのが、農林漁業という第一次産業というITリテラシーの低い業種が最も新聞をよく読むこと。無職が一番多いが、これはたぶん退職した60代以上だから当たり前といえば当たり前。サラリーマンが最も新聞を読まない。たった37%しかいないのだ。以前いじめについての朝日新聞の投稿欄の記事をFacebookで取り上げたら5000以上のシェアがあったのに、新聞社への問い合わせは皆無だったと聞いた。子育てがとっくに終わっている60〜70代にはあまり興味が無く、Facebookのユーザー層にドンピシャの内容だったからか。

雑誌がほぼ死にかけ。女性誌でさえもかなりやばくなってきているのに対し、まだ新聞は落下スピードが鈍いのは高齢化社会のおかげなんでしょう。しかし昔の家庭ではサザエさん見てもわかるように、お父さんが新聞を読んでおり、子供がそのシーンを見ているという環境があった。お父さんが「こんな事が新聞に出ているよ」と読んで聞かせ、子供も高校生くらいから読み始めるという文化が消滅しつつある今、20年後にはマジで新聞はなくなってるかもしれない。読売巨人軍はUNIQLO巨人軍かイオン巨人軍になってるかもしれない。いや、その前に日本のプロ野球がなくなってる可能性も0じゃなく・・ (以下省略)(転載終り)

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学生奨学金取り立て地獄の実態

 -ここのところ「奨学金づいて」いて、関心のない人には申し訳ありませんが-

 何というタイミングの良さか。10月8日号『日刊ゲンダイ』の「サラリーマン特集」コーナーで「学生奨学金」について取り上げたではありませんか !
 後に全文転載しますが、あまりいい話ではなく、「昔と違って」滞納したらアウトで厳しい「取り立て地獄」が待ち受けているというのです。

 「Oh ! My God !」それを日本では「クワバラ、クワバラ」と言うのか、私は昔を思い出して思わず首をすくめてしまいました(笑)。
 前回の『日本育英会奨学金の思い出』の後日談ということになりますが、「喉元過ぎれば奨学金の返済忘れる」、私自身「滞納」の覚えがあるのです。

 滞納の次第はざっと以下のとおりです。
 私の場合、高校生への特別奨学金で、月額3,000円の貸与額のうち、半分の1,500円について返済義務がありました。総額は、1,500円×12月×3年=54,000円。今の価値では、10倍として54万円。それを年何回か、10年か15年で払い切るというものだったように記憶しています。

 いくら薄給でも払えないということはありません。実際当初の3、4年はきちんきちんと払っていました。むしろ仕事を覚えて世間並みの給料がもらえ出した頃から、ズルをし始めたのです。
 1回払い忘れたことがありました。しかし日本育英会は何も言ってきません。それでつい気が緩んでズルズルと払わなくなっていったのです。

 以来2年間ほどまったく返済しませんでした。その間育英会からは依然音信なし。純朴だった田舍少年も多少世間ズレして変な知恵をつけ、
 『もう払わなくてもいいんじゃないの?』
と、思っ矢先。「天網恢々(てんもうかいかい)粗(そ)にして漏らさず」「育英会の督促は忘れた頃にやってくる」
 ある日育英会からの一通の文書を受け取りました。案の定それは督促状には違いありませんが、今日的な剣呑(けんのん)なものではなく穏やかな内容でした。

 ただその中に、ズシリと心に響く一節がありました。
 「貴殿が返済したお金を、貴殿と同じように就学困難な次世代の人たちの支援に振り向けることが出来ます。」
 これには参りました。私自身そうして、本来行けなかった高校に進学出来たのですから。それを読んで心を改め、返済が滞っていた分と将来払うべき残債を、一括か2、3回分割かで完済したのでした。
 
 昭和40年代の日本育英会はかくもおおらかなものでした。
 しかし今はとてもそんな悠長なことではなく、少しでも滞納すれば「鬼の取り立て」が待っているというのです。米国丸写しの冷酷非情社会の一つの縮図ですが、まさに隔世の感を深くします。  (大場光太郎・記)

                        *                   
昔と違って滞納したらアウト
学生奨学金取り立て地獄  (『日刊ゲンダイ』10月8日号)

 大学全入時代となって久しいが、長引く不況で親の支援を受けられない苦学生が多い。

 そこで頼りになるのが、日本学生支援機構(旧日本育英会)の奨学金だ。無利子の第1種と金利のかかる第2種の2つがあるが、第1種は成績や親の年収制限があり、昔のようには簡単に借りられない。実際、11年度は第1種が約10万人に対し、第2種が約30万人と第2種が圧倒的に多かった。

 第2種の金利は、固定と変動の2種類。9月現在の金利は、固定が0.99%、変動が0.3%だ。国から予算が出ているだけに銀行より良心的と言える。返済は、卒業した年の10月から始まり、基本的に15年間で完済する。もちろん、借りたものは返すのが当たり前。しかし、仕事が長続きしなかったり、会社の倒産や病気などで返済が滞る場合もある。11年度は268万人が返済中だが、うち滞納者は12%に当たる33万1000人に上った。

ダメ息子はヘタに大学に入れない方が身のため

 さて、ここからが本題だ。今の奨学金は、よほどの事情がない限り滞納したら最後、容赦ない取り立てが待っている。日本育英会時代のおおらかさは、もうない。情報関連会社に勤めるAさん(47)がこんな話を打ち明ける。
「実は、甥が就職に失敗して奨学金の返済を滞らせ、督促が保証人の私のところにも
きた。延滞金は年10%で、これでは国の奨学金どころか、単なる学生ローンです」

 甥は、第1種奨学金を月額6万4000円(私立・自宅外生の上限)で4年間、第2種も月額5万円を4年間借りていた。総額は約547万円。月々3万円ちょっとすら返済できないのに、その10%の3000円の延滞金は痛い。大学関係者がこう言う。

「1回、口座引き落としができないと督促が始まります。督促電話は平日、休日を問わず、夜9時まで続き、本人の勤務先にも来る。そして滞納が3カ月続くと、完全にアウト。機構は債権回収会社に債権を回す。その際、クレジットカードは停止し、個人信用情報機関のブラックリストにも登録される。ここで親が慌てて返済しても、ブラックリストの情報は5年間消えません」

裁判所の強制執行も

 債権回収会社の取り立ても容赦ない。
「裁判所の強制執行や一括返済を求めてくる。返済しない場合は、給料や財産が差し押さえられます」(前出の大学関係者)

 Aさんがこうため息をつく。
「そもそも甥は、学力的には大学に行くレベルになかった。高校の教師に進学を勧められ、入学したのが、ABCDEの学力模試の合否判定にも載らない誰でも入れる“Fランク大学”です。私の頃の先生は、頭の悪い生徒は地元企業を回って、〈野球部で3年間まじめに補欠をやった〉と必死に就職を頼み込んだもの。今の先生はそんな面倒くさいことを
せず、Fランク大学に放り込む。奨学金もあるから大丈夫でしょという感じです」

 「高校が悪い」――。そう嘆いてみても、奨学金の返済額は1円たりとも減るわけではない。  (転載終り)

関連記事
『日本育英会奨学金の思い出』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post.html

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日本育英会奨学金の思い出

 直前の『吉田静さんの「津軽のふるさと」』の中で、公益財団法人ヒロセ国際奨学財団や日本学生支援機構(JASSO)という奨学金制度があることに触れました。

 そのうち日本学生支援機構の方はかつての日本育英会を前身としていますが、そんなことを述べているうち、私自身が日本育英会奨学金のお世話になったことが懐しく蘚ってきました。と言っても、私の場合は高校時の奨学金であり、大学留学生へのそれとはスケールがまるで違います。が、今となっては大変懐しい思い出なので、以下にそのことを述べさせていただきます。

 当ブログ思い出記事などで度々触れてきましたように、父を小学校入学間もなく亡くし、その年の秋、当家は町の母子寮(山形県の宮内町立母子寮)にお世話になることになりました。
 当然家は極度に貧しいわけで、我が家の経済状態では高校進学など思いもよらないものでした。

 実際寮内の先輩たちのほとんどは、中学卒業と同時に、就職のために上京して行きました。唯一の例外は3年先輩のHさんで、この人が寮内で初めて米沢工業高校に進学しました。

 そうこうしているうちに、(その年は東京オリンピックが開催された年でしたが)私は中学3年となり、次の進路を決めなければならなくなりました。一応成績上位の剖類だった私は、先生方に早くから高校進学を勧められていました。

 その年の1学期の終りだったか2学期の初めの頃だったか、定かではありませんが、成績が良くても経済的に厳しく高校進学が困難な生徙たちを対象として、日本育英会の特別奨学金貸与のための試験を受けることになりました。
 そのうちの一人として、私もその試験に臨んだのです。

 日本育英会。この一文をお読みの方の中にはその奨学金制度のお世話になった方もおありかもしれませんが、ここでその概略を見てみたいと思います。

 同育英会は、戦時中の1943年(昭和18年)、大日本育英会と呼称し、「成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的として」発足しました。戦後、「日本育英会」と改称して存続しました。
 私の当時の同育英会会長は、学者、社会思想家、教育家で文部大臣も務めた森戸辰男氏だったかと思います。

 もう一つ述べておきますとー。
 高校進学対象の生徙たちに対する奨学金は、特別奨学金(以下「特奨」と略)と一般奨学金の2種類がありました。特奨の方は、上に述べましたように試験合格者が対象となり、当時で月々3,000円が貸与されました。卒業後、そのうちの1,500円だけを返済すればよいシステムでした。
 一方の一般奨学金は、先生の推廌だけでオーケーで月々1,500円が貸与されました。卒業後は1,500円全額の返済を要しました。

 ・・・特奨の試験は、米沢のどこぞの上級学校を会場として行われました。
 通常の学期末などの学力試験と違って、知能テストっぽいというのか、パズルっぽいというのか、かなりユニークな試験だったように記憶しています。これがその時の私にドンピシャリとハマったのです。 
 学校の勉強嫌い、試験嫌いな私なのに、その時ばかりはα波出まくり(多分)、問題という問題がスラスラ解けていったのです。

 今思うに、私の半生の各試験経験の中で、あの試験ほどワクワクしながら取り組んだことはついぞありませんでした。
 それくらいですから、当然結果も良く、2ヶ月ほどして担任の先生から「合格」との通知をもらいました。

 ともかくこれで高校進学のネックとなっていた経済問題がクリアーできたことになります。 しかしここで一悶着起きました。他でもない、当の私が「高校に行きたくない」とゴネ出したのです(苦笑)。

 今思えば、思春期特有の反抗心といったものだったのでしょうか。加えて15歳の少年が、一丁前に、世の中に対する漠たる懐疑も抱きはじめていたのです。
 上に述べましたが、この年は東京オリンピックが開催された年でした。進路に迷っていた頃の10月10日、「世紀の祭典」が開会式を迎えました。(ブログ開設の年『東京オリンピックの思い出』シリーズで既に述べたように)しかし「非国民少年」の私は、開会式も各競技も閉会式もついにテレビ観戦しませんでした。

 「所得倍増」を掲げてスタートした池田勇人内閣-これが後の我が国高度経済成長のきっかけとなったわけですが-に、子供ながらに危うさを感じたのです。
 『日本はおがしな方向に行っちゃうんじゃねえべが』
 子供ですから、「なぜそう思うのか」理詰めで答えることはできませんでしたが、ともかく心の中でくすぶっていたものが、東京オリンピックという大イベントによって一気に表面化したようなのです。

 私の「高校に行きたくない」という意志表示は、つまりは大人たちの敷いたレールの上を進みたくない、さらには「おかしな方向に行こうとしている」世の中に積極的に協力したくない、という含意があったわけです。当時はうまく説明できませんでしたが。

 さあ、困ったのは先生方です。おそらく特奨試験を通りながら「高校に行きたくない」などというのは、私の中学校初まって以来かつてなかったことでしょう。それに今考てみれば、ある中学校で辞退者を出してしまうと、今後その中学校の特奨枠、奨学金枠が減らされるなどのペナルティがあったのかもしれません。

 1年時の担任で今は学年主任のT先生、3年時担任のY先生などから翻意するよう、繰り返し説得されました。
 しかしそれでも私は首を縦に振りません。それどころか、学校に来ていた求人募集を当たり、その中の埼玉県某市のある工場に決めかけていたのです。そこは働きながら夜間高校に通うことができるというのです。一応何がしかの向学心だけはあったようです。

 母子寮の女性寮長先生からもこんこんと説得されました。しかし何より驚いたのは、母が「高校に行け」と言ったことです。あれほど「早く就職して、家を助けでけろ」と言っていたのに、「コタロ。高校に行ってもええがら、高校さ行げ」と言うのです。
 大人たちに完全に包囲された形ですが、母の言葉に折れて高校に進学することにしたのでした。

 高校は、長井市にある山形県立長井高等学校でした。
 3年間の高校生活が可能となったのは、何といっても日本育英会の特奨のお陰です。かれこれ50年近く前の月額3,000円は、今の価値で3~5万円ほどになるのではないでしょうか。

 ちなみに、1ヶ月の授業料は3年間を通して1.300円でした。差し引き1.700円残るわけですが、あとは汽車通学の定期代に充てたり、参考書をどっさり買い込んだり(ウソです。ほんのチョボチョボです・笑)、参考書よりずっと多く文庫本を買ったり、飲食代に使ったり・・・。3年間、夏休みは地元の役場のアルバイトをしましたから、母にほとんど負担をかけずにやっていけたと思います。

 高校進学にあたってゴネて諸先生方にご迷惑をおかけしましたが、多感なりし長井高校の3年間こそは私の人生で最高の思い出です。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『吉田静さんの「津軽のふるさと」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-d54d.html

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吉田静さんの「津軽のふるさと」

    (2013.06.08吉田静-「津軽のふるさと」-YouTube動画)
    http://www.youtube.com/watch?v=fFPl5B-nwws 

  
  地霊の氣(ちれいのき)吸いて津軽の林檎かな  (拙句)

 少し前のことになりますが、女声フォレスタメンバーの吉田静さん熱唱による『津軽のふるさと』が、YouTube動画にアップされました。

 メゾ・ソプラノとして、アルトの低音域からソプラノの高音域までの広い音域を豊かな声量でカバー出来る吉田さんは、女声フォレスタに欠かすことの出来ない存在です。
 しかし今回の『津軽のふるさと』は、フォレスタを離れて、吉田さん独自のソロコンサートとしてお歌いになったものです。

 動画タイトルは『2013.06.08吉田静』となっています。今年の6月8日、都内某ホテルで、アジア留学生に対する奨学金授与式が執り行われ、その一環として「吉田静コンサート」が催されたもののようです。
 主催したのは「公益財団法人 ヒロセ国際奨学財団」です。動画中のステージ背面幕上部に、同財団名に続いて下に「平成25年度 奨学金授与式・交流会」と横書きされたのが映し出されています。

 まあ吉田静さん、顔がお広い ! いつの間にこんな凄い財団に当たりをつけられたんですか?(笑) 推察するに、理事長(中村達郎氏)またはある理事の方がフォレスタファンなかんずく熱烈な吉田静ファンで、その人の発案で実現したものなのでしょうか?
 私はそれまで知りませんでしたが、これをお読みの皆さんもそうかもしれません。切角ですから、同奨学財団の概要を以下に紹介させていただきます。

 「公益財団法人 ヒロセ国際奨学財団」は、アジア諸国からの留学生に対して奨学援助を行い、諸国間の友好親善と人材の育成に寄与することを目的として、1995年(平成7年)に発足しました。発足以来、財団の事業は年々着実に拡充されてきており、平成23年度の年間奨学生数は147名に達し、発足以来の累計は1,000名を超えました。

 我が国では、現在約14万人の留学生が学んでおり、そのうち9割以上がアジア諸国からの留学生だといいます。ということは、12万6千人以上がアジア諸国からの留学生ということになり、ヒロセ国際奨学財団の果たしている役割は大変大きなものがあります。(以上、同奨学財団ホームページの「理事長の挨拶」を引用)

 なお我が国にはもう一つ、奨学制度の老舗である日本育英会(私もお世話になりました)を前身とする日本学生支援機構(JASSO)があります。こちらは、国内、海外から留学の高校生、大学生に奨学金を支給・貸与する制度です。

 私は天下り独立行政法人などの原則撤廃派です。しかしヒロセ国際奨学財団などの事業は大賛成です。むしろもっと規模を大きくし、もっともっと授与対象者数を増していただきたいくらいです。
 洩れ聞くところ、諸外国の留学生たちの多くは来日費用に200万円ほどかかり、その上日本に来てからも学費、生活費の捻出に大変苦労しているといいます。

 人物考査、学業成績、生活困窮度を精査の上、支給・授与対象を14万人全留学生に広げていただきたいと思います。そんなにまでして留学のため来日してきたということは、日本の教育レベルか日本という国かに憧れを感じたからに他なりません。
 留学生たちが後で振り返って、「日本での4年間が我が人生で最高の思い出だった」と懐しむような、受入れ国日本のサポート体制であってほしいと思うのです。

                        *
 このような形式のコンサートに出濱された吉田静さんは、人種的偏見や差別のない人なのでしょう。そのことがまず嬉しいですね。

 それは、歌の前の「語り」(「MC」というのでしょうか?)にもよく表われています。
 フォレスタ動画では歌声だけでしたが、今回初めて話し声も聴かせていただきました。歌声同様低めの艶(つや)のある落ち着いた声で、アジア諸国の留学生が座っている会場全体を包み込み、和めるようなやわらかな話し方です。

 ソロコンサートはいざステージに上ってしまえば、頼るのは自分一人のみ。会場の人たちは歌だけではなく、その歌手がかもし出す雰囲気やMCなどトータルで注視しているわけです。そういう晴れの舞台に立ったことのない私などは、想像するだけで身震いする厳しい世界です。

 吉田さんはブログで、「MCは大の苦手で、永遠の課題です」というようなことを述べておられますが、なかなかどうして。堂に入ってます。今後場数を踏み、さらに自信をつけていかれれば、「名MC間違いなし !」と思います。

 それまで何曲かの「日本・こころの歌」を歌われ、ラストの歌が『津軽のふるさと』です。それまでの曲がどういう曲だったのか分らないのが残念ですが、いずれにせよ吉田さんにとってこの歌こそ同コンサートの棹尾(とうび)を飾るべき歌だったわけです。

 「リンゴのふるさとは・・・」 歌い出しのこのフレーズを聴いただけで、ゾクッとしてしまいました。だって、さっきまでのソフトな語りとはまるで違うのですから。優れた歌手にはこういうギャップがまゝあるようです。スイッチ・オンというのか、いきなりトップギアというのか。

 一言で言えば、美空ひばりその人が乗り移ったかのような凄みのある『津軽のふるさと』です。

 フォレスタとしては既にこの歌をカバーしています(当ブログでも『フォレスタの「津軽のふるさと」』記事あり)。独唱は、「津軽」(青森県)がふるさとである小笠原優子さんでした。それだけに小笠原さんの歌唱も素晴しく、誰れがこの歌を歌ったとしても価値を減じない『小笠原優子の津軽のふるさと』と言えるものです。

 以前の「loveforesta」さんご提供のこの歌の動画に、ある人が「吉田静さんの独唱も聞いてみたい」というようなコメントがあったかと思いますが、今回の試みはそのリクエストに応える形ともなりました。

 吉田静さんは本来オペラ歌手ですから、オペラの発声法に基き声量豊かにこの歌を歌いきっておられます。驚くほどエモーショナルな歌い方で、フォレスタではコーラスとしての制約上出来ない歌い方なのだろうと思います。ソロコンサートだから可能となった、貴重な『吉田静の津軽のふるさと』と言えます。

 「一唱入魂」。例えが適切かどうか分かりませんが、「恐山のイタコ」の□を借りた津軽の地霊の叫び、それを吉田静さんが歌として表現した、というようなある種鬼気迫るものすら感じられます。
 冒頭の拙句はそんな感じを詠んでみたものです。聴き入ったアジア諸国の留学生も「日本・こころの歌」のエッセンスをしっかり感じ取ってくれたことでしょう。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『フォレスタ 津軽のふるさと』
http://www.youtube.com/watch?v=P_guTrq2Z44
参考・引用
『「公益財団法人 ヒロセ国際奨学財団」ホームページ』
http://www.hirose-isf.or.jp/
関連記事
『フォレスタの「津軽のふるさと」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-c23c.html

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室井佑月「消費税増税、『しょうがない』で済ませていいの?」

 -とてもじゃないが、「しょうがない」で済まされるわけがないでしょう-

 今回は、作家の室井佑月さんの『週刊朝日』連載コラムの 10月11日号の一文を以下に転載します。(阿修羅掲示板に投稿されたものの再転載)

                        *
室井佑月「消費税増税、『しょうがない』で済ませていいの?」〈週刊朝日〉
投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 10 月 02 日
http://www.asyura2.com/13/senkyo154/msg/498.html

 来年の4月から消費税は8%に上がるようだ。

 共同通信社が9月14日と15日に実施した全国電話世論調査によると、消費税増税に反対が50.0%、賛成が46.8%だったとか。

 マジかよ。あたしは賛成する人が半分近くまでいることにびっくりだ。消費税が上がれば、味噌から醤油、トイレットペーパーまで、およそすべての生活用品の値段が高くなる。ほとんどの人の生活は苦しくなるよね。

 そういや、テレビを観ていたら街頭で消費税増税について訊ねられ、「しょうがない」と答えていた人がいたな。ほんとうにしょうがないの?

 たぶんそういう人たちは、国の財政危機、増えつづける社会保障費なんてことを気にしているんだろう。さんざんメディアはそういう不安を煽っているしな。あたしだって、それは気になる。

 しかし、この国のみんなで一丸となって頑張りましょう、ってことじゃないんだよね。

 消費税が上がれば儲かるごく一部の人もいる。輸出企業は、「輸出戻し税」といって仕入れ時に支払った分の消費税がまるまる戻ってくるそうだ。そして、政府は法人税は下げようとしている。

 テレビに出てる専門家は、「企業の利益が上がれば、そこで働く人の給料も上がる。給料が上がった人は金を使い、この国の景気が良くなる」といっていた。

 ほんとにそんなこと信じられる?

 2002年2月から5年以上もつづいたいざなぎ超え景気といわれる期間。普通のお勤め人の給料は減って、税金や社会保険料も上がった。儲けたのは大企業だけだった。

 この国のため、みんなで頑張ろうというのならわかる。けど、頑張る人や苦しむ人はいつも決められているような気がする。人数は圧倒的に多いはずなのに、力がないからATMみたいに粗末に扱われる。そのことに対し、しょうがないとはとても思えなくなってきた。

 そうそう、東京新聞の「こちら特報部」に、「派遣 全業種で開放!?」という記事が載っていた。厚生労働省の研究会が、あらゆる業務で無期限の派遣労働を認める方向で議論を進めている、という記事だ。

 記事の中で労働組合「派遣ユニオン」の関根書記長はこういっていた。

「報告書は『保護』こそ掲げているが、実際は派遣を増やすのが狙い。企業側に好都合な施策でしかない」

「派遣労働者が増え、派遣切りはさらに横行する。労働者の立場はいっそう不安定になる。その先に待つのは、働いても働いても生活が苦しい貧困社会だ」

 我々がしょうがないと諦めてしまった、その先に待つものはなんだろう。死なないからただ生きている、そういう生活のような気がする。しかもそれは、子の代まで延々とつづきそう。それでほんとにいいのだろうか。 (転載終り)


【私のコメント】
 室井佑月さんの歯切れよい反権力的言説が阿修羅読者に受けてか、昨年から阿修羅掲示板にこの人の『週刊朝日』連載コラム文が投稿され始め、投稿されると決って「拍手ランキング」のベストテンにランクインされます。中でもこの一文は6日未明現在、同ランキングの1位になっています。

 当然ながら私もかつてテレビを見ていた時代がありました。TBSだったかの昼のワイドショー番組に室井さんがゲストコメンテーターとして出演していて、『この人よくこんなこと平気で言えるなぁ』と思うような、物事の本質をズパッと衝いた歯に衣着せぬ物言いに感心しながら見ていました。
 室井さんいわく、「本業の作家としての収入より、テレビ出演の方が実入りがいいからいつの間にかそっちの方にシフトしちゃった」と。青森県出身というこの人、話がとにかくアケスケです。

 さて、何でしたかねぇ。あっ、そうそう。肝心な消費税増税のことでした(笑)。

 そうです、まさに室井佑月さんのおっしゃるとおり。安倍政権、財務省、大メディアの三倍増のプロパガンダに騙されて、「消費税増税、しょうがない」はありませんよ。
 シロアリ公務員の大改革、二世、三世ゾロゾロの衆参両議員定数の大削減、既に20兆円超にもふくれ上って世界第4位の防衛費の大削減・・・。これらのムリ・ムダ・ムラの改革を断行すれば、消費税を撤廃しても十分なお釣りが来ます。

 >我々がしょうがないと諦めてしまった、その先に待つものはなんだろう。死なないからただ生きている、そういう生活のような気がする。

 この結論は、室井さんにしては少し遠慮した表現だと思います。
 イヤな事を言うようですがー。羊のようにおとなしい私たち国民を待ち受けているのは、「生きる力のない者から次々に死んでいけ」、そんなオゾマシイ近未来だと思います。

 TPP、消費税増税、秘密保全法・・・。すべては、サタン勢力によるNWO(新世界秩序)と深いところでリンクしているのです。これは以前にも述べたことですが、「彼ら」はNWO完成時、現時点の人類70億人などまったく想定していません。

 それでもなおかつ「しょうがない」と諦めますか?ということなのです。
 (大場光太郎・記)

関連記事
『消費税増税は本当に必要なのか?』
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消費税増税は本当に必要なのか?

-シロアリ役人駆除なしで国民に負担を押しつける消費税増税は暴政・悪政だ-

 安倍首相は1日、4ヶ月も国会を開かず、したがって何の国会論議も経ずに独断専行で消費税増税を決めてしまいました。江戸時代の徳川将軍家のような、いな将軍様独裁国家・北朝鮮のような、上意下達式の、民主主義国家にあるまじき狂気の独裁者と言うべきです。
 権力の暴走を厳しくチェック、批判すべき新聞・テレビは、むしろ消費税増税の利益亨受側であるため、その事実だけを垂れ流し報道するのみです。

 かくてこの国の民主主義は確実に死滅していくのです、ということはともかくー。
 これで来年4月から消費税率は8%に引き上げられ、再来年10月には10%にアップされる予定です。これによって日本経済が再び深刻なデフレ不況に逆戻りするのは確実です。考えてもみてください。消費税増税の破壊力は半端なものではないのです。

 思い出されるのが、消費税率を3%から現行の5%に引き上げた97年の例です。
 たった2%のアップによって景気は一気に冷え込み、日本経済はデフレ不況に陥り、以後15間今日までその後遺症に苦しみ続けているのです。たとえば平圴賃金ですが、97年の446万円をピークに12年度は377万円へと、70万円もダウンしています(厚労省統計)。

 消費税増税実施の根拠として安倍首相は、GDPと9月の日銀短観を持ち出しています。GDP数値はいかようにも操作可能であり、日銀短観の方は主に大企業の景況感を表わすもので庶民感覚とはズレるのです。
 安倍首相は過日の国連総会でも吹きまくっていましたが、アベノミクスなる“まやかし”の恩恵を受けているのは、大企業、外国のハゲタカ投資家、一部の国内投資家、投機目的の不動産業者くらいなもので、庶民にはほとんど好況感などないはずです。

 むしろ国民や中小企業は四苦八苦です。本来増税は好景気に行うのが鉄則です。しかるに、こんな時に消費税率を3%、5%アップすればどうなるのか(消費税率3%アップの場合国民一人当り年間5万円の負担増となる)。97年はまだ余力があり何とか持ちこたえましたが、今回は日本経済そのものがアウトになる危険性すらあると考えられます。

 安倍政権は国民に8兆円もの負担を押しつけながら、―方で大企業の法人税減税を行います。庶民からむしり取りながら大企業を優遇しようというのです。「安倍の野郞、どっち向いて政治してるんだ?」という話です(失礼しました。安倍首相を評価も尊敬もしていないもので、つい)。

 大企業を優遇して景気浮揚につながるのなら、仕方なく目もつぶりましょう。しかし決してそうはなりません。大企業は既に220兆円という空前の内部留保を貯め込んでいながら、アベノミクスを信用していないから、設備投資もしなければ、社員の給与も上げない、非正規社員の正規社員への登用もしないのです。
 それに国内産業の空洞化が進む状況下では、法人税減税はナンセンスな政策です。

 内需の5割以上を占める国民消費者を痛めつける消費税増税では、景気浮揚など出来はしないし、そればかりか、デフレ不況がいよいよ深刻化するのは明らかではありませんか。

 ところで、消費税増税は「どこ」の振り付け(シナリオ)かご存じでしょうか?
 言わずと知れた財務省の振り付けです。国家予箪を握っているこのシロアリ官僚どもにとって、より財源が確保できる消費税増税こそは長年の悲願。納税者である国民の痛みなど知ったこっちゃありません。だから前の民主党菅、野田両首相をたきつけて、着々と消費税増税路線のレールを敷いてきたのです。
 今回の安倍表明には笑いが止まらないはずです。

 少し遠い記憶かもしれませんが、思い出してください。
 「脱・官僚」「政治主導」。これは今から4年前民主党による政権交代前後のスローガンでした。政権交代の立て役者は小沢一郎でしたが、小沢の本気度を感じた財務省など官僚機構は「小沢抜きの民主党は何もできない」と読み切って、検察が中心となって「小沢潰し」の世紀の大謀略を仕掛け、小沢(+鳩山)を失脚させたのです。
 これが近年の日本政治の最大のポイントです。このポイントを外すと、「財源がないんだから、消費税増税も仕方ないじゃん」というようなトンチンカンな考えになるのです。

 ハッキリ言います。「国の累積赤字1000兆円超」「財源がない」は、大増税のための財務省トップ連中のプロパガンダです。ダマされてはいけません。
 もし本当に財源がないのなら、「隗(かい)より始めよ」。中央・地方の余剰公務員の大削減、中央・地方公務員給与の民間との格差是正、天下りを禁止し、独立行政法人などを徹廃し、国家予箪のうちの巨大ブラックボックスの特別会計を白日の下にさらすこと・・・。

 これらを大断行すれば、数十兆円は楽に浮くのです。
 かつての民主党の「事業仕分け」も財務省の振り付け、肝心なところは徹底的に隠し、テレビを入れて、国民に「これしか削減できないのか。こりゃあ、やっぱり財源不足だワ」と思い込ませるためのパフォーマンスに過ぎなかったのです。

 繰り返しますが、これらを大断行すれば数十兆円は楽に浮きます。
 消費税増税などしなくとも、ちゃんとやっていけるのです。それのみか、現行の5%消費税をゼロにさえできるのです。お得手の「アベノダマシ」で「社会保障と税の一体改革」などどこかに行ってしまいましたが、社会保障だって、国民や高齡者に余分な負担を強いなくともそれでちゃんとやっていけるのです。

 官僚の抵抗を恐れずそれを断行するのが政治主導であり、それでこその英邁なトップリーダーです。政権がどう変ろうと公務員改革こそ1丁目1番地。官僚の抵抗を恐れて何もせず、「はいはい、消費税増税します」では、単なる能無しの腰抜け総理です。 

 (大場光太郎・記)

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林業復活のカギは「女子力」にあり !?

-農林漁業は男の仕事。女子に負けず男子も山に入り協働で森林の再生を-

 『へぇ~、そうなの !?』と思うような記事が、30日発売の『日刊ゲンダイ』(3画)に出ていました(後に転載します)。
 近年荒廃著しい森林に「日本の森林を救おう」と、女性たちが立ち上がり、各地に「林業女子会」が出来、森林再生に大いに貢献しているというのです。

 高度経済成長期以降、工業立国、貿易立国にシフトしたこの国は、それまで基幹産業だった農林漁業を切り捨てきました。その中の林業に限ってみても、貿易柤手国との工業製品輸出見返りもあってのことでしょうが、国内の建築資材などとして「外材」をどんどん輸入、使用することになりました。
 それでなくとも、農村部の若者は労働力として都市部に取られ、山林のかまい手がいなくなりました。そのため肝心の自国の山林は荒れ放題となっていったのです。

 山林をきちんと手入れせず放ったらかしにしておくとさまざま深刻な問題が生じてきます。例えば「間伐」です。これを怠ると森林が密集しすぎて日光が中に入らず、落葉、下草、灌木などによる豊かな腐葉土とならず、地力がどんどん衰えます。樹木は立ち枯れ、当然次世代の樹木だって育ちません。
 そういう悪循環の果てに、豪雨時の地すべり、土石流となって、甚大な被害を麓の集落にもたらすことにもなるわけです。

 近年野生の熊や猪や鹿や猿などが住宅街にまで侵入して、人を襲ったり畑を荒したりと“悪さ”をするケースが増えてきています。これは「里山の消失」とセットで考えるべき問題なのかもしれませんが、山林が荒廃して思うように食糧が得られなくなったことと決して無縁ではないはずです。

 本来「森林再生」は国土保全の観点から、東日本大震災復興、福島原発収束などとともに、国家プロジェクトとして最優先で取り組むべき大問題です。国が本気で取り組めば、森林再生でそれこそ百万人規模の雇用が生み出されるはずなのです。
 林業女子会などの「民」の活動に押されたか、ようやく国も重い腰を上げ始めたようです(肝心なことへの国の取り組みはとにかく遅い)。

 各地の「林業女子会」の皆さんの今後の活動に大注目です。 (大場光太郞・記)


林業復活のカギは「女子力」にあり !?

各地で林業女子会


 日本は国土面積の約3分の2が森林という世界有数の緑に恵まれた国。しかし、実は今、日本の森林が危機的な状況に陥っていることは意外と知られていない。伐採が進まず、荒廃している森林が各地に増えているというのだ。

 そんな中、日本の森林を救おうと立ち上がったのが森林に関心を心持った女性たち、その名も「林業女子会」。今、京都、長崎、岐阜、静岡など全国でその活動が広まっているが、その一つ、市原市(千葉県)を拠点に、昨年10月から活動しているのが、「林業女子会東京」だ。

国も「木材利用ポイント」事業を開始

 「2カ月に1度のぺースで下草刈り、木の切り倒し、苗木植えなどの活動を行っています。私たちの活動を知るとやってみたいという女子が多いですね」
と幹事の杉山沙織さんはいうが、彼女たちの活動は単なる趣味というだけでなく、溝腐れ病という木の病気がはやり、地元の林業家でさえも諦めて荒れ果てた森を再生させる活動も行っているというから本格的だ。

 こうした流れの中、国も日本の森林を守るための活動に本腰を入れ始めた。この4月から開始した「木材利用ポイント」事業がそれだ。これは国が定めた工法、樹種を使った住宅や家具を購入したり、リフォームを行うと、それぞれに応じたポイントが付加され、商品券や農山漁村地域の体験型旅行などに交換できるというもの。日本の森林を守るためにも大いに活用したいものだ。 (転載終り)

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