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フォレスタの「夕焼小焼」

     (「フォレスタ 夕焼小焼」YouTube動画)
      http://www.youtube.com/watch?v=VV_rbb5V9aU


     ♪ 夕焼け小焼けで 日が暮れて
       山のお寺の 鐘が鳴る …… ♪

 およそ日本人で、童謡『夕焼小焼』を知らない、あるいは聴いたことがないという人はいないのではないでしょうか?それほどこの童謡は、お年寄りから小さな子供たちに至るまで幅広く歌い継がれてきています。ちなみに、我が国の童謡の中で、各地にその歌碑が建てられていることでは、この歌がダントツなのだそうです。

 なぜこんなにも人気があるのでしょう?
 まず考えられるのは、小さな子供でも歌の意味が分かってすぐに覚えられそうなほど、極めてシンプルな歌であるということです。歌詞でも曲でも、内容がどうであれ小むずかしい歌は、一部の熱烈な愛好者を得られても、国民大衆に広く受け入れられることはありません。

 しかしシンプルな歌なら何でもいいかというと、それだけではダメだろうと思います。分かりやすく覚えやすい歌でありながら、その中に「深い何か」がなければならないと思うのです。知らず知らずのうちに、心の奥深くまで入り込んで、いつしか人々の心を揺り動かしていく。このようなことが、国民に幅広く受け入れられ、しかも長く後世までも歌い継がれていく、名曲・名童謡の必須条件なのではないでしょうか?
 まさに『夕焼小焼』は、この条件を見事にクリアーしていると思われます。

 更にこの歌には、一定以上の年代の人たちにとっては、歌うほどに聴くほどにそれぞれの子供時代の美しい「夕焼け体験」が鮮やかに呼び起されて、「たまらない !」ということもあるのではないでしょうか。
 その意味でこの童謡は、遠い昔の日本の懐かしい原風景を思い起こさせてくれる、「郷愁の歌」でもあろうかと思われます。
 この歌は、2007年(平成19年)の「日本の歌百選」の一曲に選定されました。

                        *
 この名童謡を作詞した中村雨虹(なかむら・うこう)は、明治30年(1897年)東京府南多摩郡恩方(おんがた)村の宮尾神社の宮司・高井丹吾の二男として生まれました。同地は、現在の東京都八王子市上恩方町です。本名は高井宮吉。
 大正5年(1916年)東京府立青山師範学校(現・東京学芸大学)を卒業し、北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師となりました。

 雨虹は日暮里で教員生活を送るかたわら、児童の情操教育のためと、童謡や童謡詩を童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)に投稿していました。その作品の選考にあたっていたのが、野口雨情(のぐち・うじょう)でした。雨情は、若い教師の自然体の詩を高く評価していたようです。
 そして雨虹もまた雨情に傾倒し、後に「雨情」の「雨」の字をもらった「雨虹」というペンネームを使うことになります。

 中村雨虹は、思い切って教師をやめて作家の道を歩もうとも考えたようです。しかし作家として生計を立てられるかどうかは定かではありません。そこで、教師を続けながら作家も…という二束のわらじ生活も考えました。しかしどう考えても、教師という職業柄、思うように机に向って創作に没頭する時間を確保出来そうにないし…。
 悶々と思い悩んでいたある日、当時の校長から「このままでは、教員としての職務に支障をきたすぞ」と、大目玉を食らってしまいました。そこで雨虹はやむなく、童話作家の道を断念し、少しの時間で創作可能な童謡詩に方向転換することになります。

 そんな大正12年(1923年)。当時としては珍しかった輸入ピアノを販売していた「鈴木ピアノ」では、ピアノを買ってくれた客に新作童謡を集めた楽譜をプレゼントしていました。そこの社長が雨虹のもとに詩の依頼をしてきたのです。
 その依頼に応えて雨虹は5編の詩を提出しました。その中に大正8年作詞した『夕焼小焼』も入っていたのです。この詩は、故郷の恩方村の風景を歌ったものでした。
 その年の7月末、プレゼント用の童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に、草川信の作曲で発表されました。
 なお雨虹はこの年、その発表に先立って、漢学者・本間問亭の二女・千代子と結婚しています。

 『夕焼小焼』を作曲した草川信(くさかわ・しん)は、明治24年(1893年)2月14日長野県で生まれました。東京音楽学校(現・東京藝術大学)卒業後、雨虹と同じく教師のかたわら演奏家として活動していました。 その後童話雑誌『赤い鳥』に参加し、童謡の作曲を手がけることになります。昭和23年(1948年)9月20日亡くなりました。
 『揺籃の歌(北原白秋作詞)』『夕焼け小焼け』)『どこかで春が(百田宗治作詞)』『汽車ポッポ(宮原薫作詞)』『みどりのそよ風(清水かつら作詞)』など、今なお歌い継がれている数々の名童謡を残しました。

 『夕焼小焼』が、童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に発表されてから1ヶ月余。当時の日本社会を震撼させる大きな出来事が起こりました。大正12年9月1日、関東大震災の発生です。この震災は午前11時58分と、ちょうどお昼時と重なったため火を使っていた家庭も多く、東京市中を中心に二次災害的大火災となりました。 この大震災による死者数は約10万人といわれています。

 この予期せぬ悲劇的出来事により、『夕焼小焼』が入った楽譜集も、そのほとんどが焼失してしまいました。もう永遠に日の目を見ないのか、と思われました。しかし何という天の配剤でしょうか ! そんな中わずかに既に人手に渡っていた楽譜集がありました。その数たった13部。

 童謡『夕焼小焼』は、この13部から始まったのです。この歌が今日までこうして歌い継がれているのは、実にこのわずかに残っていた楽譜集によるものなのです。
 雨虹の妻・千代子の妹の下田梅子は、東京府内の小学校の教員でした。彼女は、震災で家や親を失った多くの子供たちを何とか元気づけるためにも、その中の一部の楽譜をもとに、義兄が作ったこの歌を一生懸命教えたそうです。

 そのようにして、この歌は大震災の直撃に遭った東京で、先ず歌われたのです。「良いもの、本物は必ず広く伝播する」―これは法則であるようです。それを証明するかのように、それから関東一円で、そして遂には全国津々浦々で歌われ、長く歌い継がれていくことになるのです。

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 その後中村雨虹は、昭和2年(1927年)神奈川県立厚木実科高等女学校(現・神奈川県立厚木東高等学校)の教師として厚木市に赴任してきます。厚木東高校は、厚木高校と並んで神奈川県央地区の伝統ある名門校です。以来退職した昭和24年(1949年)まで同校で教鞭を取ることになりました。

 こうして雨虹は、昭和2年以来、現在の厚木市泉町という本厚木駅南口から徒歩数分の市街地に住み続けることになります。雨虹はその間、厚木市立厚木小学校歌や厚木ちぐさ幼稚園園歌など多くの歌を残しています。

 厚木市は他でもないこの私が住んでいる町です。昭和43年(1968年)に当市にやって来てから、途中の7、8年を除いてずっと厚木市です。もう私にとって「第二の故郷」と言うべきものですが、中村雨虹が当市に住んでいるらしいことは早くから噂で知っていました。
 昭和47年(1972年)、中村雨虹が市内の県立病院(現・厚木市立病院)で亡くなった時は(享年75歳)、市内の大きな話題になりました。

 そんなご緑から、厚木市全域270ヶ所に設置されている防災無線スピーカーから、夕暮れを告げるために流されるのは『夕焼小焼』のメロディです。今の季節は春秋時間の夕方5時、冬は4時30分、夏は6時となります。

 中村雨虹の45年にも及ぶ厚木在住の中で、以下のようなエピソードが残っています。

 雨虹は厚木市内に住みながらも、同市西端の「七沢(ななさわ)」の地が故郷恩方の風景と似通っているからと、しばしばその辺りを散策したそうです。七沢は「七沢温泉」として関東の温泉地の一つとして有名です。雨虹も、その中の元湯玉川館にしばしば足を運んだそうです。当時の旅館主人・山本均二の夫人が雨虹の教え子だったという奇遇もあったようです。

 住まいの厚木市から大山の峰を眺めて夕焼けを見つけると、「今夕焼けがきれいだろ」と均二氏に電話することがあったそうです。それで均二氏が片道30分かけて車で迎えに行くと、千代子夫人と一緒に外で待っておられた。その車に同乗して七沢に到着した頃には、周りはすっかり薄暗く既に夕焼けは消えていた…。そんなことが何度かあったそうです。

 雨虹は、自らが作詞して今や全国で歌われている『夕焼小焼』の歌、故郷恩方の景色を偲ばせる七沢の夕焼けを、こよなく愛していたのに違いありません。

 またある時雨虹は、「『夕焼小焼』の碑が、終生の地となる神奈川にはないんだよ」と、ポツリと呟いたそうです。そこには、出来れば第二の故郷・厚木市なかんずく七沢の地に、同歌の歌碑を建ててもらいたいという、想いが込められていたのかもしれません。
 雨虹の意を汲むように、その後山本均二が、元湯玉川館入り口に『夕焼小焼』の歌碑を建てました。

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 以上「フォレスタの」を冠しながら、『夕焼小焼』を作詞した中村雨虹と当市とが縁が深いもので、ついこの歌と雨虹の事跡を長々と述べてしまいました。フォレスタファンの皆様お待たせしました。さあここからが本当の『フォレスタの「夕焼小焼」』です。

 『フォレスタの「夕焼小焼」』。中安千晶さん、矢野聡子さん、小笠原優子さん、吉田静さんの4女声によるコーラスです。童謡『夕焼小焼』は2番までの歌訶ですが、いずれも出だしの独唱が矢野さん、続いて中安さんとの重唱、そして小笠原さん独唱で締める、という構成です。

 いずれにせよ、矢野さん、中安さん、小笠原さんの歌唱リレーは絶妙です。それにこの歌ではもっぱら、独唱の他の3人をフォローし盛り立てる役割りの吉田さんの低音のハモリも加わり、4女声による素晴しい『フォレスタの「夕焼小焼」』です。

 中でも中安千晶さんは八王子市のご出身ですから、この歌への思いはひとしおでしょう。最近『フォレスタ 八王子コンサート』が行われたよし。出来れば、中安さんがメーンとなって、ラストでこの歌を会場の人たちと一緒に大合唱していただきたかったですね。

 ところで『夕焼小焼』は、「ヨナ抜き音階の歌」-西洋7音階のうちの4(ファ)と7(シ)を抜いた5音階の歌-だそうです。えっ?どれどれ。
 「ソーソラミドドレミレー/ミーミソラドドラソソラソドー ・・・」
 ほんとだ。みごとに「ファ」と「シ」が抜けてる。

 作曲した草川信はもちろん西洋音楽理論をしっかり学んだ人ですが、日本的叙情を出すためにあえて日本固有の5音階、つまり「ヨナ抜き」でこの歌を作曲したのだろうと思われます。

 素人の私などはそれゆえ、得も言われぬ叙情味がかもし出されたのではないだろうか?と思うのです。が、作曲家の中には、「ヨナ抜き童謡・唱歌はダメだ」「ヨナ抜き演歌はダメだ」と主張される大先生もおられたようです。
『そんなぁ。それではこの歌もダメ、ヨナ抜きの歌はとにかくダメ。ついでに日本の伝統音楽は全部ダメ、ということですかぁ?いくら何でもそんな殺生な。』

 我がフォレスタメンバーは全員音大卒業ですが、そういうこだわりはお持ちではなく、ヨナ抜きだろうが何だろうが、良き日本の歌を心を込めて歌ってくださっていることに大感謝です。

 (大場光太郎・記)

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