日本育英会奨学金の思い出
直前の『吉田静さんの「津軽のふるさと」』の中で、公益財団法人ヒロセ国際奨学財団や日本学生支援機構(JASSO)という奨学金制度があることに触れました。
そのうち日本学生支援機構の方はかつての日本育英会を前身としていますが、そんなことを述べているうち、私自身が日本育英会奨学金のお世話になったことが懐しく蘚ってきました。と言っても、私の場合は高校時の奨学金であり、大学留学生へのそれとはスケールがまるで違います。が、今となっては大変懐しい思い出なので、以下にそのことを述べさせていただきます。
当ブログ思い出記事などで度々触れてきましたように、父を小学校入学間もなく亡くし、その年の秋、当家は町の母子寮(山形県の宮内町立母子寮)にお世話になることになりました。
当然家は極度に貧しいわけで、我が家の経済状態では高校進学など思いもよらないものでした。
実際寮内の先輩たちのほとんどは、中学卒業と同時に、就職のために上京して行きました。唯一の例外は3年先輩のHさんで、この人が寮内で初めて米沢工業高校に進学しました。
そうこうしているうちに、(その年は東京オリンピックが開催された年でしたが)私は中学3年となり、次の進路を決めなければならなくなりました。一応成績上位の剖類だった私は、先生方に早くから高校進学を勧められていました。
その年の1学期の終りだったか2学期の初めの頃だったか、定かではありませんが、成績が良くても経済的に厳しく高校進学が困難な生徙たちを対象として、日本育英会の特別奨学金貸与のための試験を受けることになりました。
そのうちの一人として、私もその試験に臨んだのです。
日本育英会。この一文をお読みの方の中にはその奨学金制度のお世話になった方もおありかもしれませんが、ここでその概略を見てみたいと思います。
同育英会は、戦時中の1943年(昭和18年)、大日本育英会と呼称し、「成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的として」発足しました。戦後、「日本育英会」と改称して存続しました。
私の当時の同育英会会長は、学者、社会思想家、教育家で文部大臣も務めた森戸辰男氏だったかと思います。
もう一つ述べておきますとー。
高校進学対象の生徙たちに対する奨学金は、特別奨学金(以下「特奨」と略)と一般奨学金の2種類がありました。特奨の方は、上に述べましたように試験合格者が対象となり、当時で月々3,000円が貸与されました。卒業後、そのうちの1,500円だけを返済すればよいシステムでした。
一方の一般奨学金は、先生の推廌だけでオーケーで月々1,500円が貸与されました。卒業後は1,500円全額の返済を要しました。
・・・特奨の試験は、米沢のどこぞの上級学校を会場として行われました。
通常の学期末などの学力試験と違って、知能テストっぽいというのか、パズルっぽいというのか、かなりユニークな試験だったように記憶しています。これがその時の私にドンピシャリとハマったのです。
学校の勉強嫌い、試験嫌いな私なのに、その時ばかりはα波出まくり(多分)、問題という問題がスラスラ解けていったのです。
今思うに、私の半生の各試験経験の中で、あの試験ほどワクワクしながら取り組んだことはついぞありませんでした。
それくらいですから、当然結果も良く、2ヶ月ほどして担任の先生から「合格」との通知をもらいました。
ともかくこれで高校進学のネックとなっていた経済問題がクリアーできたことになります。 しかしここで一悶着起きました。他でもない、当の私が「高校に行きたくない」とゴネ出したのです(苦笑)。
今思えば、思春期特有の反抗心といったものだったのでしょうか。加えて15歳の少年が、一丁前に、世の中に対する漠たる懐疑も抱きはじめていたのです。
上に述べましたが、この年は東京オリンピックが開催された年でした。進路に迷っていた頃の10月10日、「世紀の祭典」が開会式を迎えました。(ブログ開設の年『東京オリンピックの思い出』シリーズで既に述べたように)しかし「非国民少年」の私は、開会式も各競技も閉会式もついにテレビ観戦しませんでした。
「所得倍増」を掲げてスタートした池田勇人内閣-これが後の我が国高度経済成長のきっかけとなったわけですが-に、子供ながらに危うさを感じたのです。
『日本はおがしな方向に行っちゃうんじゃねえべが』
子供ですから、「なぜそう思うのか」理詰めで答えることはできませんでしたが、ともかく心の中でくすぶっていたものが、東京オリンピックという大イベントによって一気に表面化したようなのです。
私の「高校に行きたくない」という意志表示は、つまりは大人たちの敷いたレールの上を進みたくない、さらには「おかしな方向に行こうとしている」世の中に積極的に協力したくない、という含意があったわけです。当時はうまく説明できませんでしたが。
さあ、困ったのは先生方です。おそらく特奨試験を通りながら「高校に行きたくない」などというのは、私の中学校初まって以来かつてなかったことでしょう。それに今考てみれば、ある中学校で辞退者を出してしまうと、今後その中学校の特奨枠、奨学金枠が減らされるなどのペナルティがあったのかもしれません。
1年時の担任で今は学年主任のT先生、3年時担任のY先生などから翻意するよう、繰り返し説得されました。
しかしそれでも私は首を縦に振りません。それどころか、学校に来ていた求人募集を当たり、その中の埼玉県某市のある工場に決めかけていたのです。そこは働きながら夜間高校に通うことができるというのです。一応何がしかの向学心だけはあったようです。
母子寮の女性寮長先生からもこんこんと説得されました。しかし何より驚いたのは、母が「高校に行け」と言ったことです。あれほど「早く就職して、家を助けでけろ」と言っていたのに、「コタロ。高校に行ってもええがら、高校さ行げ」と言うのです。
大人たちに完全に包囲された形ですが、母の言葉に折れて高校に進学することにしたのでした。
高校は、長井市にある山形県立長井高等学校でした。
3年間の高校生活が可能となったのは、何といっても日本育英会の特奨のお陰です。かれこれ50年近く前の月額3,000円は、今の価値で3~5万円ほどになるのではないでしょうか。
ちなみに、1ヶ月の授業料は3年間を通して1.300円でした。差し引き1.700円残るわけですが、あとは汽車通学の定期代に充てたり、参考書をどっさり買い込んだり(ウソです。ほんのチョボチョボです・笑)、参考書よりずっと多く文庫本を買ったり、飲食代に使ったり・・・。3年間、夏休みは地元の役場のアルバイトをしましたから、母にほとんど負担をかけずにやっていけたと思います。
高校進学にあたってゴネて諸先生方にご迷惑をおかけしましたが、多感なりし長井高校の3年間こそは私の人生で最高の思い出です。
(大場光太郎・記)
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