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2014年9月

フォレスタの「蘇州夜曲」

         
     
 
 
    (「Foresta 苏州夜曲(旧版本)」(中国-Youke動画)

     http://v.youku.com/v_show/id_XNjM4ODg5MDky_type_99.html?f=441608962#fr.yk.folder.6
                  (フォレスタの蘇州夜曲・新バージョン-YouTube動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=vWMvzaBfDYI

 今月7日に亡くなられた山口淑子さんを偲び、直前に『「蘇州夜曲」の李香蘭逝く』記事を出しました。タイトルに「蘇州夜曲」を入れたくらいですから、記事作成中YouTubeで当然『蘇州夜曲』をずい分聴きました。もちろん本家の李香蘭(山口淑子)のも聴きましたし、他の歌手によって歌われたものも聴きました。名曲中の名曲ですから、美空ひばりを筆頭に多くの歌手がカバーしているのです。

 YouTubeでは現在、渡辺はま子(1970年)、雪村いづみ、夏川りみ、田川寿美、一青窈&松浦亜弥、西川郷子、新妻聖子、アン・サリーらの『蘇州夜曲』がアップされています。何と今大問題のASKAまで歌っているではありませんか!(一言で言って、それぞれに歌い方に個性や特徴があって甲乙つけがたし。)

 それらを聴きながら私は、『この歌、フォレスタも歌ってたよなぁ。それも旧新2つあって、それぞれにいい味出してたのに。皆削除されちゃって』などと思っていたのでした。同記事完成後、『そのうち「蘇州夜曲聴き比べ」でも出すか』と思いたったある時、蘇州夜曲→中国の歌→中国版YouTube→Youke→フォレスタ!という連想がパッと閃いたのです。

 そもそもYouke動画のことは、第1次フォレスタ動画削除事件(2012年4月13日)の時の『フォレスタ動画が削除されちゃった』記事へのある人のコメントで知ったのでした。そこに、数は少ないながら、『別れの朝』『琵琶湖周航の歌』『あかとんぼ』などのフォレスタ曲が十数曲アップされています。その中に、本場中国ならでは、初代4女声版『蘇州夜曲』もあったはずなのです。

 矢も盾もたまらず、2年以上“お気に入り”に寝かせておいた「Youkeフォレスタ」を表に引っぱり出して探してみました。するとやっぱりありました!『フォレスタ 蘇州夜曲』が。それで今回こうして取り上げることができたのです、という「風が吹けば桶屋がもうかる」式の回りくどい説明で、どうもあいすみませんでした(笑)。

『Youke版FORESTA』http://www.soku.com/search_video/q_%EF%BC%A6%EF%BC%AF%EF%BC%B2%EF%BC%A5%EF%BC%B3%EF%BC%B4%EF%BC%A1

                       *
 (戦前中国における李香蘭の華麗な足跡のあらましは、直前の『「蘇州夜曲」の李香蘭逝く』記事をお読みいただくとして)満州で高まりつつあった李香蘭(リー・シャンラン)の人気を日本でも盛り上げるため、満映(満州映画協会)は東宝と提携して、李香蘭と当時の人気二枚目俳優だった長谷川一夫との共演映画を企画します。

 そうして昭和14年(1939年)から『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』が制作され、「大陸三部作」としていずれも日本で大ヒットし、「中国美人女優」李香蘭の人気はいやが上にも高まっていったのでした。

 李香蘭は女優としてだけでなく歌手としても絶大な人気を博していくことになります。『白蘭の歌』の「白蘭の歌」「いとしあの星}、『支那の夜』の「支那の夜」「蘇州夜曲」、『熱砂の誓ひ』の「紅い睡蓮」など、各主演映画の主題歌、劇中歌を李香蘭自身が歌いました。奉天(現・遼寧省瀋陽市)での少女時代、帝政ロシアの亡命歌手マダム・ポドレゾフから声楽をみっちり教わった李香蘭の歌唱力はクラシックの専門家の折り紙つきで、各歌ともたちまち大評判となります。

 映画音楽で李香蘭の才能を引き出したのは、作曲家の服部良一でした。『白蘭の歌』を皮切りに、李香蘭主演映画はほとんど服部良一が音楽を担当していますが、特に李香蘭のために書き下した多くの曲は名曲として今日でも歌い継がれています。

 その代表的な曲が『蘇州夜曲』です。この曲は、昭和15年(1940年)6月公開の映画『支那の夜』の劇中歌として李香蘭が歌ったものです。なお『フォレスタ 蘇州夜曲』では、歌ったのは霧島昇/渡辺はま子と表示されていますが、これは内地(日本国内)でのレコード吹き込みがこの二人によって行わたことによるものです。

 『白蘭の歌』から『紅い睡蓮』まで、映画では(中国人)李香蘭が歌い、日本でのレコード化の際は(日本人)渡辺はま子が歌うという決めだったようです。それほど、当時はほとんどの日本人が「李香蘭は中国人」と信じて疑わなかったのです。

 今私の手元には、23日夜当市の中央図書館から借りてきたばかりの『李香蘭 私の半生』(山口淑子/藤原作弥共著、新潮文庫)があります。その中で特に『「蘇州夜曲」のころ』という一章が設けてあり(第7章)、そこに映画『支那の夜』や『蘇州夜曲』にまつわる興味深いエピソードが述べられています。本当はそのすべてを紹介したいところですがそれは出来ない話なので、(関心がおありの方は同書をお読みください)その“さわり”だけ以下に引用してみます。

(引用開始)
『支那の夜』については、単に大入りだったこと以外に、当時の世相や時局を反映した象徴的な作品であることを示すエピソードがたくさんある。とくに私にとっては漢奸(祖国反逆罪)容疑の罪状ともなった映画だけに、無知な時代の自分を見る恥ずかしい思いのする作品だが、いろいろな意味で思い出深い。
    (中略)
 大陸三部作が日本でヒットしたのは、ちょうど高まりつつあった大陸ブームという時代的な背景もあっただろうが、いずれも主題歌が映画におとらずにヒットしたことと無関係ではなかったと思う。いずれもストーリーは陳腐だけれど、背景を流れる音楽がドラマの舞台となった中国の名所旧跡の雰囲気と情感を現実以上にもりあげ、ラブシーンや風光明媚な場面でうたわれる歌が、ロマンチックな興奮をいっそう高める効果をあげていた。
    (中略)
 (服部良一氏の述懐)「上海から帰ってきて、水さん(伏水監督)のためなら、と(『蘇州夜曲』の作曲を)引きうけた。『白蘭の歌』以来、李香蘭の才能を引き出す音楽をいつか作りたいと思っていたこともあってね。西条八十さんの『蘇州夜曲』の詞はもうできていた。私は旅行中に浮かんだ“支那楽”の曲想を下敷きにしてアメリカの甘いラブソング風にまとめ、五線紙に一気にあのメロディーを書きあげた」 (引用終り)

                       *
 「えっ、そうだったんだ!」。今までずっと、この歌は「チャイナメロディーオンリー」で作られたものとばかり思っていたのに。片方では「アメリカの甘いラブソング」を意識していたとは!当時は学問の世界などで、「和魂漢才から和魂洋才へ」と唱えられていたかと思いますが、服部良一はそのどちらも駆使しながら『蘇州夜曲』を作り上げたことになるわけです。そのためなのか、この歌は当時欧米でも評判になったそうです。

 この詞にしてこの曲あり。「詞はもうできていた」という西条八十(さいじょう・やそ)の詞がまた秀逸です。漢詩のように簡潔で、若い二人が見ている「水の蘇州」の宵の情景がくっきりと目に浮びます。

 この歌における西条の作詞のプロセスは分リません。西条も服部同様、蘇州などを旅行して作ったものなのでしょうか?既に『フォレスタの「かなりや」』で西条八十の尋常ならざる想像力を垣間見た私には、彼は現地に行かず、イマジネーションだけでこの類い稀な名詞を書き上げたとしても不思議ではないように思われるのです。

                       *
 冒頭で触れましたが、今回取り上げたのは、矢野聡子さん、中安千晶さん、白石佐和子さん、小笠原優子さん、4人の初代女声による『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 この曲はこのバージョンのほかに、昨年、中安千晶さん、上沼純子さん、内海万里子さんの3人による新バージョンが公開されました。確か1番が上沼さん、2番が内海さん、3番が中安さんという、3人がそれぞれのパートを独唱し合うスタイルだったかと思います。どちらかと言うと「旧バージョンびいき」の私は、新バージョンについてはつい辛口になりがちです。が、こちらの『蘇州夜曲』も『なかなかいいぞ!』と思っていただけに(動画がなくて)ご紹介出来ないのが残念です。

 さあ、初代4女声による『フォレスタの「蘇州夜曲」』についてです。

 『蘇州夜曲』は、西洋音楽的に表現すれば『蘇州小夜曲』つまり『蘇州セレナーデ』となるのでしょうか?そんな甘美でロマンチックな名曲を、初代4女声はしっとり叙情的に歌い上げています。先に挙げたYouTube動画にアップされている歌手たちの『蘇州夜曲』は、そのほとんどが独唱で、コーラスとしての『蘇州夜曲』は女声フォレスタだけだと思います。その意味で、ユニークで新鮮味のある『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 そしてそのコーラスもよく聴いてみると、全員音大出身だけあって(どの歌もそうですが)通り一ぺんに歌声を重ねただけのコーラスではなく、たとえば歌そのものも小笠原優子さんの高音パートと白石佐和子さんの低音パートのほど良いバランス、中安千晶さんの聴かせる上ハモなど、随所にプロならではの“隠し技”のうかがえる『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 それに皆さんチャイナドレスのような黄金色の衣裳に身を包み、さながら(中国風に言えば)4人の「美的姑娘」(美しいクーニャン)という立ち姿です。このコーラスで強いて一人を挙げるとするなら、やはり2番を独唱している矢野聡子さんということになろうかと思います。矢野さん独特の高い声、そして(かつて熱烈な矢野さんファンだった人のコメントを借りれば)「フランス人形のような」可愛らしい顔立ち。矢野さんは中国の人たちにもけっこう“受ける”のではないでしょうか!?

 ヒアノ演奏は南雲彩さんだと思いますが、4女声のコーラスにマッチしたなかなか良い演奏です。ラストなど、寒山寺の鐘の音(ね)を模したか4つの音に続いて水の流れのようなエンディングで大変グッド!です。 

 (大場光太郎・記)

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「蘇州夜曲」の李香蘭逝く

-輝きの「李香蘭」よ、そして彼女が歌った『蘇州夜曲』よ、永遠なれ!-

李香蘭-01

 「李香蘭」として戦前一世を風靡した山口淑子さんが今月7日、亡くなりました。まずは、その事を伝える時事通信社記事を転載します。

                       *
山口淑子さん死去=女優「李香蘭」、政治家として活躍―94歳
時事通信 9月14日(日)11時18分配信

 「李香蘭」の名で戦前・戦中に人気を集め、戦後も女優、歌手として活躍し、参院議員も務めた山口淑子(やまぐち・よしこ、本名大鷹淑子=おおたか・よしこ)さんが7日午前10時42分、心不全のため東京都内の自宅で亡くなった。94歳だった。中国東北部(旧満州)出身。葬儀は近親者で済ませた。
 父親が南満州鉄道(満鉄)に勤務していた関係で中国で育つ。1938年に満州映画協会(満映)の映画「蜜月快車」の主演でデビュー。中国人向けに映画を作っていた同社の方針で中国人「李香蘭」として映画に出演し、故長谷川一夫さんと共演した「支那の夜」など数々の作品をヒットさせた。歌手としても人気を博し、代表曲に「蘇州夜曲」「夜来香」などがある。
 戦後も山口淑子名で舞台や映画で活躍、「暁の脱走」(谷口千吉監督)、「醜聞(スキャンダル)」(黒澤明監督)、「白夫人の妖恋」(豊田四郎監督)などの話題作に出演した。51年に彫刻家のイサム・ノグチさんと結婚したが、数年で離婚。その後再婚し、一時芸能界から引退したが、テレビのワイドショー「3時のあなた」の司会として復帰、日本赤軍幹部の重信房子氏との会見などが話題となった。
 74年、自民党公認候補として参院議員全国区で当選し、政治家に転身。92年に引退するまで3回の当選を重ね、環境政務次官などを歴任した。
 著書に「誰も書かなかったアラブ“ゲリラの民”の詩と真実」「李香蘭 私の半生」(共著)など。自叙伝は劇団四季によってミュージカル化され、ロングランヒットを記録。同劇団のレパートリーとなった。 (転載終り)
                       *
 上の記事どおり、戦後日本に帰国後の山口淑子さんの活躍も、歌に映画にテレビのワイドショーの司会に政治家にと幅広いものでした。また一時期は、国内のみならず米国や香港で映画・ショービジネスでも活躍しました。それだけでもう十分称賛に値する常人離れした業績と言うべきです。

 しかし戦前の中国や上海などにそこはかとないロマンとノスタルジーを抱く私などは、李香蘭という名の方により強い輝きを感じてしまうのです。山口淑子という人はお亡くなりになったかもしれない。されど「李香蘭」という輝きの名よ、彼女が歌った『蘇州夜曲』よ、永遠なれ!
 

 と言うことで、戦後日本に帰国するまでの李香蘭の数奇な軌跡を、ざっと見ていくことにしたいと思います。

誕生からデビュー以前まで

 李香蘭こと山口淑子は、1920年(大正9年)2月12日に、中華民國奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、撫順で生まれました。両親は満鉄(南満州鉄道株式会社)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)で、「淑子」と名付けられました。

 親中国的だった父親の方針から、幼い頃から中国語に親しみます。小学生の頃に家族で奉天(現:瀋陽)市へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑)の、義理の娘分(乾女兒)となり、この時、のちに不朽の名となる「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得ました。中国や蒙古(モンゴル)の旧習では、元来縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があり、これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、それぞれの姓でお互いの子女に名前を付け合うなどのものです。

 その後、奉天に住む幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバの母からの紹介を受け、白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフのもとに通い、ここで声楽を習うようになります。1934年(昭和9年)、淑子は北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、1937年(昭和12年)に卒業しました。

中国人スター「李香蘭」として

 

 川島芳子

 日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映畫協會(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューしました。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となります。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていました。また、この頃「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子との親交がありました。

 

 日中戦争中には、満洲映畫協會の専属女優として日本映画に多く出演し人気を得、人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演しました(注 『支那の夜』の劇中歌が『蘇州夜曲』と『支那の夜』)。1941年(昭和16年)2月11日の紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となりました。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を七周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられています(日劇七周り半事件)。

 1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演しました。この映画は、中華電影股份有限公司、中華聯合製片股份有限公司、満洲映畫協會の3社による合作で、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画でした。中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」も大ヒットしましたが、映画『萬世流芳』は中国映画史上初の大ヒットとなったのでした。

 『萬世流芳』の大ヒットにより、中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開きました。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていましたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめました。この記者会見が終わりかけた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、「李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。それなのに、なぜあのような日本映画に出演したのですか? あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」と質問したのです。これに対し、彼女は、「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今はあの映画に出たことを後悔しています。今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」と答えるや、記者会見会場内からは大きな拍手が沸いたといいます。

 記者会見と前後して、上海の百代唱片公司で収録した「夜来香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」等がヒットしました。そして人気の勢いは留まる事を知らず、李香蘭は、周璇、白光、姚莉、呉鶯音らと共に、上海灘の「五大歌后」の1人に数えられました。それまで、李香蘭は満洲国と日本のスターでしたが、映画『萬世流芳』と、その主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」、そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」等のヒット曲により、中華民國でも人気スターとなったのです。『萬世流芳』の後、『香妃』という映画が企画されたものの、撮影開始前に終戦を迎え、上海での映画出演は1本になり、また歌としては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の曲となってしまいました。

帰国

 李香蘭は映画『支那の夜』(中華民國では『上海之夜』)をはじめ、『白蘭の歌』『熱砂の誓ひ』の中で、「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じました。また、中国語で「夜來香」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「海燕」等のヒット曲を出したり、愛国映画「萬世流芳」に出演し、「賣糖歌」「戒煙歌」をヒットさせたりしていた関係上、中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴(漢奸)の廉(かど)で軍事裁判にかけられます。李香蘭は来週、上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろうなどという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かと思われました。

 しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放となったのです。1946年(昭和21年)2月28日、李香蘭と似ても似つかぬように化粧を落とし、もんぺ姿で引揚船に乗船しようとしましたが、中華民國側の女性出入国管理官に李香蘭と見破られ、再度収容所に連れ戻されてしまいます。それから10日後に誤解は解け、1か月後の3月末に今度こそ出国できることになりました。李香蘭は乗船するや一旦はトイレに身を潜めましたが、船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオ放送から聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う「夜來香」だったといいます。                       

                       *
 以上、『ウィキペディア』の記述に多少アレンジを加えただけの安直な『李香蘭略伝』でした(苦笑)。

 帰国の船上で自分が歌う『夜來香』を聴きながら、李香蘭の胸に去来する想いとはいったい何だったのでしょうか。その時彼女は26歳になったばかりのうら若き身でありながら、「李香蘭」という重すぎる名を背負って、常人の何人分もの密度の波瀾万丈の人生を生きてきたのです。遠ざかる上海を、中国大陸を見やる海路は、つまり「李香蘭」という名を捨てて日本名の「山口淑子」として生き直す船出でもあったわけです。

 山口淑子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

【追記】
 上の略伝で私が最も興味をそそられるのは、「李香蘭と川島芳子との親交」と言うことです。そこで続けて、そのことについて少し述べていくつもりでした。しかし長くなりすぎます。よってそれはまた別記事であらためて、ということにしたいと思います。

関連動画
『李香蘭 蘇州夜曲』(画像は「水の蘇州」の情景)
http://www.youtube.com/watch?v=uGuGe7tZAqI

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南京大虐殺の真実

-(話は違うが)朝日新聞が、従軍慰安婦問題の発端となった吉田清治証言に基く記事は誤りだったと認め、世間と読売・産経などの右系同業者や週刊誌などから猛烈なバッシングを浴びている。「戦前日本トリモロフ症候群」安倍晋三一派やネトウヨなどは、「軍の関与を示す資料は存在しない」ことをもって従軍慰安婦そのものが存在しなかった、と主張したいのらしい。しかし資料が無いのは当り前で、敗戦濃厚となった段階で国際軍事法上ヤバそうな資料は大量に廃棄処分にしたのだ。その点南京大虐殺問題も同根であるが、このたび中国で動かぬ証拠資料が見つかったらしい。そもそもこの問題については、日本軍関係者からさえ事実証言が多く残されている。例えば、十年以上前のテレ朝『朝まで生テレビ』で、俳優の池部良など当時80代の従軍者たちに生の戦争体験を語らせる企画があった。その時一番強く印争に残ったのは、ある海軍仕官だった人の「南京大虐殺は間違いなくありました。だって、私がこの目で見たんだから。私はその事を伝えるためにこうして出演したんです。」という発言だった。南京大虐殺&従軍慰安婦問題は、「自虐史観」うんぬんと言う話ではなく、事実がどうだったかという事なのである。(大場光太郎・記)-

                       * 
本澤二郎の「歴史の真実」(中国吉林省公文書館資料シンポ)社会科学院主催 安倍・自公政権に痛撃(3)
http://www.asyura2.com/14/senkyo171/msg/144.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 9 月 09 日 03:48:13

<南京大虐殺の真実>

 「南京大虐殺は幻」とわめき散らしてきた極右の石原慎太郎の主張は、吉林省公文書館資料の公開によって、あっけなく葬り去られてしまった。現地派遣軍の憲兵隊司令官の記録に「100万人の南京市が事変後に30万人になった」と何度もある。
 同司令官による「軍紀の弛緩」もその中に。南京侵略軍の蛮行は世界の戦争史上、類例のない悪逆非道なものだった。ふと1995年、戦後50年の南京訪問を思い出した。

<戦争遺児や目撃者も>

 当時の訪問記「南京に立つ」にも触れておいたのだが、戦後50年の50人編成の南京と盧溝橋への平和行脚は、前年12月30日、中山太郎元外相秘書だった有澤志郎君と当時人民日報国際版編集長をしていた張虎生さんと食事をしていた際に、95年の南京訪問計画を打ち明けた。
 彼はひどく喜んでくれた。95年1月7日、千葉県木更津市の小料理店「金本」での仲良しグループの新年会で、正式に披歴した。その後に朝日・東京・千葉日報が取り上げてくれて、丁度50人の参加者が集まった。
 このメンバーの中には、現在東京都大田区長の松原忠義・宇都宮徳馬秘書もいた。差別社会・秋田県本庄市から故郷に戻って、自立への道を踏み出したばかりの戦争遺児・影山友子も、知り合いを誘って参加していた。戦場で散った父親の顔も知らないで育った、敗戦の1945年生まれ、50歳だった。

父親は硫黄島の海で人生を奪われたが、その前に中国侵略軍の1員にもさせられていた。芸術家志望は、中国時代の写真や派遣先の記録を残していた。
 彼女は南京大虐殺記念館の現場に立つと、そこで見た「屠殺」という文字に驚愕した。そこに父親がいなかったことを確認して安堵したらしい。

<3カ月後も大虐殺する天皇軍隊>

 86歳の辻田照二さんの姿もあった。息子の昇さん、当時和田町町議が付き添った。上海から南京に向かう車中、目の前の照二さんに「どうして南京なのか」と一言声をかけたことが、筆者だけの大スクープを手にした。彼は大虐殺の目撃者だったのだ。この計画の成功を証明してくれた。

 現場に立つことなく、当時の南京に30万人はいない、嘘だ、と吹聴する、戦争加担勢力・右翼の、ためにする攻撃的言動には、正直なところ、腹わたが煮えくりかえる思いだが、歴史の歪曲・ねつ造は必ず化けの皮が剥がされるものだ。
 「私は東京でタクシー運転手をしていた。そのため自動車部隊に所属、司令官を乗せたりしていた。大虐殺は本当にあった。3カ月後の南京をこの目で見た」と話始めた。
 「関東軍情報将校は南京城が陥落した直後の1週間が特にひどかった。司令官到着前の3日間がすごかった、と聞かされていたが、3カ月後でも続いていた」と強調した。
 これは多くの学者らの研究にも反する目撃談である。

<揚子江での銃殺惨状>

 戦争とは、相手国民を皆殺しにするという皇軍の掟が存在するのだろうか。
 それは3カ月後の南京郊外の揚子江でも繰り広げられていた。彼がなぜ3カ月後の目撃者だったのか。負傷して野戦病院で治療を受けていて、南京着が遅れたためだ。
 日本軍の蛮行は、南京攻略直後のそれを容易に想像できるが、3カ月後でも、となると、これは戦争史上、特別に記録されてしかるべきだろう。
 「揚子江にドラム缶を浮かべて、その上に板を縛りつけ、そこへと拘束した市民を追い込んで、日本兵が次々と銃殺してゆく。信じがたい殺伐とした恐ろしい光景だった。“お前も撃つか”と言われたが、とてもハイと従うわけにはいかなかった」
 拘束された市民は、身を隠した国民党軍兵士だとしても、捕虜の無差別銃殺は国際法に違反する。そこに無関係な第3者はいなかったか。多くの市民が、揚子江上で銃殺されてゆくサマに将校付の運転手は、大虐殺の身の毛もよだつような恐怖を膚で感じさせられた。
 「銃弾で撃たれて、もんどりうって揚子江に沈むと、その直後5メートル先に浮いてくる。其の時の激しい怒りと憎しみの眼光・形相を今も覚えている。忘れられない」と打ち明けてくれた。
 「そのうちに銃弾が無くなってくると、次は銃剣で突き殺す。刺し方が悪いと、抜けなくなる。そうすると、ねじる。ねじらないと抜けない。凄惨過ぎる情景だった」
 虐殺は揚子江だけではなかった。「捕虜にスコップを持たせて穴を掘らせる。掘った穴に捕虜を殺して埋めていた。戦争が終わっているのに、なぜ殺すのか。最初は分からなかった。日本軍に捕虜の観念が全くないことが、後で知った」
 たとえそうだとしても、銃器を捨てた捕虜を全て殺害する天皇の軍隊、このことだけでも天皇責任は逃れることは出来ない。

<弛緩した日本軍の暴走>

 軍紀の乱れは、他にもあろうが、天皇の軍隊は特別だった。敵国の人間を人間と見ない。敵国人を動物以下だと信じ込んでいる天皇の軍隊は、幼いころから天皇主義・選良教育を受けていたことが、蛮行を拡大させた可能性を否定できない。こうした価値観は、啓蒙思想家とされた福沢諭吉の言動にも見られる。その人物が、今も1万円札に載っている。明治は安倍一人に限らない。

 捕虜を捕虜として扱わない。市民と兵士の区別さえしない。南京大虐殺は起きるべくして起きたものだ。女性は、レイプの対象と残虐な殺害の対象ともなった。
 辻田さんの次の証言は強烈すぎるが、あえて紹介することにする。
 「ある日、将校を乗せて市内巡察中、一角でものすごい女性の悲鳴が聞こえてきた。“そこへ行け”という将校の指示に従った。なんと、民家で日本兵がレイプした後、女性の性器に銃剣を突き刺していた。その悲鳴だった。朝鮮人の通訳に悲鳴の内容を確かめると、早く殺せと泣き叫んでいたことがわかった。その現場を将校は写真に取っていた。彼女の悲鳴は今も耳の奥から聞こえてくる」
 驚愕すべき日本兵の蛮行は、世界で類例を見ないものだった。戦争の被害者は決まって婦女子である。一説には「慰安所設置に軍が動くのは、この南京大虐殺から」とされているのだが。
 「南京での略奪・強姦はしほうだいだった」
 この辻田さんの目撃談は、大虐殺に新たな視点を付与して貴重である。将校付の運転手ゆえのものだった。

<慰安婦業者に天皇の勲章>

 従軍慰安婦についても聞いてみた。「日本人女性は少なかった。朝鮮人と中国人の女性が大半だった」という。
 少ない日本人はプロの売春婦なのだろうか。彼によると、だいたい300人の日本兵に50人ほどの慰安婦が用意されていた。そうだとすると、南京大虐殺から始まった慰安所開設だったと言えるのかどうか。
 日本兵の行く所、慰安所開設は軍務そのものだったのだろう。海軍主計中尉の中曽根康弘は、自分で率先して開設、一時はそれを自慢話のようにしていたらしい。安倍は、中曽根に聞けば持論を変えるしかないだろう。
 歴史歪曲派は中曽根に教えを請えばいいだろう。

 兵士に給与が支払われていたらしい。「1回50円。若い兵士はすぐ終わるが、長い者は催促されていた。くじ引きで順番を決めることもあった。慰安婦の業者には、天皇から勲章が与えられていた」
 これは驚きである。勲章が授与される慰安婦業者というと、正に天皇制国家主義の、慰安所開設は主要な任務だったことになる。戦争の慰安所は、天皇の軍隊の重要な一翼を担っていたことになろう。
 「日本政府は関与していない」「軍隊は関与していない。証拠を見せろ」と開き直ってきた安倍らに、吉林省公文書館資料は明白にNOを突きつけている。
 日本国民は天皇の軍隊について、今も全く知らされてはいない。

 2014年9月8日記  (転載終り)

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フォレスタの「坊がつる讃歌」

    (フォレスタの「坊がつる讃歌」YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=2h_sg9y5gDw


 8月初めのフォレスタ動画削除は分けても大々的で、残っている動画はわずかです。そんな中にあって、この『坊がつる讃歌』は辛うじて残った数少ない一曲です。と言うわけで、今回はフォレスタファンの間でも人気の高いこの歌を取り上げたいと思います。

 なお以下は少し余談ですが―。
 以前から当ブログ『フォレスタコーラス』記事をお読みいただいている方々はお分りだろうと思いますが、記事はおおむねフォレスタがかつて歌った歌について記事にしていくスタイルです。その歌自体の感想や歌の背景などを私なりに掘り下げたり、歌にまつわる私に引きつけた事を述べたりしながら、その歌を歌っているフォレスタコーラスの寸評を試るというような形式です。

 これは元々私が国内外の懐しの名曲好きだったことに加えて、ある時から熱心なフォレスタファンになったことによるものです。まあ、やたら長ったらしい、そして少し小難しいかもしれない文章中心で、たまに関連画像を挟むこともありますが、見やすくもビジュアル的でもない、このようなフォレスタコーラス記事にお付き合いいただいている方々の心中お察し申し上げます(笑)。と共に、深く感謝申し上げます。また(これは当ブログ全体に言えることですが)一定以上の知的レベルにないと記事を最後まで読み通すことは出来ないはずで、併せて敬意を表させていただきます。

 余談ついでに脱線までしてしまいました(苦笑)。
 このような形式の『フォレスタコーラス』記事に、いつも冒頭にその歌のYouTube動画URLを掲げてきましたが、これが書き手の私と読者の方々との良い接点になっていると思うのです。私としても共通の土俵があるという安心感があり、記事作成を進めやすいのです。

 しかし今回肝心のフォレスタ動画が削除され、その後新しく投稿される方が現われません。「さあ弱った。どうしようか?」。やはり、(XPでしかもDVD機能他が壊れている)現在のパソコンを取り替えて、フォレスタDVDによって記事を作成していくしかないようです。「それでうまくいかくなぁ」と一抺の不安もありますが、ともかくなるべく早くそう出来れば、と考えます。

                       *
 冒頭触れましたが、女声フォレスタによる『坊がつる讃歌』は特に人気が高く、(今回削除となった)5百数十曲にも上るhskjikさん投稿動画中ベスト3に入るほどの再生回数となっていました。

 何でそんなに人気が高かったのでしょうか?いろいろ考えられますが、以下のような理由が挙げられそうです。
(1)歌そのものが良い歌であること。
(2)女声フォレスタコーラスの良さ。
(3)近年、芹洋子さんによって歌われよく知られた歌であること。

 ただ“昭和30年代少年”の記憶からすれば、別の理由もありそうです。
 (以前から指摘してきたように)フォレスタファンの中核を占めるのは中高年層だとみられます。かく言う私自身その層の一人ですが、『坊がつる讃歌』人気は、この中高年層によるかつての「登山ブーム」のノスタルジーの表われなのではないだろうか?と思われるのです。

 「♪娘さんよく聞けよ 山男にゃ愡れるなよ
   山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
   山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ」   (作訶者:不祥)

 ご存知かと思いますが、『山男の歌』(1番)です。この歌を、昭和30年代半ば頃ダークダックスが歌って大ヒットし、当時ラジオからよく流れていました。私はその頃小学校高学年で、歌詞の意味もだいたい分り、とにかくダークダックスの歌声が大変鮮烈だったことを覚えています。

 『山男の歌』が歌われ大ヒットした背景として、当時は今とは比べものにならないくらい登山人口が多かったのだろう、と推察されます。それゆえこの歌のみならず、昭和20年代後半頃から昭和40年代前半頃にかけて、『山のけむり』『山の友に』『岳人の歌』『いつかある日』『穂高よさらば』『雪山に消えたあいつ』などの山の歌が作られ歌われました。中学校の音楽の授業で『雪山讃歌』『シーハイルの歌』を教わりましたし、フォークソングの『小さな日記』ですら「山で死んだ彼」を偲んだ歌なのです。

                       *
 人々の生活が今よりずっと自然と密着していたあの時代、自然の極みとしての穂高や鎗ヶ岳などの高峰を踏破したい、という想いもまた強かったものなのでしょう。そんな登山ブームに支えられて、上に挙げたような「山の歌」の数々の名曲が生まれたわけです。中でも『坊がつる讃歌』は、それら山の歌の先駆けと言っていいほどです。

 『坊がつる讃歌』はそもそも、広島高等師範(現・広島大学)に新たに山岳部が創部された(昭和14年)のをきっかけに作られた『広島高師山岳部第一歌・山男』(昭和15年8月完成-作曲:竹山仙史)が元歌だったようです。

 この原曲に、昭和27年(1957年)の夏、坊ガツルにある山小屋の小屋番をしていた九州大学の学生3人が雨に降り込められ、所在なさに「替え歌を作ろう」となって坊ガツルをテーマとした訶をつけたのが、今日広く知られている『坊がつる讃歌』なのです。(現在登録されている作訶者:神尾明正、松本征夫)
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 坊ガツル(ぼうがつる)は、大分県竹田市にある標高約1,200mの高さに広がる盆地・湿原。九重連山の主峰久住山と大船等に囲まれており、阿蘇くじゅう国立公園に含まれる。坊がつる坊ヶつる坊がツル坊ヶツルなどとも表記する。名称の「坊」とは寺院(久住山信仰の中核である法華院。現在の法華院温泉)、「ツル」は平らな土地の意で、つまり法華院近辺の湿地帯といった意味の地名である。(『ウィキペディア』より)

 こうして作られた『坊がつる讃歌』は、坊ガツルやそこを囲む大船(たいせん)や三俣(みまた)といった山々の四季の情景などを詠み込んだ詩情豊かな歌詞となっています。

 なおこれは余談ですが―。
 九州大学生たちが替え歌を作った昭和27年は、その後山岳文学のバイブルのように読み継がれていくことになる串田孫一の『山のパンセ』が実業之日本社から発刊された年です(現在は岩波文庫)。九大生たちはこの書を既に読んでいて、それに触発されてこの歌の歌詞を作ったのではないだろうか?などと勝手に想像してしまいます。

 この歌が全国的に広く知られるようになったのは、昭和53年(1978年)6月、7月にNHK『みんなのうた』で採り上げられてからでした。歌ったのは芹洋子です。
 そもそも芹洋子がこの歌を歌うきっかけとなったのは、その前年の昭和52年夏の阿蘇山麓の野外コンサートでした。夜、芹が宿舎としたテントにギターを持った若者たちが遊びにきてこの歌を弾き語りして聴かせ、「コンサートで歌ってみたら?」と勧められたことによるもののようです。

                       *
 『坊がつる讃歌』は本来は9番まであります。ただフォレスタコーラスがそうであるように、1番から4番までを歌うのが一般的であるようです。

 『フォレスタの「坊がつる讃歌」』についてですが、実はnonnta様が既に以下のようにコメントしておられます。

 フォレスタの「坊がつる讃歌」は、(旧)フォレスタ女声4名による構成です。

4番まである歌詞を
中安千晶さん(1番)→吉田 静さん(2番)→白石佐和子さん(3番)→矢野聡子さん(4番)と、冒頭部を独唱し後半を合唱して歌い上げます。

4名それぞれの個性あふれる独唱と綺麗な合唱のハーモニーが大変素晴らしく、フォレスタ女声歌唱の中で人気が高いのも頷けます。 (転載終り)

 「以上で『フォレスタの「坊がつる讃歌」』についての一文を終ります。」
と言いたくなるほど適確なコメントで、フォレスタコーラス記者の私(?)は嫌になっちゃいます(笑)。

 このように、各女声が一つずつのパート独唱をしながら順々に歌い継いでそのコーラス曲を完成させるというのが、初代女声以来の女声フォレスタにおける基本スタイルの一つになっています。そうして歌われた歌として、当ブログで記事にした曲を中心に挙げてみれば、『花言葉の唄』『夏は来ぬ』『四季の雨』『搖藍のうた』『この道』『月の沙漠』『蛙の笛』などなど、ずい分あります。

 これは女声フォレスタ独特で、他のコーラスグループにはあまり見られない歌唱スタイルだと思います。上に挙げたどれもが素晴しいコーラスですが、一方ではある特定の人の独唱を中心とした曲も多くあります。この多彩なヴァリエーションは、メンバーすべてが音大卒で確かな歌唱力と声楽理論を身につけているからこそ可能となるわけです。

 (大場光太郎・記)

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英紙が1面でアベノミクス&安倍政治を酷評

-国内メディアと言えば、本日行われた内閣改造人事について、官邸リークによって早くから「ああでもない。こうでもない」と興味本位で報道してきた。人材払底で何ら変り栄えのしない、むしろ極右色が強まった今回の改造人事などどうでもいいのである。それよりも、以下のように英紙が取り上げたような本質的な問題について徹底的に追及すべきなのだ。かかる問題を国内メディアが伝えず外国メディアに酷評されるなど、恥かしいことである。-

                       *

 英紙が酷評…国内メディアが伝えない「アベノミクスの正体」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/153029
2014年9月1日 日刊ゲンダイ

 日本の大新聞より海外メディアのほうが、よっぽどアベノミクスの正体を見抜いている。英フィナンシャル・タイムズ(FT)紙は8月28日、29日と立て続けにアベノミクスへの疑問を報じた。

 28日は、安倍首相は経済政策で掲げた構造改革の約束を果たしていないとし、「未来につながる政策より、軍事的な復活に強い関心があり、真の改革者ではなかった」と断じた。

 29日は社説で追い打ちである。「アベノミクスは危うい」と言い切り、「安倍首相は平和憲法の解釈を変更するなど政治的な取り組みではなく、経済政策に集中すべき。大胆な政策に自分の名前を付けた人物に、寄り道している余裕などはないはずだ」と切り捨てた。経済政策に自分の名前を付ける神経を皮肉ったもので、世界が安倍首相をどう見ているかがよくわかる。

 海外投資家の動向に詳しい投資顧問会社エフピーネットの松島修代表が言う。

「海外のファンドマネジャーたちは、アベノミクスの本質をとっくに見極めています。3本の矢といっておきながら、放たれたのは1本目の金融緩和策だけです。ここへきて海外メディアもアベノミクスはハリボテだと気づき、報じ始めたのでしょう」

■消費増税延期を提言

 FT紙は、日本の経済指標を分析して記事をつくっている。4-6月期のGDPが6・8%のマイナス成長に陥ったことや、鉱工業生産(6月)が前月比3・3%減だったこと、サラリーマン給与総額(5月)の3・8%下落も見逃していない。

 こうした落ち込みを踏まえ、FT紙は3つの提言をした。さらなる金融緩和と、労働市場の改革、そして消費税増税(10%への引き上げ)の延期だ。

「遅々として進まない成長戦略に嫌気が差しているのでしょう。本丸の規制改革は進展せず、海外勢の求める市場開放は宙に浮いたままです。FT紙の苦言は的を射ていると思います」(IMSアセットマネジメントの清水秀和代表)

 市場や海外メディアがアベノミクスのウソに怒りを爆発させているのに、国内の大メディアは真実を伝えないどころか、「リニア9月中に着工」とか「カジノ解禁」などの官邸リーク情報をタレ流し、株価操作の“共犯者”になっている。

 ちなみにFT紙は1面を使って安倍首相批判を展開したことを付け加えておく。 (転載終り)

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