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最後の銀幕女優・原節子さん逝去す

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原節子さん死去…「青い山脈」、伝説の女優
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20151125-50238/1.htm
2015年11月26日(木)1時33分配信 読売新聞

 清純派の美人スターとして戦前戦後を通じて活躍した伝説の女優、原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが、9月5日に肺炎のため死去していたことが、25日分かった。

 95歳だった。近親者で密葬を行った。同居していたおいによると、原さんは8月中旬に入院するまでは、自宅の庭を散歩するなど元気だった。本人の希望で亡くなったことは伏せていたという。

 横浜高等女学校を中退し、1935年、義兄・熊谷久虎監督の縁で日活多摩川撮影所に入社。15歳で「ためらふ勿れ(なかれ)若人よ」でデビューした。「緑の地平線」「河内山宗俊」などを経て、37年、日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされ、大きな話題を呼んだ。

 戦後には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」、今井正監督「青い山脈」など名匠の作品に出演、日本人離れした彫りの深い美貌とはつらつとした明るさで人気女優の地位を確立した。特に小津安二郎監督「晩春」「東京物語」、成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」などの名作で、知的で優しい成熟した女性像を演じ、名実ともにトップ女優になった。 (転載終わり)


尾道における原節子と香川京子 (『東京物語』撮影合間のスナップか?)

 原節子さん出演の映画は、小津安二郎監督の名画『東京物語』くらいしか観ていません。これは昭和28年(1953年)公開でその頃私はまだ幼児でしたから、観たのはずっと後年の50代、ビデオで観たのです。その頃同じ小津作品の『晩春』も観ましたが、こちらは北鎌倉が舞台で、スローテンポの展開に痺れを切らし(?)途中で止めてしまったのが、今思うと残念です。

 『東京物語』については、以前の『春風』(作曲:フォスター)で触れました。唱歌『春風』にどうして『東京物語』?ということやあらすじなどはそちらを参考にしていただくとして、ここでは原節子さんとこの映画で共演した香川京子さんについて述べたくだりを転載してみます。

(転載開始)
 この歌とも、映画の本筋とも何の関係もありませんがー。
 原節子と香川京子の美しかったこと。二人とも美人女優ということももちろんあります。私が驚いたのは、戦後間もない昭和28年(松竹作品)のこの白黒映画の中の、二人の一つ一つの立ち居振る舞いの美しさです。それはさながら「生ける神々」といっていいような、芸術的な所作に思われたのです。

 映画上の演技ということはあるとしても、今の若い女性のみならず日本人全体が忘れてしまった、“奥ゆかしさ”が醸し出す気品ある美しさです。なおこの映画では「永遠の処女」原節子が脚光を浴びましたが、私個人としては若き日の香川京子さんの清楚な美しさにしびれました。
 こういう日本的な立ち居振る舞いの美を、当時この映画を絶賛した欧米人たちもしっかり観てくれたことでしょう。大震災後の我が国、さて今度はどんな日本美を海外に伝えていけるでしょうか。 (転載終わり)

 原節子さんとともに香川京子さんをベタ褒めしたきらいがありますが、とにかく印象に強く残るお二人の演技でした。その他にも笠智衆さんなど随所に光る演技があり、観終わった後の余韻深く、私としては「日本映画マイベストテン」はおろか「マイベストファイブ」に入ろうかという作品です。

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(『東京物語』より)

 これはお亡くなりになった原節子さんの名誉にも関わることですが、近代日本の歩みの一こまとして触れないわけにいきません。

 「永遠の処女」と呼ばれた原節子さんでしたが、「占領直後、原節子はマッカーサーの夜の相手をさせられたのでは?」というあらぬ噂が立てられたことがありました。

 それは今も根強く続き、今回の原さんの訃報により、以前の『昭和天皇の戦争責任(1)』が26日の当ブログアクセスランキングでダントツのトップになりました。その中にマッカーサーと原節子の関係をほのめかす記述があったため、「マッカーサー 原節子」などの検索フレーズでアクセスが集中したのです。

 「永遠の処女」原節子さんを汚すようで申し訳ありませんが、思い出してみてください。
『米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?』記事で述べたように、昭和天皇は極東軍事裁判で東条英機のヤバイ証言によって自分の身が危なくなったと判断するや、キーナン主席判事の下に選りすぐった宮中美女たちを差し向け、ハニートラップによりキーナン判事のメロメロ懐柔をまんまと成功させたのです。

 敗戦濃厚となった昭和19年2月、近衛文麿元首相(終戦の年の12月服毒自殺)は天皇に「速やかな終戦」の上奏文を提出しています。しかしそれを無視して戦争続行させたのが昭和天皇です。もしこの時点で決断していれば、3月の東京大空襲その他の全国空襲も沖縄県民たちの悲劇も広島・長崎への原爆投下もなかったのです。続行は「戦争ビジネス」上の欲得勘定だけ。昭和天皇ヒロヒトこそ超A級戦犯であり罪万死に値する売国奴です!

 もう遥か彼方の遠い時代のことですから事実がどうであったか、原さんご自身が告白手記のようなものを残しておられなければ永遠の謎です(多分残しておられないでしょう)。しかしもし仮にそういう事実があったとすれば、それをお膳立てしたのは昭和天皇もしくはその意を忖度した天皇側近しかないわけです。

 その頃巷では、「♪こんな女に誰がした~」が一世を風靡した『星の流れに』が大ヒットしていました。もし原さんがそうだったのなら、原さんに準ずるような女性たちも高級コールガールとしてGHQ将校たちにあてがわれたことでしょう。すべては「天皇御一身」の安泰のために。

 昭和天皇と天皇財閥、天皇軍閥、天皇政治屋によって、当時の国民すべてが「一億総被害」を受けたのです。

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(『晩春』より)

 さあ、話題を変えましょう。

 私の理解では、原節子さんは小津安二郎監督死去間もなく女優を引退されたのだったかと思います。・・・気になって『ウィキペディア』を調べてみましたが、やはりそうでした。その箇所を以下に転載してみます。

(転載開始)
1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。1963年12月12日、小津監督が東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津監督の還暦の誕生日だった)、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。晩年の原は鎌倉市で親戚と暮らしているとされた。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。 (転載終わり)

 戦後の日本映画界の巨匠・小津安二郎監督は、原節子の演技を高く評価し主演として使い続けたようです。思うに、単に監督と主演女優としての関係のみならず、二人はいつしか深い相思相愛の関係になっていったのではないか、と私は勝手に想像してしまいます。

 その中から生まれたのが名作『東京物語』であり、『晩春』だったのではないでしょうか。

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映画「小早川家の秋」(1961年)撮影中の小津安二郎監督(中央)と原節子さん

 高橋治氏は「原は小津の死に殉じるかのように公的な場から身を引いた」と表現したそうですが、小津監督の死をもって自分の女優人生を終わらせたことを思えば、これはある意味「殉死」だったと言えると思います。

 以後原さんはただの一度もテレビに姿を現わすことのなかった「銀幕オンリー」の稀有な女優です。気高いほどの美意識をお持ちだったのではないでしょうか。
 原節子さん。一時代を築いた銀幕女優らしい立派な出処進退、あらためて感服です!

 原節子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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