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野坂昭如と三島由紀夫

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 ひとまず「野坂昭如シリーズ」を終わるに当たり、野坂を語る場合欠かせないこの人物との関わりを見ていきたいと思います。

 その人物とは三島由紀夫。ただ野坂にとっての三島は、五木寛之や大島渚などの同志的関係とは大いに異なります。今回はその辺のところを見ていきたいと思います。

 まずはじめに二人の生年月日を確認しておきましょう。
三島由紀夫 1925年(昭和元年)1月14日
野坂昭如   1830年(昭和5年)10月10日 

 昭和が始まった年に生まれ年齢が昭和年号と一致する三島は、「昭和の歩みとともに生きた作家」などと評される事があります。対して野坂は、三島に5年遅れの昭和5年生まれです。二人にはほぼ5歳の差があるわけです。

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 しかしこのわずか5歳の差が二人にとっては思いもかけないほど大きな年の差だったように思われるのです。

 というのは、異常なほど早熟だった三島は、太平洋戦争直前の16歳の時『花ざかりの森』という短編を『文藝文化』に発表し、日本浪漫派同人たちから「天才が現われた」とこれ以上ない賛辞を受けます。また吉本隆明や芥川比呂志らも同短編を読み、「学習院に天才児がいるらしい」と噂になったといいます。

 そして終戦の年、東大法学部在籍中の20歳の三島は「世界の終わり」を予感し遺作のつもりで書いたという短編『岬にての物語』を文芸誌『群像』に発表します。

 私は30代後半の頃、上に挙げた2つの短編を遅まきながら読みましたが、老成さえ感じられ、とにかく20歳またはそれ以前ではとても書けるものではないと思いました。

 それもそのはず、戦争でいつ死ぬかもしれない10代の頃の三島が目標としたのは、フランスの夭折の天才作家レイモン・ラディゲ(1903年6月18日~1923年12月12日)で、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』は何度も繰り返し読み「少年時代の私の聖書だった」と後に述懐したほどなのです。目標とする対象が常人とは桁違いなのです。

 さて一方の野坂はどうだったでしょうか。
 代表作『火垂るの墓』の清太少年は自身がモデルと言われていますが、15歳で終戦を迎えた頃の野坂は作家の片鱗さえ見せていません。いやそれどころか1950年、20歳になってさえそうだったのです。野坂はその年に早稲田大学に入学し仏文科を専攻していくことになりますが、志望動機はフランス文学研究のためではなく、シャンソン歌手になるためだったといいます。

 しかしそんな野坂にも「物書き願望」はどこかにあったようです。いつの頃か特定できませんが、次のようなエピソードがあります。

 若い頃野坂は東京都下の三鷹市に住んでいた事があったそうです。すぐ前が禅林寺というお寺でした。といってもピンとこないかもしれませんが、この寺には太宰治の墓があるのです。そして太宰墓の向かいには森鴎外の墓もあるといいます。

 野坂は、その寺の様子などを記したファンレターを三島に送っているのです。諸事几帳面だったことで知られる三島はすぐに返事をよこし、そこには「太宰は大嫌いだ。どうぞ毎日鴎外先生の墓にお参りして太宰の墓にお尻を向けてください」と書かれていたといいます。

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 脱線しますが、三島の「太宰嫌い」は有名です。どれだけ嫌いだったのか。

 昭和21年12月、都内のある家で太宰を囲む酒会が催され、先輩作家に誘われた三島は「懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境」で参加したそうです。太宰の正面に座った三島は、太宰が上機嫌で繰り出す文学談義にじっと耳傾け、頃合いやよしと森鴎外についての意見を尋ねたそうです。

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 太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ」云々とけちょんけちょんにくさし、下戸の三島はしらふのまじめな顔で「(鴎外の)どこがいけないのか」と鋭く斬り込み反論を返します。しかし酔っ払った太宰はまじめに取り合わず、まるで議論はかみ合いません。

 三島の匕首が飛び出したのはその時です。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 三島はこの会に参加するにあたってそれを言おうと決めていた言葉を発します。
 対して太宰は、虚を衝かれたような表情をし、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」
と顔をそむけた後、誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
と言ったというのです。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰とのたった一度きりの対決となったのでした。

 野坂もさるもの、三島の太宰嫌いを百も承知で上のようなファンレターを出したのかもしれません。それに関連してずっと後年野坂は、「三島さんは太宰治のことを嫌っていたというけれど、本当に嫌いじゃないと思う。気になっていたんでしょうね」と語っています。

 確かに野坂の指摘どおりだと思います。当時の太宰は文壇の寵児、今でもそうですが当時から青少年に圧倒的人気のあった作家でした。密かに「日本一の作家」を目指していた三島にとって、太宰は乗り越えなければならない大きな壁だったのだろうと思います。

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 ちなみに三島は、戦後文壇デビューのきっかけを作ってくれた恩人の川端康成に、以下のような書簡を送っています。

(引用開始)
 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。(引用終わり)

 太宰治は1948年(昭和23年)6月13日、「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」という遺書を残して玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中しました。二人の遺体が発見されたのは奇しくも太宰の誕生日の6月19日でした。そして太宰の遺骨は三鷹市の禅林寺に納められたというわけです。なお太宰を師と慕っていた『オリンポスの果実』の作家・田中英光は、太宰の死に衝撃を受け、その墓の前で自殺しています(1949年(昭和24年)11月3日)。

 だいぶ脱線しましたが、野坂の三島へのファンレターの件に戻ります。
 これを出した時期は不明ながら、昭和25年、野坂20歳の年新潟から上京し早稲田大学に入学して以降であることは確かです。

 野坂は早稲田の学友の刺激もあったのか、いつしか「物書き願望」が芽生えていったのだと考えられます。でなければファンレターなど出さないでしょう。思うに、三島の出世作で代表作の一つ『仮面の告白』(昭和24年7月発表)を読み、矢も盾もたまらず、というところだったのではないでしょうか。

 野坂は後年、「僕らの世代には三島さんがいる。だから僕らの世代を代表する小説家は三島さん一人でいいかな、と思った」というようなことを書いています。野坂は、『仮面の告白』を読み、打ちのめされるほどの強い衝撃を受けたのではないだろうか、と私は推察するのです。

 何を隠そう、この私がそうだったからです。東北の田舎文学少年だった私は、高校卒業と同時に首都圏中小都市の当地に“出稼ぎ”でやってきたわけですが、心のどこかに「物書き願望」がくすぶっていました。そんな19歳の時たまたま『仮面の告白』を読んだのです。初めから終いまで圧倒されっ放し、『どう逆立ちしてもこんな凄い才能には適わないわ』と、物書き願望を木っ端微塵に吹き飛ばされたのです。

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 三島に限らず、芥川や太宰などの優れた作品を読んで作家志望を断念した後進者は数多くいたに違いありません。しかしそれはそれでいいことです。才能もないのに自惚れてのめり込むのは人生の浪費以外の何ものでもありませんから。

 しかし中には「なにくそ!」とたとえ打ちのめされても一つの願望を捨てない者がいるものです。だからこそ文学でも美術でも音楽でも連綿と続いているわけですが、他ならぬ野坂がまさにそうだったわけです。「三島さんだけでいいかな」とは思いつつ、反面どこかに「なにくそ、いつか三島なんか乗り越えて先に進んでやるぞ」という気持ちもどこかに持ち続けていたのではないでしょうか。

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 つまるところ「才能」などというものは実にあやふやなものです。東大の学生時代は文章が下手くそだったという志賀直哉が『城の崎にて』などの類稀れな名短編を著わしたように、結果的に大成して後「ああ彼にはやっぱり凄い才能があったんだ」と評価されることもあるわけですから。しょせん水ものの素質どうこうではなく、結局抱いた願望を最後まであきらめないのが「真の才能ではないか」とも思われるのです。

 野坂もその一人だったわけです。昭和31年、三島は話題作『金閣寺』を発表しましたが、それを読んだ26歳の野坂は「確かに凄い作品だが同時に三島さんの限界も感じた」と、後年述べています。何年かで、野坂の物書きとしての素地は確実に進化していたのです。

 それが結実したのが、昭和38年のデビュー作『エロ事師たち』。作家デビューとしては遅い33歳のことでしたが、雑誌『小説中央公論』に連載されたこの作品を激賞してくれたのが誰あろう三島由紀夫その人だったのです。

 (大場光太郎・記)

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