« 私の百冊 | トップページ | 「戦後レジーム(米国支配)からの脱却」を唱える安倍晋三が戦後歴代総理の中で最も突出した対米隷属者とはこれいかに! »

私の百冊(2)


  真理は汝を自由ならしめん。
  (ヨハネ福音書8-31)


『私の百冊』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-ddaa.html

 前の『私の百冊』では、私がこれまで読んできた百冊を挙げました。便宜上分けた区分によりますと、

  日本文学 27  外国文学33  詩集8  計68冊

となり、「文学書」だけで7割弱になります。

 人によっては思想書が主だったり、宗教書が主だったり、また理工系の人は科学分野の本が主になったりするのかもしれません。しかし私が挙げた国内外の文学書は、どなたも書名はお聞きになった事があるものばかりだと思うのです。特殊な本はほとんどなく、言ってみればどんな分野の仕事に従事していようと(あるいは今後従事しようと)いわば人生のベースになるような基本書だと思われます。

 また年代別区分では

 ○中学・高校時代 47 ◎それ以降から40代 33  ●50代から現在まで 20

となり、中学・高校時代が半数近くになっています。

 実際には、中学生で読んだのは『森鴎外作品』『芥川短編』『志賀直哉短編』『路傍の石』『吉川三国志』くらいなものでしたから、ほとんどが高校生の時に読んだものです。

 以前何かの記事で書きましたが、私の高校時代とは一言で「乱読の季節」と言っていいものでした。高1の秋に早々と「卒業後は就職」と決まり、またその頃所属していた運動部を退部したこともあり、乱読に拍車がかかりました。学校の勉強は元々嫌いな上に大学受験という目標もないわけですから、勉強に意義など見出せなかったのです。

 かと言って勉強もせず部活もせずでただブラブラしているのも嫌で、私独特の負けん気なのか、勢い読書に集中することになったのだと思われます。また『この機会を逃せば本を読む事ができなくなる』という危機感もあったようです。それで以後の2年何ヶ月かはまるで強迫観念に急かされるように本をむさぼり読んだのでした。

 今から考えればずい分荒っぽい読み方をしたものです。

 例えばダンテの『神曲』、これは高1の冬に読んだと記憶していますが、土曜日の半日授業を終えた昼過ぎすぐさま図書館に向かいこの本を借りました。帰りの汽車の中で早速読み出し、家に帰って夜遅くまで読み、翌日曜は終日読みふけり、まだ終わらないとみるや通学汽車の中で読み、さらに終わらず授業中も授業そっちのけで読み続け(苦笑)、ようやく読了。

 放課後また図書館に行き、今度は平日用の岩波文庫か何かの比較的短めの本を借りまた読み始めるのです。
 私の高校生活とは、おおむねそんなサイクルの繰り返しでした。

 今考えればはなはだ危うい読み方ですが、その時は一行も逃さずしっかり読みきったつもりだったのです。もちろんゆったり読後感に浸る余裕などなく、感想も記すことのない読みっぱなし。今回挙げた『赤と黒』『父と子』『罪と罰』『嵐が丘』(挙げなかったディケンズ『二都物語』、モーム『人間の絆』)などの大長編はだいたいその土日月パターンで読んだものです。

 ネット活用世代の割合と一致するということなのかもしれませんが、アクセス集計によりますと当ブログの世代別訪問者は、10代から30代で全体の80%以上を占めるようです。そこでこの世代の方々に言いたいと思います。
「今がチャンスです。良い本は若いうちに読んでおきましょう!」

 またまた私の体験で申し訳ありません。誰しも高校生の頃がもっとも多感な時代だと思いますが、私の場合もそうで、読む名作、名詩、(音楽の授業で)聴く名曲などに沸き立つような感動を覚えました。時には「サマーディ(法悦)」もかくやと思われるような忘我の境に入ったことすらあります。

 やはり私の予感は当たり、高校卒業後は思うように本は読めませんでした。それもあって、あの頃読んだ多くの本はその後ほんとんど読み返していません。その中で『桜の園』『みずうみ』を最近何十年ぶりで読み返し記事にもしました。確かにあの時よりは深い読み方は出来たかもしれません。がしかし、あの頃のような命の底から沸き上るような圧倒的感動は得られませんでした。

 ということで再度繰り返します。
「今がチャンスです。良い本は若いうちに読んでおきましょう!」

 これをお読みの方々に私は「このとおりの本を読みなさい」、また「私のような乱読をしなさい]などというつもりはありません。要はこの『私の百冊』を刺激剤として、お一人お一人に適った方法で読書意欲を掻き立てていただきたいのです。

 今興味のある本ならそれでいいわけです。別に名作・名著にこだわる必要はありません。

 さはさりながらながらさりながら。
 多くの「読書のすすめ」が共通して説いているのは「古典を読め」ということです。

 ある人は「今のベストセラーは読むな。どうしても読みたければ十年後に読め」とまで言っています。ベストセラー本のみならず、今流行しているモノは、あっという間に飽きられ忘れ去られがちです。その点、時という「厳正な審判者」を越えて今に読み継がれている「叡智の書」の価値を忘れないでいただきたいものです。

 私自身読みたい本がまだまだあります。中学生以来気になっていたゲーテの『ファウスト』は去年の晩秋ようやく読了しました。同じく中学生からいつかは読むべき本だったトルストイの『復活』を今読み進めている最中です。

 『古事記』『万葉集』『古今集』『論語』『旧約聖書』『法華経』『唐詩選』などは所々拾い読みしただけで完読していません。『イーリアス』(ホメロス)『マハーバーラタ』(古代インド叙事詩)『老子』『荘子』『孟子』『国家』(プラトン)などはまだ読んでもいません。

 西洋哲学はあまり深入りしたくはありませんが、『パンセ』(パスカル)『孤独な夢想者の散歩』(ルソー)などの基本的名著は読んでみたいものです。

 近代世界文学の最高峰とも言われる『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)はだいぶ前読みかけたまま、このままにしてはおけません。シェイクスピア四大悲劇では『オセロ』だけ読んでいませんから、今年中には何とか読みたいものです。  -完-

 (大場光太郎・記)
 

|

« 私の百冊 | トップページ | 「戦後レジーム(米国支配)からの脱却」を唱える安倍晋三が戦後歴代総理の中で最も突出した対米隷属者とはこれいかに! »

読書」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。