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永六輔さん逝去

71029

 最近体調不良とは風の噂で聞いていましたが、永六輔さんが今月7日逝去しました。享年83でした。

 告別式は11日、都内台東区の最尊寺で近親者だけでしめやかに営まれたということです。そしてこのお寺、実は永さんの実家だというのです。永家は代々同寺の住職を務めてきた家柄で、(同家の家伝によると)永家の遠祖は徳川時代初期の頃、中国から渡ってきた学僧だったということです。

「上を向いて歩こう」 (昭和36年 歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:中村八大)


 私が永六輔(以下敬称略)の名前を知ったのは、この歌が大ヒットしていた昭和36年頃だったと記憶しています。『上を向いて歩こう』。歌ったのは坂本九。そして作詞が永六輔で作曲が中村八大。その後この三人組は『明日があるさ』『遠くへ行きたい』などのヒット曲を飛ばし「六八九トリオ」と呼ばれることになります。

 『上を向いて歩こう』当時、私は郷里町の小学校6年生でした。ある時から、夕方になると当時お世話になっていた(山形県東置賜郡宮内町立)母子寮の廊下天井部に備え付けられたスピーカーから毎日のようにこの歌が流れていました。

 今改めて聴き直して「オールディーズ昭和」ノスタルジーにしみじみ浸っていますが、当時もとにかく鮮烈でした。以前「フォレスタコーラス」でも述べたことですが、学校の勉強は飲み込みが悪いくせに(苦笑)、最新流行歌は小学校低学年の頃からスラスラ頭に入りました。2、3度聞けば歌詞もメロディも覚え、口ずさめたのです。

 だからこの歌も「♪うえをむ~いて、ああるこおおお~、なみだが~こぼれないようううに~」と、軽快なテンポと坂本九独特の裏声までしっかりまねたつもりで口ずさみ、一人悦にいっていました(笑)。



 作詞家、永六輔を一躍有名にしたのは、この歌よりさらに2年前(1959年)の『黒い花びら』。当時新人歌手だった水原弘が歌ったこの歌は、この年から始まった『日本レコード大賞』(第1回)を受賞しました(作曲は中村八大)。

 もちろん永六輔は作詞家というだけではありません。その他にもラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家、元放送作家などマルチで多彩な才能を持った人でした。

 特にラジオには終生強いこだわりを見せました。戦後焼け跡時代の早稲田高校生の頃、永はラジオそのものに興味を持ち、焼け跡の金属拾いで換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオ(これも何と懐かしい名前だこと!)を組み立てるグループを作ったといいます。そしてそのグループのリーダーが「寅さんシリーズ」でおなじみの渥美清だったというのです。

 単なるラジオ作りだけでは飽き足らず、この頃からNHKラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになったといいます。以前の『野坂昭如と五木寛之』記事中で見たとおり、永六輔は1952年、早稲田大学第二文学部に入学しますが、同学年時『日曜娯楽版』発案者の三木鶏郎にスカウトされ、放送作家また司会としてデビュー、大学生活などバカバカしくなって(←多分)この年で同大学を中退しています。

 私が永六輔に親近感を覚えるようになったのは、20代後半頃からTBSラジオの『六輔七転八倒九十分』を聞いていたからです。当時は車で外回りの仕事をしていて、この番組はよく耳に入ってきました。永のウィットに富んだ、時に辛らつな語り口に魅了されたのです。

フォレスタの「見上げてごらん夜の星を」 (昭和38年 作詞:永六輔、作曲:いずみたく)


 (何かというとすぐ「私自身」の事を引き合いに出しますが、元々当ブログタイトルの『今この時&あの日あの時』は「私にとっての“今この時&あの日あの時”」というつもりだったので、どうぞ辛抱願います。)

 私はずっと昔、意外な場所で永六輔さんとばったり出くわしたことがあります。
 
 その場所とは渋谷駅近くの歩道橋上。時は昭和53年か翌年の冬の昼過ぎ頃。私の3年ほどの東京“職業”生活が始まったばかりの頃のことです。で、何で渋谷駅界隈をうろちょろしていたかというと、あのう、あまり大きな声では言えないのですが、「渋谷の場外馬券場に行くために」。

 30歳少し前なのに改めて土木設計技師を目指していた私は、米国大使館対面にある共同通信社ビル内にある某国際空港公団に潜り込まされました(イヤだったのに強制的に出向を命じられた)。私より1歳年上の先輩がチーフです。この人はM大卒の一級建築士、以前О建設という名の通ったところに勤務していただけあって仕事はバリバリ出来る人でした。

 こちとらは東京生活初めて、しかも仕事はズブの素人、ドギマギする事が多くありましたが、陰に日向にうまくフォローしてくれました。そして田舎者の私の気をほぐすためか、やれ株をやれと奨めたり、マージャンに誘われてはしっかりカモられたり、競馬を仕込んでくれたりした「ありがた迷惑な人」だったのです(笑)。

 株はやりませんでしたが、マージャンと競馬にははまりました。仕事が休みの土日でも渋谷の場外馬券場に馬券を買いに行くほどのめり込んでいたのです。それは土曜日だったかと記憶していますが、そんな折り、渋谷駅すぐ近くの歩道橋上でばったり永六輔さんと出くわしたというわけです。

 橋上には永さんと私の2人だけ。永さんは例の眼光でしっかり私を見ました。『上を向いて歩こう』などの作詞家であることも知っていましたし、かつてラジオ番組もしっかり聴いて敬愛する人だったわけですから、「こんにちは」の挨拶くらいすべきでした。しかし諸事物怖じするのが習い性だった当時の私は、すっかりどきまぎして無言のまま通り過ぎました。あるいは、これから向かう所への後ろめたい気持ちが心のどこかにあったのでしょうか。

フォレスタの「遠くへ行きたい」 (昭和37年 作詞:永六輔、作曲:中村八大)


 永六輔は日本各地への旅行を趣味の一つにしていたと言います。そういえば『六輔七転八倒』でもしょっちゅう「この前どこそこに旅に行き、かくかくの体験をしてきました」というような旅行談がけっこうありました。見知らぬ土地への旅から新たな気づきを与えられ、普段の日常では得られないシンクロニシティ現象が起こりやすいと言います。旅こそ、永さんの新しいインスピレーションの源泉だったのかもしれません。

 また特記しておきたいこととして、1974年(昭和49年)、永六輔は野坂昭如、小沢昭一と共に「中年御三家」を結成し日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ来日以来の大盛況だったと言います。この3人はいずれもかつて早稲田大学在籍者でした。『野坂昭如と五木寛之』記事中の同大学出身者リストから、野坂より1歳年上の小沢は外しましたが、3人のうちでまともに卒業したのは小沢昭一ひとり(第二文学部仏文科)なのです。

 この3人だけでも、当時の早稲田の自由闊達、バンカラ、反骨精神漲る気風・校風のようなものが伝わってきます(ただし今はどうか分かりません)。なおこの3人は2003年、NHKホールで「帰ってきた中年御三家」として再結成を試みるも、野坂は病気で参加できなかったようです。

 永六輔自身もその後パーキンソン病を患い、歩行困難となり顔がゆがみロレツが回らなくなるなど、苦しい闘病生活が続くことになりました。しかし1967年から40年以上続けてきた『六輔七転八倒九十分』は病室からのゲスト参加、収録という形で続けてきました。亡くなるまで同ラジオ番組を止めるつもりはなかったようです。

 上に挙げた人たちの中で、つい先ほど野坂昭如が世を去り、坂本九も中村八大もとうに亡く、このたび永六輔が亡くなり、かつて「輝きの戦後日本」にひときわ異彩を放った人々が次々にいなくなってしまいました。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」

 そんなこといわれても、永さん。こぼすまいと思っても涙がついこぼれてしまいますよ。でも、あの頃から50余年たってずい分変てこな世の中になってしまいましたが、つとめて「上を向いて歩いて」いくようにしますね。

 永六輔さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

参考
ウィキペディア「永六輔」の項など
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94
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