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【広島忌】なぜ広島に原爆が投下されたのか

-以前『俳句鑑賞』カテゴリーで「秋の字に永久(とわ)に棲む火やきのこぐも」(三橋敏雄)という俳句を取り上げた。8月6日のきょうは「広島忌(広島原爆忌)」である。今年の立秋は8月7日らしいが、例年は6日が多い。それで広島忌は秋の季語として定着しているのである。上の句は同忌が「秋」であることに着目した意外性のある秀句である。さて既にどなたもご存知のとおり、71年前のこの日朝8時15分頃、米軍機エノラ・ゲイから人類史上初となる(ウラン型)原子爆弾が広島市街地に投下された。広島の街は一瞬にして広範囲に破壊され、当時の広島市民の約半数となる14万人の死者・行方不明者が出た。今回転載する『平和記念資料館(東館)』サイトが、そこに至る概略を分かりやすく記述しておられる。そのとき被曝され、後年原爆症で亡くなられた方々もずい分おられた。昭和30年代少年の私などは、小学校の時から原爆の恐ろしさを教えられて育った。しかし、9日の長崎原爆(プルトニウム型)もそうだが、これだけの長い歳月が経過すると被曝した生存者も少なくなり、類を見ない悲惨な体験の語り部がいなくなりつつある。それに反比例するように近年、安倍晋三をはじめ小池百合子、稲田朋美など、わが国の核武装を堂々と唱える勢力が増えつつある。そしてこの勢力はまた強力な原発再稼動派でもある。原発の使用済み核燃料を再処理し、核兵器転用可能なプルトニウムが容易に抽出できるから原発は廃止したくないのだ。戦争賛美も根っこは同じたが、核保有論を唱える者たちはいずれも「戦争をまるで知らない世代」である。戦争&核被曝の恐ろしさ、悲惨さを思い描くイマジネーションなく、それをリアルに描いた体験記も読んだ事がないに違いないのだ。ただ脳内で戦争&核をいじくりまわし、百田某の三文小説『永遠の0』など偏ったもののみ読んで自慰的に賛美しているだけなのである。これは何度も述べたことだが、古今の歴史の教訓として、再び戦争を始めるのはこのような戦争を知らない世代なのである。「ああ許すまじ原爆を 三度(みたび)許すまじ原爆を」。広島・長崎を風化させてはならない! (大場光太郎・記)-

【「原爆の絵」より】

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①爆心地から1.2キロ 女性が口を開けて動かなかったがその口の中には、うじがわいていた。
②爆心地から1.5キロ 鉄橋の下には水を求め川に入った人がそのまま3-4倍にふくれた姿でひしめいていた。まるで地獄絵図。
『神通力おかみ』サイトより拝借)

原爆を許すまじ
作詩 浅田石二 作曲 木下航二
合唱 アンサンブル・ヴェルソー アコーディオン:水野弘文

(まだ一度も聴いたことのない若い人たちこそ、是非聴いていただきたい。)

藤山一郎 長崎の鐘(クラシック歌謡)   

(こちらの歌も。この2曲は類稀な「祈りの歌」といえよう。)


なぜ広島に原爆が投下されたのか
平和記念資料館(東館)
http://www.hiroshima-spirit.jp/ja/hiroshima/shiryoukan/morgue_e12.html

■なぜ広島に原爆が投下されたのか■
▽マンハッタン計画▽
●原子力の発見と第二次世界大戦
       1938(昭和13)年12月、ドイツで原子の核分裂が発見され、その後、核分裂の際に大量のエネルギーを放出することが確認されました。原子力の発見です。翌年9月に始まった第二次世界大戦は各国とも国を挙げた総力戦となり、科学の進歩とともに兵器の開発も目覚ましく、航空機などの性能は飛躍的に向上しました。こうした中、原子力は爆弾に利用されました。

●新型爆弾の開発に着手
       ナチス・ドイツの迫害から逃れるためアメリカに亡命したユダヤ系科学者のレオ・シラードらは、ドイツが核分裂を利用して新型爆弾を開発しているのではないかと恐れました。このため、著名な科学者であるアルバート・アインシュタインの署名をもらい、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に新型爆弾の研究を促す手紙を送りました。ルーズベルトはこれを認め、1939(昭和14)年10月、アメリカは原爆の研究に乗り出しました。

●太平洋戦争のぼっ発
       1941(昭和16)年12月、日本軍はマレー半島へ上陸するとともに、ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃して、太平洋戦争が始まりました。日本は開戦後しばらくの間優勢でしたが、翌年6月から次第に劣勢となりました。

●マンハッタン計画
       1942(昭和17)年8月、「マンハッタン計画」と名付けられたアメリカを中心とする極秘の原爆製造計画が始まりました。軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業でした。44年9月にはこの新兵器を日本に対して使用することを決めました。
       3年の歳月と20億ドルの経費をかけて原爆は完成し、45年7月16日、西部ニューメキシコ州の砂漠地帯にあるアラモゴード実験場で、世界最初の原爆実験を成功させました。人類は、原子力を用いた武器を手にしたのです。広島に原爆が投下される、ほんの3週間前の出来事でした。45年5月までに、ドイツは無条件降伏し、戦況は連合軍の圧倒的な勝利に傾いていました。      
       
▽急がれた原爆投下▽
  1943(昭和18)年5月、アメリカが原爆投下の対象に想定していたのはドイツではなく日本でした。翌年9月、アメリカとイギリスの首脳は日本への原爆使用を合意しました。米国が原爆投下を急いだ理由は、次の3点にあると思われます。      
       ・日本をできる限り早く降伏させ、米軍の犠牲を少なくしたかった      
 ・1945(昭和20)年の米、英、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていた。米国はソ連の対日参戦より前  に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていた      
 ・アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったと同時に、膨大な費用を使った原爆開発を国内向けに正当化したかった
▽広島が原爆投下目標に選ばれた理由▽
  1945(昭和20)年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始めました。投下目標は、原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選び、空襲を禁止しました。7月25日には目標都市の広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに対する投下命令を下しました。広島を第1目標とする命令を出したのは、8月2日。それは目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたためです。
 また、終戦までに日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど壊滅状態でした。そのなかで、広島はまだ決定的な被害を受けていませんでした。広島が原爆投下の目標に選ばれた理由には、次の2点も考えられます。      
       ・都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の破壊力を探るのに適していたため。広島はまだ空襲を受けておらず、原爆の威力を確認しやすかった      
 ・広島には軍隊、軍事施設、軍需工場が集中しており、それらがまだ破壊されずに残っていた。8月6日、広島の天気は晴れ。広島の運命は決まりました。

①入念に行われた投下目標の検討
       投下目標は、軍人と科学者で構成する目標検討委員会で、軍事的観点から検討されました。1945(昭和20)年4月27日の第1回会議で目標地域の選定基準が決まり、17地域が研究対象として選ばれました。その後、投下目標の選定は、爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で進められました。5月11日の第2回会議で、京都、広島、横浜、小倉の4つの目標が選ばれました。

②投下目標都市への空襲の禁止
       アメリカ軍による日本本土への本格的な空襲は、1944(昭和19)年11月から始まりました。翌年3月からは、東京など大都市への無差別爆撃が始まりました。5月28日には、原爆の効果を正確に測定できるよう、同規模の都市が空襲を受ける中、投下目標都市に対する空襲が禁止されました。

③警告無しの使用の決定
       アメリカのトルーマン大統領の承認の下、19455(昭和20)年5月に暫定委員会が設置されました。6月の会議で、原爆の使用について、「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと決められました。これに対し開発に携わった科学者の一部は、無警告の原爆投下に反対しました。

④原爆の模擬爆弾の投下
       原爆はそれまでの爆弾と投下方法が異なるため、アメリカ国内の砂漠などで、繰り返し投下訓練が行われました。さらに実戦面の訓練として、地理に慣れ、目標へ確実に投下するため、1945(昭和20)年7月から8月にかけて目標都市の周辺地域に原爆の模擬爆弾(通称「パンプキン」)を投下しました。

⑤第1目標に選ばれた広島
       原爆の投下命令は、1945(昭和20)年7月25日付で発令されました。それには、8月3日ごろ以降、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに原爆を投下するよう記されていました。その後、新潟を除外し、8月2日付で、攻撃日を8月6日、第1目標は「広島市街地工業地域」とする命令が出されました。これは、目標都市の中で唯一、広島に連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたからです。

⑥広島の運命を決定した好天
       原爆投下は、当時最も信頼された目視で行うこととされていました。1945(昭和20)年8月6日未明、マリアナ諸島のテニアン島から気象観測機が広島、小倉、長崎に向かい、その後原爆を搭載した「エノラ・ゲイ」と科学観測機、写真撮影機の計3機のB29が離陸しました。第1目標が好天との連絡を受けた「エノラ・ゲイ」は、広島に向かいました。照準点は市内中心部にあるT字型の相生橋。午前8時15分に投下された原爆は、相生橋の南東約300メートルにある島病院の上空約600メートルでさく裂しました。
▽原爆投下目標にされた都市▽
<投下目標の変遷(1945(昭和20)年)>
4月27日 投下目標の研究対象として、東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保の17地域を選定
5月11日 京都、広島、横浜、小倉を選定
5月28日 京都、広島、新潟に対し空襲を禁止
6月14日 小倉、広島、新潟を選定
7月25日 8月3日ごろ以降、速やかに広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ原爆を投下する命令
8月 2日 8月6日に投下する命令。優先順位は広島、小倉、長崎
8月 6日 広島へ原爆投下(ウラン爆弾)
8月 8日 8月9日に投下する命令。優先順位は小倉、長崎
8月 9日 長崎へ原爆投下(プルトニウム爆弾)

<8時15分で止まった時計>
tokei1945(昭和20)年8月6日午前8時15分- 
これは広島の、いや世界の永遠の刻(とき)です。
▽被爆前と直後のパノラマ模型▽
chokuzen

  <被爆直前>

前夜(8月5日)…1945(昭和20)年8月5日の夜から6日の早朝にかけて、警戒警報・空襲警報がたびたび出され、市民は不安な一晩を過ごしました。6日の朝になってようやく警報が解除されて、街には職場に急ぐ人びと、疎開作業に動員されて現場に向かう人びとなど、月曜日の朝のふだんの生活にもどっていました。

街並み…2つの川(本川と元安川)にはさまれたこの地区は、幕末から明治・大正期にかけて市内の繁華街・歓楽街の中心で、中島本町通り商店街には大きな店舗が並んでいました。木材の集散地であった材木町・木挽(こびき)町、商店街としての天神町・元柳(もとやなぎ)町・中島新町、そこには歴史の古い寺院も多く立っていました。しかし、当時は空襲を警戒して天神町、木挽町、中島新町は、建物疎開がすすんでおり、中島や本川国民学校の児童たちの一部は、郡部に疎開していました。

空襲…1945(昭和20)年になると米軍はB29大編隊による夜間の無差別焼夷弾(しょういだん)攻撃を始め、全国各地の中小都市にまで攻撃を繰り返していました。広島は空襲らしい空襲を受けていませんでしたが、大規模な空襲に備えて火災の延焼防止と避難空地をつくるために木造家屋を取りこわし、また、町内会や家庭ごとに防空壕(ごう)をつくって、消火訓練や避難訓練などをしていました。 

cyokugo

<被爆直後>

被爆(8月6日)…1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、それまでの広島は絵にかいたように美しく、静かな街でした。次の瞬間、目をくらますほどの閃光(せんこう)が走り、ドカーンという大音響とともに、たった1個の爆弾が広島の街を焼きつくしました。街全体が、一瞬にして破壊されました。爆心地から半径2キロメートル以内にいたほとんどの人々が亡くなり、建物も破壊されました。その年の終わりまでに、推定14万人前後の人々が亡くなるか行方不明となり、その数は、当時の市民約35万人の内のおよそ半分に相当します。

火葬…どこのだれとも見分けがつかなくなった、おびただしい数の焼けた遺体は、その場で火葬するしかありませんでした。その間も死者は増えていきました。昼も夜も、市内のいたる所で遺体の上にまた遺体が積み上げられ、そして火葬されました。

焼け野…見わたすかぎりの焼け野原となった広島では、広島駅から宇品の港が見えたと言われています。市外から身内の安否を気づかって、または救援活動のため市内に入った人々が、残っていた放射能の影響を受け汚染されました。さらにこの年の秋、原爆の悲劇に追い打ちをかけるように枕崎(まくらざき)台風が広島を襲い、街は水びたしになり大きな被害を受けました。


(転載終わり)   


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