漢字文化圏の縁にいた日本はなぜ漢字を捨てなかったのか
-「漢字文化圏の縁にいた日本はなぜ漢字を捨てなかったのか」。言われてみれば確かに。本転載文にあるとおり、昔々は中国は言うに及ばず、朝鮮半島や東南アジアまで広く使われていた漢字だが、今でもほぼ昔どおりに漢字を用いているのは古(いにしえ)の「中華文化圏」で海を隔てた辺縁国・日本だけになってしまった。本場の中国は第二次世界大戦後(1949年10月1日)、中華人民共和国としてスタートしてから漢字の略字化がどんどん進み、中には元の字体とは似ても似つかぬものになっている字が多い。確かに漢字には画数も多く難解な字が多いことも事実だ。公式文書でも一般庶民の伝言メモでもそれで埋め尽くされた日にはえらく難渋するに違いない。そこで当時の中国共産党幹部らは、「このまま漢字を使い続けていればこの国の発展が著しく阻害される」と考え、漢字の簡略化に踏み切ったのだろう。それで正解とも不正解ともよその国の者が言える立場ではない。が、下に掲げた画像のような流麗かつ正式な漢字を見るにつけ、本家本元が元の漢字を失ってしまったことに一抹の寂しさを感ぜずにはおられないのである。
そのような次第で唯一漢字が残されたわが国であるが、転載文からもお分かりの通り、決して順風満帆な道のりではなかった。江戸時代、幕末や終戦直後など何度も「漢字の危機」があったのだ。特に終戦直後の占領軍支配下での危機は深刻だったという。が、先方の機先を制して当用漢字音訓表を発表し、漢字はかろうじて守られた。守ったのはおそらく文部省(当時呼称)を中心とした役人なのだろう。今日の前川喜平氏(前文科省次官)のような気骨ある役人や政治家が当時は結構いたということだ。鑑みれば、日本は漢字、それを元にわが国独自に作られたひらがな、カタカナ、この三者使い分けが絶妙な文化的効果を発揮してきた。加えて漢字自体にも音読み、訓読みの二通りある。奈良・平安朝以来のわが国独特の文化の開花は、このような日本語の絶妙な組み合わせなしでは考えられなかったのである。超難解な漢字にはひらがななどでルピを振ったり、さもなくばひらがなにしてしまえばいい。明治期以来急激に入ってきた外来語にはカタカナで対応と、どんな言語にも即応できるなど、日本人の思考の無限拡大に寄与してきたのが漢字を土台とした日本語なのである。明治期の欧米列強と肩を並べるまでの躍進ぶり、戦後の目覚しい経済発展、そのいずれにも「日本語の力がベースにあった」と指摘されている。が、今はどうか。時の国家指導者が漢字が読めず、「でんでん」だの「みぞゆう」だのとやらかす始末。「上の如(ごと)く下も然(しか)なり」(トート・ヘルメスの定理)。今現在こそ、漢字を含めた日本語及び文化衰退、崩壊のまこと由々しき危機を迎えているのである。 (大場光太郎・記)-
漢字文化圏の縁にいた日本はなぜ漢字を捨てなかったのか―中国メディア
http://www.asyura2.com/17/china12/msg/574.html?c6
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 2 月 17 日 03:57:40
13日、澎湃新聞はこのほど、「漢字文化圏」の国が続々と漢字を廃止してきた中で、日本だけが漢字を残してきた経緯について紹介する記事を掲載した。資料写真。
漢字文化圏の縁にいた日本はなぜ漢字を捨てなかったのか―中国メディア
http://www.recordchina.co.jp/b570021-s0-c60.html
2018年2月16日(金) 16時20分
2018年2月13日、澎湃新聞はこのほど、「漢字文化圏」の国が続々と漢字を廃止してきた中で、日本だけが漢字を残してきた経緯について紹介する記事を掲載した。
中国を中心とし、日本や朝鮮、ベトナムなど東アジアから東南アジアにかけての地域はかつて言語文字として漢字を使用する「漢字文化圏」が形成されていた。しかし、近代以降欧米列強のアジア進出などにより約1世紀の間に「漢字文化圏」は解体状態となった。
記事は、日本では江戸時代から漢字廃止論が存在し、蘭学者の西川如見が提唱していたほか、幕末の1866年には後に日本郵政の父と呼ばれる前島密も「日常および公私の文章より漢字を排除」することを提起していたと紹介。そして明治に入ると文明開化に伴う急速な西洋文化流入の影響を受け、清朝の弱体化の原因として漢字がやり玉に挙がるようになり、漢字の廃止が盛んに叫ばれたとしている。
また、日本において最大の漢字廃止の危機は、「1945年の敗戦によってもたらされた」と説明。「戦後の日本の改革を主導した米国人は、日本語をローマ字化することにより日本人の思想をコントロールしやすくするとともに、日本政府官僚たちのやり取りをより厳しくチェックできると考えた。そしてこの動きには当時の新聞社も付和雷同し、漢字の廃止を呼び掛ける文章さえ掲載した」とした。
そのうえで、「幸いなことに当時の日本政府は漢字が国体護持の最後の砦と考えており、珍しく占領軍の意志に背いた。46年に1850字からなる当用漢字音訓表を発表し、そこから漢字仮名交じり文を法律条項、公文書、メディアにおける使用文体として規定する道を進んだ」と説明している。
そして、81年には「わが国が長く用いてきた漢字仮名交じり文体は、わが国の社会、文化を最も効果的かつ適切に表記する文字であり、今後も充実させる必要がある。漢字の造語能力は高く、語義が明晰(めいせき)である一方、使用量が多すぎれば表現上、理解上の誤解を生じかねない。この特徴をつかんでこそ、わが国の文字表記はより豊富で優美なものになる」と定義され、漢字の地位がついに定まったのだと記事は解説している。(翻訳・編集/川尻)
【阿修羅掲示板投稿へのコメントより】
1. 2018年2月17日 06:57:52 : yKG268mt7E : mIghEAFDs9c[37]
単に便利だから使っているだけだよ。
「訓読み」なんてものを発明したので、同音異義語になる外来語も意味を誤らずに使える。
仮名文字(これも漢字由来だが)だけにしてしまえば、ハングルだけの韓国と同じ悲哀を感ずることになる。
欧米外来語をカタカナで表記するなんていうのも、「訓読み」の延長線上にある発想ではないか。
3. 無段活用[1860] lrOSaYqIl3A 2018年2月17日 14:49:54 : ocXWsXn2uI : gY7Je9CKlL8[3]
かんじはひょういもじで、つまりは「えもじ」だから、みただけでそこになにがかかかれてあるかがしかくてきにわかります。
かんじとかなもじがこうかてきにつかいわけられていると、ぶんしょうをよむすぴーどがかくだんにちがいます。
↑
漢字は表意文字で、つまりは「絵文字」だから、見ただけでそこに何が書かれてあるかが視覚的に分かります。
漢字と仮名文字が効果的に使い分けられていると、文章を読むスピードが格段に違います。
…でしょ?
4. 2018年2月17日 18:54:57 : GtKiigYRrE : J1zVX1W3Wag[148]
和語だけだと、語彙不足で困るよ。
アメリカ人がやたら「ファック・ユー」「ジーザス」「オーマイゴ」て言うしかないように、我々は「あわれ・・・」「いとおかし」「かわい~」と言うしかないなんてねw
5. 2018年2月18日 16:53:43 : riwgxq1iJ6 : Bd5Q3wVbe7A[1647
素晴らしいことではないか。民族の矜持である。あほでんでんやアホ太郎が廃止を言い出すやも知れず。馬鹿がいると大変である。日本人の資格さえないおそまつ政治屋は国体を破壊するやもしれず、。
(転載終わり)
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コメント
日本語で殆どの思い浮かぶことや事象を言葉・文字で表すことが出来る幸せを感じる事があります。漢字仮名文字があるからこそ日本は直裁に物事を相手に伝えることが出来ると思います。
敗戦後、作家 志賀直哉は単なる思いつきかも知れませんが、日本の言葉をフランス語にしたら良いと提唱したようです。日本語危うしでしたね。
投稿: 肥筑 | 2018年2月27日 (火) 11時48分
肥筑 様
コメントありがとうございます。
前段でお述べになっておられることはすべて同意です。私などは基本日本語しか知らない、話せない口であるせいかもしれませんが、日本語は世界でもっとも優れた言語、英語よりもさらに国際共通語として世界中で使用されるべき「和の言語」と密かに考えています。
後段については初耳で、えっと驚く話ですね。あの志賀直哉が日本語をフランス語にしたら、と考えていたとは。
私は(昭和30年代後半)中学3年の時の国語の授業で、先生から「もし日本語が世界的に広く認知されている言語だったら、志賀直哉はとうの昔にノーベル文学賞を受賞していた」という話を聞きました。その後の半生で、志賀の名作短編『城の崎にて』等を何度か読み返してきましたが、確かにその感を深くしたものでしたが。
そういえば当時、仏文学の権威だった桑原武夫だったかが、突如「俳句は文学ではない」論を出して大センセーションを巻き起こしたようです。志賀直哉の本意がどこにあったのか、知りたくなりますね。
投稿: 時遊人 | 2018年2月27日 (火) 18時55分