-今回は東海アマ氏による優れた論考記事を以下に紹介する。「末は博士か大臣か」と夢想していた人間、確かにいたよなぁ。昭和40年代半ば過ぎのある年、私より3歳年上のある人からの賀状にそう書いてあった。この人は当厚木市のニューリーダーと目されていた人で、当ブログ記事でも以前書いたが、この年の市会議員選挙に立候補し私なども駆り出された(結果は落選)。今では土建屋の社長に収まっているが、この人も東海アマ氏のいう「権威主義の呪縛に洗脳された人」の一人だったのだろう。さてこの日本という国は、良し悪しは別として独特なヒエラルキー構造を有している。その源はやはり「天皇制」であろう。頂点に天皇家が厳として存在し、最底辺に被差別部落民がいる構造だ。しかし何かの本で読んだのだが、天皇家と部落民は根っこのところでつながっているという。元をたどればどちらも“渡来系”という共通項があるというのだ。東北出身の私は高校時代、島崎藤村の部落民をテーマとした『破戒』を深い感銘とともに読了したが、縄文系の多い土地柄、被差別の部落民など身近で聞いたことはなかった。そういえば関西地方に部落問題が最も多く見られるが、これは古来からの天皇家の勢力範囲と見事にリンクするわけである。天皇家という「聖」の存続にとって、部落民という「卑」の存在はどうしても不可欠だったらしいのだ。よって部落民問題は天皇家が続く限り真の解決を見ない、いわばこの国にとっての“宿痾(しゅくあ)”のようなものなのかもしれない。 (大場光太郎・記)- 【追記】 転載文途中まことに勝手ながら、文中で紹介されている岡林信康の『手紙』動画を挿入しました。立身出世主義 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2100268.html#more 2019年03月08日 06:11 大摩邇 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-671.html 東海アマブログ <転載開始> 私の子供時代、世の中の価値観は、まだまだ「末は博士か大臣か……」の権威主義の呪縛に洗脳された人が大多数だった。 人間社会の頂点に、天皇家があって、底辺に、部落民や死刑囚がいて、貧乏人がいて、中産階級がいて、特権階級がいて……と際限のない差別の重層構造があった。 これは一種の信仰に近いもので、ちょうど水戸黄門が印籠を振りかざして、悪代官をひれ伏させるテレビ番組が、日本では圧倒的な人気を誇っていたわけだが、「権威が民衆を救う」かのような妄想は、西洋キリスト教における、「メシアを拝めば救われる」という発想と同等のものである。 社会のあらゆる価値の序列が、価値観の基準になり、学歴でいえば、東大を頂点として、無学歴者・中卒者を底辺とするピラミッドがあって、自分がそのなかの、どこに位置するのかわきまえるのが分別であるとされたものだ。 とりわけ企業内では、この種の権威を信奉する秩序が重視され、学歴のわずかな違いも、出世や人間関係に大きく反映したものだ。 だから、私の記憶では、1960年代、出生地域が「部落名鑑」に記載された被差別地帯であったり、在日朝鮮人であったりすると、どんなに成績が優秀でも、人間性が卓越していても関係ない、「表札が悪い」と一蹴され、普通の企業から採用を拒否された。 当時の人間を定める価値は、断じて実力ではない、アホでもいいから表札=看板に権威があればよかったわけだ。
私=東海アマを、ネットで検索してみると、私が、詐欺師であるとか、嘘つきデマ屋であるとか誹謗中傷をずらり並べたサイトが、実にたくさん出てくるが、そのなかでも共通するのが、私を「中卒」と決めつけて中傷する連中である。
こうした誹謗中傷を調べてゆくと、多くが自民党本部と同じIPアドレスを使っていて、ほぼ全部が、安倍晋三の熱狂的な支持者によるものであった。
つまり、中卒というのが、人間をもっとも小馬鹿にし、見下す表札=レッテルの一つだと信じられているのが、自民党の関係者、支持層なのである。
権威など存在しない私を、ここまで熾烈に誹謗する理由は、2011年以降、私が原子力産業の反社会性を糾弾し続けてきた成果であろう。
この膨大な誹謗中傷のおかげで、原子力産業や自民党支持者の、人間性の底まで見渡すことができて、彼らの大半が、知能に劣り、知性や分別さえもない、人間として信用してはならない集団であることを、骨の髄まで理解することができた。
ところが、彼らの信奉する安倍晋三の学歴はといえば、神棚に飾って拝むような東大どころか、成蹊大の裏口から入って裏口から出ていることが判明するので、実に不可解である。
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岡林信康 手紙
VIDEO
『手紙』 岡林信康 1969年
https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=lbiCLUwFwTY 私の好きな みつるさんは
おじいさんから お店をもらい、二人いっしょに 暮らすんだと、うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら、お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの
私は彼の 幸せのため、身を引こうと 思ってます
二人はいっしょに なれないのなら、死のうとまで 彼は言った
だからすべて 彼にあげたこと、くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても
もしも差別が無かったら、好きな人とお店が持てた
部落に生まれたそのことの、何処が悪い何が違う
くらい手紙になりました、だけど私は書きたかった
だけども私は書きたかった
上は、1969年、私が高校生時代の岡林信康の名曲だが、これを聞いて、私は激しい衝撃を受けたことを覚えている。いろいろ調べてゆくうちに、これが近江八幡市で起きた実話であることを知り、ますます強烈に憤り、それ以降の、私の思想、人生観を決定したといってもよい。
当時、私自身も、総評(愛知労働評議会)の幹部であった父親から、立身出世主義の価値観による、「いい大学に入って権威ある立場になれ」と不愉快な薫陶を受け続けてきたので、少なくとも父の望まない、権威の対極にある真実の世界に向かうことを、この曲は決定的に後押ししてくれたのだ。
当時、私は名古屋市中村区に実家があり、近くの城西病院の西側には、江戸時代から続く未解放部落があり、調べてゆくと、自分の住む地域が、どうやら江戸時代に表舞台には出せない不可解な地域であることが分かった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-350.html 私は学校に行くと、大門に縄張りを持つヤクザ子弟からイジメを受けたのだが、彼らから「四つ」と呼ばれた。最初はチンプンカンプンだったが、「四つ足」つまり獣の意味らしい。
なぜ、そんなことを言われるかというと、家の近所にあるカラスの森という地名とか、用水沿いにホルモン焼きの臭いを漂わせる集落とかが、獣に関係する仕事をしていた事情かららしかった。
これが、私が部落問題にのめりこむきっかけであった。
父が、この土地に家を建てた理由は、名古屋市内の他の場所よりも格段に土地が安くて、安月給の蒸気機関車運転手だった父親の、職場に近くて、安価に買える土地が、ここしかなかったからである。
しかし、異様に安いことには理由があった。名古屋という都市は、名古屋駅よりも西側の地域=中村区の土地価格が異様なほど安く、世界的な大都市であるにもかかわらず、名古屋駅西口の開発が極端に遅れている事情を、多くの人が訝るのだが、もちろん、本当の理由は、上に述べた、中村区と未解放部落の関係性である。
その後、日本政府も自治体も、すべて足並みを揃えて、見せかけの同和対策、すなわち部落問題に対する徹底的な隠蔽を図り、公共図書館の歴史的資料さえ、改竄してしまうような暴挙に出た。
しかし、この効果は強力で、1980年頃から、教科書や辞書からも、部落問題に関するあらゆる表現=例えば、部落・屠殺などの言葉が消され、今利用している一太郎の変換さえ出てこない=あたかも部落が存在していないかのような、歴史的事実さえも消してしまった。
驚いたのは、私の実家の江戸時代の地図まで、周辺が白抜きに消され、情報が削除されていたことである。
上に紹介した、岡林信康の手紙に出てくる女性は、部落出身であることが知られたら、婚約者の実家に猛烈に反対されたときの悲しい心情を手紙に残して自殺したが、こうした悲劇は、行政の隠蔽姿勢によって消えたのだろうか?
私の知る限り、差別への思いは隠蔽すればするほど地下に深く潜行し、2019年の今でも、部落差別は決してなくなってはいない。
https://synodos.jp/society/20420 我々は、小泉純一郎政権で、日本国内の格差を極端に拡大した悪魔が登場したのを目撃した。その名を竹中平蔵という。
竹中は和歌山市内の履物屋の息子である。日本で、部落差別が激しく残されている土地を言うと、奈良県・岡山県・和歌山県・滋賀県・三重県であろう。
和歌山で履物屋といえば、土地の人には瞬時に階級が浮かぶ。竹中平蔵は、部落出身者だと分かるのだが、彼の行った政策は、その階級差別を歴史上最大級に激化させる新自由主義の差別政策であった。
小泉政権までは、年収180万円は非課税だったのだが、この底辺の生活苦大衆にさえ一割の課税を行ったのが竹中平蔵なのだ。
竹中兄弟は「金の亡者」で知られるが、一方で、貧しい人たちを、これほど苦しめる為政者も過去にいなかった。竹中が登場したことで、日本の差別は10倍以上拡大したとも評されている。
自民党は、黄門様を崇める自民党支持者の価値観である立身出世・権威主義を信奉する政党であった。
「末は博士か大臣か」
の立身出世価値観を神棚に奉って、毎日参拝するような集団だったのだが、竹中平蔵の登場あたりから、そうした権威主義と微妙にずれはじめた。
ヒッピー出身の大臣が出てきたり、安倍晋三や麻生太郎のように、高級学歴を持たないが、家柄の権威だけで政権を担う軽薄な人物が出てきたり、若い、二世三世議員の多くが、知性とは無縁の、強欲集団に成り下がっていたり、もはや、かつての(福田や三木、後藤田、大平ら)知性的政党ではなくなってしまった。
とうてい、立身出世主義からは逸脱して、露骨な強欲一本槍というイメージなのだが、それでも、すでにない権威を必死になって守り、依存しようとする安倍晋三の姿勢が痛々しい。
彼らを見ていると、近代憲政議会が、立身出世、権威の価値を失って崩壊してゆく最期の断末魔のような気がする。
統計を捏造、改竄するような、根源的知性をないがしろにする姿勢が、何をもたらすのか? 彼ら自身にも分かっていない姿が、実に悲惨である。
立身出世=権威主義の価値観の最期の砦は天皇制である。
私に言わせれば、天皇制があるから、日本政府があり、死刑制度があり、権威への信仰=幻想が成立している。
だが、一方で、「天皇はタダの人」という究極の何一つ掛け値のない真実を知る国民が大多数を占めるようになり、今、天皇制が支持されている理由は、明仁氏と美智子氏の、真摯な努力によるものだけであり、浩宮君が新天皇になって、明仁氏と同様の国民への連帯を示せなければ、たちまち、この究極の虚構が自己崩壊してしまうのである。
すべての権威は、真実からかけ離れた虚構でしかない。そこには嘘しか存在しない。真実は、権威を必要としない。
一流大学を出れば知性があるわけではない。権威があれば悪が滅びるわけではない。
すべての人々は、ネットを通じて真実を学んでいる。だから、過去100年のような、権威を信奉する=黄門様の印籠にひれ伏す時代は、もう終わったのだ。
部落民などという看板、表札も、士族という表札同様に何の効果もない。本当に効果をもたらすのは、真実の温かい人間性だけである。
虚構の時代は、崩壊しているのだ。
<転載終了>
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天皇制は精神的な支えであり、体現されている方がおられる限り否定のしようがない。それは虚の部分であっても無くても個々人にあっては善だと思います。だからとは言えませんが差別・区別をできるのであれば、既に立ち位置に居るのだから、もっと増える言葉を作ってほしいです。極端が好まれているのは残念ですが、真ん中の幅を明確にしていただけるほうが大勢にとって役に立つと確信しています。下品な奴らには上品な批判を浴びせたい!!
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